横濱八景を巡る

 明治時代初頭の横浜地区には多数の八景があったようです。それらの中で場所がどこだったか比較的わかっている3つの八景を選んで、廻ってみました。

横濱八景 一猛齋芳虎版、文久元年(1861年)
 岩亀楼夜雨、道行の遠鐘、波止場帰帆、野毛晴嵐、美代嵜秋月、吉田橋落雁、本村夕照、朝市の雪
横濱八景(玉霞山人撰)横濱八景詩畫、明治3年(1870年)
 石川夜雨、吉田橋晩涼、海岸碇舶、浅間邱遠眺、本牧待月、野毛桜花、天妃進香、磯兒残雪
横濱八景 森田友昇著『横濱地名案内』明治8年(1875年)
 公園夜雨、北方晩鐘、波止場帰帆、本牧晴嵐、伊勢山秋月、吉田落雁、鉄橋夕照、浅間山暮雪

【野毛晴嵐、野毛桜花】
 京急線の日ノ出町で下車、まずは野毛山に向かいました。野毛山の山頂付近は野毛山公園となっており、その一部は旧野毛山配水池跡で日本で初の近代水道を設計したヘンリー.S.パーマーの胸像があります。野毛山からは遠く富士山を望むこともできました。


【吉田落雁】
 吉田新田の開発は、1656年に始まり1667年に完成したとあります。今はその面影は何もないようですが、横濱八景の成立した明治初年頃には、まだ一面の田園風景が広がっていたと思われます。

【伊勢山秋月】
 伊勢山皇大神宮は、明治初年の創建とありますので、八景が撰された頃はオープンから8年目の新名所だったに違いありません。

【吉田橋落雁、吉田橋晩涼、鉄橋夕照】
 吉田橋は、外国人居留地との間の関門の橋で、かねの橋として親しまれてきたそうです。現在の吉田橋も当時の欄干をイメージして設計されたそうです。ちなみに昼食は吉田橋近くの丸亀製麺でした。

【美代嵜秋月】
 港崎みよざきは、現横浜公園にあった遊郭で、1866年の火災で焼失した後、R.H.ブラントンの設計により、1876年に西洋式公園として生まれ変わりました。

【岩亀楼夜雨】
 岩亀楼は港崎みよざきにあつた遊郭で、横浜公園の日本庭園に石灯籠が残されていました。当時の遊女たちに信仰の厚かった岩亀稲荷社が砥部町にあることを、今朝立ち寄った野毛の中央図書館でみつけ、訪ねてみました。

【本村夕照】
 本村は本町なのでしょうか。横浜開港資料館(ジャックの塔)あたりが、現在の本町ですが、今後文献調査したいと思います。とりあえず、冬場でイチョウの葉がないことですし、横浜三塔を同時撮影してみました。

【波止場帰帆、海岸碇舶】
 当時は、東波止場がまだ象の鼻の形になっていなかった時代です。周辺の様子はずいぶん変わったのでしょうが、横浜が重要な港であることは、当時も今も変わりません。

【天妃進香】
 『天妃』は道教の女神である媽祖まそで、『進香ジンシアン』には巡礼の意味がありますので、宗教活動としての媽祖行列のことではないかと思われます。現在の媽祖廟は開港150周年の2006年に落慶開廟しているので、当時の場所は未調査です。

【朝市の雪】
 当時朝市の立った場所は未調査です。今回は、今春節の最中の横浜中華街の市場通を尋ねました。春節を直前に控えて、すぐ隣の台南小路もいつもより賑わっているようでした。

【浅間邱遠眺、浅間山暮雪】
 『浅間山の見晴らし台』は、現在の元町百段公園のことで、元町商店街から10分もかからない場所にありながら、訪れる人もなく隠れた名所となっているようです。

【道行の遠鐘】
 1870年創立のパブリックホールゲーテ座に係る景の様です。当初は本町通りにあったそうですが、その後現在の岩崎博物館のある地に移り、1923年関東大震災で倒壊するまで存続したとのことです。

【公園夜雨】
 横浜公園も元町公園もなかった時代ですから、八景に撰された公園は、日本で初めての西洋式公園となった山手公園のことだと思います。

【石川夜雨】
 石川がどこか、未調査です。今回は石川町駅からすぐのイタリア山を訪ねました。

【北方晩鐘】
 現在の北方町には梵鐘のある寺院はなさそうです。今後、文献調査するとして、今回は北方皇太神宮を尋ねました。近くには暗渠となった千代崎川が流れていました。

【本牧待月、本牧晴嵐】
 本牧は、屛風ヶ浦八景では、本牧秋月となっています。今回も満月の日ではありませんでした。

【磯兒残雪】
 磯兒は、磯子と思われます。ここで気づくことは、他の八景と比べると明らかに位置が離れていることです。おそらくは、本牧あたりから見た対岸の山々に積もった雪を愛でた景と思われます。直線距離でも3km程度ありますので、磯子区の屛風浦に着く頃にはすっかり日も暮れました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です