天候不順の影響で開花の送れていた三浦海岸の河津桜も満開を迎えていました。
【参考】
寒咲花菜 Brassica rapa var. amplexicaulis
トウジュロ Trachycarpus fortunei ‘Wagnerianus’
天候不順の影響で開花の送れていた三浦海岸の河津桜も満開を迎えていました。
広島行の最終日は、新幹線の時間まで厳島のみやじマリンを尋ねました。行きのフェリー内でカメラが完全にダウンしたため、撮影は最初の一枚以外、全て娘に借りたiPhone SE(第2世代)でした。割と良く撮れているので、望遠撮影や接写をしない限り、これも有りと感じています。
短い滞在期間ではありましたが、大学時代の友人達とも再会出来ました。
義父の3周忌法要のため、家族で広島を訪れました。
【お好み焼き】
広島城
被爆樹木ユーカリ Eucalyptus melliodora
広島市登録被爆樹木 N07a7-01
爆心地から740m、ここで被爆しました。被爆して生き残っているユーカリはこの木だけです。
A-bombed trees
This tree survived the 6 August 1945 atomic bombing on Hiroshima, approximately 740m from the hypocenter.
ウイング広島
こども文化科学館
広島隕石
▲2003年2月4日広島市安佐南区にある㈱エバルス広島物流センターの建物内でいん石が落ちているのが発見されました。よく調べてみると、いん石は厚さ約1mmmの鉄板の屋根と、その下にある石膏ボードの天井を突き抜けて、床に落ちていました。いまのところ、落ちてくるところを見た人がいないので、いつ落ちてきたかははっきりしませんが、いろいろな情報から、おそらく2月1日か2日ごろ、ほぼ真上に近い西北西の方角から、建物に落ちてきたものと考えられています。
▲分析の結果、このいん石のもとになった天体が出来たのは、わたしたちの太陽系が誕生した時代と同じ、いまからおよそ45億年前、ということがわかりました。さらに、いまから約9,000万年前には、天体同士の衝突など何かの原因で、ほぼこのいん石の大きさになり、しばらく(約9,000万年の間)宇宙空間をただよった後、2003年2月に地球の広島に、落ちてきたことがわかりました。
▲このいん石についてはつぎのとおりです。
●大きさ:たて 5.8cm ●おもさ:414g
よこ 10.5cm
たかさ 1.6cm
●いん石の種類は石質いん石の中の、球粒いん石(コンドライト)とよばれているもので、そのなかでもHタイプという仲間です。いん石としてはごく普通のタイプでね発見されたあとすぐに分析がおこなわれました。
▲いん石が宇宙にあったといっても、宇宙のはてからやってきたわけではありません。ほとんどのいん石は、わたしたちの地球と同じように、太陽のまわりをまわっていました。その場所は、おもに火星と木星がまわっている軌道の間にあります。そこには小惑星帯とよばれており、大きいものでは千kmぐらいの大きさのものから、小石よりも小さなものまで、無数の天体が太陽のまわりをまわっています。広島いん石もこの小惑星帯にあったものが、何かの原因でそのむきを変えて、地球に衝突したものて考えられています。
飛躍:北村西望
広島護国神社
難関突破・目標達成・開運出世
昇鯉の像
ここ広島城は「鯉城」と言われており、昇鯉(しょうり)の像は鯉の滝登りするさまを表し、上記の意味がころられています。
炭焼きワイン酒場サンテ
【付記】
旅の途中で、長年愛用してきたカメラ(PowerShot SX60HS)が使用不能になってしまいました。今の時代、望遠コンパクトカメラは流行ではないようで、買い替えるかスマホにするかを検討中です。
漸く秋らしくなってきた今日は、ズーラシアに隣接した里山ガーデンを尋ねました。
維管束植物の分類【概要、小葉植物と大葉シダ植物、裸子植物、被子植物(APG-IV体系)】【生物系統樹】
朝のうちに鬼怒川周辺を散策してから、日光へと向かいました。
【参考】〇は本日初撮影種
佳祥坊福松
鬼怒川
鬼怒太像:定印
ユウガオ(ヒョウタンの変種) Lagenaria siceraria var. hispida
〇ビロ-ドシダ Pyrrosia linearifolia
(三毛)猫 Felis catus
おさるの山入口
ノチドメ Hydrocotyle maritima
マツカゼソウ Boenninghausenia albiflora var. japonica
〇クラマゴケ Selaginella remotifolia
鬼怒川温泉神社
石尊碑
湯殿山碑
男體山碑
宝の湯(鬼怒川プラザホテル)
ウラハグサ(風知草) Hakonechloa macra
鬼怒太の階段アート(ふれあい橋東詰)
キリ Paulownia tomentosa
〇チャコウラナメクジ Ambigolimax valentianus
〇ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica
〇イワツバメ Delichon urbica
シンテッポウユリ Lilium x formolongi
スペーシア
スペーシアと鬼怒川みやび
先頭車両は貸し切り状態
東武日光駅
東武100系電車
〇カラマツ Larix kaempferi
華厳滝
涅槃滝
昼食:ゆば料理滝(ゆば&グリーンカレー)
オトギリソウ Hypericum erectum
アキアカネ Sympetrum frequens
中禅寺湖
オオハンゴンソウ Rudbeckia laciniata
タマアジサイ Platycrater involucrata
アスナロ Thujopsis dolabrata
日光東照宮参道
イワタバコ Conandron ramondioides
神橋
旧日光市役所
湯葉懐石与多呂(跡)
ゆばむすびの「ふだらく」
〇ウスバカゲロウ Hagenomyia micans (平六トンネル)
東武鉄道日光軌道線 東武100系車両
規格: 全長12,350mm、全幅2,200mm、全高3,552mm
その他:車番109
定員: 96名
A Tram that Colores One Page of Nikko’s History
The Nikko-Kido Line Tramway was opened in 1910 by Nikkio Electric Tram Co.,Ltd., between Teishaba-mae Station and Iwa-no-Hana Station, and was used mainly for freight transportation by the Furukawa Mining (currently Ferukawa Electric) Nikko Electric Copper Works. From its outset, it also played a role in transportation for tourism purposes in the Nikko region. In 1947, coinciding with the tourism boom which followed the recovery of the Japanese economy after the war, the Nikko-Kido Line Tramway merged with Tobu railway to become the Tobu Railway Nikko-Kido Line. It come to play a major role in transporting tourism from the Tokyo area to Nikko.
For 15 years following its launch in 1953, this particular tram served to support the everyday lives of Nikko citizens, and provided a much-loved means of transport for tourism visiting Nikko from all around the world. It is one of 10Tobu 100-series trams that ran on the 10.6km tramway through Nikko City, from Nikko Station to Umagaeshi Station.
However, as a result of the completion of the second Irohazaka Road in 1965, freight transportation and passenger numbers decreased dramatically, and 1968 the Tobu Railway Nikko-Kido Line closed its doors on a 58 year history. In order to preserve the much-loved industry for future generations, the tram has been restored to its original condition, and is now displayed in front of Tobu Nikko Station.
Tobu Railway Nikko-Kido Line Tobu 100-Series
Dimensions: Overall length – 12,350mm
Overall width – 2,200mm
Overall height – 3,552mm
Other: Car Number 109
Capacity: 96 people
Former Nikko City Hall
A four-story building with a Japanese Western-style hip-and-gable roof. Made of Douglas fir, rare for the time period, and a stone wall measuring 8 meters high built in part of the surrounding area.
This building was created by Shoichiro Kobayashi, a notable figure at the time, with the aim of managing a hotel for foreigners visiting Nikko. It is said that construction started around 1905 (Meiji 38), nearing completion almost 15 years later in 1919 (Taisho 8). At that time, it cost the amount of 350,000 yen (today’s equivalent of 1 billion yen). Although the name “Daimyo Hotel” was decided in reference to the landingholding magnates (Daimyo) of the Tokugawa Clan, there was almost no record of its use aa a hotel.
It was sold to Nikko Copper Works od Furukawa Electric in 1943 (Showa18) and utilized for workers’ housing. Although it temporarily served as a social gathering place for occupying forces after the war, it was then donated in 1948 (Showa 23) as the Town Hall to Former Nikko Town. After the city system was enforces in 1954 (Showa 29) it was used as Nikko City Hall. Due to the merger of cities, towns, and villages in 2006 (Heisei 18) it become the Nikko General Branch of present day Nikko City (later changing its name to the Nikko Administration Center). However, In March 2018 (Hesei 30), the Nikko Administrating Center was added to the new government building, thus ending its role due to its shift of purpose.
The exterior was repaired for preservation and the surrounding area was converted into a park. In April 2022 (Reiwa 4), it was reopened as the Former Nikko City Hall Memorial Park.
Remarks: [National Registered Tangible Culture Property Building Registration Date: March 2nd, 2006 (Heisei 18)
[Heritage of Industrial Modernization Serving ad Regional Revitalization] Certification Date; November 30th, 2007 (Heisei 19)
今日から夏休み。1日目はゆっくり家を出て浅草で昼食の後、ブルーリボン賞2024を受賞したスペーシアXで鬼怒川温泉に向かいました。
鬼怒太像
凛として立ち、いかにも逞しく、元気あふれる鬼の姿に、鬼怒川温泉活況の願いをだぶらせた。
誰からも愛されるような、鬼怒川のマスコットになってほしいと思い、強さの中にも可愛らしさのある子供の鬼とした。
金棒を持たせたのは、まさに「鬼に金棒」鬼怒川温泉のゆるぎなく全国一素晴らしい温泉郷になることを祈念してのことである。
藤原郁三 作
二日目は、金澤城址公園と、兼六園などを尋ねました。
唐崎松
十三代藩主前田斉康
根上松
十三代藩主前田斉康
松の傷
この松の傷は太平洋戦争が終わった年、昭和二十ねん(一九四五)の六月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採取したあとである。
国指定天然記念物
堂形
このあたりは、金沢城が築造された頃に、京都の三十三間堂を模した堂形の的場があったことから、堂形と呼ばれていました。
この一対のシイノキは、なだらかな傾斜の築山状の土地に生育していることから、根が築山を抱えるように地中に伸長し、独特の美しい樹形と樹勢を保ってきています。樹木の生育に長けた人によって大切に育成されてきたものと考えられており、明治時代に石川県庁が置かれた頃の絵や写真にも見られ、樹齢約300年とも言われています。幾度かに渡り樹木治療が施されて現在に至り、旺盛な樹勢を保っています。
庁舎は大正時代に建て替えられましたが、この堂形のシイノキと建物正面が一体となった景観は、永く県民に親しまれねこの地のシンボルとして存在しています。
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広阪稲荷神社
兼六園の隣に鎮座する神社は石浦神社ですが、絵馬の小径は石浦神社の境内社である広阪稲荷神社の参道でした。下記リンク先は石浦神社のウェブサイトです。
https://www.ishiura.jp/keidai/index.html
今年の夏休みは、一泊の日程で家族旅行でした。
金沢・まちなか彫刻作品・国際コンペティション2004 優秀賞
「Corpus Minor #1」Janne
この作品は、金沢の玄関口にふさわしく、はじけるようなダイナミックさわ持っています。素材は鋳鉄製でね錆による風合いの変化は、街の発展や時代の変化を象徴するものです。
解説
ひゃくまんさん
石川の魅力が詰まった観光PRマスコットキャラクター
眉・胴体 金沢が全国一の生産量を誇る金箔を使用
ひげ 縁起のいい末広がりの八の字型
下地を何層も塗り重ねた輪島塗
からだ 加賀友禅柄の菊や牡丹 色彩は、赤・黄・緑・紺青・紫の久谷五彩
顔。全身 航空機の機体にも活用される軽くて強い炭素繊維 先端企業の石川工場で製作
ひゃくまんさんのからだに描かれた観光地など
ことじ灯籠、朝顔、加賀てまり、和菓子、紅葉、白山、加賀八万起上り、能登のキリコ、石川門