月別アーカイブ: 2016年2月

茅ヶ崎八景を巡る

三浦半島の八景巡り
 茅ヶ崎八景は、江戸時代末期(慶応年間)に武蔵国都筑郡茅ヶ崎村で、岸宇作により撰された八景です。この八景は、ほぼ瀟湘八景型と言えますが、内陸地のためか帰帆を欠いており、代わりに松が入っています。

【茅ヶ崎八景】
 四五六峠の夜の雨
 観音の晩鐘
 正庵の一本松
 大塚の青嵐
 城山の秋の月
 谷の中の螢と堅田の落雁
 清水の夕照
 境田の暮雪

 当該地が1939年から1994年までの半世紀あまりの間、横浜市港北区茅ヶ崎町となっていた関係から、港北百話(1976)に記述があり、当時の面影は少ないとしながらも地図付きで場所が記されていました。
 現在は、1994年の行政区再編成に伴い都筑区に編入されて、都筑区役所のあるセンター南駅が最寄り駅の様でしたので、ここを起点にして歩いてみました。

【参考文】
 「古老を囲んで港北を語る」編集委員会(1976)茅ヶ崎八景、港北百話=古老の話から=、p.187-192.
 三浦半島の八景巡り

【城山の秋の月】
 センター南駅の東側の小高い丘が、茅ヶ崎城の跡で茅ヶ崎城址公園として公開されていました。

【観音の晩鐘】
 茅ヶ崎城址公園の地図を見ていて、先ほど通りかかった寿福寺に観音堂があることに気づき、戻りました。観音堂にはかつて半鐘があったようですが、太平洋戦争時の供出で鋳つぶされてしまい今はないそうです。

【谷の中の螢と堅田の落雁】
 港北百話に『荒磯川と早渕川に囲まれた水田がかつて落雁の名所であった』とあります。当該地に水田はありませんが、清流と果樹園は残っていました。

【境田の暮雪】
 境田橋から矢崎橋までの早渕川の右岸地域が字境田とのことです。竹林や畑が今でも残っていましたし、川には大きなマゴイやカワセミが生息していました。

【四五六峠の夜の雨】
 かつて明王山自性院のあった谷戸から茅ヶ崎富士に至る峠が四五六峠だったそうですが、自性院谷戸の跡地に港北TOKYU S.C.となっていて当時の面影はなにもありません。代わりに移転先の自性院とその近くの峠を訪ねました。

【正庵の一本松】
 この松はずいぶん前に枯死して、二代目も昭和の中頃に枯れてしまったそうです。

【大塚の青嵐】
 誤字の可能性もありますが、港北百話では、青い嵐で青嵐としているようです。残念ながらそれらしい景色は残されていないようでした。

【清水の夕照】
 荒磯川を流れる清流のことだそうで、当該地には茅ヶ崎公園自然生態園になっているようです。当時とは違うかも知れませんが、周辺には小川を活かした散歩道も整備されていて、市民に憩いの地を提供しています。


以下、本日撮影した写真です。


【参考】
 カワセミ Alcedo atthis
 ハナサフラン(クロッカス) Crocus vernus
 キズイセン Narcissus jonquilla
 ツグミ Turdus eunomus
 カワヅザクラ Cerasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 マンサク Hamamelis japonica
 ウグイスカグラ Lonicera gracilipes
 トサミズキ Corylopsis spicata

三浦海岸桜まつり2016

 今日は、家内と河津桜を見に行ってきました。


 小松ヶ池にあった水利権和解の記念碑の碑文、また帰りに立ち寄った米が浜よねがはまの三浦帝釈天の説明文を採録しておきます。

【小松ヶ池利水権和解記念碑】
 小松ヶ池は古来より、当組合専用にかかる農業用灌漑池にして、組合員等協同して堤塘、水門、水路等水利施設の設置、維持管理、回収に当り、かつ配水の統制、管理を行い現在に至ったものである。
 然るに近時小松ヶ池周辺地域における開発の進展に伴い、当組合及び組合員等の同池に対する用水利用権並びに敷地所有権が危殆に瀕せしめられる事態が発生するに及んだ。
 よって、当組合及び組合員等五拾五名は、横浜地方裁判所に対し、三浦市との間における水利権、並びに所有権確認の訴訟を提起し、参年有餘に亙り、審理を遂げてきたところ昭和五拾四年拾弐月四日要旨左記の如き和解が成立するに至った。
   記
一 当組合及び組合員等は、小松ヶ池につき、農業用灌漑水利権を有すべきこと。
一 小松ヶ池敷地所有権につき、三浦市がなした保存登記は現状のままとするも。水利保全行爲を除き譲渡その他の処分若しくは現状を変更する行爲については、当組合及び三浦市において協議し、合意のうえこれを行うべきこと。
一 一般市民は前記水利権に支障を生ぜしめない限度において、自由に小松ヶ池を利用し得べきこと。
 右和解成立を記念するとともに、関係者当事者において、同條項を確実に遵守することにより、当組合及び組合員等の各利権が永久に保全さるべきことを期して、ここに本記念碑を建立する。
昭和五十五年四月吉日
   小松ヶ池水利組合健之

【三浦帝釈天】
 三浦帝釈天は、平安後期から戦国時代にかけて、三浦半島を中心に勢力を誇示していた豪族・三浦一族、1253年房州から、この米が浜よねがはまに辿り着いた日蓮上人、聖人隊の石井長勝公とも深い因縁で結ばれています。日蓮上人が一ヶ月余り籠ったお穴さま、聖人、霊跡の龍本寺、三浦大本山・大明寺開基石渡左衛門など米が浜には数々の霊威と霊験が残る三浦半島最大の霊地であります。かつて華やいだ米が浜の人々の活気は、今は昔となり、日蓮宗の修法師しゅほっし達が米が浜の篤信の人々に乞われご祈祷し続けた所、三浦帝釈天が湧出しました、この地は元々観念寺と呼ばれていましたが、1889年に米が浜が埋め立てられ更に1926年頃まで数回の埋め立て工事が行われ現在の市街地が形成されました。この三浦帝釈天の出現は、日蓮上人を助けた地元の石渡左衛門更に観念寺と呼ばれていた時代の米が浜の土地の因縁がもたらして出現した現代の護法の善人といえます。帝釈天は、悪魔降伏の尊形です。私達が心から祈りを捧げれば、病気平癒・家内安全・商売繁盛・財宝金銭・恋愛成就・学業増進・厄除けその他一切の災難を払いのけ、帝釈天が必ず守護し災難を退散させてくれるご利益があります。三浦帝釈天は平和と活力を与え、人々の心に安らぎ氏希望をもたらします。
  平成二十年三月三日    発願人 岡 枝渡子    開堂主 日研修 豊栄教会 楠山泰行

日野のシイ

 日野にスダジイの大木があると以前から聞いていたのですが、今日、日野八景を廻るにあたり思い出し、訪ねてみました。
 港南の歴史(1974)によれば、樹勢に懸念がある時期もあったそうですが、傷んだ樹幹も適正に処置されているようで、今はとりあえず元気のようでした。
 シイノキとして特段大きいようには見えませんでしたが、巨樹・巨木データベースによれば、横浜市内のスダジイとしては最大のようですし、地元の人から愛されて、歌まで作られている樹として特筆すべきです。


 以下、港南の歴史(1974)からこのシイノキのために作られた「シイの木音頭」を再録しておきます。

◎シイの木音頭 作詩:織茂春子、作曲:鈴木昌桃
一、
 鎌倉街道みちのシイの木は
 三百年のその昔 サテ
 誰が植えたかこの老樹 枝も栄えて葉も茂る
 ふくろうの親子も啼いている 皆さん一度は来てごらん
 シイの木音頭で踊ろうよ

二、
 年を重ねて幾年いくとせ
 風雨に耐えてたくましく サテ
 若葉もえたつその頃は 香りゆかしき花も咲く
 こけむすいらかに蔭つくる 皆さん一度は来てごらん
 シイの木音頭で踊ろうよ

三、
 空をつくよな シイの木は
 往き来る人の足とめる サテ
 横浜はまの宝だ末永く 緑りたたえよ限りなく
 枝も広げよ江南に 皆さん一度は来てごらん
 シイの木音頭で踊ろうよ

四、
 シイの木さんはいったとさ
 若しもぼくが枯れたなら サテ
 誰がふくろう見てくれる ちょいと気になる身も細る
 可愛い小鳥も淋しかろ これでは未だ未だまいられぬ
 シイの木音頭で踊ろうよ

注、シイの木音頭は昭和53年、「かながわのうた50選」に選ばれている。

【参考文献】
 港南区役所(2010)日野のシイの木 available from <http://www.city.yokohama.lg.jp/konan/koho/koho2010/k-1009-rn.html>(accessed 2016-02-20).
 港南の歴史発刊実行委員会(1974)県の天然記念物シイノキ、in 港南の歴史、p.527
 港南の歴史発刊実行委員会(1974)シイの木音頭、in 港南の歴史、p.768
 巨樹・巨木データベースavailable from <http://www.kyoju.jp/data/index.html>(accessed 2016-02-21).

日野八景を巡る

 日野八景は、横浜市港南区日野地区に伝わる八景で、横浜市のウェブサイトに現在地の比定が示されています。尋ねることを思いついたのが昨日で、文献調査は行っていませんが、とりあえず廻ってみました。

【日野八景】
 宮前の晴嵐みやまえのせいらん伊勢山の秋月いせやまのしゅうげつ御供井戸の夜雨こくいどのやう真南の帰帆まんのみのきはん徳恩寺の晩鐘とくおんじのばんしょう殿田の落雁とのだのらくがん大多良の暮雪おおたらのぼせつ舟木の夕照ふなきのせきしょう

【大多良の暮雪】
 大多良は、現在の日野南3丁目あたりの旧地名です。すぐ西側のせきれい団地から見える空き地は、廃止になった公務員宿舎の跡地でした。


【真南の帰帆】
 真南は、金井村で一番の高台とのことですので、野庭住宅D1号棟の裏あたりの様で、当該地には金井幼稚園がありました。この地区に海原があったとは思えませんが、野庭のば住宅の駐車場からみた眺望はなかなかのものでした。

【殿田の落雁】
 殿田は、港南台北公園付近の旧地名だそうです。この公園には子供向けのログハウス『どんぐりハウス』があります。

【伊勢山の秋月】
 伊勢山は港南台1丁目に位置しており、横浜横須賀道路の日野インターチェンジの入り口がすぐ隣でした。

【舟木の夕照】
 春日神社前を流れる日野川支流の夕景だそうです。現在はコンクリート護岸の水路です。

【宮前の晴嵐】
 春日野幼稚園付近とのことです。横浜市のウェブサイトでは春日幼稚園となっていますが、恐らく間違いと思われます。
【徳恩寺の晩鐘】
 日野山徳恩寺は、春日神社のすぐ隣です。本堂の軒に半鐘がありました。
【御供井戸の夜雨】
 御供井戸は今はないそうです。春日神社の境内社には木花咲耶姫が祭られていました。

【参考】
 港南の歴史発刊実行委員会(1974)港南の歴史、783p.
 港南区役所(2009)いわれのある橋と日野八景 available form <http://www.city.yokohama.lg.jp/konan/furusato/minwa/minw-43.html>、 (accessed 2016-02-21).

三浦半島の八景巡り

 八景と言えば、近江八景あるいは金沢八景を思い浮かべる方が多いと思われますが、日本にはこれまで1000以上の八景が存在しており(青木・榊原,2007)、平成の世になってからも増え続けていると言われています。そのうち三浦半島の八景だけでも10以上あったことが確認されています。これらの八景は、昔日の面影を残していないものも多く、今のうちに現地を確認したいと思い、休日の度に尋ねてきました。その様な折に撮影した写真が探しにくくなっておりましたので、以下に入り口を作っておくことにしました。

【八景巡りへのリンク】



浦郷八景

(2016.2.14)


金沢八景

 


三崎八景

(2016.2.13)


横濱八景

(2016.2.7)


鎌倉八景

(2016.1.31)


吉井八景

(2016.1.24)


初声/宮田八景

(2016.1.18)


浦賀八景

(2016.1.11)


横須賀八景

(2015.12.6)


葉山八景

(2015.10.25)


逗子八景

(2015.5.5)


屛風ヶ浦八景

(2015.1.24)


日野八景

(2016.2.21)


茅ヶ崎八景

(2016.2.28)


南下浦八景

(2017.8.19)


【番外】道後八景

(2016.3.19)


【番外】龍峰寺八景

(2018.6.17)

【主な参考文献】
 高橋恭一(1968)三浦半島の八景、横須賀雑考、p.466-477.
 田中作造・高橋真太監修(1928)観音寺、田浦町誌第二編(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版)、p173-177.
 横須賀郷土資料復刻刊行会(1911)浦郷村郷土誌(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版)、36p.
 生方直方(1991)坂中山観音寺に就いて、28p.
 横須賀市社会科研究会編(1978)横須賀皇国地誌残稿、134p.
 福田勝之発行(1930)葉山郷土史(1994年復刻版)、p.414-418.
 吉川英達(2008)葉山八景の今、歴史トーク湘南・葉山、p.108-115.
 高梨 炳(1975)葉山町郷土史、p.182.
 山崎白堂(1923)逗子八景:葉山の史蹟
 改訂逗子町誌刊行会(1974)改訂逗子町誌, p219-220.
 三浦豊(1953)屛風浦郷土誌、立太子奉讃紀念会、80p.
 磯子区制50周年記念事業委員会(1978)磯子の史話、762p.
 港南の歴史発刊実行委員会(1974)港南の歴史、783p.
 港南区役所(2009)いわれのある橋と日野八景 available form〈http://www.city.yokohama.lg.jp/konan/furusato/minwa/minw-43.html〉、(accessed 2016-02-21).
 「古老を囲んで港北を語る」編集委員会(1976)茅ヶ崎八景、港北百話、p.187-192.
 青木陽二ら(2007)八景の分布と最近の研究動向、国立環境研究所研究報告(R-197-2007)、256p、available from〈http://www.nies.go.jp/kanko/kenkyu/setsumei/r-197-2007.html〉、(accessed 2016-01-14).

浦郷八景か北郷八景か

 横須賀雑考(1968年)に、『北郷八景とは仮に筆者が名付けたので正しくは何八景というのかわかりません。(p.468)』となっていたのが、一人歩きして北郷八景となっているようです。
 田浦行政センターのウェブサイトでは、田浦町誌を根拠に『北郷八景』としていますが、田浦町誌に『北郷八景』という記載はありませんので、少なくともこれは間違いです。

 横須賀雑考の典拠は田浦町誌(1928年)で、田浦町誌では坂中山観音寺の項で什宝のひとつとして扁額を紹介しており、『安政戊午は五年で紀元五二一八年昭和三年より正に七十年前である。旭松閣吉隆とは如何なる人であるか不明であるが現横須賀軍港の防波堤内を琵琶湖に見立て浦郷八景ともいふべき勝景を撰した鑑識はその詠歌と共に推奨するに足るものである。(p.176)』とあります。

 さらに下って、浦郷町在住の生方直方が著わした『坂中山観音寺に就いて』(1991年)では、『観音寺に参詣した当時の文化人、「旭松閣吉隆」は、安政5年-1858-にこの風景絶佳を「浦郷八景」として撰した。(p.7)』と記しています。生方氏は、八景成立後の文献として、田浦町誌の他に、横須賀皇国地誌残稿(1978年)および浦郷村郷土史(1911年)を引用文献として挙げていますが、この二つの文献には八景の事は表れておらず、『浦郷八景』の称は田浦町誌から採用したと推定されます。

 現在、この八景地で由来を記した説明版があるのは独園寺だけですが、独園寺では『浦郷八景』を採用しています。この八景の根源地ともいえる観音寺でも観音像御開帳の折の説明のために檀家の皆さんが作成したと思われる説明文には『浦郷八景』となっています。
 かつての浦郷村内の地名を知ることのできる資料として相模国三浦郡浦郷村字地書上(明治16年、1883年発行)を紐解いてみても『北郷』という名称は見当たらず、現在追浜町1丁目にある北郷公園にその名を留める程度である『北郷』は、地元ではあまり馴染みのない名称と思われます。

 横須賀雑考では、横須賀の北部の八景と言う意味で『北郷八景』を採用していると思われますが、旧田浦町あるいは旧浦郷村地域では『北郷』という呼称が一般的であったとは思えず、地元で受け入れやすい、また元々の田浦町誌で提案されている『浦郷八景』を採用することが妥当と思われます。(市橋秀樹)

【参考文献】
 高橋恭一(1968)三浦半島の八景、横須賀雑考、p.466-477.
 生方直方(1991)坂中山観音寺に就いて、28p.
 田中作造・高橋真太監修(1928)観音寺、田浦町誌第二編(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版)、p173-177.
 横須賀郷土資料復刻刊行会(1911)浦郷村郷土誌(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版)、36p.
 横須賀市社会科研究会編(1978)横須賀皇国地誌残稿、134p.
 追浜地域文化振興懇話会(1992)相模国三浦郡浦郷村字地書上、46p.

浦郷八景(北郷八景)を巡る

 午後から天気が回復したので、三浦半島の八景巡りの締めくくりとして浦郷八景を巡ってみました。浦郷八景(北郷八景)は、旭松閣吉隆が安政5年(1858年)に撰したと伝えられる八景で、その根拠は坂中山観音寺に残されている扁額です。観音寺は見魚台きんぎょだいと言われる高台に位置しており、ここから眺めた景色を和歌に詠んだとされています。ここの八景縁の地は、半分が一般人が立ち入れなくなっており、僅か160年ほど前の当時を偲ぶことは困難になっています。

【浦郷八景(北郷八景)】旭松閣吉隆撰、撰年1858年(安政5年)
 夏島秋月、勝力帰帆、箱崎夜雨、吾妻晴嵐、洲口落雁、榎戸夕照、亀島慕雪、独園晩鐘
浦郷八景か北郷八景か


【箱崎夜雨】
 箱崎や明けなばいかに夜もすがら、雨の音そふ岸の松風
 箱崎半島は、現在、米軍横須賀基地内ですので立ち入ることができません。

【独園晩鐘】
 かならずと暁かけてちきりしも、ひとり園生のいりあひのかね
 深浦山獨園寺は、臨済宗建長寺派、追浜町自得寺の末寺で、見魚台のすぐ下の谷に位置します。現在、八景に関する碑を見ることができるのはこの寺だけとなっています。

【勝力帰帆】
 もののふの矢よりも早き勝力の、真帆うちかけて帰る釣舟
 勝力半島も米軍横須賀基地内です。今日は、田浦の静圓寺から眺めてみました。

【吾妻晴嵐】
 嵐ふく吾妻の峯に雲晴れて、とふねもなみの花ぞきにける
 吾妻山は、箱崎半島にあるため、立ち入り禁止です。かつて山頂近くにあったといわれる吾妻神社は対岸の吾妻隧道の上あたりに移転しています。

【夏島秋月】
 夏島や四方の海原うちはれて、ながめつきせぬ秋の月
 かつて島だった夏島も今は地続きとなっており、一部は海洋研究開発機構(JAMSTEC)の敷地になっています。山頂近くからは貝塚が発見されましたが、今は立ち入り禁止となっていて近づくことはできません。今日は観音寺近くの見魚台から眺めてみました。

【洲口落雁】
 見渡せばかりがね落るすのくちの、岸によるなみ音もどだへて
 深浦湾からの出口あたりの洲を洲口と呼んだようですが、自衛隊の敷地となっていて立ち入ることができません。

【榎戸夕照】
 榎戸や夕づく日なたさしむかひ、てりそう影の深きうらうら
 榎戸港は漁港もありますが、ヨットハーバーのほうが面積を占めているようです。

【亀島慕雪】
 としつもる亀島山のしら雪は、むらがりやすむ鷺にぞありける
 亀島は平削され埋め立てられて、今は東邦化学工業の敷地となっているようです。亀島にあった亀島神社は、深浦の大国主社に合祀されたとのことです。現在の当該地の近くには地蔵尊が祭られていました。

金沢八景の今

金沢八景の今

 今日は朝から春の嵐。そこで、これまで撮影した金澤八景縁の地の写真を整理してみました。金沢八景の地がどこであったかについては、主として金沢文庫の整理した文献を参考にしました。
【参考文献】
 神奈川県立金沢文庫(2012)金澤八景いま昔、64p.
 金沢区生涯学習”わ”の会(2010)新版かねざわの歴史辞典、142p.+31p.

小泉夜雨こずみのやう
 かつて小泉弁財天の祠があった岬に降る雨が撰されたとされています。現在、弁天社は手子神社の境内社となっており、弁天像はいつでも公開されています。宇賀神タイプの弁天様で蛇身となっています。


手子神社(2011/12/11)

竹生島弁財天(2011/12/11)

称名晩鐘しょうみょうのばんしょう
 金沢山称名寺は、北条氏の氏寺として13世紀に創建された真言律宗別格本山です。八景成立当時の面影を残している数少ない場所で、1301年鋳造と伝えられる梵鐘を今も見ることができます。


野島山より(2015/2/28)

称名寺山門(2012/10/25)

称名寺本堂と阿字ヶ池(2013/4/27)

称名寺反橋(2012/10/25)

乙艫帰帆おっとものきはん
 乙艫海岸は1970年代の埋め立て事業で海の公園として生まれ変わっています。天然アサリの潮干狩りや海水浴の楽しめる海岸として四季折々に賑わっています。


八角堂から望んだ東京湾(2013/4/27)

野島から海の公園方面を望む(2013/4/27)

海の公園に沈む夕日(2015/12/25)

花火大会(2014/8/23)

洲崎晴嵐すさきのせいらん
 現在の洲崎町が埋め立てられる前の海岸線を須崎と呼んだそうです。今は寺院の多いエリアで金澤七福神の大黒天-知足山龍華寺、毘沙門天-嗣法山傳心寺もこのエリアにあります。


須崎神社(2014/1/2)

ウナギ料理の隅田川(2015/11/29)

大黒天 (2016/1/9)

毘沙門天 (2016/1/9)

瀬戸秋月せとのしゅうげつ
 瀬戸橋あたりから眺めた名月と言われており、あたりには12世紀には成立していたといわれる瀬戸神社(瀬戸三島明神)、江戸時代から続く料亭千代本などがあります。


琵琶島からみた名月(2015/11/28)

正月の提灯飾り(2015/1/2)

料亭千代本(2015/11/29)

カヤの大木(2011/9/25)

平潟落雁ひらがたのらくがん
 平潟湾の大部分は昭和30年代に埋め立てられて柳町になっています。町の中心のロータリーには、清水多嘉示作の母子像がありました。


清水多嘉示作母子像(2014/1/25)

野島夕照のじまのせきしょう
 野島は現在野島橋、夕照橋の二橋により陸続きとなっていますが、少し離れれば島の景観がよく残されています。歌川広重の錦絵の場所を特定できる数少ない景です。夕照橋は『ゆうしょうばし』と読ませるそうです。


夕照ゆうしょう橋からみた落日(2013/4/13)

八景島より(2013/2/24)


海苔ひび(2015/2/22)

内川暮雪うちかわのぼせつ
 心越禅師が能見台で八景詩を読んだ頃には、瀬戸橋の内陸側まで入り江が広がっており、このあたりを内川入江と称したそうです。その後干拓が進むにつれ、異説が増えていき、金龍院版の八景図では現在の六浦方面へ移動しているとのことです。


内川橋(2015/11/29)

(今はなき)志なのやの狸像(2015/11/29)

【能見堂跡地】
 明からの亡命僧東皐心越とうこう しんえつが17世紀末に七言絶句の漢詩に詠んだことで金沢八景の地が比定されたそうです。現在は雑木林に阻まれてそれほど眺めがよいわけではありませんが、春先には梅の名所として知られています。


金澤八景根元地碑(2015/1/2)

能見堂跡地の梅林(2013/3/3)

【九覧亭跡地】
 昇天山金龍禅院は、鎌倉建長寺末で14世紀後半に創建された寺院で、江戸時代には多数の八景図を発行していたことで知られています。裏山には、八景に加えて富士山も望めることができたために九覧亭と名付けられた四阿があったそうてですが、今の眺めは木間に八景地を望める程度でした。


昇天山金龍院(2014/9/23)

九覧亭跡地より(2014/9/23)

【四望亭】
 室の木にあったと伝えられる小高い展望地で、金沢八名木のひとつ「雀浦一つ松すずめがうらのひとつまつ」はこの地に生えていたとも言われます。海軍に平削されたため、今は跡地もなく、現在は公務員宿舎のあるあたりと言われます。

三崎八景を巡る

 今日は、当初雨とされていた天気予報が変わったので、三崎口を起点に歩いてみました。このエリアは1月2日にも訪ねているのですが、今回は反時計回りで廻りました。

【三崎八景】参考文献:高橋恭一(1968)三浦半島の八景、横須賀雑考、p.466-477.
 北条夜雨、光念寺晩鐘、房州帰帆、三崎晴嵐、海南秋月、城島落雁、向崎夕照、富嶽慕雪

【富嶽慕雪】
 三崎八景には、遠景を取り入れた東京湾の対岸と富士山の二景が入っています。富士山はどこからでも見えそうですが、今日は小網代こあじろ経由で歌舞島かぶじまを尋ねました。

【海南秋月】
 海南神社は、由緒書きによれば貞観8年(866年)に亡くなった藤原資盈すけみつを祭ったことを起源とする古社で、ご神木のイチョウも樹齢800年とされています。境内社相州海南高家神社には磐鹿六雁むつかりのおみ命が祭られているそうです。城ヶ島内にも三崎海南神社を分霊した城ケ島海南神社があるのをみつけました。

【光念寺晩鐘】
 見龍山無量寿院光念寺は、文治年間(1185~90年)の創建と伝えられる浄土宗の寺院です。現在の三浦七福神の弁財天は海南神社となっていますが、宝暦6年(1756年)刊行の三崎志に、光念寺の筌龍せんりゅう弁財天の記述があるそうで、こちらが本家のようです。


【三崎晴嵐】
 三崎地区には港があるくらいで、今は晴嵐を思い起こすような景色は残っていませんでした。

【北条夜雨】
 北条湾に降る雨の様子を撰した景でしょうか。河津桜がすでに見頃でした。

【向崎夕照】
 向崎には諏訪神社がありました。神社の裏の高台からは三崎港方面が望めます。

【城島落雁】
 城ヶ島はウミウの生息地として知られており、雁ではなく海鳥の飛び交うさまを撰したと考えられているそうです。城島落雁は、三浦半島八景にも選ばれています。

【房州帰帆】
 これも遠景を撰したもので、いろいろな場所から見えますが、名前のこともあり、安房崎灯台まで足を運びました。三崎地区ではありませんが、帰りに立ち寄った三浦市最高峰岩堂山(86.8m)から見たほうが良い眺めかも知れません。

以下は、本日撮影した写真です。
 三崎口駅前の河津桜は三分咲きといったところでしょうか。
帰りには、すかなごっそまで足を延ばして、三浦野菜を買って帰りました。


【本日購入】
 三浦大根(山下ファーム)4.4kg 350円
 春キャベツ(湖水農園) 110円
 ロマネスコ(カヤマ農園) 130円