今日は11月9日の続きで栄区から歩いてみました。
【おもな経路】
(港南台駅)-上郷町-公田町-岩瀬町-笠間-今泉-大船-台-小袋谷-(大船駅)
稲荷森の水辺広場
カルガモ Anas poecilorhyncha
流レニ乗ッテドコマデモ(杉みちの作):
サザンカ Camellia sasanqua
コナラ Quercus serrata
霊峰富士(朝日平和台より)
センリョウ Sarcandra glabra
ギョリュウバイ Leptospermum scoparium
ネズミモチ Ligustrum japonicum
【相武国境碑】栄区元大橋1丁目26
朝比奈峠~円海山~鍛冶ヶ谷を結ぶ尾根が相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の境で、古代の通路でもあった
昭和五十七年三月吉日 戸塚区役所本郷支所
本郷郷土史研究会
【稲荷森稲荷社】栄区上郷町169
【上郷琴平神社】栄区上郷町169
【皇女神社】栄区公田町1529
皇女神社の由来について
位置 横浜市栄区公田町1530番地 社地面積84坪
祭神 照玉姫
縁起
照玉姫は葛原親王の皇妃で、往昔親王に従って東国に下ったが天長元年9月28日(西紀824年)当地で死せられた。里人達は嘆き悲しみ、懇ろに葬り塚を造営した。此の塚を皇の御前塚又は、女葛塚と呼んで、永く永く姫の遺徳を慕っていた。文禄元年2月信永と云う僧侶が当地を訪れた際、姫の遺徳を知り、社を建立して其の霊を勧請したもので、又当時姫の次女であった相模の局、大和の局の2人が姫の死後尼となり塚守となっていたが、相次いで両名とも死去した。里人は、これを姫の塚の傍に葬り両塚明神として崇めたと伝えられるが、現在の両塚の所在はあきらかではない。(以上
これは、今をさかのぼること400年昔の事である。以来、私達の祖先は毎年10月1日を例祭日と定めささやか乍らお祭を奉納していたが、明治42年7月に至り桂村公田村地内の小社4社が神明社に合祀され、皇女神社の地も神明社の所有となったが、当地の人々は尚姫への遺徳偲びがたく、大正2年原塚(当時吉五郎)の屋敷続きの山林の一角を借地仮社殿を造営して神明社より神体を分祀し、毎月1日、15日にし必ず参拝し、又家々の喜びも悲しみも総てを神前に報告したものである。昭和5年7月に至り氏子12名が相寄り資金を放出して、金80円也で神明社現社地を買い戻し、昭和12年9月お社を現在地に遷したもので、其の間氏子は勿論、近隣からも信仰厚く、日清日露戦争の際は、多くの人々が願掛の為参拝した。
平成4年10月 氏子中
【文献】本郷郷土史研究会編集(1982)上臈塚、本郷の民話と伝説、46-49.
【アラハバキ神祠】栄区公田町627-14
三浦半島では珍しい
【桂公田神明社】栄区公田町445-6
境内社:桂公田神明社
庚申塔
普寛行者碑
長﨑大明神碑
国常立尊御嶽大神碑
【梵天鎮魂碑】
【五社稲荷神社】鎌倉市岩瀬1399
五社稲荷神社略記
御祭神
例祭日 八月最終土・日曜日
由緒
建久年間(一一九〇~一一九八)源頼朝の随身一騎奉行である岩瀬与一郎義正が当地に居住せし時、五穀豊穣と安寧を祈って創建、江戸期にし
その後天明二年(一七七二)旗本、木原家名主、栗田源左衛門政春等により百一両を投じて再建されたことが、棟札、古文書に記されている。天明の飢饉の折、御神威の発揚で飢饉を乗り越え民心を引き締め、神社では粥を振る舞い、村内の被害はわずかに終わり、これも五社明神のおかげと益々崇敬されたと伝わる。
明治六年村社に列し、昭和四十六年屋根銅板葺替工事、昭和五十六年~六十二年神社本庁振興対策指定の折、社殿一部改修、手水舎新築を行い、平成十二年神輿の再建、平成二十年社務所の改築を行った。
末社 平島弁財天社
御祭神
例祭日 五月巳の日
由緒 寛政九年(一七九七)江の島神社の御分霊を奉齊、平成三年平成天皇御大典奉祝記念として改築した。
五社稲荷神社社務所
電話〇四六七(四七)四七九八
【笠間鹿島神社】栄区笠間3丁目4-24
国常立尊御嶽大神(笠間神社境内)
天祖天神(笠間神社境内)
鹿島神社の歴史
平安時代(794~1185年)の頃田立地区に集落を形成していた、藤原一門の山内須藤氏によって、一族の精神的支柱として創建された小菅ヶ谷の「春日神社」の祭神四柱の一柱である「武甕鎚神」を勧請し、祭神としたのが「鹿島神社」の始まりと推定されています。その後、稲作を主とする田立の人々は「鹿島神社」を精神的支えとし、穀倉地帯を作り上げ、毎年の祭祀を、厳修して来ました。
しかし、明治41年政府の「一村一社」と言う宗教政策により田立地区の有る笠間地域の村社には「青木神社」が指定された為「鹿島神社」は強制的に青木神社に合祀されましたが、昭和期に入りまして、第二次世界大戦が終った後、5年を経た昭和25年(1950年)10月「鹿島神社」は青木神社から分離され独立して旧に復し、現在に至っております。
「神奈川県神社誌」に記載されている「鹿島神社の創立」はこのことを指しています。
鹿島神社の際神
鹿島神社の際神は、鹿島神宮(茨城県)、春日大社(奈良県)の祭神と同様「武甕鎚神(たけみかづちのかみ)」別名「鹿島神(かしまのかみ)」です。武甕鎚神の神格は、「剣神、武神、軍神、雷神」であり、以下の神徳(ご利益)が有ります。
武道守護、殖産興業、国家鎮護、芸能上達、豊漁、航海安全、病気平癒、延命長寿、交通安全、厄除け、縁結び、安産
その他にも「武甕鎚神」は大鯰を操り地震を制御する「地震の神」とも言われています。
昇龍伝説(田立舞)
稲作を主とする田立地区の人々は水害と胸までつかる泥田に苦しんでいましたが、ある日大音響と共に水田が、盛り上がって上空高く舞い上ると泥田が美田に一変しました。この様な幸運は田立地区の人々の変わらぬ「鹿島神社」への敬虔な信仰により「龍が舞い上り水田の泥水を、吸い上げて、美田に変えてくれた」と信じられています。現在でも、田立地区では「幸運を呼ぶ昇龍伝説」として語り継がれており、最近では「鹿島神社」は「幸運を呼ぶ神社」との噂が静かに広がっています。隠れた「パワースポット」の噂も!!昇龍のライトアップも可能です!
【天照皇大神宮山王神社】栄区笠間2丁目25-1
天照皇大神宮碑
山王神社
天照皇大神宮境内社
稲荷社(天照皇大神宮境内社)
庚申塔群(天照皇大神宮境内社)
【石塔】栄区笠間2丁目26
【青木神社】栄区笠間5丁目4-1
【境内掲示板より】
宗教法人 青木神社 由緒沿革
鎮座地 横浜市栄区笠間五丁目四番一号
御祭神
由緒
新編相模風土記及び口碑の伝える所によると第九十六代・後醍醐天皇の御代、建武二年(西暦一三三五年)足利直義配下の武将近藤出羽次朗清秀が小坂郷領主と成り、平素尊崇せる天手力雄命・伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉斎し近藤一族並びに領内鎮護の神社とした。
これ即ち当社の設立なり。現在は郷土笠間の総鎮守として崇敬されている。
沿革 明治以降は神祇院が置かれ政令により明治六年村社に指定される。
明治四十一年村内の無各社 神明社および鹿島神社を合祀
大正十一年神饌幣帛共進神社に指定される。
昭和二十五年宗教法人鹿島神社を分祀
昭和二十八年宗教法人青木神社として認証
昭和五十二年本殿・拝殿改修整備
昭和六十二年参道石段・鳥居・狛犬等境内整備
平成六年境内擁壁・玉垣・手水舎等境内整備
平成九年青木神社社務所新築
平成十一年青木神社宮神輿及び神輿倉新築
平成二十二年境内稲荷社を改築し、笠間稲荷社として整備
【配布資料より】
青木神社 案内
御祭神
御利益
開運、国家安泰、家内安全、事業発展、必勝、縁結び、延命長寿、五穀豊穣、学業成就、子授け、安産、厄除
由緒沿革
口碑によると建武2年(西暦1335年)足利直義配下の武将近藤出羽次郎清秀が領内笠間村の高所(現在の社地)に社殿を建立し、近藤一族と領内鎮護の神社としたという。新編相模風土記には「青木明神社村の鎮守、村持」と記されている。明治6年政令により村社に列せられ神饌幣帛共進神社に指定される。明治41年村内の鹿島神社及び神明社を合祀、昭和25年鹿島神社を分祀、昭和28年宗教法人青木神社として認証される。その後、社殿改造、境内整備、駐車場設置、社務所新築、宮神輿改造、稲荷社改築等、整備改善を経て現在に至り、郷土「笠間」の総鎮守として崇敬されている。
祭事 歳旦祭 1月1日 午前0時30分より
左義長(どんど焼き) 1月 中旬
初午祭 2月
夏越大祓 6月
例大祭 9月 第3日曜日 午前9時50分より
七五三祝 11月
師走大祓 12月
その他 初宮詣、厄除。地鎮祭、安全祈願祭等、祈祷神事随時予約受付
鎮座地 横浜市栄区笠間5丁目4番1号 WEBサイト
http://aokijinjya.jp
連絡先 TEL. 045-893-2708 FAX 045-891-2178
二十三夜供養塔
農耕を司る月読尊を祀った供養塔です。
月待供養塔ともいいます。
十五夜から八日過ぎた、二十三夜の月は真夜中に東の空から昇ってきます。
月を信仰の対象とした村人たちが、その夜、煮炊きした食べ物や飲み物を持って集まり、精進・勤業し、飲食を共にしながら境内で真夜中に出る月を待つ月町の行事を行いました。
その際の供養に建てた月待塔のひとつが二十三夜供養塔です。
村人たちが真夜中までいっしょに行動し飲食を共にすることで絆を確かめ合ったことと思います。
この供養塔は萬延元年閏三月に建てられたものです。
青木神社
【子の神祠】鎌倉市今泉1丁目2-6
子の神様です。腰から下の痛みの有る方の神様です。お願いして下さい。
【不明の社】鎌倉市今泉1丁目9
【庚申塔】鎌倉市今泉1丁目9
【今泉白山神社】鎌倉市今泉3丁目13-20
市指定有形民俗文化財 庚申塔(寛文十二年銘)一基【一番右】
【子守神社】白山神社境内社
子守神社
祭神
元は水の配分をつかさどる神であるが、このみくまりをみこもりと訛って早くから子守神として信仰があった。
豊臣秀吉はその子、秀頼のために祈り、本居宣長はその父母の祈請により誕生したとして参詣を重ねたことが和歌や「菅笠日記」によって知られる。当地では、初宮詣・七五三詣に先立ってこのお社にお参りするのが古くからの慣わしです。
【大船熊野神社】鎌倉市大船2028
地神塔(熊野神社境内社)
稲荷社(熊野神社境内社)
琴平宮(熊野神社境内社)
庚申塔:鎌倉市大船2039
【(台)八幡神社】鎌倉市台2044
稲荷社(八幡神社境内社)
庚申塔群(八幡神社境内)
【厳島神社】鎌倉市小袋谷2丁目13-21
稲荷社(厳島神社境内社)
鎌倉市指定有形民俗文化財 石造庚申塔
この塔は寛文10年(1670・江戸時代)の舟型塔で上部中央にキリク(阿弥陀)、それより下方右にサ(観音)、サク(勢至)の種子が刻んである。
阿弥陀三尊の種子を塔につけた庚申塔としては鎌倉では最も年代が古い。
塔身には願文と思われる文字が刻んであるが、風化がはなはだしく全体は判読できない。下部の檀には、三猿が正面向きに右から「雄のいわざる」「雌のきかざる」「雄のみ゛ざる」が横に並び、悪いことには「いわない」「きかない」「みない」と教えている。
厳島神社の参道へ移すまでは、小袋谷の「水堰橋」の北側にあった。
平成17年(2005年)
小袋谷厳島神社氏子会
注:
庚申塔は干支の(えと)の庚申(かのえさる)に当たる日に、人の体内にいる虫が天の神にその人の罪を告げようとするために、この日に限って徹夜するという信仰に基づいて建てられたものといわれています。
また、庚申様は豊作を祈り、病を災いを防ぐ神としても知られています。
【不明の社】鎌倉市小袋谷2丁目22
【石造道標】鎌倉市小袋谷2丁目22
【水天宮】鎌倉市台5丁目3-7