月別アーカイブ: 2017年11月

三の酉(2017.11.30)

 本日酉の日につき、大宮からの帰りに目黒の大鳥神社に立寄りました。


【大鳥神社】下目黒3-1-2
  大鳥神社御由緒
御祭神 主祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 景行天皇の皇子で。熊襲討伐、東国の蝦夷を平定。
    相殿神(あいどののかみ) 国常立尊(くにのとこたちのみこと) 日本の国開きの神様
        弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと) 日本武尊の妃
御由緒 例祭 九月九日に近い日曜日
 景行天皇の御代(七一~一三〇)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、東国の蝦夷を平定しました。この東夷征討の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治まらんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっています。
 東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て(こう)ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野(のぼの)に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原(ことひきのはら)、河内の舊市邑(ふるいちむら)に留まり、その後、天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年(八〇六)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳の紋を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
  酉の市(八つ頭と熊手の由来)
 当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討に遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから、古来より、「八つ頭」は人の頭に立つよう出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。

杉山神社を巡る-Part6 西部7社

 今日は、旧武蔵國南多摩郡と都筑郡に位置する杉山神社を中心に廻ってみました。これらは、境川、恩田川、谷本川の上流域に当たります。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 (43)(小川)杉山神社: 町田市つくし野2-8-3
 (45)西田杉山神社:  町田市金森6-46
 (46)金森杉山神社:  町田市金森7-1
 (44)成瀬杉山神社:  町田市成瀬4-13-16
 (12)上恩田杉山神社: 横浜市青葉区あかね台1-1-6
 住吉神社:      横浜市青葉区奈良町833
 (07)(上谷本)杉山神社:横浜市青葉区みたけ台26-1


【(43)(小川)杉山神社】町田市つくし野2-8-3
 杉山神社考に小川の社として記載されている杉山神社です。境内神社として稲荷社と山神社がそれぞれ二座ありました。

 つくし野杉山神社の由緒・経歴
鎮座地 東京都町田市つくし野二ノ八ノ三
祭神  日本武尊[ヤマトタケルノミコト]
〃   大山祇命[オオヤマギミノミコト]
〃   木花開耶姫命[コノハナサクヤヒメノミコト]
合祀神 事代主命[コトシロヌシノミコト](三島大明神)
〃   大山昨命[オオヤマクイノミコト]山王大権現
 [杉山神社]は神奈川県都筑郡に二十四社、橘郡に三十七社、久良岐郡に五社、南多摩郡に六社と記録があって、当神社は南多摩郡六社の一社である。創建は不詳であるが、光格天皇の文化四年《一八〇七年》十一月に再建され、天保十一年《一八四〇年》六月に地頭・大久保勘三郎藤原忠寿及び家臣・下沢喜多録藤原寿利により再建された。
 更に文久三年《一八六三年》九月に再建(棟札)明治三十六年《一九〇三年》十月二十六日拝殿を新築し、明治三十八年九月三島大明神と山王大権現が合祀された。昭和五年十二月には奥の殿、拝殿を新・改築し、昭和十一年九月に神明造の鳥居一基が氏子により寄進され遷宮式を行った。
 昭和四十年より神社周辺に於いて、小川第一土地区画整備事業が始まり四十三年に完成したが、それを機に氏子の総意に基づき新土地に相応しい社殿を造営することになり、境外地の一部を売却して建築資金に充て更に氏子各位から多額の浄財と奉納金を拝領し社殿、社務所(神楽殿)水屋等を総事業費五千万円を以って造営した。そして昭和四十九年九月二十七日遷宮式を執行して新しく地域の鎮守様として生まれ変わった。
 平成二十八年には、社務所(神楽殿)の建替えと境内の整備を自己資金に氏子及び崇敬者からの寄進を加えて実施、同年八月七日落慶式を行った。
               (平成二十九年五月改訂)


【(45)西田杉山神社】町田市金森6-46
 杉山神社考には金森の杉山神社が2座載っているのですが、そのうちの一社です。扁額では『山宮』となっていました。御神木のイチョウは、町田市指定保護樹木No.1に指定されています。


【(46)金森杉山神社】町田市金森7-1
 もうひとつの金森村の杉山神社です。タブノキが神木で、境内社に八坂神社がありました。天和3年の棟札では杦山大明神となっており、当時は『』の字体が使われていたようです。

  金森杉山神社
鎮座地 東京都町田市金森三二六番地
御祭神 日本武尊
御祭事 元旦祭  一月一日
    節分祭  二月節分の日
    風祭   九月一日
    例大祭  十月第一土曜日
    七五三祝 十一月吉日
境内社
 八坂神社 例祭 七月十五日
境外社
 渋池神社 例祭 四月第一巳の日
 当社は天和三年(一六八三年)十二月、旗本 高木伊勢守の一族が下屋敷に奉斎し、朝夕武運長久を祈願された。
 慶応二年九月と大正六年現在の拝殿を新造立し、昭和十一年十月十七日現在の拝殿を新築した。
 昭和六十一年十月氏子及崇敬者の協力により、本殿、玉垣、屋根替修復並びに敷地の外柵改修工事を行い杉山宮の発展に努めた。
 尚、境内社は八坂神社、祭神素戔嗚尊を奉斎し、境外地に渋池神社を祭り地域の守護神 渋池弁財天として崇敬されている。
 昭和六十二年金森地区神社繁栄のため奉賛会を結成し昭和六十三年より平成二年り三ヵ年に亘奉賛会員及崇敬者六百余名の賛同により、社務所、神楽殿、管理人室及収納庫、のぼり竿の新設、境外社渋池神社の社殿の建替を行い、平成二年九月神社整備事業が完結し今日に至っている。
  平成二年九月


   金森杉山神社の「棟札」(その1)
                       2010・11・27
○金森杉山神社
 市域内の古社を考えるのに忘れてはならないものに杉山神社がある。市域内の分布をみると、金森の2社・三輪・成瀬・小川の各1社の計5社がある。いずれも市内の南部に属するのが特徴である。
 だいたい、いまの横浜市・川崎市にふくまれ、これに町田市域の南の一部が加わる。境川・多摩川・鶴見川とその支流早淵川・恩田川・帷子川・大岡川の流域の村々に固定され、多摩川より北には杉山神社を祀る村がまったくない。
 さて、金森村の2社の杉山社のうち、字西田の杉山社は鎌倉古道にさっていて古社の面影があり、境内に大銀杏がある。金森の杉山社には天和3年(1683)12月の再興の棟札がある。それによると領主高木伊勢守が関係している。
 この両者の祭日は同日で、御神木の木の立像と神鏡は一年交代に安置されて祭りを執行する。神体のある社が本祭で、不在のほうは影祭といっている。
                   (以上 『町田町史』上巻より抜粋)


【(44)成瀬杉山神社】町田市成瀬4-13-16
 旧南多摩郡に分布する杉山神社6社の最後に廻ったのは旧成瀬村の杉山社です。御神木のスギは平成4年に植樹された新しい樹ですので、これからの育成が楽しみです。

  神社由緒
杉山神社
 杉山神社のある地域は武蔵国軟腐、鶴見川流域の一部に限られていて、全国的なもので無く地方民によって崇敬奉祈されたものらしい。昭和五十三年調査(戸倉英太郎書「杉山神社考」)によると鶴見川流域に四十九社存在する。
 成瀬杉山神社の創建は不詳であるが、棟札によると寛文八年(一六六八)十一月代官福井清兵衛と地頭井戸忠兵衛勝吉により社殿が創建され、その後何度かにわたって修造。再建があり、恩田川沿いの水田地帯の中央に位置し、数多くの樹木に囲まれてあって、「田中の明神」として長い間村人に親しまれて崇敬されてきた。
 現在の社殿は昭和五十七年四月二十三日竣工、同年九月二十三日御遷宮祭が執り行われ、平成四年杉山神社の本社とされる、和歌山県に在る伊太祁曾神社から杉苗を譲り受け、ご神木として階段横に植樹された。ご祭神を五十猛命としているが、日本武尊の説もある。
御祭神
 天照大神(アマテラスオオミカミ)
  慈愛の神
 五十猛命(イソタケルノミコト)
  木の神・五穀豊穣の神・商売繁盛
 熊野大神(クマノオオカミ)
  水の神・五穀の神・商売繁盛
祭典
 例大祭 九月吉日
 元旦祭 一月一日  節分祭 節分の日
末社 八坂神社
 創建は安永三年(一七七四)六月十五日で。弘化三年(一八四六)に原の牛頭天王及び、文久元年(一八六一)に谷戸上合の牛頭天王が合祀されたもので、吹上の横浜市境に在ったが、杉山神社の末社として合祀された。
御祭神
 素戔嗚尊(スサノウノミコト)
  疫病除け・厄除けの神
祭典 天王祭 七月吉日

市橋注:戸倉(1956)の文献は1978年に復刻され、その際地図が附された。この地図で49番とされた杉山神社は、葉山町上山口の杉山神社であり、武蔵国に分布する杉山神社とは別系統である。従って、昭和53年に49社とするのは引用間違いである。


   新築造営記念碑
 成瀬は古くから平和で豊かな純農村であったが、昭和四十年代の高度経済成長にしもなって。急激に都市化の波が押し寄せてきた。大きな変革の時を迎え、大規模で計画的な街づくりの必要から、住民の協力による区画整理事業が実施され、近代的都市として生まれ変わった。成瀬一三四一番地にあって、長い間「田中の明神」として親しまれてきた杉山神社も都市計画道路と都営住宅建設のために移転を余儀なくされた。ここに氏子一同相計り、成瀬四五〇七番地に氏子崇敬者の浄財と基本財産の充当による、鉄筋コンクリート神明造の社殿新築を決議した。総工費は約三億七十万円、株式会社大林組の設計施工により昭和五十六年五月着工、翌年四月竣工、同年九月十一日恙なく遷宮式を執り行った。これを記念してこの碑を建立した。
 昭和五十八年九月吉日
               杉山神社
               建築造営員会


  詩碑
 わかば
あざやかな みどりよ
あかるい みどりよ
とりいを つつみ
おやねを かくし
かおる かおる
  わかばが かおる
さわやかな みどりよ
ゆたかな みどりよ
たはたを うずめ
のやまを おおい
かおる かおる
  わかばがそよぐ
   文部省唱歌 作詞松永みやお 作曲平岡均之


【(12)上恩田杉山神社】横浜市青葉区あかね台1-1-6
 恩田の杉山社。御祭神等に関する由緒書きはない一方で、社殿建設寄贈者に関する立派な碑があり、その裏側に箱物建設の経緯が示されていました。御神木に相当する樹木はクスノキですが、境内に古木は見当たりません。

  新築造営記念碑
 この社は、上恩田の鎮守であり幕末のころ落雷のため焼失しましたが、嘉永年間(一八五〇ころ)に再建されました。この再建には、江戸から大工をつれてきて三年がかりで建築されたと伝えられています。
 近郷に見ないほどの彫刻の多い建て物であり、ことに内宮はそののち昭和二十八年(一九五三年)の火災の際、運びだされ今でも当時の立派な様子を見ることが出来ます。
 右のように由緒深い神社でありますが、時の流れと老朽化に加えて、この地の地権者による上恩田土地区画整理組合事業が昭和五十八年(一九八三年)より施行され杉山神社も移転することになりました。ここに氏子一同、一意結束して社殿新築と境内地整備を決議し、平成元年五月着工、翌年七月竣工、そして同年九月十四日(一九七〇年)遷座祭、翌十五日奉祝祭を斎行、ここにめでたく上恩田土地区画整備事業により整備された「あかね台」の一角に偉容を誇る御神殿と境内の整備が竣工するに至り、これを記念してこの碑を建立しました。
 平成二年九月吉日       杉山神社建設委員会


【住吉神社】横浜市青葉区奈良町833
 文献調査が出来ていないのですが、旧奈良村の杉山神社はこに合祀されているようです。

 住吉神社は吾等が郷土奈良の永代に亘る鎮守であって御神体は銅鏡である。
 安永九年時の地頭石元氏の寄進によって新社殿が建立されたが。その後氏子の土志田義辰氏に依って改築された。用材はすべて﨔を用い四周にわたり多くの彫刻が施され近隣にその荘厳さを誇った。しかるに昭和四十七年九月一不逞の輩の放火によって社殿悉く烏有に帰した。氏子一同悲嘆にくれた。たまたま昭和四十八年新年祭に際し氏子三沢重元氏等を中心とし社殿再建の議があり一同の合意するところとなり再建委員会の結成されるに至った。予算五阡萬円余、すべて氏子崇敬者の浄財寄進に依ることとし、鉄筋コンクリー造に銅葺にして建坪四一二五平方米往時の姿をそのまゝ再建し、それに近代仕様を加味し、設計は株式会社農協建設設計センター担当、施工は株式会社松井建設によって請負はれ更に附帯工事等も総て完成し、氏子一同の念願も見事に達成して、昭和五十年秋を期して御遷座の儀が執り行なわれる運びとなった。茲に氏子崇敬者一同の㐂びを深く刻して記念とするものである。
    昭和五十年九月二十三日
                   住吉神社再建委員会


【(07)(上谷本)杉山神社】横浜市青葉区みたけ台26-1
 子ノ神社との合併を阻止することが出来たと伝えられる上谷本の杉山神社です。

      杉山神社ご案内
祭神  五十猛命(いそたけるのみこと)    誉田別命(ほんだわけのみこと)
例祭日 九月十九日
祈願内容 初宮詣 七五三厄 除交通安全 家内安全
     地鎮祭 交通安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
      電話〇四四-九八八-〇〇四五


本日訪ねたその他の神社などです。
【八坂神社/金刀比羅神社】横浜市緑区長津田町


【秋葉神社】町田市南町田1丁目5
 原公民館の隣の秋葉大権現です。小祠ですが、道祖神碑もありました。


【町谷八坂神社】


【鶴間熊野神社】


 熊野神社
祭神 伊邪那岐尊
   伊邪那美尊
由緒
 当熊野神社は和歌山県熊野にある本宮(熊野坐神社)、新宮(熊野速玉神社)及び那智(熊野那智神社)の熊野三山神社を勧請したものである。
 家都御子神(別名素戔嗚尊)を祭神とする本宮大社と熊野速玉神を主祭神とし熊野夫須美神家都御子神を祭る熊野速玉大社、及び熊野夫須美神を主祭神とし、家都御子神、熊野速玉神を祭る熊野那智大社は、平安時代末期にはこの三所を合せて。熊野(三所)権現と称するようになった。
 この熊野三山信仰は九〇七年(延喜七年)には宇多法皇の御幸があったように神霊の霊力により無病息災家内安全が祈願され全国的に一世を風びするに至った。従って当社の創立はつまびらかでないが、数百年前に勧請され社殿の内陣に不須美神の御神像が安置され奉斎されている事に依り知ることが出来る。
 当社の本殿墨書など現存する記録によれば、大飢饉大火疫病等の天変災害に御祭礼を行ない安全祈祷の数々が記されているが、当社の歴史を銘するものとして次のように残されている。
享保十一年四月吉日   本殿造立する
明和九年九月廿一日   社殿再建する
安永六年八月吉日    社殿再建する
嘉永三年三月十五日   社殿再建する
安政五年十一月廿一日  社殿再建する
明治六年十二月吉日   村社に列せら
昭和十年十一月十九日  社殿再建する
昭和二十五年六月廿一日 国有境内地譲与せらる
昭和四十六年四月三日  コンクリート権現造御社殿新築する


【公所浅間神社】大和市鶴間391
 鶴間の総鎮守、浅間神社です。相殿に子之神社と住吉神社、境内社に弁財天社が祭られていました。


  公所浅間神社(くぞせんげんじんじゃ)
当神社は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を主祭神とし、大己貴命(おおあなむちのみこと)表筒男命(うわつつおのみこと)を併せて奉斎されている。創立年代は(つまびらか)でないが源頼朝が創建したと伝えられる文亀神明録に鶴間神社と登載され相模国八十一社の巡拝所の一つとしてまた鶴間郷(大和市下鶴間、相模原市鶴間、町田市鶴間)の総鎮守として古くから崇敬されて来た。
 主祭神木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の皇妃で木花は桜にして開耶は咲映の意を含んでいる。性質素直にして容姿艶麗(えんれい)国色およぶものがない故にたたえまつった御名で国土の象徴富士に似て気高く其の貞節は日本女性の亀鑑として国民の敬仰するところで、あまねき御神徳のうち火難消除・安産・生業の守護神として尊崇されている。
 併祭神大己貴命(おおあなむちのみこと)は大国主神の別名にて御神徳が広く大きいので幾つもの神名をもっとおられる縁結びの神として親しまれているが単に男女の仲を結ぶだけでなくお互いのよりよき繁栄発展のためのつながりを結んで下さる神、幸福・開運・商売繁盛・防災除けの神として深く信仰され、子之神社として祀られ古来より村の鎮守であった。
 併祭神表筒男命(うわつつおのみこと)は天照大神ご出産のために大事な役割をなされた祓の神で人生の新生と更生・生命の守り神・水の神・海の神・豊漁祈願の神さらには歌の神として厚く信仰され住吉神社として祀られ古来より村の鎮守であった。
 昭和十九年浅間神社が指定村社に昇格の際両社を合祀した。
 昭和二十八年神道指令により宗教法人浅間神社となる。
 昭和四十八年国道十六号線大和バイパス新設のため境内地の大幅な削減により諸般の情勢をかんがみ神社百年の大計を確立のため移転造営を発願する。
 昭和五十九年九月十四日つきみ八丁目十四番(元下鶴間一四三七番)より現在地に遷宮となる。
  鎮座地 大和市鶴間三九一番地
  御社殿 神明造 床面積二七.二坪
  境内地 面積一三二六坪
  祭典
 例大祭  九月第二日曜日
 元旦祭  一月一日
 成人祭  一月第二日曜日
 節分祭  節分の日
 鎮風祭  九月一日
 七五三祭 十一月吉日
 月次祭  毎月第二日曜日


【天満宮】


  天満宮の由来
 祭神は菅原道真公(すがわらみちざねこう)(菅公(かんこう))で平安時代初期に学問の名家に生まれ、文章、詩歌に優れた才能を示し、政治家としては右大臣(うだいじん)にまでなりました。
 大変に教養があり、立身出世(りっしんしゅっせ)をした人で学問、文化の神様として仰がれています。(受験生が学業成就(がくぎょうじょうじゅ)を祈願し目的達成を祈ります。)
 縁日は毎月二十五日とされていますが、菅公の誕生と他界の日がその日にあたるためです。
 神紋(しんもん)は梅で菅公が好み愛された花です。境内にはよく牛の像がありますが菅公が丑年(うしどし)生まれで牛を大切にしたと伝えられています。
 亦筆塚(ふでづか)に使い古した筆を納める風習のあることは菅公が書道の神としてあがめられているためです。このように伝統のある天満宮は昭和六十二年三月金森・西田の氏子と金森三丁目崇敬者の協力のもとに修復造営が行われ斎主の願意を遠く後世まで伝承するものであります。
               拝詞
  昭和六十二年三月大吉
       学業成就祈願成就 天満宮総代


こち吹かば
  匂ひおこせよ
      梅の花
 あるじなしとて
    春をわするな
      菅原道真


【高ヶ坂子育地蔵尊】
高ヶ坂(こがさか)子育地蔵尊
 高ヶ坂の地蔵尊ですが、3体の双体道祖神、十三夜塔など石塔が沢山集められています。


【成瀬弁天社】
 成瀬弁天橋公園内にある小祠です。


【子ノ神社】横浜市青葉区たちばな台2-22-1
 上谷本の杉山神社が合祀される可能性があったといわれる子ノ神社です。

   子ノ神社について
 祭神は大国主命、木花開耶姫の二神である。ご神体は鏡であったが、明治中期盗難にあい、その後は木製の鏡型となった。神社の創設の由緒、時代は共に不詳である。新編武蔵風土記稿には、子ノ神社[見捨地二段計]村の鎮守なり。浅間神社より谷を隔てゝ西にあり。社は一丈に一丈五尺、東に向ふ。社前に鳥居を立つ。之も村民の持なり。と記されるのみである。境内地は明治六年地租改正の折、官有地㐧一種として召し上げられた。
 明治三十九年八月勅令㐧二二〇号による一村一社を基準とする方針の強制に屈し明治四十一年三月四日、無格社浅間神社を当社に合祀した。尚境内に神武天皇の小祠と他に一祠があったがいつか潰滅してしまった。
 神社合併の方針は更に強化され、翌四十二年ごろ、当社を上谷本(現みたけ台)の杉山神社に合併する案も出たが、氏子の猛反対にあい、取り止めとなった然しこの時に神楽殿まで持ち去られることを恐れて、これを他の場所に移設改造し部落の集会所とし、昭和四十五年区画整理のため取潰すまで使用した。
 昭和三十三年三月、先に官有地として召上げられた境内地は氏子総代三名の連署を以て無償譲与申請し認可された。
 境内に安置される、庚申堂。地神塔、辨財天などは部落内に散財していたものを区画整理の結果移設したのである。参道の階段は昭和四十九年区画整理事業完了記念として篤志家より寄進されたものである。
 神殿の改築は昭和五十年部落民の共有地たちばな台一丁目十一番地七外二筆り土地を賈却した代金を以て改築した。
 總工費 壱千四百六十九万七千円
 起工  昭和五十一年四月十五日
 竣工  昭和五十二年四月十七日
 施工者 川崎市多广区襌寺 斎藤義治
昭和五十二年四月吉日 健之
   宮司 志村文雄 謹書


【八雲神社】横浜市青葉区市ケ尾町1725


  諏訪神社建設記念碑
   神社由緒沿革
 祭神  建御名方命
     言代主命
 例祭日 十月十日
 創建は棟札によると宝暦六年十月(一七五六年)当時の領主筧内膳及び忽氏子により大場村鎮地涌産土神諏訪大明神として建立された、とあり。新編武蔵風土記稿にも記されている。
 又、他の棟札によると安政六年三月(一八五九年)、領主筧三郎左ヱ門及び惣氏子らより覆殿、拝殿を建築したとの記録があり、明治元年(一九六七年)諏訪大明神より諏訪神社と改称する。その後、昭和三六年六月社殿拡充、境内地の整備更に昭和四十九年四月社殿修理、石段の改修を行った。
 当神社は丘陵地にあったが平成の時代になり大場町一帯の都市化が進み、神社を含む地域を大場第三土地区画整備組合と称し土地区画整理事業を施行、これを機に惣氏子相計り境内地の整備、社殿社務所の建築、諸設備の拡充を成せるもの也。
  平成五年三月吉日         宮司 志村幸男


【大場諏訪神社】横浜市青葉区大場町921


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 長津田(ながつた)
 イチョウ Ginkgo biloba
 つくし野駅前
 サザンカ Camellia sasanqua
 サンショウ Zanthoxylum piperitum
 カラスウリ Trichosanthes cucumeroides
 コブシ Magnolia Kobus
 ロウヤガキ Diospyros rhombifolia
 イソギク Chrysanthemum pacificum
 キク Chrysanthemum × morifolium
 ツマグロヒョウモン Argynnis hyperbius
 恩田川
 ヤマナラシ Populus tremula
 タブノキ Machilus thunbergii
 スギ Cryptomeria japonica
 クスノキ Cinnamomum camphora
 ケヤキ Zelkova serrata
 ツタ Parthenocissus tricuspidata
 ローズヒップ (Rosa spp.)
 トウカエデ Acer buergerianum
 皇帝ダリア Dahlia imperialis
 トキワサンザシ Pyracantha coccinea


【主な経路】
横浜線長津田駅-つくし野駅-(43)(小川)杉山神社-秋葉神社-町谷八坂神社-鶴間熊野神社-公所浅間神社-定方寺公園-(45)西田杉山神社-天満宮-(46)金森杉山神社-高ヶ坂子育地蔵尊-成瀬弁天社-(44)成瀬杉山神社-(12)上恩田杉山神社-住吉神社-子ノ神社-(07)(上谷本)杉山神社-八雲神社-大場諏訪神社-ブルーラインあざみ野駅

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

秋色を訪ねて-20171119

 今日は、朝から年賀状用のデータ整理。昼をだいぶ過ぎてからやっとひと段落ついたので、辺りで晩秋の彩を探してみました。
【主な経路】
追浜中学-夕照橋-海の公園-ニッパツ-小柴崎緑道-柴シーサイドファーム-片吹-谷津の庚申塔群-アピタ金沢文庫店-イオン金沢八景店-内川橋-追浜


【参考】
アカザ Chenopodium album var. centrorubrum
センダン Melia azedarach
シャリンバイ(実) Rhaphiolepis indica
カクレミノ Dendropanax trifidus
アオキ Aucuba japonica
メリケンカルカヤ Andropogon virginicus
ニシキギ Euonymus alatus
イロハモミジ Acer palmatum
ケヤキ Zelkova serrata
ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris
ユズリハ Daphniphyllum macropodum
オオシマザクラ Cerasus speciosa
コナラ Quercus serrata
ドウダンツツジ Enkianthus perulatus
ウコン(サトザクラ) Cerasus Sato-zakura group‘Grandiflora
ナンキンハゼ Triadica sebifera
サルスベリ Lagerstroemia indica
シャリンバイ(花) Rhaphiolepis indica
クロガネモチ Ilex rotunda
モクシュンギク(黄花) Argyranthemum frutescens
サザンカ Camellia sasanqua
トベラ Pittosporum tobira
ナワシログミ Elaeagnus pungens
ネズミモチ Ligustrum japonicum
トキワサンザシ Pyracantha coccinea
ススキ Miscanthus sinensis
クルメツツジ Rhododendron x obtusum
ネリネ Nerine spp.
シナミザクラ Cerasus psedoseraus
クスノキ Cinnamomum camphora
ヤマグワ Morus australis
ハナツクバネウツギ Abelia x grandiflora
ベニバナボロギク Crassocephalum crepidioides
ツワブキ Farfugium japonicum
フキ Petasites japonicus
センダングサ Bidens spp.
TPHO
庚申塔
横浜・八景島シーパラダイス

紅葉の長瀞で

 やっと取れた振替休日、お天気もよかったので、紅葉が見頃との報道のあった長瀞を訪ねました。


長瀞駅のホームには、蛙神社があります。御神体は木彫りのヒキガエル(?)


長瀞駅 蛙神社 ブーメラン(無事に蛙)
ようこそ、天下の勝地 長瀞へ
「いちどとはいわずに、またきてくんな」をテーマに、ブーメラン(無事に蛙)と交通安全を願い、お客様が無事にご帰宅できますよう命名いたしました。
お社は、秩父市宮地天満天神社、お社は、秩父市近戸町 原氏より寄贈されたものです。
                  長瀞駅長


昼食は、岩畳通りの大黒屋で、くるみ蕎麦と切込み饂飩を戴きました。


 月の石公園では、モミジ類の赤がひときわ綺麗でした。


句碑
 ここに 我
 句を留むべき
   月の石
    高浜虚子


 埼玉県自然の博物館では、短い時間でしたが第三紀に生息した古代鮫カルカロドン メガロドン(Carcharodon megalodon)の復元標本、デスモスチルス(Desmostylus spp.)と同時代に生息したとされる束柱目哺乳類パレオパラドキシア(Paleoparadoxia tabatai)の骨格標本などを目にすることができました。


巨大ザメの復元 - 深谷市菅沼(すがぬま)産 カルカロドン メガロドン(Carcharodon megalodon) -
■アゴの復元模型
 深谷市菅沼で発見されたサメの歯化石をもとに、近縁のホホジロザメを参考に復元したものです。大きなアゴには獲物を食いちぎる三角形のするどい歯が並び、内側は、抜けると外側に向かってくりだす予備の歯があります。
■生体の復元模型
 頭上の模型は、体長12mの巨大なサメで。この大きさは、化石の前歯から求めました。また、軟骨魚であるサメには、硬い骨やウロコはなく、エラの穴が五対あります。


日本地質学発祥の地碑


   由来の記
 荒川が刻んだ景勝の地長瀞は、広い岩畳や色とりどりの変成岩がみられ、早くも大正十三年には国の名勝・天然記念物に指定された。
 ここに分布する変成岩は、三波川結晶片岩と呼ばれ、西日本地域にかけて帯状に分布しており、日本列島の根幹をなすものである。
 明治十年東京大学に地質学科が創設され近代地質学が初めて日本に導入されると、翌年には、初代教授ナウマン博士が長瀞を調査している。以来、長瀞一帯は、我が国地質学上の重要な研究拠点となり、多くの地質学者を育てて、日本地質学発祥の地と言われるようになった。
 彩の国元年である本年は、日本地質学会が発足して百周年を、さらに、長瀞町が町村合併五十周年を迎えた。折しも、由緒あるこの長瀞の地に、天皇・皇后両陛下が行幸啓された。
 これらを記念して「日本地質学発祥の地」の碑をここに建立する。
 平成五年十二月
          埼玉県
          長瀞町


ジオパーク秩父
“日本地質学発祥の地”といわれる秩父地域が平成23年9月、日本ジオパークに認定されました。ジオパークは”地球と人間のかかわり”をテーマとする自然公園です。地形・地質とそれを基盤とする動植物などの自然遺産や、それらに関わる文化遺産の保全・活用をおこないます。また、地域の振興に役立つ活動としても期待されています。
                        埼玉県自然の博物館


記念碑の岩石について
 これは、「赤鉄石英片岩」と呼ばれ、この地域一帯の変成岩中に薄く広く分布する。
 白い石英を主体とし、縦の縞模様に沿って暗紫色の赤鉄鉱をはさみ、その他微量の黒い石墨・緑色の緑泥石・光沢のある絹雲母などを含む。
 碑は、岩石の自然の割れ目をうまく利用しており、前後は『節理』と呼ばれる平らな割れ目、左右は『片理』という薄く割れる面からなっている。
 右側面には、かつて荒川の河床で形成された小さなポットポール群が観察できる。
                        埼玉県自然の博物館


宮沢賢治句碑


 つくづくと
「粋なもやうの
 博多帯」
荒川ぎし

 片岩の色
  宮沢賢治
「雨ニモマケズ風ニモマケズ…」で有名な宮沢賢治は明治二十九年八月二十七日岩手県花巻町(現花巻市)に生まれる。盛岡高等農林学校二年、二十歳の時、地質調査研究のため、先生、学友と共に秩父地方を訪れ大正五年(一九二六)九月三日虎石を見学、その美しさを歌の詠む。
 碑の歌は、はがきに九首の歌を書き無二の親友保坂嘉内に宛てて小鹿野より送った中野一首である。
 その後賢治は農学校教師に農民指導等に情熱を傾け、童話や詩など多くの作品を遺した。
 長瀞町と賢治の貴重な出会いの証を賢治の故郷の岩手山に似た石に刻み永く後世に伝え、町の教育文化の向上と観光発展に資するため、町内外有志の浄財を町の協力によりこの歌碑を建立する。
  平成十五年九月
   宮沢賢治歌碑建立委員会
       書 千島榮一
       刻 (有)小林石材店



蟲慰霊之碑

【主な経路】
 長瀞駅-大黒屋-岩畳-月の石もみじ公園-埼玉県立自然の博物館-上長瀞駅

杉山神社を巡る-Part5 登戸からあざみ野へ

 今日は、川崎周辺の杉山神社に縁のあるお社を中心に廻ってみました。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 五反田神社:川崎市多摩区三田1-2-10
 (金程)杉山社:(42)川崎市多摩区西生田3-3-2
 細山神明社:川崎市麻生区細山2-6
 (平尾)杉山社:(48)稲城市平尾1189
 椙山神社:(47)町田市三輪町1618
 鐵神社:(8)横浜市青葉区鉄町1553


【五反田神社】川崎市多摩区三田1-2-10
 大作杉山神社の合祀先である五反田神社です。杉山神社考(1956)には、五反田の社として記載されています。

   氏子募集のお願い
拝啓
 皆様方におかれましては、時下ますますご健勝にこととお慶び申し上げます。日頃より地元の氏神である五反田神社に対して崇敬の念を賜り、誠にありがとうございます。
 口伝によりますと、当神社は鎌倉時代の創建とされ、旧時は山王社と称し、明治になり八雲神社と改称されました。
主神 素戔嗚尊(八雲神社御祭神)
従神 日本武尊(大作杉山神社より遷宮)
 昭和三十四年十月。大作杉山神社より日本武尊を遷宮し、主神である素戔嗚尊と合祀して、ここに目出度く宗教法人五反田神社の創立となりました。
 先人たちの努力により、現在、四五〇余名の氏子(鎮守の神に守られる地本の人)を有しておりますが、地本地域のさらなる発展を願って氏子の増員を計りたく、左記のとおりご案内申し上げます。
 今後共、先人達の思いを忘れることなく、後々の世に受け渡して行く所存でございますので、何卒皆様のご理解を賜りますようお願い申し上げます。
                          敬具
  氏子募集要領
■年会費   一、〇〇〇円
 ご希望の方
  のぼり旗 三、七〇〇円(氏名を記入し、行事の時に立てます)
■申込み方法 神社の行事の時に神社社務所にて受付けます
    五反田神社 総代    関口昌男
          総代    中山富男
          奉賛会会長 磯野 清


新編武蔵風土記稿-巻之六十橘樹郡巻之三 稲毛領五段田村杉山社-より
 村ノ西山丘ノ上ニアリ。村ノ鎮守ニテ觀音寺ノ持ナリ。勸請ノ年代ヲ傳ヘス。本地不動ノ木像ヲ神體トス。立身ニシテ二尺五寸餘。本社ハ一間四方ニテ宮作ナリ。覆屋三間四方東ニ向フ。ソレヨリ十歩ハカリヲヘタテゝ鳥居ヲタツ。ソレヨリ北ノ方一町ハカリニシテ西ニヲレテ石階七十餘級アリ。祭禮ハ年々九月二十日。當社勸請ノ年代ヲ詳ニセス。古棟札ニ慶長十八年卯月一日領主本田佐渡守再造ノヨシヲシルシタレハソレヨリサキニ勸請セシコトシルヘシ。其後慶安二年ノ棟札ニハ領主市岡太左衛門本田四郎兵衛トアリ。又寛文九年ノ棟札ニ市岡五左衛門本田善之助トアリ。天和四年ノニハ市岡五左衛門一人ヲシルセリ。


【(金程)杉山社】(42)川崎市多摩区西生田3-3-2
 武蔵国金程村の杉山社です。由緒書きには多少疑問があるようですので、要確認です。

     杉山神社 由緒
沿革 鶴見川沿いとその周辺のみに多く分布する杉山神社は遠く天太玉命(アメノフトダマノミコト)を祖とする古代の名族忌部(インベ)氏の阿波の一族が房総に移住して安房神社を祀り。さらに白鳳三年(六七四年)都筑の丘に創始した杉山神社が祖とされる。其の後都筑郡唯一の式内社とされ、その霊験をもって当時の主に都筑郡と橘樹郡に多数勧請された。
 当杉山社はそのうちの一社とされ、創建の時期は不明であるが、江戸時代に編纂された新編武蔵風土記稿によれば、「当社勧請の年代を詳らかにせず。古棟札に慶長十八年(一六一三年)卯月一日領主本田佐渡守再造のよしをしるしたれば、これより先に勧請せしことしるべし」とあるので、江戸時代より以前に勧請されたことがわかる。
 郷土の伝承では、八幡太郎義家(一〇三九~一一〇六)が奥州征伐のため、この土地を通過する際、神託より当社を建てたという。その後、鎌倉時代枡形山城主稲毛三郎重成(?~一二〇五)が篤く崇敬したとのことである。
鎮座地 川崎市多摩区西生田三丁目三番二号
御祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
例祭日 元旦祭 一月一日・祈年祭 一月二十日
    例大祭 九月二十日前後の祝祭日
社殿  久本殿は昭和四十二年二月九日早暁失火により灰燼に帰したが、同四十三年に再建された。(建物面積五十二平方メートル)
境内  四三〇〇平方メートル
境内社 鹿島社 宝暦十二年
奉斎地区 多摩区西生田及び南生田の一部
                 宗教法人 杉山社


新編武蔵風土記稿-巻之五十九橘樹郡巻之二 稲毛領金程村杉山社-より
 東ノ方ニヨリテアリ。村ノ鎮守ナリ。棟札ニ寛政六年造立ノヨシヲ記ス。コレ鎮座の年ナルニヤ。本社ハ丘ノ上ニアリ。三尺四方ノ宮造ニシテ覆屋アリ。二間ニ二間半。本地不動ハ木造ニシテ長一尺ハカリノ立像ナリ。相殿トス社前ニ木ノ鳥居ヲタツ。例祭ハ年々九月二十一日。平村ノ神職小泉信濃司レリ。平常ニハ村持ナリ。


【細山神明社】川崎市麻生区細山2-6

  細山神明社
鎮座 川崎市麻生区細山二丁目六番一号
祭神 主神 天照大神
   相殿 倉稲魂命
      児屋根命
      五十猛命
      猿田彦命
合併神社 稲荷社(北谷)  杉山社(南田)
     秋葉社(大久保) 春日社(向原)
     杉山社(金程)
例祭日 元旦祭 一月一日、  お庭草 七月十五日
    風祭  九月一日、  夜宮 九月二十三日
    例大祭 九月二十四日、七五三 十一月十五日
  細山神明社の縁起(逆大門の由来)
 わが郷土の鎮守様、神明社のひらかれたのは、言伝によれば源頼朝が鎌倉幕府(一、一九二年)をひらいたころといわれている。
 はじめ、社を東の方に向けて建てたところが、一夜にして社殿が西向になって居り村人が驚いて東向に直すと、又、一夜にして西向になっている。こんな事が三度もあって村人が不思議に思っていたある夜、名主の夢枕に神様がおたちになり『この神明社は細山村の東の端にある。東を向いて社を建ててしまっては大事なわが細山村に背を向けてしまいお前たちを守ることが出来ない。これを西向にして村全体がみえるようにすればいつも氏子を守っていられる。又、西の方はるか伊勢の皇大神宮の方を向いている事ができる。このため大門が逆になるのは一向にかまわぬ。』とお告があった。名主は夢からさめると、早速、村人を集め。お告のように西向のまま神明社を鎮守として祭ったという。一般の神社は坂を登って社殿を拝するのが常であるが当社は坂を降って参拝するので、人呼んで逆大門というのである。
 かつて、境内には参拝すると乳が出るという瘤のついた大榊があった。又拝殿には多数の絵馬があり、とくに眼病平癒の向いめ絵馬、下の病や腫物のため願をかけた蛤の絵馬などが霊験のありがたさを物語っている。


新編武蔵風土記稿-巻之五十九橘樹郡巻之二 稲毛領細山村杉山社-より
字坂東ノ内丘ノ上ニアリ。コレモ村ノ鎮守ナリ。相傳フ堀河院ノ御宇永長元年ノ勧請ナリト。本社は宮作ナリ。覆屋四間ニ三間半。東向ナリ。本地不動ハ木ノ立像ニテ長一尺五寸社中ニ安ス。コレモ村持。


【(平尾)杉山社】(48)稲城市平尾1189

杉山神社の歴史
 当神社は、鶴見川水系に多く存在する「杉山神社」のうちの一社で、創建の詳細年代は不詳ですが、延徳年間(1489~92年)に社殿を再建したとされ、「武州児玉郡金屋村住人中村五郎衛門家吉敬白 延徳二年(1490年)五月五日」の銘がある神鏡が、保存されています。
 現在の御神体は、日本武尊(やまとたけるのみこと)弟橘姫(おとたちばなひめ)の木像が安置されており、本殿の建築は棟札の記述により延宝四年(1676年)造営と考えられ、江戸時代前期の貴重な建築物です。
 安政二年(1855年)社殿を造営し、大正八年(1919年)に各宇に鎮座せる八坂神社、日吉神社(山王神社とも言う)の二社を合祀し、昭和五十八年(1983年)に御社殿修復、大鳥居の建立・手水舎新築等を行い現在に至っています。


【椙山神社】(47)町田市三輪町1618

   椙山神社
神社名 椙山(すぎやま)神社
鎮座地 町田市三輪町十九号一六一八番地(旧武州三輪村)
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 大物主命(おおものぬしのみこと) 意富斗能地神(おおとのじのかみ)
 当社は「古事記」「日本書紀」にも記されている有名な大和の國の三輪の里(現奈良県桜井市三輪町)に鎮座する大神(三輪)神社の御神体である秀麗な三輪山にこの附近の山容がよく似ているところから、元慶元年(八七七年)当地に勧請されたとの傳承がある。
 御神体は不動明王が鋳出されている御鏡であって裏面に下三輪総鎮守、寛文四年(一六六四)大吉と刻まれている。
 特に社号の「椙山」はめずらしく、武相地区に七十二の「杉山社」があるが、当社の椙(國字)は唯一のものである。
 総氏子中により奉納された文政二年九月吉祥日(一八一九)の銘がある。鰐口と、嘉永四年(一八五一)建立の江戸時代で遺存しているものとしては、近隣にあまり例のない石造大鳥居の奉額に「椙山大明神」と記されている等、まことに古い貴重な歴史を物語っている。
 昭和二十四年頃までには広い境内に樹令五、六百年を経た杉や桧の巨木がうっ蒼として椙山の社・鎮守の森そのもののたたずまいであった。
 昭和四十七年荘厳華麗で精緻を極めた神殿の覆屋を改装して幣殿と拝殿を改築、参道を改修し、境内を整備した。
 明治末年下三輪大戸にあった大戸大明神が合祀された。
祭事
  八月二十八日 風水害、天災等の厄除祈願
  九月二十八日 例大祭
氏子数 百二十戸(旧末は約六十戸) その他崇敬者が多い
             昭和五十六年十一月吉日 氏子中


【鐵神社】(8)横浜市青葉区鉄町1553
杉山明神、青木神社、天満宮を合祀した鐵村の総鎮守鐵神社です。例によって、辿りつく頃には日がとっぷりと暮れていましたので、またいつか訪ねたいと思います。

   鐵神社の由緒
ご祭神ご神徳
伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
 国家安泰 延命長寿 五穀豊穣 家内安全 土木建築 商売繁盛 厄除 病気平癒 受験 結婚 子授け
五十猛命(いそたけるのみこと)
 植林 木材 木具 住宅の木材製品の守護神
菅原大神(すがわらのおおかみ)(道真)
 文学 和歌 学問 書道 塾 免罪消除
例祭日 十月吉日
人事芸能 上籤獅子舞
社殿 本殿(三坪) 幣殿(六坪) 拝殿(十八坪) 社務所(二十八坪)
由緒・沿革
新編武蔵風土記稿に拠ると天文年間(一五三五~一五五五)勧請し創建されたと伝えられる。
以前は青木明神、杉山明神と称していたが、明治初年に上・中・下鐵村の三ヶ村が合併して鐵村となり神社名も「鐵神社」に改称した。
旧本殿が二殿あったが、昭和四年(一九二九)改築した時本殿を一つにまとめた。
この年、神饌幣帛供進社に指定され、以来鐵上中下の総鎮守として篤く崇敬されている。
昭和三十八年(一九六三)神社境内地東北農地に私立桐蔭学園建設に伴い参道を拡張する。現在の社殿は昭和四十二年(一九六七)改築建立されたものである。その後昭和四十五年(一九七〇)四月に学業の神天満宮を本殿に合祀した。
なお、鳥居は昭和四十九年(一九七四)に建立されたものである。
            金子菊次郎
            村田八右衛門
            坂田愛治
            志村文雄
    平成十九年七月吉日
            鐵神社総代


●その地の神社、等

【北野天神社】川崎市多摩区枡形6丁目16

【根岸稲荷神社】川崎市多摩区枡形4丁目12

【須賀神社】川崎市多摩区栗谷3丁目18

【細山の石塔群】川崎市麻生区千代ケ丘5丁目1


二親供養
為二親菩提
奉巡礼一百番供養
三界万霊等
  享保九年(一、七二四)甲辰天
          三月吉祥日
 右はこの近くの山田家の二親供養塔である。一百番とは西国三十三、坂東三十三、秩父三十四観音札所のことという。
道祖神(どうそじん)
 向って左に「道祖神」と刻まれた石がある。この石は、この辻に建てられた道祖神-賽神(さいのかみ)(セエノカミ)の中におかれた石で以前は、この石を火中に投じたが傷んで新調されたという。
 正月早々、子供たちが中心になり作る。
さいのかみ(この辺りではセエノカミ)は、ドンド・サイトウ・佐義長(さぎちょう)などとよばれ、一月十四日の朝、もやされる。さいかみ(賽神)は村の入口に建ち、村を(ふさ)ぎ病気や災厄除けをしてくれるという。
 細山郷土資料館の村模型には十箇所近いさいのかみの分布が示されている。
                 細山郷土資料館

【平尾入定塚と十三塚】稲城市平尾2丁目84


入定塚 Nyujozuka Tumulus
 直径20mの円墳状の塚で、昭和34年に発掘調査が行われている。塚の中心部には、2m四方の遺構があり、四隅に径25cm程の丸石が置かれていた。発見された板碑から「天文5年(1536年)丙申八月十五日長信法印入定上人」という刻印が確認され、室町時代の末期に、長信という僧侶が鎌倉から平尾に来て、生きながら塚の中に入って、経文をとなえながら入定したということが明らかになった。出土した遺物は、9基の板碑と開元通宝などの45枚の古銭、鉄釘などである。


十三塚 Jusanzuka Tumulus
 十三塚は全国から発見されているが、東京都では、この塚が唯一のものである。平尾遺跡の調査時に、塚の一部を発掘したが、遺物は発見されず、何の目的で、いつ頃築かれたかが明らかでないが、一般には中世における民間信仰の遺跡と考えられている。馬場保雄氏が所有する貞享3年(1686年)の「裁許絵図」という古文書によると、当時この付近は馬の飼料をとる秣場という共有地であったが、平尾村と片平、古沢町(現川崎市)との間で、村の境界についての争いがおこり、互いに譲ろうとしないために、幕府の裁定が下ったのである。それは入場塚の十三塚の上を境界とするもので、境界を定めるために十三塚が利用されたのである。


【(三輪)熊野神社】町田市三輪町1925
 三輪の熊野神社、扁額には「熊?神社」とあります。神木のアカガシは、巨樹・巨木データベースによれば、主幹の周囲が530cmで、東京都では一番太いアカガシです。


  熊野神社
鎮座地 町田市三輪町一九二五番地
御祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)
由緒 元慶元年(八七七)大和の国城上郡三輪の里(現奈良県桜井市三輪)よりの勧請との伝承がある。明和四年(一七六七)十一月別当高蔵寺法印亮怡により社殿造営され鎮守の神として氏子の崇敬の的となり、嘉永七年(一八五〇)八月石像の三尊仏を造立して再建を図る。その後昭和四年大きく増改築が施され現社殿は昭和四十八年九月氏子の創意により造営される。昭和五十八ねん九月社殿造営十周年記念事業として社号碑並びに幟枠ポールを建立致し続いて境内地の整備を行い格式を整えるに至った。尚本殿は平成二年二月町田市の有形文化財に指定され、この建築は江戸中期のものと聞き及ぶ。御神木のアカガシは樹齢300年を経て市の銘木として指定を受くる。更に平成五年九月主殿造榮二十周年にあたり御神木アカガシの生育を願って御影石にてかこい保護対策を完備した。
社殿 神幣(明和四年銘)石三尊像(嘉永七年銘)
境内面積 二、四一〇平方米
社殿・本殿・神明造・拝殿入母屋造
祝祭事
 一、元旦祭    一月一日
 一、例大祭    九月二十一日
 一、七・五・三祝 十一月十五日
         昭和五十九年九月吉日 氏子中

【沢谷戸自然公園】町田市三輪緑山4-1-18
 熊野神社の近くの沢谷戸自然公園には石のモニュメント(風の足音、風の舞台、風のとおり道)がありました。

【西谷戸稲荷社】東京都町田市三輪町1618
 椙山神社の境内社の稲荷社です。左手すぐに、由緒不明の二座もあります。

【寺家熊野神社】横浜市青葉区鴨志田町
 寺家ふるさと村の近くで道を探していてたまたまみつけた熊野社です。


熊野神社建設記念碑
祭神 伊弉諾命(いざなぎのみこと)
   伊弉冉命(いざなみのみこと)
   大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと)
鎮座地 横浜市青葉区寺家町八百八拾番地
氏子数 五十九戸
由来記
熊野神社の創建は記録には不明であるが、武蔵風土記には九尺二間の社(熊野社)が寺家村熊野谷なあると記録されている。当地では昔から御熊野様と言われ、口伝により何時の時代からか火災によりここに移転されたと伝えられている。この度罹災した社は、慶應三年に当地大工野路文之丞により建立されたと棟札より判明する。その後大正十四年に当地大工萩原七之助により拝殿、浜縁を増築し、社殿が完成、昭和四十五年に屋根を茅葺より銅板葺きに改築する。今回の再建には旧社殿の復元をする趣旨で建設をする。
建設記
平成十三年四月十三日突然の不審火により全焼する。氏子集い同年五月に熊野神社建設委員会を結成し、同年八月に静岡県富士宮市の協和産業株式会社を施工業者とし、寄付金を氏子より協賛を得て同年十月に発注する。平成十四年二月地鎮祭、同年十月十三日に入魂式、十四日に遷宮祭を施行し、再建が完了する。
    平成十六年四月吉日
      熊野神社宮司 池田貞近

 その他、本日撮影の写真です。

【主な経路】
南武線登戸駅-北野天神社-根岸稲荷神社-五反田神社-須賀神社-(西生田)杉山社-細山神明社-(平尾)杉山社-平尾入定塚-(三輪)熊野社-沢谷戸自然公園-西谷戸稲荷社-椙山神社-寺家ふるさと村-寺家熊野神社-鐵神社-ブルーラインあざみ野駅

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

【参考】
 トキワサンザシ Pyracantha coccinea
 ケヤキ Zelkova serrata
 ヤクシソウ Youngia denticulata
 スイセン Narcissus spp.
 アカガシ Quercus acuta
 ジョウビタキ Phoenicurus auroreus
 ウィンターコスモス Bidens laevis
 あざみ野カーデンズのイルミネーション

健康ウォーキング2017

 明け方の荒天から一転して、好天に恵まれた今日は、金沢区の健康ウォーキングの日でした。
 富岡八幡公園記念碑前を起点に、所々でショッピングや昼食で足を停めながら、海の公園のゴール地点まで、3時間ほどかけて辿りつきました。最後に立ち寄った小柴漁協の秋のさかなフェスティバルでは、昨年同様シャコが沢山入った小柴汁を美味しく戴きました。
健康ウォーキング2016 健康ウォーキング2015


【主な経路】
 京急富岡駅-富岡八幡公園-シーサイド・ショッピングセンター-富岡船溜まり-長浜公園-横浜金沢ハイテクセンター-文明堂横浜工場-八景島マリンゲート-海の公園-小柴漁協-(追浜)

【参考】
 カワウ Phalacrocorax carbo
 サザンカ Camellia sasanqua
 イチョウ Ginkgo biloba
 クルマエビ Marsupenaeus japonicus
 コモンフグ Takifugu poecilonotus
 カゴカキダイ Microcanthus strigatus
 マゴチ Platycephalus indicus
 マアジ Trachurus japonicus
 イシダイ Oplegnathus fasciatus
 シャコ Oratosquilla oratoria
 クロダイ Acanthopagrus schlegelii


富岡八幡公園
  由来
 この地には奈良時代の昔から先人の營みがあった。私達富岡漁業共同組合員は波除け八幡の守護のもとに、父祖が心をあわせて拓いた幸多い海と富める土地、そして勇壮華麗な由緒ある祇園船の行事など數々の文化を連綿と受け継ぎ守り育てゝきた。
 昭和四十六年一月二十九日大英断をもって本邦随一の薫り高い海苔を育てた私達の海が金澤地先埋立事業のため新しい大地に生まれかわることに合意した。
 こゝは遠く房總の山辺を望み緑豊かな松竝木と富岡漁港があり清らかな水が湧き海に注ぐところであった。かつてこの地先の海を竝木の漁場と呼んでいた。
 今こゝにゆかりの町名として竝木、幸浦がある。さらに往年を偲ぶよすがとして、また後代子孫の彌榮を祈念してこの碑を建てる。
 昭和五十三年四月吉日
   富岡漁業協同組合健之
      元横浜市埋立事業局長 草川正書

晩秋の三渓園

 良い天気に恵まれた今日(2017.11.5)は、本牧三之谷にある三渓園を訪ねました。


ジュウガツザクラ Cerasus x subhirtella cv. Autumnalis
キリシマツツジ Rhododendron obtusum
トネアザミ Cirsium nipponicum
ツワブキ Farfugium japonicum
ムラサキシキブ Callicarpa japonica
イロハモミジ Acer palmatum
旧矢箆原家住宅(国指定重要文化財)
囲炉裏の自在鉤
旧東慶寺仏殿(重要文化財)
寒霞橋と横笛庵
臥竜梅(がりょうばい)
旧燈明寺三重塔(重要文化財)
旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)
臨春閣
聴秋閣
キンクロハジロ Aythya fuligula
ヒイラギモクセイ Osmanthus × fortunei
ノコンギク Aster microcephalus var. ovatus
カルガモ Anas zonorhyncha
コイ Cyprinus carpio
亀の子石神社(本牧三之谷37-6)
ヒイロタケ Pycnoporus coccineus
稲荷社(本牧三之谷17-23)
本牧館(横浜市中区本牧間門19-28)