月別アーカイブ: 2019年11月

栄区から大船へ

 今日は11月9日の続きで栄区から歩いてみました。
【おもな経路】
(港南台駅)-上郷町-公田町-岩瀬町-笠間-今泉-大船-台-小袋谷-(大船駅)


 稲荷森の水辺広場
 カルガモ Anas poecilorhyncha
 流レニ乗ッテドコマデモ(杉みちの作):第4回横浜彫刻展(Yokohama Biennale ’96)
 サザンカ Camellia sasanqua
 コナラ Quercus serrata
 霊峰富士(朝日平和台より)
 センリョウ Sarcandra glabra
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium
 ネズミモチ Ligustrum japonicum


【相武国境碑】栄区元大橋1丁目26

朝比奈峠~円海山~鍛冶ヶ谷を結ぶ尾根が相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の境で、古代の通路でもあった
昭和五十七年三月吉日 戸塚区役所本郷支所
           本郷郷土史研究会


【稲荷森稲荷社】栄区上郷町169


【上郷琴平神社】栄区上郷町169


【皇女神社】栄区公田町1529

     皇女神社の由来について
位置 横浜市栄区公田町1530番地 社地面積84坪
祭神 照玉姫
縁起
 照玉姫は葛原親王の皇妃で、往昔親王に従って東国に下ったが天長元年9月28日(西紀824年)当地で死せられた。里人達は嘆き悲しみ、懇ろに葬り塚を造営した。此の塚を皇の御前塚又は、女葛塚と呼んで、永く永く姫の遺徳を慕っていた。文禄元年2月信永と云う僧侶が当地を訪れた際、姫の遺徳を知り、社を建立して其の霊を勧請したもので、又当時姫の次女であった相模の局、大和の局の2人が姫の死後尼となり塚守となっていたが、相次いで両名とも死去した。里人は、これを姫の塚の傍に葬り両塚明神として崇めたと伝えられるが、現在の両塚の所在はあきらかではない。(以上皇国地誌(皇国地誌残稿)による)
 これは、今をさかのぼること400年昔の事である。以来、私達の祖先は毎年10月1日を例祭日と定めささやか乍らお祭を奉納していたが、明治42年7月に至り桂村公田村地内の小社4社が神明社に合祀され、皇女神社の地も神明社の所有となったが、当地の人々は尚姫への遺徳偲びがたく、大正2年原塚(当時吉五郎)の屋敷続きの山林の一角を借地仮社殿を造営して神明社より神体を分祀し、毎月1日、15日にし必ず参拝し、又家々の喜びも悲しみも総てを神前に報告したものである。昭和5年7月に至り氏子12名が相寄り資金を放出して、金80円也で神明社現社地を買い戻し、昭和12年9月お社を現在地に遷したもので、其の間氏子は勿論、近隣からも信仰厚く、日清日露戦争の際は、多くの人々が願掛の為参拝した。
     平成4年10月  氏子中


【文献】本郷郷土史研究会編集(1982)上臈塚、本郷の民話と伝説、46-49.


【アラハバキ神祠】栄区公田町627-14

 三浦半島では珍しい荒脛巾(あらはばき)神を祭る祠です。武蔵一之宮氷川神社の摂社である門客人神社では同じ神を祭っています。


【桂公田神明社】栄区公田町445-6

 境内社:桂公田神明社
 庚申塔
 普寛行者碑
 長﨑大明神碑
 国常立尊御嶽大神碑


【梵天鎮魂碑】


【五社稲荷神社】鎌倉市岩瀬1399

     五社稲荷神社略記
御祭神 倉稲魂神(うがのみたまのかみ)保食神(うけもちのかみ)大己貴神(おおあんむちのかみ)太田神(おおたのかみ)大宮能売命(おおみやのめのみこと)
例祭日 八月最終土・日曜日
由緒
 建久年間(一一九〇~一一九八)源頼朝の随身一騎奉行である岩瀬与一郎義正が当地に居住せし時、五穀豊穣と安寧を祈って創建、江戸期にし鶴岡職掌(つるがおかしきしょう)、坂井越後が神職を兼ねていたと「相模国風土記」にある。岩瀬氏は常陸国奥七郡を支配していた佐竹孝義の嫡男、義政の近習で常陸国那賀郡大宮郷岩瀬(現、常陸大宮市上岩瀬)の岩瀬城城主であったが「吾妻鏡」によると治承四年(一一八〇)十一月、源頼朝による佐竹氏攻めの際、常陸国中手前大矢橋(現、花見川にかかる大谷橋)で捕らえられ、常陸国中(現、石岡市)の頼朝本陣にて見参した際、頼朝に諫言し、その武勇を認められ家人となり当地に居を構えたと伝わっている。
 その後天明二年(一七七二)旗本、木原家名主、栗田源左衛門政春等により百一両を投じて再建されたことが、棟札、古文書に記されている。天明の飢饉の折、御神威の発揚で飢饉を乗り越え民心を引き締め、神社では粥を振る舞い、村内の被害はわずかに終わり、これも五社明神のおかげと益々崇敬されたと伝わる。
 明治六年村社に列し、昭和四十六年屋根銅板葺替工事、昭和五十六年~六十二年神社本庁振興対策指定の折、社殿一部改修、手水舎新築を行い、平成十二年神輿の再建、平成二十年社務所の改築を行った。
末社  平島弁財天社
御祭神 田紀理毘売命(たぎのひめのみこと)田寸津比売命(たぎつひめのみこと)市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
例祭日 五月巳の日
由緒  寛政九年(一七九七)江の島神社の御分霊を奉齊、平成三年平成天皇御大典奉祝記念として改築した。
     五社稲荷神社社務所
     電話〇四六七(四七)四七九八


【笠間鹿島神社】栄区笠間3丁目4-24

 国常立尊御嶽大神(笠間神社境内)
 天祖天神(笠間神社境内)


鹿島神社の歴史
 平安時代(794~1185年)の頃田立地区に集落を形成していた、藤原一門の山内須藤氏によって、一族の精神的支柱として創建された小菅ヶ谷の「春日神社」の祭神四柱の一柱である「武甕鎚神」を勧請し、祭神としたのが「鹿島神社」の始まりと推定されています。その後、稲作を主とする田立の人々は「鹿島神社」を精神的支えとし、穀倉地帯を作り上げ、毎年の祭祀を、厳修して来ました。
 しかし、明治41年政府の「一村一社」と言う宗教政策により田立地区の有る笠間地域の村社には「青木神社」が指定された為「鹿島神社」は強制的に青木神社に合祀されましたが、昭和期に入りまして、第二次世界大戦が終った後、5年を経た昭和25年(1950年)10月「鹿島神社」は青木神社から分離され独立して旧に復し、現在に至っております。
 「神奈川県神社誌」に記載されている「鹿島神社の創立」はこのことを指しています。


鹿島神社の際神
 鹿島神社の際神は、鹿島神宮(茨城県)、春日大社(奈良県)の祭神と同様「武甕鎚神(たけみかづちのかみ)」別名「鹿島神(かしまのかみ)」です。武甕鎚神の神格は、「剣神、武神、軍神、雷神」であり、以下の神徳(ご利益)が有ります。
武道守護、殖産興業、国家鎮護、芸能上達、豊漁、航海安全、病気平癒、延命長寿、交通安全、厄除け、縁結び、安産
 その他にも「武甕鎚神」は大鯰を操り地震を制御する「地震の神」とも言われています。


昇龍伝説(田立舞)
 稲作を主とする田立地区の人々は水害と胸までつかる泥田に苦しんでいましたが、ある日大音響と共に水田が、盛り上がって上空高く舞い上ると泥田が美田に一変しました。この様な幸運は田立地区の人々の変わらぬ「鹿島神社」への敬虔な信仰により「龍が舞い上り水田の泥水を、吸い上げて、美田に変えてくれた」と信じられています。現在でも、田立地区では「幸運を呼ぶ昇龍伝説」として語り継がれており、最近では「鹿島神社」は「幸運を呼ぶ神社」との噂が静かに広がっています。隠れた「パワースポット」の噂も!!昇龍のライトアップも可能です!


【天照皇大神宮山王神社】栄区笠間2丁目25-1

 天照皇大神宮碑
 山王神社
 天照皇大神宮境内社
 稲荷社(天照皇大神宮境内社)
 庚申塔群(天照皇大神宮境内社)


【石塔】栄区笠間2丁目26


【青木神社】栄区笠間5丁目4-1

【境内掲示板より】
  宗教法人 青木神社 由緒沿革
鎮座地 横浜市栄区笠間五丁目四番一号
御祭神 天手力雄命(あまのたぢからおのみこと) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冉尊(いざなみのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ)
由緒
 新編相模風土記及び口碑の伝える所によると第九十六代・後醍醐天皇の御代、建武二年(西暦一三三五年)足利直義配下の武将近藤出羽次清秀が小坂郷領主と成り、平素尊崇せる天手力雄命・伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉斎し近藤一族並びに領内鎮護の神社とした。
 これ即ち当社の設立なり。現在は郷土笠間の総鎮守として崇敬されている。
沿革 明治以降は神祇院が置かれ政令により明治六年村社に指定される。
   明治四十一年村内の無各社 神明社および鹿島神社を合祀
   大正十一年神饌幣帛共進神社に指定される。
   昭和二十五年宗教法人鹿島神社を分祀
   昭和二十八年宗教法人青木神社として認証
   昭和五十二年本殿・拝殿改修整備
   昭和六十二年参道石段・鳥居・狛犬等境内整備
   平成六年境内擁壁・玉垣・手水舎等境内整備
   平成九年青木神社社務所新築
   平成十一年青木神社宮神輿及び神輿倉新築
   平成二十二年境内稲荷社を改築し、笠間稲荷社として整備


【配布資料より】
     青木神社 案内
御祭神 天手力雄命(あまのたぢからおのみこと) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冉尊(いざなみのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ)
御利益
 開運、国家安泰、家内安全、事業発展、必勝、縁結び、延命長寿、五穀豊穣、学業成就、子授け、安産、厄除
由緒沿革
 口碑によると建武2年(西暦1335年)足利直義配下の武将近藤出羽次清秀が領内笠間村の高所(現在の社地)に社殿を建立し、近藤一族と領内鎮護の神社としたという。新編相模風土記には「青木明神社村の鎮守、村持」と記されている。明治6年政令により村社に列せられ神饌幣帛共進神社に指定される。明治41年村内の鹿島神社及び神明社を合祀、昭和25年鹿島神社を分祀、昭和28年宗教法人青木神社として認証される。その後、社殿改造、境内整備、駐車場設置、社務所新築、宮神輿改造、稲荷社改築等、整備改善を経て現在に至り、郷土「笠間」の総鎮守として崇敬されている。
祭事 歳旦祭        1月1日 午前0時30分より
   左義長(どんど焼き) 1月  中旬
   初午祭        2月
   夏越大祓       6月
   例大祭        9月  第3日曜日 午前9時50分より
   七五三祝       11月
   師走大祓       12月
   その他  初宮詣、厄除。地鎮祭、安全祈願祭等、祈祷神事随時予約受付
鎮座地 横浜市栄区笠間5丁目4番1号 WEBサイト 
http://aokijinjya.jp

連絡先 TEL. 045-893-2708 FAX 045-891-2178


  二十三夜供養塔
農耕を司る月読尊を祀った供養塔です。
 月待供養塔ともいいます。
十五夜から八日過ぎた、二十三夜の月は真夜中に東の空から昇ってきます。
 月を信仰の対象とした村人たちが、その夜、煮炊きした食べ物や飲み物を持って集まり、精進・勤業し、飲食を共にしながら境内で真夜中に出る月を待つ月町の行事を行いました。
 その際の供養に建てた月待塔のひとつが二十三夜供養塔です。
 村人たちが真夜中までいっしょに行動し飲食を共にすることで絆を確かめ合ったことと思います。
 この供養塔は萬延元年閏三月に建てられたものです。
     青木神社


【子の神祠】鎌倉市今泉1丁目2-6

 子の神様です。腰から下の痛みの有る方の神様です。お願いして下さい。


【不明の社】鎌倉市今泉1丁目9


【庚申塔】鎌倉市今泉1丁目9


【今泉白山神社】鎌倉市今泉3丁目13-20

市指定有形民俗文化財 庚申塔(寛文十二年銘)一基【一番右】


【子守神社】白山神社境内社
   子守神社
祭神 天之水分神(あめのみくまりのかみ)国之水分神(くにのみくまりのかみ)(子授・安産・子育ての神)
 元は水の配分をつかさどる神であるが、このみくまりをみこもりと訛って早くから子守神として信仰があった。
 豊臣秀吉はその子、秀頼のために祈り、本居宣長はその父母の祈請により誕生したとして参詣を重ねたことが和歌や「菅笠日記」によって知られる。当地では、初宮詣・七五三詣に先立ってこのお社にお参りするのが古くからの慣わしです。


【大船熊野神社】鎌倉市大船2028

 地神塔(熊野神社境内社)
 稲荷社(熊野神社境内社)
 琴平宮(熊野神社境内社)
 庚申塔:鎌倉市大船2039


【(台)八幡神社】鎌倉市台2044

 稲荷社(八幡神社境内社)
 庚申塔群(八幡神社境内)


【厳島神社】鎌倉市小袋谷2丁目13-21

 稲荷社(厳島神社境内社)


鎌倉市指定有形民俗文化財 石造庚申塔
 この塔は寛文10年(1670・江戸時代)の舟型塔で上部中央にキリク(阿弥陀)、それより下方右にサ(観音)、サク(勢至)の種子が刻んである。
 阿弥陀三尊の種子を塔につけた庚申塔としては鎌倉では最も年代が古い。
 塔身には願文と思われる文字が刻んであるが、風化がはなはだしく全体は判読できない。下部の檀には、三猿が正面向きに右から「雄のいわざる」「雌のきかざる」「雄のみ゛ざる」が横に並び、悪いことには「いわない」「きかない」「みない」と教えている。
 厳島神社の参道へ移すまでは、小袋谷の「水堰橋」の北側にあった。
          平成17年(2005年)
          小袋谷厳島神社氏子会

注:
 庚申塔は干支の(えと)の庚申(かのえさる)に当たる日に、人の体内にいる虫が天の神にその人の罪を告げようとするために、この日に限って徹夜するという信仰に基づいて建てられたものといわれています。
 また、庚申様は豊作を祈り、病を災いを防ぐ神としても知られています。


【不明の社】鎌倉市小袋谷2丁目22


【石造道標】鎌倉市小袋谷2丁目22


【水天宮】鎌倉市台5丁目3-7

今日は近所で-田浦、船越の稲荷社など

 やっと雨が上がったので、近所を散策しました。
【主な経路】
(自宅)-浜見台-船越-田浦-三浦アルプス西峰ルート-沼間-沼間隧道-船越-南郷公園-追浜町-(自宅)


【参考】
 イソギク Chrysanthemum pacificum
 横浜横須賀道路橋脚
 送水管路1号トンネル
 送水管路2号トンネル
 紅枝垂れ(イロハモミジ) Acer palmatum var. matsumurae cv. Ornatum
 スギ Cryptomeria japonica
 セイタカアワダチソウ Solidago altissima
 ヤクシソウ Youngia denticulata
 ユウガギク Aster iinumae
 ツワブキ Farfugium japonicum
 スダジイ Castanopsis sieboldii (倒木)
 コナラ Quercus serrata (倒木)
 ハゼノキ Rhus succedanea
 ハナシュクシャ Hedychium coronarium
 キミノセンリョウSarcandra glabra f. flava
 タチツボスミレ Viola grypoceras
 サザンカ Camellia sasanqua


【白川稲荷跡地】船越町6丁目
 皆ヶ作(かいがさく)隧道の入り口脇にあった神社です。往時の姿はグーグルマップからの転載です。


【馬頭観音堂(8基)】田浦町3丁目
 ここの石塔群は8基すべてが馬頭観音で、そのうち2基は座像で、形像は一面二臂と三面ハ臂、いずれも馬口印を結んでいるようです。


【御嶽稲荷神社】田浦町3丁目92


【庚申塔群】田浦町3丁目


【泉稲荷大明神】田浦泉町


【稲荷社】田浦泉町


【伏見白赤稲荷大神】田浦大作町


【白若稲荷大神】船越町3丁目22

   由緒書
船越三丁目二十二番地に、鎮座する白若稲荷社は、その歴史も古く、一説によると当地に鎮座する前は、相模国田越村(現逗子市)方面より、船越三郎左衛門(年代不詳)なる豪族が祠を背負って当地に鎮座されたと言い伝えられている。
 当時この地は人家も少なく僅かな住民による農業(養蚕、雑穀、野菜作り等)がなされ、おそらく住民の五穀豊穣を祈念する守護神として祀られたものと思われる。
 その後、鎌倉街道の路傍に祀られ道行く人の安全を護ると共に、住民の信仰を、更に深めるようになった。また世相の移り変わりと共に、稲荷社はこの下の広場に移され、しばらくの間鎮座していたが、守護神としての祠は高台にお祀りすべきであるとの敬信者の願いにより、昭和三十五年五月有志により現在地に移鎮祭がなされた。
 多発する交通事故を解消するために、現在では交通安全の守護神としても祈祷なされている。参拝者が年々年々増えていることは、白若稲荷社の発展と共にに特筆すべきところである。
          平成六年五月吉日
                白若稲荷講中

マルカメムシの災難

 ようやく寒さが本格化してきた今日、トイレで翅を拡げたまま、お亡くなりになっているマルカメムシを発見しました。(平たくなっているので)誰かに踏み潰されてしまったようです。


マルカメムシ Coptosoma punctissimum
 2013.10.27  2019.10.27


13.マルカメムシ
Coptosoma punctatissima Montandon
 体長 4.5~5.7mm。光沢ある黄褐色で黒色点刻を密布する。頭部側葉は中葉の前方で左右のものが接触し,触角第2節は最短節であるが幅よりも明らかに長い。マメ科植物の雑草,とくにクズの茎上に多く,時にマメ科作物を加害する。初夏の頃2列に並んだ卵塊をを産下する。卵は一般のカメムシ卵と異なり,バナナを短く扁平にしたような形で擬卵蓋のまわりに指状の突起が放射状につく。卵塊の所々に微生物を含んだ排泄物が付着され,孵化幼虫はこれを吸収して腸内に共生させる。幼虫の背面および側縁には長い剛毛を多数生ずる。分布:本州・四国・九州;支那。
[安松京三・朝比奈正二郎・石原 保(1965)原色昆虫大圖鑑第3巻、p75、北隆館、東京.]より転記。
–> 私の恩師でもある石原先生の専門は半翅目でした。

本日、大宮へ

 今日は冷たい雨の降る一日。急に寒くなったのに合わせて、大宮でも紅葉が見頃になっていました。


 昼食は茉莉花作
 三の鳥居:武蔵一之宮氷川神社
 参道を行く茉莉花

二の酉は、若松町へ

 本日(11/20)は二の酉、一の酉(11/8)は横浜大鷲神社を訪ねましたので、今日は横須賀若松町の大鷲神社に寄って帰りました。


【横須賀大鷲神社】若松町3丁目17


【(米が浜)神明社】横須賀市米が浜通1丁目14

ハプスブルク展など

 本日、家族揃って上野へ。国立西洋美術館で開催中のハプスブルク展を鑑賞し、お昼は肉の大山ドンレミーでスイートを購入し、湯島天神で合格祈願、午後からは同館の常設展、帰りには横浜にも寄りました。


【参考】
 マルガリータ・テレサ(ディエゴ・ベラスケス作)
 カレーの市民(F.A.R.ロダン作)の前で
 お昼は肉の大山で
 ドンレミーアウトレット
 湯島天神

大津周辺を巡って

 大津の周辺にまだ尋ねたことのない社が残っていることに気づき、訪ねてみました。
【本日の主な経路】
 (堀ノ内駅)-大津町-三春町-富士見町-根岸町-吉井(阿波口神社)-桜が丘-(堀ノ内駅)


【砂坂地蔵尊】大津町1丁目3

   砂坂地蔵尊
 二体のうち、向って左が砂坂地蔵尊で、社前の小さな坂を砂坂というのでこの名がある。またイボトリに霊験があるのでイボトリ地蔵とも称する。右はしらすがわ地蔵尊で。昔近くの白須川の川原を家屋新築のため掘ったところ。鍬先が当たってこの地蔵尊が発掘されたという。川には清水が流れていて、大正時代まで満潮時には、潮がこの先まで遡上した。像の周囲に積まれている玉砂利は、まこと、この地蔵尊にふさわしく往時を偲ぶよすがでもある。なお後に一石二段型の六地蔵のレリーフも並置され、最近は共に子育地蔵としても信仰されている。
平成三年二月  大津地域文化振興懇話会


【浦守稲荷】大津町1丁目8-31


【原(守)(稲荷】大津町3丁目1-5
 説明版では「原稲荷」ですが、鳥居の扁額では「原守稲荷」となっていました。御神木はクロガネモチです。

原稲荷の名は、此の地を原と称していたことに由来する。二月と十月に行われるお祭りは現在では簡略化されているが、以前は「湯立て神楽」と「掻湯の神事」が厳粛に行われていた。社前の一角の四隅に笹竹を立て注連縄を張り、中央には大釜に湯をたぎらせながら、面をつけた神官が神楽を舞う。終わると笹の小枝を小さく束ねて湯に浸し、人々に振りかけて無病息災を願った。続いて沸騰した湯をかき廻して渦を作り、その形で農作物の豊凶を占ったという。今でもこのお祭りには、昔からの習わしで、粳米に小豆を炊き込んだ「赤飯(あかめし)」が、参拝者に配られている。
平成三年二月  大津地域文化振興懇話会


【稲荷大明神跡地】三春町4丁目56

 京急本線と京急久里浜線とに挟まれた地で、稲荷社の移転先は不明です。かつては神木だったであろうタブとイチョウがみごとでした。


【庚申塔】三春町5丁目20-52


【愛染稲荷社】大津町5丁目27
 以前にも「鎌倉三浦半島古木名木五十選」に選ばれたクロガネモチを訪ねてきたことのある愛染稲荷社です。

  愛染稲荷
 文化一四年(一八一七)天神坂付近に住んでいた七兵衛という人が村人を代表し、当時、日本橋稲荷本宮であった江戸加賀町・愛染寺より、「正一位稲荷大明神」を安鎮する証書を受け、稲の豊作を願って建立しました。
 祭神は倉稲魂(ウカノミタマ)で五穀豊穣、家内安全、商売繁盛などを祈願します。
 境内には樹齢四〇〇年というクロガネモチの巨木があり、神奈川県の「鎌倉三浦半島古木名木五十選」に選ばれています。
  大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ


  愛染稲荷社
 この稲荷は、大津村天神坂に住む七兵衛という者が、文化十四年(一八一七)七月江戸加賀町日本稲荷総本宮、愛染寺から許しをうけ、農作物の豊作祈願のため、この地に建立したことが古文書に残されている。
 当時、このあたりは大津村保込(ホゴメまたはホオメ)といわれ、戸数は二十にも満たず、皆田畑を耕作して生計を立てていた。
 創建以来、この祠は傘のように覆う樹齢推定四百年のクロガネモチの銘木とともに地元の人によって大切に守られ、現在も年一回昔ながらの稲荷講が行われ、往時を偲ぶよすがとなっている。
平成二年二月  大津地域文化振興懇話会


【天神坂の石塔群】大津町5丁目9-13

   交通の要衝 天神坂
 この坂を天神坂といい名の由来は大津五丁目町内会館裏に天神社があったことによります。
 江戸時代の古地図・浦賀道見取絵図に描かれ公郷・衣笠・葉山・逗子・鎌倉・大船、東海道戸塚宿へ至る重要な道でした。
 日本武尊の東征伝説にかかわる古東海道もこの道を通ったと推定され、中世・三浦氏の時代には鎌倉への道として昔から交通の要衝でした。
 天神社は関東大震災後に諏訪神社に合祀されましたが、境内にあった狛犬と手洗い鉢が残されています。二基の庚申塔は、左は延宝六年(一六七八)右は元文五年(一七四〇)の古いもので廃寺となった青蓮寺の名もあります。


【三春町の明神様(稲荷社)】三春町6丁目78−15


【冨士淺間大神】富士見町3丁目29-25


【常楽不動尊】富士見町3丁目17-26

お不動さん(常楽不動尊)-わが町を歩こう、わが町発見
   上町第2地区社協 わがまち、第82号、平成23年10月1日
 富士見町3丁目は、戦後に住居表示が変更されるまでは公郷町であった。ここは、谷戸入口に新墓地があるので、通称「新墓」で名が通っているが、明治40年ころまでは、民家も無く、雑木林の間に散在する田畑と谷間の奥一面に生い茂る茅場だけで、当時は「茅場ヶ谷戸」と呼ばれていた。
 民家が見え始めた大正2年「源龍」という名の僧が谷戸の奥に筵小屋を建てて住み着き、托鉢をしながら何か作業を続けていた。付近の人もほとんど近寄らなかったが、秋になって僧の立ち去った跡には高さ一間もある不動明王の座僧が残されていた。
 戦後この土地を宅地にしようと、取り壊すために金槌を振るった人がいたが、夜半に高熱を出して苦しみこれを諦めたとの話がある。
 この常楽不動尊は現在まで有志の方々の手で祀られ、多くの人々の信仰の対象となっている。大祭は9月28日だが、八の付く日。特に28日には参拝に訪れる人々の線香の煙が絶えない。常に花が供えられ、信仰心のあつい方々の管理によってお守りされている。
 また、この地方から嫁がれたり、移転された方々も遠くから参詣に見えるなど、心の深い依り所となっている。     (鈴木)


【庚申塔】根岸町1丁目

   庚申塔(根岸1丁目)
 庚申信仰は、平安時代に中国の道教の教えに仏教的な信仰が加わり、室町時代に庚申講が結ばれ、江戸時代に庶民信仰として隆盛期を迎えました。
 十干十二支の組合せにより六十日毎に巡る庚申の日は眠らずに過ごし、無病・息災・長寿を願う信仰です。信仰は人の体内にいる三尸の虫が庚申の夜に天に昇ってその人の罪過を天帝に告げるため不吉なことが起こるという道教の教えに由来します。
 この十五基の庚申塔は享保九年(一七二四)から昭和四七年までに建てられました。
 昭和五五年と六三年に庚申講を催したと記されており、大津での信仰の深さがうかがわれます。
   大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ


【増田家の馬頭観音】根岸町1丁目1

  馬頭観音(根岸一丁目)
 増田家の門の内側、右上に池田・根岸・大津の馬持ちの人たちが、明治九年(一八七六)に造立した馬頭観音像があります。
牛馬に関係がある職業の人たちや個人の信仰により、供養や無病息災を祈願して造立されました。頭上に憤怒相の宝馬を頂き、慈悲で強化し難い衆生を仏が怒りの姿で救い上げようとする観音像です。
 大津地区には明治末期から昭和三〇年代まで高梨・増田・菅野の三牧場がありました。
 近代では供養や墓標的な意味の他に、交通の安全や牛馬の守護神としても信仰されてきました。
   大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ


【牛宮神社】根岸町2丁目8-7

   牛宮神社
 ここは現在、牛宮・稲荷・地神の三神が祀られている。かつては牛宮様と称され、石祠は高い松の根方にあった。井田の里人は、牛の功労を謝し霊を慰めるため、毎年ここに集って祭事を行い、併せて人々の無事安泰を祈った。昭和四十五年、この付近の開発を機に、有志によって石碑型文字塔が造立された。
 稲荷様の石祠は、孫の台(北久里浜駅付近)から遷され、、昭和四十五年に新社殿造営。同五十三年には講中によって、京都伏見稲荷が勧請された。また地神様は、地神信仰の風習により、各戸持回りで祭事が行われていたのを、ここに祀り後世に伝えることとした。平成三年十一月  大津地域文化振興懇話会


【庚申塔】池田町1丁目5


【馬頭観音】池田町1丁目6

馬頭観音供養塔
 この供養塔は、明治27年に造塔されたものです。
  大津地域文化振興懇話会


【安房口神社】吉井3丁目11

吉井鎮守安房口明神
  安房口神社
祭神 天太玉命(あまふとたまのみこと) 日本の祖神の一柱であるタカミムスビ神で、天孫ニニギノ尊とともに降臨した五部神(いつともべのかみ)の一柱とされています。
創建 年代不詳 磐座(いわくら)信仰という古い型を保っていて、三浦半島では最古の社ではないかといわれています。
由緒 鎮座まします御神体の霊石は、その昔、安房国洲崎明神に竜宮から献上された大きな石が二つ置かれていて、ある時、その一つが安房大神太玉命の御霊代として東国鎮守のためにこの場所に飛んできたといわれています。
 言い伝えによると日本武尊(やまとたけるのみこと)(景行天皇の皇子・古事記では倭建命)が東征のとき、勝利祈願したと伝えられ、源頼朝、北条義時なども武運を祈って参拝したといわれています。また三浦一族が航海の神として信仰したとも伝えられています。この地は、房総への重要な交通路で、古代の東海道の要衝でした。
 吉井鎮守であるこの神様は、安産祈願の神として古くから信仰されています。出産前に参拝し御神体のまわりの小石をひとつ持ち帰り安産のお守りとし、めでたく出産すると玉石を二つにして返し感謝の気持ちをもってお礼参りをしています。
 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の妻で、のちの尼将軍といわれた北条政子もご懐妊のおり、安産祈願に参拝したといわれています。
大祭 祈年祭 春分の日 前後の吉日
   例大祭 八月第一日曜日 前後の吉日
   新嘗祭 十一月二十三日 前後の吉日
境内 午宮五頭(ごぎゅうごず)天王の碑 富士講の碑 三十三度大願成就の碑
                   吉井安房口神社
                   吉井町内会


  安房口神社
 吉井の鎮守様で御神体は大きな安房石です。その昔、山や巨石、樹木など自然崇拝があった頃の名残です。
 祭神は天太玉命(あまふとたまのみこと)で安房大神太玉命の御霊代として東国鎮守のため安房州の崎の安房口神社からこの石が飛来したという伝説があります。直径四〇cmの石の穴は安房の方角を向いているといわれています。
 古東海道の要所であったと伝えられ、日本武尊が東征の際、勝利を祈願したともいわれています。豊作や安産の神として、北条政子が懐妊の時、使者が安産祈願に参拝した記録も残っています。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ


  安房口神社
 社殿はなく、霊石を霊代とした古来の磐座の形を残した神社である。西叶神社にある安房口神社明細記によれば、石は「安房の大神天太玉命(あまのふとだまのみこと)が、東国鎮護のため御霊代として古くこの山頂に出現」とあり、さらに「その霊石の面、安房の方に対するを以て、古来安房口明神と総称す」と記されている。
 この辺は、明神山と呼ばれ、明治の末までは別に陽石が祀られ、古くから子宝安産の神としても里人に尊崇されてきた。
 この大きな霊石が、何れの地から、とせんな方法で運ばれてきたのか… 今はマテバシイの木漏れ日の中に鎮座している。
平成三年二月  大津地域文化振興懇話会


【稲荷大明神】桜が丘1丁目6


【庚申塔群】根岸2丁目9-1

   庚申塔について(根岸二丁目)
 この地、井田の里の庚申塔由来記には、昔から悪疫・災害の因が悪霊の仕業と信じられていた時代、その悪霊をとり除く目的で青面金剛を祀り鎮護しようとした、とある。
 青面金剛は、庚申塔の主尊であり、厳めしい憤怒相の浮彫の像や、青面金剛の文字として刻まれたものがある。日月瑞雲や三猿が刻まれているものもあり、これらはともに五穀豊穣・悪疫退散のご利益があるとして信仰されてきた。
 里人は現世安穏・来世安楽・子孫長栄を祈念して塔を建てた。天和元年(1861)から大正□年までのものが十九基現存する。
 平成二年二月 大津地域文化振興懇話会


 以下は、本日撮影のその他の写真です。


【参考】
 クロガネモチ Ilex rotunda
 タブ Machilus thunbergii
 イチョウ Ginkgo biloba
 ジンチョウゲ Daphne odora
 オリーブ Olea europaea
 ハナカタバミ Oxalis bowiei
 横須賀キリスト教会:根岸町4丁目39-7
 コウテイダリア Dahlia imperialis

今日は徒歩で帰宅-公衆トイレとコンビニを辿って

 本日、災害発生時帰宅訓練につき、全区間徒歩で帰宅。部分的には何度も歩いた道ですが、通しで歩いたのは初めてでした。設定された2時間ではとても帰り着けないので、午後は年休で対応し、8時間ほどで帰り着きました。
【本日の装備】野帳、時計、歩数計、シャープペン、(カメラ)
 野帳留めは、100円ストアで購入したバインダ、ベルト、マジックテープを使って自作したものです。


 所要時間:7時間51分、総歩数:42838歩、総距離:30.8km(72cm/歩で換算)、平均時速3.9km/hr
【経路概要】
 クイーンズタワーB棟-野毛-長者町-伊勢佐木町-黄金町-山王町-蒔田-大岡-栗木-金沢自然公園-釜利谷-六浦-柳町-室ノ木-追浜-(自宅)
【立寄箇所概要】
 ファミリーマート:26軒、ローソンストアー100:12軒、公衆トイレ:15ヵ所

 
GoogleMap

区間毎速度の変化

【感想など】
1. 京急さん、いつもありがとうございます。
2. 笹下釜利谷道路沿いには公衆トイレが殆どありません。
3. コンビニの分布には各社ごとの特徴があり、調べてみると面白いかも知れません。


 今日は業務の一環ということで、関係のないところには寄らない方針でしたが、
以下、(いつもの習慣で)つい撮影した写真です。伊勢佐木町のカツラの黄葉は来週にかけてが見頃と思われます。


 水面の鳥
 スカイダック乗り場
 かに道楽
 カツラCercidiphyllum japonicumの黄葉(伊勢佐木町6丁目)
 波の華 住谷正巳作(伊勢佐木町6丁目)
 鶴巻橋
 上大岡ウィリング横浜

栄区の社を巡る

 本日、午前中に歯科治療。午後には栄区まで足を運びました。
【主な経路】
(自宅)-六浦-浄林寺跡-武相トンネル-㹨川小川アメニティ-昇龍橋-上郷-鍛冶ケ谷-(本郷台)


【浄林寺跡】金沢区朝比奈町267

 横浜市指定名木古木 No.48140 イヌガヤ


【白山社跡】栄区長倉町1-29

昇龍橋  長倉町
 上郷(旧上野)の村社「白山社」の旧社殿の参道にかかる石橋で、橋の本体は鎌倉市今泉から産出する通称「鎌倉石」又は「今泉石」という水成岩である。構造はアーチ状の眼鏡橋で、欄干は「御影石」で本体とし材質が異なっており、「昇龍橋」の橋名と「大正四年九月吉日」の年記があるが、建造年代は定かではない。
 明治八年(1875年)、太政大臣三条実美の名で各府県に村誌郡誌を調査して差し出される公達があり、明治十二年頃に編成されたと思われる「皇国地誌」には村の河川や橋梁の記録があるが、上野村(かみのむら)の条に昇龍橋の名はみえない。これと全く構造を一にするもので、旧庄戸掘にかけられ現存する「經堂橋」の名は記載されているが、「長四間四尺木製」と記された木橋であった。經堂橋が石造のアーチ型眼鏡橋になったのは、明治三十年代の末といわれるから「昇龍橋」も材質及び構造からその頃の建造と考えられる。
 橋名と大正四年の年記を持つ欄干は材質も異なるし、また經堂橋にはこの様な欄干はないので、橋の本体より後の建造であろう。
 おそらく、大正三年に大正天皇の即位の礼が挙行されたので、この御大典を記念して翌年、村社の参道の橋に御影石の立派な欄干を作ったのであろう。九月十七日は当時村社の祭礼の日であった。
 施行者は今泉で石工業を営み、現在も今泉石を切り出している石材店の先々代と推定されている。その技術は、古くから古くからこの石で民家の(かまど)や炭焼窯等のアーチを作ってきたことにより習得されたものであろう。なお、この地に旧上野村には梅沢橋という同種の橋があったが、現在は庄戸入口の道路の下に埋没している。
 道路の拡幅や河川改修で市内の石橋のほとんどが消滅した現在、この橋は市内最古の石造橋と考えられ、文化財として貴重なものである。
 ※1間=約180cm   一尺=約30cm
  四間四尺はおよそ8m40cm
 平成4年3月                   栄区役所


【白山神社】栄区東上郷町44−9

白山神社遷坐記念碑
     白山神社御由緒
   御祭神 伊弉册尊
   例祭日 九月二十七日
伊弉册尊は伊弉諾村の妃神にして、神代に始めて陰陽夫婦の神として顕現し給い、皇祖天照大神を始め、神羅万象を生成化育し給う大神なり。仰々、当白山神社は証善提寺文書の白山権現縁起等に由るに、人皇三十五代舒明天皇の御宇、本郷総鎮守として鍛治谷神戸の地に勧請し奉る大社にして、源頼朝鎌倉開府の時幕府艮の神として深く崇敬され、仁治元庚子年三月五日執権北条泰時は長尾郷飯島村に神領二町歩を寄進すと云う。人皇九十五代後醍醐天皇正中元甲子年九月十五日光明谷山厳山に遷宮し奉り、旧地に因み神戸と称す。その地は縁起に由れば、境内神領艮之方は峯を境、坤之方は田岸を境、巽之方出厳を境、乾之方坊前山下を境とし、社の東北一町に朝水の池と号するあり。神水森々として松風満耳。神徳現然として国家安寧、五穀豊穣、村中守護の霊地也と記している。相模風土記稿は、祭神伊弉册尊神躯九寸六分は舒明天皇の作らせ給いし物と云う。別当に旧くは実応坊、後証菩提寺其職を兼管す。神職は内田和泉と云うと記し、幾多の宝物神領も有したが現在は散逸して、安政六年建立の前社殿内に藏した享禄元年、天和元年の銘ある扁額が現存する唯一の史料である。是の如く当地域有数の由緒ある当社も近来衰運に向い、就中関東大震災の折、社地社殿の崩潰にあい、上野村百余戸の氏子一同その復興に努力したるも、故あって神戸に至る。而して第二次世界大戦前後の混乱期を圣て両社殿の損傷甚だしく、氏子一同再建を念じつつ三十余の星霜を圣たり。然るに近年当地の開発著しく、山林原野悉く大住宅地に変貌するに至る。天なる哉、命なる哉、永年の宿願ここに稔り御神威の発揚と郷土の和平発展の為、現地を最適地と撰卜し、所有者三井不動産の理解を得、前社地と等価交換による譲渡を受け、鈴木社寺工務店の施工により新社殿の完成を見、昭和五十一年十月二十七日秋天に一奌の雲なき佳日。史上最高の盛儀による遷坐祭を斎行し、神光彌髙きを拝す。願わくは白山大神冥加を垂れ給い、とこしえに守護し給はんことを。
   昭和五十二年九月吉日
       白山神社宮司 小池 泉 謹誌


【横浜御嶽神社】栄区上郷町1314

 嶽寛霊神像(横浜御嶽神社)【嶽寛とは御嶽信仰の全国普及に努めた普寛行者のことでしょうか?】


【日枝社】栄区犬山町1-6


【思金神社】栄区上郷町745-1

     由緒
当、思金神社の御祭神は八意思金大神(やごころおもいかねおおかみ)様です。
古書の神話によりますと。万物創造の神高皇産霊高皇産霊(たかみけすび)の神の御子神と称せられ天の岩戸隠れに於いては「神集いに神譲り」、神々の総代表の大役を真心の極みに遂行され天照大神様を天の岩戸よりお出まし願ったと云う神話に於てはこの特筆すべき「天の岩戸開き」を始め「天孫降臨、出雲の国譲り」等、尊大なる御働きをなされた八意思金大神様の御遺徳が忍ばれます。
日本書紀は八意思金大神様のお働きを深謀遠慮と表現し古語拾遺は深思遠慮と表現しております。
八意(やごころ)」とは「(こころ)」を開く事であり多くの意見とも申します。「(こころ)」を思い諮る事は高度の結びの御神性で有り常に天照大神様の「み意」を心として一切の私心(わたしごころ)を無にして仕え奉られたものです。
霊司八意思金大神様と讃えられ政治建設(建築、商工)知恵(学門)福徳成就の神と崇められる御神徳いや高い八意思金大神様を御祭神と仰ぐ、当神社は八意思金大神様の大いなる御守護の元に打ち開いて頂き、生きる毎日の生活を、「行」と心しつつ子孫に豊かな人生を頂戴いたし度いものと念じております。
      生きていることが「行」である。
      毎日の生活が「行」である。
      一生が「年季奉公」である。
        これを人生と云う。
           「思金神社格言」
              思金神社
各位


     石碑遷宮記念
当社は大正元年に思金神社様が初代宮司平野宝導に降臨され其の証として昭和三十年高知県幡多郡佐賀町に石碑が建立された。思金神社奥社として多くの漁民や町民が参拝し、其の後横浜に本社が移され降臨百年を吉祥として石碑を本社に遷座する運びとなり現在に至る。
      皇紀二千六百七十七年
      平成二十九年八月吉日
            思金神社
             宮司 平野正兼
                  絹子


 思金神社奥の院
 魚霊の碑(思金神社奥の院境内)
 水神社(思金神社奥の院境内)


【稲荷森稲荷社】栄区上郷町169


【子ノ神日枝神社】栄区若竹町31-3

子ノ神日枝神社新築記念碑
    子ノ神日枝神社々殿再建由来
子ノ神日枝神社は旧中野村の守護神として鎮座し
「子ノ神」は大己貴命(大国主命の別名)殖産興業の神
「日枝社」は大羽咋命(大年神の御子)文化開発の神
を祭神として仰ぎ其の創建は詳らかでないが、證菩提寺建武の書に子ノ神の名ある処より古社である事は証せらるゝも当時は「子ノ神社」と「日枝社」は別社であり其の合祀については此亦不詳である。しかし社伝によれば文明年間(一、四六九年)当時此の地を所管していた上杉関東官領が土地肥沃な㹨川流域の中央部(中野の里)の守護神として、此の両社を併せ祀り農業の振興を図ったと記されている。
斯くして明治の末期に神社制度の改革があり各神社ともに基本財産壱千円がなければ他社併合すべしとの布告があり、此れに対応し神社護持の信仰厚き地元氏子民二十五名外信徒が一丸となり、菩心惨胆して基本財産壱千円(当時上田坪当たり三十銭位)の募財を達成して合社を免れ村社に列格中野集落の鎮守神として村民の信仰を集めてきたが、その後大東亜戦争終結をへて昭和三十八年(一九六三年)第百土地㈱により附近一帯が住宅地として開発せらるに伴い社有山林等を一ヶ所に集約造成された。
爾来住宅の密集と人口の増加につれ氏子地域は中野、元大橋、若竹の三地域に分れ連合体を組織し新旧住民互に融和を計りつゝ神社運営に当たってきたが其の間激しい時流の変遷の中に、社殿も老朽化し神慮の程も畏しと氏子一同産土信仰の原点に立ち戻り浄財を集め、昭和六十一年一月(一九八六年)起工式と共に工事に着手し、以来日夜協力一致して事に当り、昭和六十一年十二月此処に荘厳な社殿と完備せる社務所の竣工を見、神域一新し神威灼然と輝き渡り誠に有難き極である。
時恰も、今上天皇、在位六十年の記念すべき時にも当り、一層その意義を深らしむるものである。
此も偏に神明の加護と、氏子一同の協同精神の発露の賜と感激に堪えず。
依って、子ノ神日枝神社の沿革と社殿再建の経緯を記して、永く後世に伝える所以である。
   昭和六十一年十二月吉日
     子ノ神日枝神社宮司 村岡忠四郎 謹誌


 石塔群(子ノ神日枝神社境内)
 淤母陀琉神(おもだるのかみ)訶志古泥神(かしこねのかみ) 神位(子ノ神日枝神社境内社)(= 第六天社)


【(鍛冶ケ谷)八幡神社】栄区鍛冶ケ谷1丁目13-24


【道祖供養塔】栄区鍛冶ヶ谷一丁目33

横浜市地域指定有形民俗文化財
 横浜道の道祖供養塔
     平成十一年十一月一日登録
 江戸時代には、鍛冶ヶ谷村の北側を通り日野村に抜ける道が狭く迂曲しており、また、度々用水路が溢れるため、交通の便を良くするため、道普請を行いました。完成時には道祖神を祭り供養塔として建てられました。背面には、その経緯が記されています。
 また、道標も兼ねており「弘明寺横浜道」と開港まもない横浜を示し、当時の鍛冶ヶ谷村の様子を知る上で貴重な碑です。
 なお、この道祖供養塔の当初の位置は、鍛冶ヶ谷村二丁目の一角に所在していましたが、平成十八年十二月に現在地に移設しました。
 平成十九年三月
         横浜市教育委員会


 以下、本日撮影のその他の写真です。


【参考】
 イヌガヤ Cephalotaxus hamingtonia
 ツワブキ Farfugium japonicum
 イワタバコ Conandron ramondioides
 サネカズラ Kadsura japonica
 センニンソウ Clematis terniflora
 キヅタ Hedera rhombea
 ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus
 カルガモ Anas poecilorhyncha
 カタバミ Oxalis corniculata
 ユウガギク Aster iinumae
 トネアザミ Cirsium comosum ver. incomptum
 ホトトギス Tricyrtis hirta
 イヌタデ Persicaria longiseta
 クロガネモチ Ilex rotunda