美香」カテゴリーアーカイブ

里山ガーデンの秋

 漸く秋らしくなってきた今日は、ズーラシアに隣接した里山ガーデンを尋ねました。
 維管束植物の分類【概要小葉植物と大葉シダ植物裸子植物被子植物(APG-IV体系)】【生物系統樹


【参考】○:本日、初撮影種
 ガーデンベア
 里山ガーデン
 チカラシバ Pennisetum alopecuroides
 五色トウガラシ Capsicum annuum
 ツマグロヒョウモン Argyreus hyperbius
 キバナコスモス Cosmos sulphureus
○コバルトセージ Salvia azurea

鬼怒川温泉から日光へ

 朝のうちに鬼怒川周辺を散策してから、日光へと向かいました。




【参考】〇は本日初撮影種
 佳祥坊福松
 湯泉(ゆどころ)(ひと)
 鬼怒川
 鬼怒太像:定印
 ユウガオ(ヒョウタンの変種) Lagenaria siceraria var. hispida
〇ビロ-ドシダ Pyrrosia linearifolia
 (三毛)猫 Felis catus
 おさるの山入口
 ノチドメ Hydrocotyle maritima
 マツカゼソウ Boenninghausenia albiflora var. japonica
〇クラマゴケ Selaginella remotifolia
 鬼怒川温泉神社
 石尊碑
 湯殿山碑
 男體山碑
 宝の湯(鬼怒川プラザホテル)
 ウラハグサ(風知草) Hakonechloa macra
 鬼怒太の階段アート(ふれあい橋東詰)
 キリ Paulownia tomentosa
〇チャコウラナメクジ Ambigolimax valentianus
〇ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica
〇イワツバメ Delichon urbica
 シンテッポウユリ Lilium x formolongi
 スペーシア
 スペーシアと鬼怒川みやび
 先頭車両は貸し切り状態


 東武日光駅
 東武100系電車
〇カラマツ Larix kaempferi
 華厳滝
 涅槃滝
 昼食:ゆば料理滝(ゆば&グリーンカレー)
 オトギリソウ Hypericum erectum
 アキアカネ Sympetrum frequens
 中禅寺湖
 オオハンゴンソウ Rudbeckia laciniata
 タマアジサイ Platycrater involucrata
 アスナロ Thujopsis dolabrata
 日光東照宮参道
 イワタバコ Conandron ramondioides
 神橋
 旧日光市役所
 湯葉懐石与多呂(跡)
 ゆばむすびの「ふだらく」
〇ウスバカゲロウ Hagenomyia micans (平六トンネル)


 湯泉(ゆどころ)(ひと)
鬼怒川音頭
    作詞 野口 柾夫 氏
    作曲 杉山長谷夫 氏
 春は八汐よ 秋来りや紅葉
 錦々鬼怒川 しんしん
 しんとろ お湯が湧く
 サラサラ 瀬の瀬で 鳴く河鹿
 サラ鬼怒川 湯泉 コーロコロ


鬼怒太:定印鬼
 うでを組むのは鬼の定印。人と逆で、手のかわりに足で合掌、「幸」を祈る
     藤原郁三 2008年

 鬼怒川温泉神社
主祭神 大己貴命(おおあなむちのみこと)少名彦命(すくなひこののみこと)
例祭  四月吉日
敷地内 三百坪
本殿  流造銅板葺
由緒沿革 創立は不詳、古老の口伝によれば鬼怒川温泉宿地の温泉神社を現地に遷座。(温泉の守護神を祀る)
「湯楽の神は湯の神、温泉神(いでゆのかみ)」ともいい、温泉の霊力を神格化し崇敬され温泉神社が建立された。
祭神には医療・禁厭(きんよう)の神とされている大己貴命・少名彦命が祀らりている。
温泉には不病を癒す効能がある為、全国より多数の人々達が浴湯を楽しむ。
御神徳 家内安全、身体健全、勝運、
          温泉神社 宮司


鬼怒川温泉発祥の湯
  宝の湯
 古くは江戸時代より滝温泉の名称にてよばれ、一七五二年当時は日光の寺社領であったことから日光詣で帰りの諸大名や僧侶達のみが利用可能な温泉でありました。明治時代になり滝温泉が一般に開放され、やけどやキズの名湯としてこの山奥まで尋ねる人が絶えず、その後鬼怒川を間にして西岸と東岸に温泉を分かち、西を滝温泉、東を藤原温泉と呼び会津街道を行き交う人の旅人宿としてまた、里から山村に出入りする商人の宿としてますますその需要を深め、昭和二年頃より鬼怒川温泉として名称を改めました。その滝温泉から湧き出た温泉の一つ、名湯宝の湯は、明治八年五月官報に書きしるされ、湧き出す温度は現在でも五十三度前後を保ち、毎分約三百リットルもの豊富な湯量を誇る鬼怒川温泉発祥の湯と呼ばれています。
     鬼怒川プラザホテル


日光の歴史の1ページを彩った路面電車
 日光軌道線は、1910年(明治43)年、古河鉱業(現 古河電気工業)日光電気精銅所の貨物輸送を主目的として、日光電気軌道株式会社が停車場前~岩の鼻間で開業したもので、当初から、日光地域の観光輸送の一翼も担っていました。戦後の日本経済の復興とともに観光ブームが起こる中、戦禍を免れた日光軌道線は、1947(昭和22)年の合併により東武鉄道日光軌道線となり、東京方面から日光地域への観光客の円滑な輸送に、大きな役割を果たしてきました。
 この路面電車は、1953(昭和28)年から15年間にわたり、市民生活の足として、また国際観光地日光を訪れる観光客の貴重な輸送手段として、日光駅から馬返までの全線10.6kmの日光の街中を運行した東武100系電車10両のうちの1両です。
 その後、1965(昭和40)年の第一いろは坂に続く第二いろは坂寛政の影響を受けて旅客数や貨物数が激減し、1968(昭和43)年、東武鉄道日光軌道線はその58年間の歴史に幕を閉じましたが、このような歴史的背景を踏まえ、実際に走っていた車両を当時の姿に復元し、東武鉄道駅前広場に展示することで、後世に残すべき貴重な産業遺産として、また往時を偲ぶ観光試験として活用を図るものです。


東武鉄道日光軌道線 東武100系車両
規格: 全長12,350mm、全幅2,200mm、全高3,552mm
その他:車番109
定員: 96名


A Tram that Colores One Page of Nikko’s History
 The Nikko-Kido Line Tramway was opened in 1910 by Nikkio Electric Tram Co.,Ltd., between Teishaba-mae Station and Iwa-no-Hana Station, and was used mainly for freight transportation by the Furukawa Mining (currently Ferukawa Electric) Nikko Electric Copper Works. From its outset, it also played a role in transportation for tourism purposes in the Nikko region. In 1947, coinciding with the tourism boom which followed the recovery of the Japanese economy after the war, the Nikko-Kido Line Tramway merged with Tobu railway to become the Tobu Railway Nikko-Kido Line. It come to play a major role in transporting tourism from the Tokyo area to Nikko.
 For 15 years following its launch in 1953, this particular tram served to support the everyday lives of Nikko citizens, and provided a much-loved means of transport for tourism visiting Nikko from all around the world. It is one of 10Tobu 100-series trams that ran on the 10.6km tramway through Nikko City, from Nikko Station to Umagaeshi Station.
 However, as a result of the completion of the second Irohazaka Road in 1965, freight transportation and passenger numbers decreased dramatically, and 1968 the Tobu Railway Nikko-Kido Line closed its doors on a 58 year history. In order to preserve the much-loved industry for future generations, the tram has been restored to its original condition, and is now displayed in front of Tobu Nikko Station.


Tobu Railway Nikko-Kido Line Tobu 100-Series
Dimensions: Overall length – 12,350mm
Overall width – 2,200mm
Overall height – 3,552mm
Other: Car Number 109
Capacity: 96 people


  御案内
 その昔、男体山の噴火で生まれた中禅寺湖の湖水が大尻川となって流れだし、この大岩壁から一気に落下する壮大な雄姿が華厳滝です。
 高さ   九七.〇m
 落口巾  七.〇m
 滝壺深さ 四.五m
 落水量(毎秒〇.三トン)
 華厳滝を囲むこの大岩壁は上部から安山岩・集か塊岩・石英斑岩とで形成され中段の細い滝の数々は十二滝と呼ばれています。
 滝の流れはさらに観瀑台直下の涅槃滝にかかり大谷(だいや)川となって鬼怒川に合流しています。


旧日光市庁舎
特徴:木造4階建の和洋折衷の入母屋造りで、当時ととしては珍しい米松を使用し、周囲の一部には高さ8メートルの石垣を築造しています。
沿革:等建造物は、当時地元の名士であった小林庄一郎氏が、日光を訪ねる外国人向けのホテル経営を目指して建設した建物です。
建設着工の時期は明治38年(1905年)頃、当時で35万円(現在の10数億円相当)の金額と15年の歳月をかけ大正8年(1919年)にほぼ完成したといわれています。名称も徳川家ゆかりの土地柄にちなみ「大名ホテル」と決定していたとのことですが、ホテルとしての使用実績はほとんどありませんでした。
昭和18年(1943年)に古河電工日光精銅所へ売却され、工員アパートとして使用されました。戦後一時的に進駐軍の社交場になりましたが、昭和23年(1948年)に旧日光町役場本館として、昭和29年(1954年)の市制施行後は、旧日光市庁舎本館として使用されました。
平成18年(2006年)の市町村合併により、新日光市の日光総合支所(その後、名称変更により日光行政センター)となりましたが、平成30年(2018年)3月、新庁舎が日光行政センター機能が移転したことによりその役割を終えました。保存のため外観の修繕と周囲の園地化を行い、令和4年4月に旧日光市役所記念公園とてしオープンいたしました。
備考:【国登録有形文化財建造物】登録年月日:平成18年(2006年)3月2日
   【地域活性化に役立つ近代化産業遺産】認定年月日:平成19年(2007年)11月30日


Former Nikko City Hall
 A four-story building with a Japanese Western-style hip-and-gable roof. Made of Douglas fir, rare for the time period, and a stone wall measuring 8 meters high built in part of the surrounding area.
This building was created by Shoichiro Kobayashi, a notable figure at the time, with the aim of managing a hotel for foreigners visiting Nikko. It is said that construction started around 1905 (Meiji 38), nearing completion almost 15 years later in 1919 (Taisho 8). At that time, it cost the amount of 350,000 yen (today’s equivalent of 1 billion yen). Although the name “Daimyo Hotel” was decided in reference to the landingholding magnates (Daimyo) of the Tokugawa Clan, there was almost no record of its use aa a hotel.
 It was sold to Nikko Copper Works od Furukawa Electric in 1943 (Showa18) and utilized for workers’ housing. Although it temporarily served as a social gathering place for occupying forces after the war, it was then donated in 1948 (Showa 23) as the Town Hall to Former Nikko Town. After the city system was enforces in 1954 (Showa 29) it was used as Nikko City Hall. Due to the merger of cities, towns, and villages in 2006 (Heisei 18) it become the Nikko General Branch of present day Nikko City (later changing its name to the Nikko Administration Center). However, In March 2018 (Hesei 30), the Nikko Administrating Center was added to the new government building, thus ending its role due to its shift of purpose.
 The exterior was repaired for preservation and the surrounding area was converted into a park. In April 2022 (Reiwa 4), it was reopened as the Former Nikko City Hall Memorial Park.
Remarks: [National Registered Tangible Culture Property Building Registration Date: March 2nd, 2006 (Heisei 18)
     [Heritage of Industrial Modernization Serving ad Regional Revitalization] Certification Date; November 30th, 2007 (Heisei 19)


【文献】
西脇三郎・小池啓一 (2001) 軟体動物腹足類の新分類体系と上位分類群の和名, 群馬大学教育学部紀要 自然科学編, 49, 79-97, URL: https://gunma-u.repo.nii.ac.jp/record/4296/files/ares049079.pdf, 2024-08-13.
山中征夫 (2007) ヤマビル(Haemadipsa zeylanica japonica)-日本で唯一の陸生吸血ビル-, 森林科学, 51(10), 10.11519/jjsk.51.0_4343-51, Accessed: 2024-08-13.

浅草から鬼怒川へ

 今日から夏休み。1日目はゆっくり家を出て浅草で昼食の後、ブルーリボン賞2024を受賞したスペーシアXで鬼怒川温泉に向かいました。


【参考】
吾妻橋交差点
カミヤレストラン
昼食(の一部)
スペーシアX
古賀志山(東経139°46′9.3″、北緯37°37′42.6″)
鬼怒川みやび
鬼怒太像
キンケイ X ギンケイ Chrysolophus pictus x Chrysolophus amherstiae
佳祥坊福松:417号室より
食事処遊喜:夕食(の一部)


鬼怒太像
 凛として立ち、いかにも逞しく、元気あふれる鬼の姿に、鬼怒川温泉活況の願いをだぶらせた。
 誰からも愛されるような、鬼怒川のマスコットになってほしいと思い、強さの中にも可愛らしさのある子供の鬼とした。
 金棒を持たせたのは、まさに「鬼に金棒」鬼怒川温泉のゆるぎなく全国一素晴らしい温泉郷になることを祈念してのことである。
          藤原郁三 作

金沢旅行(2日目)-金沢城址、兼六園を尋ねて

 二日目は、金澤城址公園と、兼六園などを尋ねました。

金沢旅行(1日目)

今年の夏休みは、一泊の日程で家族旅行でした。


【参考】
車窓より
悠颺ゆうよう」蓮田修吾郎(市制百周年記念モニュメント)
郵太郎
「Corpus Minor #1」Janne kristian Virkkunen(金沢・まちなか彫刻作品・国際コンペティション2004 優秀賞)
「The Sundial」 Bartlomiej Struzik (金沢・まちなか彫刻作品・国際コンペティション2004 優秀賞)
近江町市場おうみちょういちば
村野さやか
シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica
浅野川
カルガモ Anas zonorhynch
あすなろ細工かみや
「やかん体、転倒する。」三枝一将
ひゃくまんさん


金沢・まちなか彫刻作品・国際コンペティション2004 優秀賞
「Corpus Minor #1」Janneヤンネ kristianクリスティアン Virkkunenヴィルック年
 この作品は、金沢の玄関口にふさわしく、はじけるようなダイナミックさわ持っています。素材は鋳鉄製でね錆による風合いの変化は、街の発展や時代の変化を象徴するものです。


解説
ひゃくまんさん
 石川の魅力が詰まった観光PRマスコットキャラクター
眉・胴体 金沢が全国一の生産量を誇る金箔を使用
ひげ 縁起のいい末広がりの八の字型
 下地を何層も塗り重ねた輪島塗
からだ 加賀友禅柄の菊や牡丹 色彩は、赤・黄・緑・紺青・紫の久谷五彩
顔。全身 航空機の機体にも活用される軽くて強い炭素繊維 先端企業の石川工場で製作
ひゃくまんさんのからだに描かれた観光地など
 ことじ灯籠、朝顔、加賀てまり、和菓子、紅葉、白山、加賀八万起上り、能登のキリコ、石川門

イングリッシュガーデン & ジョイナスの森

 雨がちな一日でしたが、ふたりで横浜駅周辺まで足を延ばしました。アジサイ等の写真は6月7日に撮影済みです。


横浜イングリッシュガーデン
ジョイナスの森 彫刻公園
 茉莉花 Matsurika 1978
 果実 Le Fruit 1911
 踊り子 Passo di danza che riposa 1983
イワガラミ Schizophragma hydrangeoides

緋桜の丘2023

 今年も本牧山頂公園の緋桜の丘を二人で訪ねる事が出来ました。


【参考】
 観山広場碑
 横浜緋桜(よこはまひざくら)Cerasus jamasakura cv. Kenrokuen-kumagai x C. campanulata
 カントウタンポポ Taraxacum platycarpum
 アカシデ Carpinus laxiflora


  観山広場
 本牧山頂公園、観山広場は、かつて日本画家の下村観山(1873~1930)が住居を構え、多くの名作を生みだした場所です。
 観山は、東京美術学校(東京芸術大学の前身)や日本美術院の設立に関わった岡倉天心の指導のもとで才能を発揮、横山大観とともに日本美術の近代化の時代に中心的な役割を果たしました。
 三渓園を創設した実業家、原三渓(1868~1939)の支援が始まった1912年には、ここ本牧和田山の地を提供され、以降亡くなるまで生活と作品制作の場となりました。三渓園の名木・臥竜梅に着想を得て描いた屏風絵「弱法師」(よろぼし東京国立博物館所蔵・重要文化財)は代表的な作品です。
 この広場の奥には、日本美術院創立100周年の年である1998年に、彫刻家の澄川喜一(当時・東京芸術大学学長)と日本画家の小倉遊亀(元・日本美術院理事長)による下村観山先生顕彰碑も建てられ、観山広場と名付けられました。
                2021年7月吉日 本牧まちづくり会議 建立

田浦梅林-2023-03-04

 今年の田浦梅林は、昨年より少し遅めでしたのでスイセンの時期は終わっていました。


【参考】
 ウメ Armenica mume
 天ぷらうどん:船食製麺
 ツグミ Turdus eunomus
 トビ Milvus migrans
 スギ Cryptomeria japonica
 オウバイ Jasminum nudiflorum
 ユキヤナギ Spiraea thunbergii
 ボケ Chaenomeles speciosa

三浦海岸さくら祭、2023-02-22

 暖かかったり寒かったりのこの冬でしたが、ここに至って、河津桜の開花は一気に進んでいるようです。


 河津桜(かわづざくら)Cerasus x kanzakura ‘Kawazu-zakura’
 寒咲花菜(かんざきはなな) Brassica sp.