今日は、年に一度の庁舎清掃立ち合いの日で休日出勤。そして金沢まつり花火大会の日でもありました。今年の花火は、内川湾側からの撮影です。
【参考】
コマツナギ Indigofera pseudotinctoria
ヌスビトハギ Hylodesmum podocarpum subsp. oxyphyllum var japonicum
センダン Melia azedarach
タンキリマメ Rhynchosia volubilis
下駄 山口克昭
庚申塔群(金沢区谷津町228)
今日は、年に一度の庁舎清掃立ち合いの日で休日出勤。そして金沢まつり花火大会の日でもありました。今年の花火は、内川湾側からの撮影です。
シニアネット横須賀のKさんに
【お松ヶ池の河津桜】
神奈川県ではよく知られている三浦海岸の河津桜ですが、今は当然ながら葉桜です。現在の池の名前は『こまつがいけ』ですが、八景では『おまつがいけ』と読ませるようです。今年の開花状況は『三浦海岸桜まつり2017』をご参照ください。
【本日の主な経路】マップ
三浦海岸駅-小松ヶ池-小松ヶ池公園-正覚山成等院十劫寺-下浦の浜-白山神社-菊名山法昌寺-牛込山永楽寺-菊名氏の墓-菊名漁業生産組合-下浦小学校-琴音の磯-金田山清傳禅寺-八坂神社-金田漁港-三浦市東部浄化センター-大浦海水浴場-剱崎灯台-矢の根井戸-江奈湾-毘沙門隧道-盗人狩-宮川フィッシャリーナ-八雲神社/神明社-岩堂山-引橋-三崎口駅
以下、本日撮影の写真です。
【植物など】
【石塔など】
【碑文・案内文】
記念碑(三浦海岸駅前)
記念碑(小松ヶ池畔)
笹塚不動尊
菊名白山神社
菊名左衛門重氏の碑
かっぱの証文(金田山清傳寺)
三浦義村公の墓(南下浦町金田)
三浦金田緑地
剱崎の由来
矢の根井戸
剱崎灯台
江奈湾の干潟
盗人狩と海岸
岩堂山
引橋
記念碑(三浦海岸駅前)
この碑の位置からすぐ近くの西方一帯は
池の面に網をすざす頃、にぎやかな田植えの声があちこちに彈み、やがて青田をわたる涼風の夏を過ぎて穂すすきが池のほとりに揺れ、赤トンボが飛び交う頃稲田は金色に染まり、そこここに稲架が立ち掛けられ、人も牛も馬も収穫にいそがしい秋を迎えます。
このような生活を幾春秋続けてきたこの地区も、宅地開発が急速に進み、人々に愛され親しまれたこの池もその役目を終ることとになりました。そので、組合では昭和四十九年にこれを埋立処分しましたが、永い年月この池や水田とともに農耕に携わった組合の人々にとってはこれらのことが忘れ難く、その思いと古きこの地のさまをここに刻み、昔を偲ぶよすがとするものであります。
昭和五十五年一月吉日
上宮田部落
堂ヶ谷水利組合健之
記念碑(小松ヶ池畔)
小松ヶ池は古来より、当組合專用にかかる農業用感慨池にして、組合員島共同にして堤塘、水門、水路等水利施設の設置、維持管理、改修に当り、かつ配水の統制、管理を行い現在に至ったものである。
然るに近時小松ヶ池周辺地域における開発の進展に併い、当組合及び組合員等の同池に対する用水利用権並びに敷地所有権が危殆に瀕せしめられる事態が発生するに及んだ。
よって、当組合及び組合員等五拾五名は、横浜地方裁判所に対し、三浦市との間における水利権、並びに所有権確認の訴訟を提起し、参年有餘に亙り、審理を遂げてきたところ昭和五拾四年拾弐月弐拾四要旨左記の如き和解が成立するに至った。
記
一、当組合及び右組合員等は、小松ヶ池につき、農業用感慨水利権を有すべきこと。
一、小松ヶ池敷地所有権につき、三浦市がなした保全行為を除き譲渡その他の処分若しくは現状を変更する行為については、当組合及び三浦市において協議し、合意のうえこれを行うべきこと。
一、一般市民は前記水利権に支障を生ぜしめない限度において、自由に小松ヶ池を利用し得べきこと。
右和解成立を記念するとともに、関係当事者において、道條項を確実に遵守することにより、当組合及び組合員等の各権利が永久に保全さるべきことを期して、ここに本記念碑を建立する。
昭和五十五年四月吉日
小松ヶ池水利組合健之
笹塚不動尊
十劫寺は、浄土宗正覚山成等院と号し、土地の豪族である二代松原新左衛門を開基とし、芝西応寺の住職厳誉が退隠後、このお寺を開きました。本尊は阿弥陀如来です。
客仏の笹塚不動明王は、昔、上宮田
この不動尊は、天文十五年(1546年)、泉円の作であることが像に書かれた銘文から分かります。
永禄十年(1567年)九月に里見氏が海を渡って統治に来襲した祭、これを北条氏が三崎水軍を率いて菊名沖に迎え撃ちました。
その時、突然の荒天に襲われ、北条の軍船は進退極まってしまいました。この時、土地の豪族初代松原新左衛門が海岸に火を焚いて目標としたので、北条軍は無事海岸に着くことができました。そして、風雨の治まった翌日に、ふたたび北条軍は沖の里見軍を攻め、大勝しました。
氏康は、新左衛門の功をたたえ感状をさずけました。これを喜んだ新左衛門は、日頃信仰する笹塚不動尊で神楽を奏して、この感状を披露したと伝えられます。
明治元年(1968年)の神仏分離令により、それまで祀られていた笹塚の不動堂から十劫寺へ移され、以降大切に守られました。
三浦市
相州三浦 菊名鎮座
御祭神
合祀神
御鎮座 鎌倉時代
御由緒 鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた三浦一族の武将、菊名左衛門重氏により加賀国(石川県)一宮
当初は菊名の山林中(現在殿より見える小高い丘附近)に鎮座していましたが、鎌倉幕府の滅亡と同時に三浦一族また菊名左衛門重氏も滅びて、以来久しく社頭も荒廃に任せていました。江戸時代の貞享元年(1684年)に村民相謀り現在の地に社殿を造営し、菊名の氏神様として祀られました。
社殿は幾度も改築され、明治四十一年(1908年)に本殿の敷地を掘り下げ、幣殿を新造しました。なお、石段並びに石垣も同年に新造されました。
現在の社殿は昭和四十五年(1970年)の建造であります。
御神徳 白山神社の御祭神、伊邪那岐尊・伊邪那美尊の二柱の大神は神代の昔に始めて夫婦となられ、日本の国土や天照皇大神をはじめとする八百万の神々をお産みになられた神さまであります。そのご神徳は多岐にわたり、「家内安全」「夫婦円満」「子授け」「子宝」「安産」「五穀豊穣」「海上安全」など実に広大無辺なものであります。
また近年では、日本で初めて夫婦になられた神さまを祀っていることから、「縁結び」に御利益があるといわれ。男女の良縁をはじめ、家族、友人、戸事などさまざまな良縁を願う人たちのご参拝も多くなっています。
菊名左衛門重氏の碑
菊名左衛門重氏は、明治二十七年(1894)に出版された村井弦斎著小説「桜の御所」に登場する人物です。
重氏は、戦国時代に三浦同寸義同の武将としてここ菊名を所領した武勇のすぐれた人でうり、同時によく領内の政治を行い領民からその徳を慕われていました。
そのころ、伊豆に興った北条氏との戦いは次第に激しくなり、永正のある年(16世紀初め)義同の幼児虎王丸が敵の手にとらわれたので、重氏はその奪還をはかってわずかな手勢とともに敵中に入り、大いに奮戦しましたが力尽きことごとく討死にして果てました。
後年、重氏の武勇とその遺徳をたたえて村民が、この碑からほど近い菊名の海岸近くに社を建ててこれを祀り「浜の宮」とよんでいましたが、大正十一年(1922)改めてこの地に移されたものです。
三浦市
かっぱの証文(金田山清傳寺)
当寺は臨済宗建長寺派で、金田山清伝寺と呼び、買い残は建武年間(1334~5)桃源宗悟禅師の建立とされております。御本尊は聖観世音菩薩であります。
寺の脇を流れている川を「すずの川」といい、むかしは、ここまで潮がさして、川淵で鱸が釣れたので、「すずき川」といいましたが、いつのまにかこれが「すずの川」と呼ばれるようになりました。
その昔、この附近は濃い森に包まれ淋しいところで、すずの川には「かっぱ」が棲んでいて夜となく昼となく、里人ょ騙す悪戯をするので困っていたということです
或る日農夫が馬を曳いて川に入り、傍の杭に手綱を繋いで馬を荒井はじめると、解けていしまうので、これは「かっぱ」の悪戯と気づき、杭を固く縛って「かっぱ」を捕らえてしまったのです。そして普段から恨んでいた里人達が、寄ってたかって「かっぱ」を虐めていると、騒ぎをききつけてやって来た和尚が見兼ねて止めに入り、「かっぱ」を助けて、人を騙すような悪さをしないよう、よく訓したということです。 前非を悔いた「かっぱ」は詫証文を書いたということが、寺にまつわる話として残っております。
平成六年一月 三浦市
三浦義村公の墓(南下浦町金田)
三浦義村公は三浦一族六代の当主で大介義明の孫にあたり、七百年の昔北条氏とともに鎌倉幕府を二分して活躍した武将として知られています。
平安の末期から戦国動乱の世まで四百五十年にわたり関東に勢威をふるった三浦一族の中でも義村公はもっとも隆盛をきわめた人であったといわれています。
義村公自らの数ヶ国の守護を兼ね一門の中には、各地に進出し名を成したものも数多かったといいます。
また義村公は領内の開拓をいつくしみ領民に慕われその治世には見るべきものがありました。生前、義村公は祖父伝来の地であるここ岩浦の里の要害をたのんで福寿寺を開基、善提寺となし、没後菩提寺に近いこの台地に祀られました。
三浦市
三浦金田緑地
所在地 三浦市南下浦金田鋒2325番地
面積 2,475 m2
寄贈者 学校法人 神奈川大学
神奈川県では、優れた自然環境及び歴史的環境を後世に引き継ぐため「かながわのナショナルトラスト運動」を進めています。
この三浦金田緑地は学校法人神奈川大学のご芳志を賜り、かながわのナショナル・トラスト緑地として保全するものです。
自然を大切にし、みんなの手でふるさと神奈川に豊かなみどりを残しましょう。
神奈川県環境農政部緑政課 045-210-4310
(財)かながわトラストみどり財団 045-412-2525
剱埼の名のおこりは、徳川時代の萬治年間(1658~1660)であるといわれている。徳川幕府の管材を積んだ五百石船が、この沖で暴風のため難破し、木材もろとも船は海底に沈んだ。そこで海南神社の神主が海に剣を投じて龍神の怒りを鎮めてもらおうと祈ると、すぐに波風が静まり、沈んだ官の木材がことごとく浮かび出たので、それをくり船で磯に運んだという。これにより、この地を剱崎というようになったと伝えられている。
また、断崖の上に立つ灯台は、明治4年に点灯、震災で破損後大正15年に再建され、千葉県野島崎灯台とともに東京湾の重要な灯台です。
矢の根井戸
源為義の第八子、源為朝は幼少より意気豪逸で十三歳のとき、父為義より九州へ放逐されたほどですが、その九州でも武威を大いに発揮、土地の豪族を征服して、みずから鎮西八郎為朝と称して勢力を奮いました。
しかし、その為朝も「保元の乱」では、藤原頼長の判断力欠如から作戦の策が用いられず、これがもとで敗退、ついに平清盛の武将平家貞の捕らえるところとなりました。ただし、その武勇を惜しむ声により、死一等を減じられて伊豆大島に流罪となりました。
きのうの威とはうって変わったきょうの悲運、為朝は流人の島かせ、「わが弓箭昔に変わらずや」と、鎌倉に向かって矢を放ち、せめてものうさ晴らしをしたと伝えられていますが、その矢が誤ってここに落ち、その矢の立ったこの地点から泉がこんこんとわきでて、井戸となったので「矢の根井戸」と呼ばれるようになったと伝えられています。
三浦市
この灯台は、1866年(慶応2年)の江戸条約に基づき、明治政府が1871年(明治4年)に設置したもので、三浦半島の島南端に位置し、対岸の房総半島にある洲埼灯台と対で東京湾の入り口を表しています。
晴れた日は灯台から、房総半島の館山から伊豆大島、新島さらに伊豆半島までを展望できます。
剱埼の名前は、萬治(1660年)の頃、徳川幕府の管財を積んだ船が岬の沖で難破した時、岬の突端から海南神社の神主が剣を海に投じ、竜神の怒りを鎮めたことから生じたといわれています。
灯台は船舶が安全に航行するための大切な施設です。
この施設の異常を発見した場合や何かお気づきの点がございましたら、下記の管理事務所までお知らせください。
位置 | 北緯 35度08分29秒 東経139度40分38秒 |
光り方 | 30秒毎に白光を2閃光と緑光1閃光 (複合群白緑互光) |
光の強さ | 48万カンデラ |
光の届く距離 | 17.5海里(約32キロメートル) |
高さ | 地上から灯台頂部 17メートル) 水面から灯火 約41メートル |
管理事務所 | 第三管区海上保安本部 横須賀航路標識事務所 電話 0468-41-2864 |
「干潟」とはもともと遠浅の浜のことでひき潮のときに、海底が広くあらわれるところをいいます。この干潟では、四季を通じていろいろな生物を見ることができます。
中でもカニ類が多く、アシ原にしアカテガニやアシハラガニ、泥場にコメツキガニ、みおすじの砂泥や転石の下にケフサイソガニなどが生活しています。またどろの中には、テッポウエビ、スナモグリ、オキシジミガイ、アサリなどもいます。水鳥も多くキアシシギ、ハマシギ、コチドリ、コサギなどを見ることができます。湾の中央には、細長い緑色の紙ひものような植物(アマモ群落)が水面をおおい、この中にボラ、ウミタナゴ、サビハゼなどの幼魚が生活しています。冬はユリカモメ、ウミネコ、セグロカモメが飛びかて沖の岩礁ではウミウも休息しています。
環境省・神奈川県
「盗人狩」とは、昔、盗賊が追われて、この山の端まで来て下を見ると、恐ろしい断崖(高さ30メートル)と怒涛のさか巻きに、ぞくぞくと身振いして足がすくんで動けなくなり、たやすく捕まったという。それで「ぬすとがり」の名が残っている。
ここの海岸は、岩礁の断崖が多く、足元の黒い岩には外海の大波が打ちよせ、白いしぶきをあげています。この波のうねりは大蛇の胴のように、うねうねと寄せては砕かれその都度崖に荒々しい音をたてています。今日では、潮の香りが満ちあふれるハイキングコースとして岩礁から岩礁へも橋がかけられ、凪いだ日は釣人の姿も見られます。
※落石や足元に十分注意して歩きましょう。
環境省・神奈川県
自然環境保全センター自然保護公園部自然公園課
(046)248-2546
岩堂山
三浦市内には山岳といえるほどの山はなく、いずれも丘陵程度ですが、この岩堂山は三浦半島南端では最も高い山で海抜八九.九メートルです。晴れた日、頂上からは房総半島、伊豆連峰、そして伊豆大島が眺められ、夏は三浦スイカ、冬は三浦大根の緑と空の青さを満喫できる市内で最も展望を楽しめる丘陵です。
大昔、毘沙門の白浜海岸に正月三日の朝方、鶏の鳴き声とともに東方から竜燈があらわれ、一体の仏像が流れつきました。村人はこの仏像をお祀りしておりましたが、その後行基菩薩がこの地をお通りになったとき、その像をご覧になり、尊い毘沙門天像であるとお教えになりました。そして菩薩はこの山にこもりさらに一体の毘沙門天像をお刻みになり、ともに祀るようにお告げになり去られたといいます。なおそのとき、像を刻んだときに出た木片が寄り集まって塚になり、その木っぱ塚が山中にあったとも伝えられております。
三浦市
引橋
横須賀市の衣笠城を中心にして栄えた三浦一族は、三浦義澄の孫泰村が執権北条時頼と仲たがいとなり、いわゆる宝治合戦がおこり、一族は滅びましたが、義澄の弟佐原十郎義連の系統が残り、その孫、盛時から八代目の時高が永享十年(1438年)新井城を油壷に構築し、本拠を三浦に移しました。
この時高は世継ぎの問題から養子の義同と争い、明応三年(1438年)新井城で自殺するに至ったとの説があり、三浦の城主となった義同は当時小田原を根拠とした北条早雲の勢力と対決、平塚市伊勢原市の両市にのたがる岡崎城、逗子市小坪の住吉城と各支城で敗退、最後のたのみを新井城に託して守りを固めました。ここ引橋はそのときの大手、つまり外敵防御の第一線であったといわれ、谷間に橋を掛け渡し、敵が攻め寄ったとき、その橋を引いて防いだところから引橋の地名がおきたと伝えられています。
三浦市
七草といえば、「春の七草」と「秋の七草」がよく知られていますが、これらの七種類を野生で揃えることは簡単ではなくなっています。一方、あまり知られていない「夏の七草」のほうは、今でも雑草として見かけることができます。
先週も夏の七草を一通り撮影したのですが、メモリカードの不調でひとつ取り損なっていましたので、今朝は少し早く家を出て、通勤途中の道端で夏の七草を撮影しました。
【入成塚之由来】
むかし小柴と野島は渚づたい乃細道で結ばれて居りました。海の荒る度海岸線は壊されて浜人達は困て居りました。或る秋乃夕ぐれ通りかゝった旅乃修行者(六部)が此乃地は人柱をたてねばこ乃通り荒れるであろう。私がそ乃人柱にたってあげたいが、今は修業乃身で三年後には必ず約束を果すといふて立ち去りました。月日に関守なく三年後乃秋乃夕暮枯すゝき乃茂み乃中にこ乃修業者が立って居りました。
四尺四方乃穴を掘り、自分乃浩身を埋めて息をするために竹乃管を入れて静かに念佛鉦乃音と交ってそ乃餘韻は静かに秋乃夜空に流れます。
虫乃音が悲しく調和しますと、とう〱七日目葉末の露も悲しき朝を迎えました。併し、その後はこ乃事はこ乃修業者乃捨身乃功徳に依り道は流されることは無くなりました。浜人達は大変喜び感謝乃心を罩めて塚(入成塚)を立てこ乃修業者乃霊を弔いました。其乃後タンがらみ、ぜんそく等になやむ人が願かけをして、たくさん乃御利やくを戴いたと信仰されています。
昭和五十丙己歳長月 川島金介翁口伝に依る
富井氏保管控書きに依る
雨が上がったので、午後から港南区を散策してみました。
【石塔、など】
【植物など】
【主な経路】
屛風浦駅-打越-杉本山
【参考文献】
江南の歴史発刊実行委員会(1979)江南の歴史、781頁
神奈川県の最低峰と言えば、6年前には三浦市の岩堂山だった筈ですが、いつの間にか横須賀市太田和の山崎山に入れ替わったとの知らせに接し、現地を訪ねてみました。
先人の情報に助けられながらも、標高78mという頂上が定かではなく、山に登ったというより蜘蛛の巣塗れになりながら頂上付近を藪漕ぎで彷徨っただけ、という感じでした。
山崎山は二度行く価値を見出しませんでしたが、すぐ隣の大田和つつじの丘は眺望もあり、5万本のツツジが見頃という5月上旬にぜひ再訪したいものです。
【参考】
登山口(というか行き止まり地点)
頂上付近の様子
ウチワタケ Microporus affinis
山崎山(78m)
以下、本日撮影の写真です。
【夏の七草】
十三峠でスベリヒユに気づいて、撮っていったらすぐに七種類揃いました。アカザ(Chenopodium album var. centrorubrum)は、メモリカードが不調につき、撮影失敗でした。
【参考】夏の七草
スベリヒユ Portulaca oleracea
ツユクサ Commelina communis
ヒメジョオン Erigeron annuus
ヒナタノイノコヅチ Achyranthes bidentata var. japonica
イヌビユ Amaranthus blitum
シロツメクサ Trifolium repens
アカザ Chenopodium album var. centrorubrum
【石塔】
今日は、按針塚経由だったので大田坂の道六神を通り過ぎたほか、大田和周辺ではいくつか庚申塔を見かけました。長坂3丁目38の庚申塔の内1基には、昭和55年10月の建立と刻まれており、つい最近まで(あるいは今でも?)庚申講が営まれていたことが伺えます。
【参考】
大田坂の道六神
馬頭観音(山中町)
庚申塔群(安穏寺入口)
庚申塔群(長坂3丁目38)
庚申塔群(太田和4丁目)
庚申塔群(太田和3丁目)
【植物と昆虫】
フヨウ Hibiscus mutabilis
マツバボタン Portulaca grandiflora
ヒルガオ Calystegia japonica
ボケ Chaenomeles speciosa
ノシラン Ophiopogon jaburan
シホウカ Solanum rantonnetii
カラスウリ Trichosanthes cucumeroides
ホタルブクロ Campanula punctata
センニンソウ Clematis terniflora
アオバハゴロモ Geisha distinctissima
ヤブカラシ Cayratia japonica
ヘクソカズラ Paederia scandens
ヤブミョウガ Pollia japonica
タムラソウ Serratula coronata
ザトウムシの一種
キツネノボタン Ranunculus quelpaertensis
コガネグモ Argiope amoena
コヒルガオ Calystegia hederacea
マルバツユクサ Commelina benghalensis
コゴメガヤツリ Cyperus iria
オオアレチノギク Erigeron sumatrensis
オクラ Abelmoschus esculentus
オオカマキリ Paratenodera aridifolia
アレチハナガサ Verbena brasiliensis
ノハラアザミ Cirsium oligophyllum
ヤブラン Liriope muscari
ミズヒキ Persicaria filiformis
ヤブマオ Boehmeria longispica
シオカラトンボ Orthetrum albistyrum speciosum
ハグロトンボ Calopteryx atrata
キンミズヒキ Agrimonia pilosa
コマツナギ Indigofera pseudotinctoria
ヒャクニチソウ Zinnia violacea
ハナトラノオ Physostegia virginiana
ハツユキソウ Euphorbia marginata
キバナコスモス Cosmos sulphureus
ハキダメギク Galinsoga quadriradiata
サンゴシトウ Erythrina x bidwillii
オヒシバ Eleusine indica
ペパーミント Mentha x piperita
佐島
蛸壺
ツルナ Tetragonia tetragonioides
ランタナ Lantana camara
ルエリア・サザンスター Ruellia brittoniana
ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. longituba
オシロイバナ Mirabilis jalapa
アジサイ Hydrangea macrophylla
ハマオモト Crinum asiaticum
テイカカズラ Trachelospermum asiaticum
ダンドク Canna indica
ヘチマ Luffa cylindrica
コノテガシワ Platycladus orientalis
シンテッポウユリ Lilium x formolongi
ショウリョウバッタ Acrida cinerea
カザグルマ Clematis patens
ジュズダマ Coix lacryma-jobi
NTT横須賀研究開発センター
アンゲロニア Angelonia spp.
平成町のエイビイで特大スイカをみかけました。スイカ生産では、作付面積、収穫量ともトップの熊本県産で、外見は黒部スイカ(ラットルスネーク種)によく似ていますが、更に巨大なスイカです。
ウェブ情報によれば、アメリカから導入されたカロライナ・クロス種で、食用には不向き、「でえらいスイカ」という商品名で種子が販売されているようです。
三浦半島での神社の分布を調べていて、熊野神社の多いことに気づきました。
熊野神社は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の神々を勧請した神社の総称です。三浦半島では鎌倉時代の創建が多いようで、グーグルマップで検索しただけでも10社程度がヒットします。摂社、分社等の境内社を含めれば、少なくとも倍以上あるのではないかと推測されます。
今日は、荒崎海岸に行った帰りに西海岸の熊野神社を訪ねました。
熊野神社(長井)
長井地区の総鎮守熊野神社です。加藤山寿の著した三浦古尋録には『鎮守熊野三社権現』と記載されています。7月15日の例大祭の時に奉納される飴屋踊りは横須賀風物百選に選ばれています。
十二所神社(芦名)
三浦古尋録には『鎮守十二天ノ社』となっています。東鑑の寿永元年(1182年)8月11日に三浦十二天として記載されているため、鎌倉時代初期には創建されていたと考えられます。当社は、横須賀風物百選に選ばれています。
熊野神社(秋谷)
大永六年(1526年)の秋谷村の大火によって什器、記録等が失われたため、創建年不明。古くから久留和の熊野権現として知られているそうです。
熊野神社(一色)
この神社も県道207号線からの入口がわかりにくいのですが、三浦アルプスの西側の出口がここなので、これまでにも何度か通りかかったことがありました。『葉山町の歴史とくらし』によれば、
1.出雲松の熊野神社から勧請
2.江戸時代に紀州熊野から漁民が移住してきた際に故郷から熊野三社を勧請
という2説があるそうです。
熊野社(佐島)
この神社には気づいておらず、今日は通り過ぎてしまいました。
主祀神:伊弉諾命
祇園大明神(荻野)
熊野神社系ではないのですが、名前が珍しいので寄ってみました。地図によれば荻野山正蓮寺の近くなのですが、道路からの入口が分かりにくく何度か行き来してやっと辿りつきました。たまたまお会いしたお社を清掃中の方に伺ったところ、一度は近くの祖母社に合祀されたが、荻野地区の鎮守として再度勧請されたとのことでした。社名からして『祭神は素戔嗚尊ですか』とお尋ねしたところ、そうではないそうで、『牛頭天王』ですかとの問いにはそうですとのことでした。詳細は不明ですが、ウェブ情報によれば合祀前の名称は、『祇園社』だっようです。
【文献】
高橋恭一(1967)校訂三浦古尋録下巻
横須賀郷土史研修会(1988)横須賀の史跡を訪ねて
葉山町編集(2015)葉山町の歴史とくらし
以下、本日撮影の写真です。今日は、荒崎海岸で横須賀エコツアー『長井・荒崎コース』が開催されました。
今日は三浦アルプスへ。港ヶ丘側から入り、乳頭山から北側のコースを辿って、森戸川の源流あたりまでは人影を見かけなかったのですが、源流域を過ぎて沢を下って林道の終点付近からはいきなり賑やかとなりました。いかにもといったスタイルのバードウォッチャーやお年寄りの集団が多く、このコースは西側から入るのが定番の様です。
山道では、ヤブミョウガやヤマユリが見頃を迎えていました。
夏祭りのシーズンが続きます。先週末は追浜祭でしたが、この週末は、田浦船越神社、三艘浅間神社、池子神明社、逗子亀ヶ岡八幡宮等々の御祭禮です。近場はさておき、今日は二人でペリー祭が開催されている久里浜を訪ねました。
【ゴジラ復活!までの軌跡】「ゴジラのすべり台」解説文
海と緑と歴史の町、横須賀。温暖な気候と首都圏から70分あまりの位置にある町。そんな魅力的な環境の町が、「基地の町」としていつの間にか他都市からもイメージされる様になった。横須賀市は優れた地域資源を創造的に活用し、魅力を高めて、横須賀のイメージを「基地の町」から「国際 海の手 文化都市」という新しいイメージに変えようと日々努力しています。
そこで、私たち横須賀商工会議所青年部は、横須賀市が数年に渡り市民や企業の協力のもと調査し、イメージアッププランの一つにあげていた「多々羅浜にあったゴジラのすべり台」に着目し、市民の手で「新しい横須賀のイメージ作りに。又、未来の子供達に何かを残してあげられたら…」と考え、準備を進めて参りました。そして私達青年部は、市民の力を借りて、署名活動を行い、12万あまりにも及ぶ署名を集め、要望書とともに神奈川県知事宛に提出をいたしましたが、その結果、環境との調和の観点から適当でないという回答をいただきました。しかしながら、神奈川県と横須賀市で協議をしていただき、「くりはま 花の国」において使用許可をいただきました。そして、大勢の方々かの理解と、市民の協力で実現することができました。遊び心から生まれ、夢とロマンを感じさせ、横須賀をアピールできる。それが「ゴジラのすべり台」です。
夏祭りのシーズン到来です。本日7月9日は、追浜雷神社の天王祭、金沢八景瀬戸神社の天王祭などが開催されました。富岡八幡宮の祇園舟もその一つ。茅の輪で作った舟に穢れを移して流すという神事で、本牧神社のお馬流しに類似性を見出すことが出来ます。
以下、本日撮影の写真です。
【主な経路】
雷神社-瀬戸神社-洲崎神社-金沢八幡神社-稱名寺-金沢緑地-長浜公園-船溜まり-富岡八幡-長昌寺-中原熊野神社-上大岡小学校-西光寺-弘明寺-上大岡駅
【参考】
瀬戸神社の大榧 Torreya nucifera
蛇混栢
クサフグ Takifugu niphobles
源平桃(稱名寺) Amygdalus persica
ハナツルクサ Aptenia cordifolia
オカメザサ Shibataea kumasaca
アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata
ネムノキ Albizia julibrissin
タブノキ Machilus thunbergi
ハクウンボク Styrax obassia
ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii subs. thunbergii f. thunbergii
コメツキガニ Scopimera globosa
ノウゼンカズラ Campsis grandiflora
マンリョウ Ardisia crenata
ミッキーマウスの木 Ochna serrulata
ススキ Miscanthus sinensis
ヤブカンゾウ Hemerocallis fulva var. kwanso
オシロイバナ Mirabilis jalapa
キツリフネ Impatiens noli-tangere
ツルハナナス Solanum laxum
ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. longituba
ヒメガマ Typha domingensis
ベッコウタケ Perenniporia fraxinea
ハゼラン Talinum crassifolium
富岡山長昌寺
中原熊野神社
中原見守地蔵尊
滝の下庚申塔
道祖神:中原1-12
上大岡小学校の階段絵
道祖神残欠:上大岡東2丁目23
中里石塔群
身代わり地蔵尊(弘明寺)
瑞應山弘明寺
弘明寺商店街
子育て地蔵尊(上大岡)
【熊野神社縁起】
当社は建久三年(西暦1192年)源頼朝が征夷大将軍になった年、鎌倉四家の道場の内、山崎・泉蔵院の僧、真諦智覚法印に治国安民の祈祷を命じた。
頼朝の命を受けた智覚法印は、我が国第一の霊場とされて居る紀州熊野に参籠して幣帛を捧げ、三所権現の御分霊を樟の舟に乗せ祈りを込めて海に流した。樟舟は神意のまにまに旬日後中原の海岸に流れ着き、この事が将軍に伝わり頼朝は御神慮の有難さを感じて近くの地に神殿を建てるよう智覚法印に命じた。
智覚法院は東に海を望む景勝の当地を選び山上に熊野三所権現社を祀り、山裾に紀州桐谷寺建立すべく同年五月六日に着工し十一月十五日に完成した。後に桐谷山は山号を大霊山泉蔵院と改め熊野権現社の別当として当社に奉仕し国家安泰・万民和楽の祈願を続けて来た。その間文禄三年九月(1594)社殿再建、正徳五年(1715)二十六世善祐の折り社殿を改築され規模は九尺に二間であった。
後、安政四年(1857)再度改築された。明治初年の神仏分離令により社名を熊野神社と改め法印は神職となり約七百年続いた泉蔵院は廃寺となってしまった。
明治四十三年神社統合令により村内の中原明神・諏訪明神の二社が合祀された。
大正四年社殿の改築が行なわれ、本殿は二間に一間半の神明造り、幣殿は二間に一間半、拝殿は二間半に二間半向拝付銅葺の建物になった。
昭和六十一年に社殿新築の議が起こり、寺田勝彦氏が建築委員長となり、大同建設株式会社岡田文夫氏が大工棟梁○○賢治氏にて施工を請持ち、昭和六十二年十二月に現社殿が完成した。
本殿は二間に一間二五神明造り、幣殿二間に一間七五、拝殿三間半に二間唐破風付銅葺である。
宮司 三十五世 杉原章夫
「御祭神」家津美御子大神
伊邪那美大神
事解之男神
伊邪那岐大神
速玉之男神
天照皇大神大神
建御名方命
日本武命
「境内社」金毘羅社・摩利支天社・稲荷社
「祭事」 一月初 新年祭
二月十一日 祈念祭
五月下旬 摩利支天祭
八月中旬 例大祭
十一月二十三日 新嘗祭