月別アーカイブ: 2017年12月

年の瀬にアルボの丘へ

 アルボの丘は稲城市向陽台に開発されたマンションで、すぐ裏の城山は丸山城跡として知られています。『丸』は『的』の意で付近にはかつてオオマトノツ(大的の津)といわれる多摩川の船着き場があったそうです。この城山には、式内社である可能性が高いとされる、つまり千年以上の歴史がある大麻止乃豆乃天(おおまとのつのてん)神社が北東山麓に御座します。
 さて、地名の由来はともかく、年の瀬の今日、叔母が住むアルボの丘を訪ねました。

冬の花は

 今日は、レンタルDVDを返却しに金沢文庫まで出かけました。


【参考】
 ビワ Eriobotrya japonica
 ギンヨウアカシア Acacia baileyana
 ヤドリギ Viscum album
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium

年の瀬に -小柴から瀬戸へ

 今日は仕事納めの日、午後から年休を取ってちょっと廻り道をしてみました。


【小柴熊野神社】金沢区柴町41


 鳥居の扁額には熊堅三社大権現とあります。鎮座地は権現山と呼ばれており、シラカシ、アカガシ、クス、タブなどの大木が沢山あります。


【水神社】
 熊野神社の境内社で、隣には魚介慰霊碑があります。


【稲荷社】
 熊野神社の境内社です。


【石仏不動尊】
 熊野神社に至る石段の途中にある不動堂には鎌倉稱名寺から分霊した不動尊が祀られています。


  石仏不動の由来
 当地にお祀りしておりますお不動さま(石仏)は今泉のお不動さまのご分霊で今泉不動尊の記録によれば
    文化九年(一八一二年)   五月
    文久三年(一八六三年)亥歳 九月再典
     武州久良岐郡小柴村
           願主  彌太郎
               元五郎
           世話人 源蔵
 と記されて居ります。
以来村民挙げてお不動さまに帰依し明治十五年(壬午)二月二十八日斉田岩吉世話人等方々の発願に依って小柴講を結成以来今日迄毎年二月二十八日に祈祷祭を執り行って居ります。
 不動明王は現世利益の守護神として尊ばれお不動さまのご信仰によって家内安全、大漁満足、海上安全、災難消除のご利益を授かります霊験顕かなる仏さまです。
 不動明王のご真言(お唱えながらお詣り下さい)
  ノウマクサマンダ バザラダン センダマカロシャタ
  ソワタヤ ウンタラタカンマ
            柴船前講中


【瀬戸神社】金沢区瀬戸18
 瀬戸神社では年末にも茅の輪が設置されます。


【雷神社】横須賀市追浜本町1丁目9
 雷神社でも新年を迎える準備が進んでいました。


【参考】
 サザンカ Camellia sasanqua
 メタセコイヤ Metasequoia glyptostroboides
 ネコヤナギ Salix gracilistyla
 センリョウ Sarcandra glabra
 蛇混柏 Juniperus chinensis (瀬戸神社)
 カヤ Torreya nucifera (瀬戸神社)
 水神社
 魚介慰霊碑
 水神社の錠
 稲荷社
 石仏不動堂
 瀬戸神社:金沢区瀬戸18
 茅の輪
 雷神社
 境内社(雷神社)

杉山神社を巡る-Part10 武蔵国総社

 横浜市立図書館に予約を入れていた神祇全書第四輯を参照することが出来ました。それによりますと、武蔵国総社である大國魂神社に杉山神社が合祀されていましたので、確認のため訪ねてみました。

【大國魂神社】府中市宮町3丁目3−1
 現在の実情とは異なりますが、武蔵国の一ノ宮から六ノ宮までが合祀されています。ここでの配置では、杉山神社は六ノ宮で、パンフレットによれば、西八朔社を勧請したことになっています。然るに武藏總社誌(1908)を紐解くと『西八朔社の可能性が高いという意見もある』(下記に原文を引用)と記しているだけです。勧請元が確かに西八朔社なのか、なぜ六宮なのか、など今となっては確かめるすべのない謎が多く残されているようです。いずれにせよ、当社は鶴見川流域を中心に分布する系統の杉山神社としては北端に位置し、合祀社ではありますが、唯一多摩川の北側に分布する社と思われます。


   武蔵総社(むさしそうしゃ)大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)
 当神社は、大國魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祀った神社である。第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれて、当社を国衙の祭場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸国の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を祭祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に国内著名の神社六社を奉祀したので「六社明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以降徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人と成る。
            大國魂神社・府中市観光協会


武藏總社誌上巻 神主猿渡容盛謹書
        男新神主盛愛謹校
  御正殿神座次第
御正殿三殿、北に向て並立、一殿毎に神座三所を設く、(三殿併せて九所の神座あり)
中御殿、中央の神座にも大國魂大神鎮座す、是を本宮と稱す、東の神座には、國内の諸神を齋祀る、西の神座を首とし、東の神座を尾として、一ノ宮小野大神、ニノ宮小河ノ大神、三ノ宮氷川大神、以上三所相並て鎮座す、
西御殿は、東の神座を首とし、西の神座を尾として、四ノ宮秩父大神、五ノ宮金佐奈大神、六ノ宮杉山大神、以上三所相並て鎮座す、
右當社御正殿神座の列次、舊來傳る所、當今に至て會て紊亂あることなし、後世或は舊傳を誤り、或は異論の出来むことを恐て、爰に掲て後鑑に傳ふ、
  (中略)
此神社、當國六所の六宮に座す事は、安居院神道集に證あるを、其は下に一に云べければ、此には姑く省けり、かくて此御社は當今都筑郡中に、杉山神社と稱ふる社あまた所ありて、何れか實蹟ならむ、今決めがたし、武藏演路には、小机莊茅が崎村に座すといひ、式社記には、吉田村と云に杉山といふ小地名ありて、其処に座す社實跡なりと說れど、共にさだかならず、(武藏演路、式社記などみな近世の物なり) 先人考には、西八朔村(和名抄、都筑郡に針拆と書て(ハツ)()()と訓注ある郡ノ名是なり)に極楽寺といへる眞言佛寺の境内に、いと幽にて座す社、かの茅が崎吉田などの社よりも、なか〱に故あるべく覺ゆと說れたりき、(後略)
     猿渡容盛(1908)武藏總社誌上巻、神祇全書第四輯、恩文社. より抜粋


以下、本日撮影の神社等です。
【小野神社】多摩市一ノ宮1丁目18-8
 旧武蔵一宮の小野神社です。楼門もあり、想像していたよりは立派な社でしたが、かつて一之宮であったのは、矢崎町の小野神社であったかも知れず、大國魂神社の相殿に祀られている一ノ宮が当社から勧請されていたため、誤認された可能性もありそうです。街道沿いの案内板をみる限りでは、大國魂神社の相殿での一宮であるだけとも読み取れます。勧請元などの経緯を特定することにあまり意味はなさそうですが、いずれ文献調査してみたいと思います。


  一ノ宮(いちのみや):街道沿いの案内板
 「一ノ宮」の町名は地内にある「武蔵国一ノ宮小野神社」に由来しています。
 小野神社が創設された年代は定かではありませんが、奈良時代、七七二(宝亀三)年太政官符に小野神社という名前が記されており、古くからあったことがうかがえ、武蔵国の大国魂神社(武蔵総社六所宮)の一ノ宮とされています。
 一ノ宮の神輿は、近世後期以降、大国魂神社の祭礼「くらやみ祭り」に渡御参加しており、道路事情によりとりやめとなる昭和三十四年まで続いていました。
 今も地域文化として「祭り」が継承されています。このモニュメントは、このような由来にちなみ「祭り」をテーマとしています。
                 平成二十四年改訂 多摩市
 延喜式内
武蔵国一之宮 小野神社
 御祭神
天乃下春命
瀬織津比咩ノ大神
伊弉冉尊
素戔嗚尊
大己貴大神
瓊瓊杵尊
彦火火出見尊
倉稲魂命
 末社
伊勢神宮内宮
伊勢神宮外宮
三嶋神社
八坂神社
愛宕神社
安津神社
日代神社
鹿島神社
子安神社
嚴嶋神社
方便神社
秋葉神社
稲荷神社
堰宮神社


【(四谷)神明社】:府中市四谷2丁目44-4
 偶然、通りかかった神明社です。かつて相殿に祭られていた倉稲魂命と猿田彦命を合祀したことから三社宮とも呼ばれているようです。


小野神社:府中市住吉町3丁目19
 境内に由緒書きはありませんでした。こちらが、本来の式内社であった可能性もありそうです。境内社として稲荷神社があり、境内には明和二乙酉年(1765年)の銘が入った古い鳥居も残されています。


金毘羅神社:府中市本町1丁目16
 大國魂神社のすぐ南側にある御社です。


熊野神社:府中市矢崎町1丁目
 こじんまりとしたお社ですが、御嶽社他、もう一社が合祀されているようです。


【大麻止乃豆乃天神社/津島神社】東京都稲城市大丸847
 この地域には式内社が多数あります。ここも式内社である可能性が高い『論社』として知られています。境内社には津島神社もありました。

延喜式神名帳所載の武蔵国多摩郡大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんじゃ)とある祭神は、櫛真知命(くしまちのみこと)であり、境内には、津島神社、白山神社、神明神社、稲荷神社、秋葉神社を祀っている。
 祭礼は、天王様祭礼が7月中旬、風祭が9月1日、秋の祭礼が10月初旬に行なわれる。江戸期の資料には「丸宮社(まるみやしゃ)」という記録が見える。


津島神社:稲城市大丸847


津島神社:稲城市東長沼


  津島神社天王社縁起
 天慶八年(945年)念佛信奉者当所仁右衛門毎年多摩川の氾濫とその後に起こる各戸の病難を救わんと空也上人より牛頭天王を授けられ戸民相寄り柳島の水上に祀り、津島牛頭天王社を御本社とする。
 大正十五年、愛知県津島社(津島牛頭天王社)の御神格奉祝のため代参を派遣し、此の機当社は、津島神社と改称し奉る。
     平成二十八年六月吉日建立


但馬稲荷社:稲城市大丸233


青渭神社:稲城市東長沼1053
 こちらも式内社の論社です。祭神は青渭神(あおいのかみ)猿田彦命(さるたひこのみこと)天鈿女命(あめのうずめのみこと)の三柱で、青渭神は水神であると考えられているそうです。


由緒
 當社創建の年代は詳らかでないが、弘仁年中の創建との伝承がある。延喜式神名帳所載の多摩八座の一社で古社である。
 祭神は青渭神、猿田彦命、天鈿女命を祀る。昔は大沼明神又は青沼大明神と称した。
 大祭には青渭獅子舞奉納の神事がある。現社殿は昭和四十九年の造営であるが本殿は往昔のままで数百年を経ている。明治六年郷社に列せらる。
   青渭神社社務所


津島神社天王社:稲城市東長沼402
 本日3つめの津島神社、覆殿の中には稲荷社も祀られていました。



【参考】
 京王線聖蹟桜ヶ丘駅
 一ノ宮渡し跡
 多摩川
 スモールキング(分梅町4丁目)
 新田義貞公之像
 府中高札場
 庚申塔/二十三夜塔(大慈山圓照寺)
 庚申塔(稲城市大丸236)
 庚申供養覇澱(稲城市大丸174-6)
 青面金剛庚申塔 駒型 慶應二(稲城市矢野口898-1)

【本日の主な経路】
聖蹟桜ヶ丘駅-小野神社-(四谷)神明社-小野神社-大國魂神社-熊野神社-金毘羅神社-大麻止乃豆乃天神社(津島神社)-津島神社-青渭神社-津島神社天王社-矢野口駅
-桜木町

【文献】
 猿渡容盛(1971)武蔵総社誌3巻、神祇全書第四輯、皇典講究所.

年の瀬の十三峠、など

横須賀中央に用事があったので、久し振りに十三峠を通ってみました。

鹿島神社
鎮座地 横須賀市西逸見町二丁目七十番地
祭神  武甕槌神(たけみかづちのかみ)
由緒沿革
応永十七年(一四一〇年)四月八日、三浦遠江守が常陸より鹿島神社を勧請したと「新編相模国風土記稿」に記されている。
また、天正二年十一月二十日、朝日奈六太夫造営の棟札、さらに寛永十三年八月二十四日、三浦按針(英人ウィリアムス アダムス)の子が社殿を造営した旨の棟札を存したが、明治二十四年七月二十八日の火災にて社殿は全焼した。同年八月仮殿を造り、本社ともに焼失した境内社の山王社(元禄十一年九月勧請)を合祀する。
明治二十八年六月五日、現在地に社殿を造営して遷座した。旧鎮座地は、逸見森崎字七番七五二番地の鹿島崎と呼ばれる海辺(現海上自衛隊内)であった。
例祭引は従来九月二十九日であったが、明治二十九年より遷座した六月五日に改めた。 明治四十一年一村一社とする動きにより、逸見内の稲荷社、熊野社、神明社、浅間社、子神社、山神社を合併し、明治四十三年内務省より『指定村社』に列せられた。
平成二十五年四月吉日  伊藤香泉謹書
(寄贈 有限会社 按針)

【参考】
がらめき:浦賀みち
御嶽稲荷神社:横須賀市田浦町3丁目92
(田浦)庚申塔
ヒメツルソバ Persicaria capitata
フヨウカタバミ Oxalis variabilis
スイセン Narcissus tazetta
オニタビラコ Youngia japonica
トネアザミ Cirsium nipponicum
ノゲシ Sonchus oleraceus
キダチロカイ Aloe arborescens
アキノキリンソウ Solidago virgaurea var. asiatica
塚山公園
サザンカ Camellia sasanqua
鹿島神社:横須賀市西逸見町2丁目70
横須賀ストーリー:あいざわ菓子舗

【主な経路】
浜見台-鷹取山ハイキングコース-がらめき-御嶽稲荷神社-道六神-十三峠-塚山公園-鹿島神社-あいざわ菓子舗-汐入-横須賀中央駅

杉山神社を巡る-Part9 東部9社

 今日は、鶴見区周辺の杉山神社縁の社を廻ってみました。この地区は、杉山の名前が残っていない社の多いことが特徴です。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 日枝大神社(境内社):川崎市川崎区小田2-14
 潮田神社     :横浜市鶴見区潮田町3-131-1
 (36)鶴見神社   :横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
 (37)生麦杉山神社 :横浜市鶴見区岸谷1-20-61
 菊名神社     :横浜市港北区菊名6-5-14
 八杉神社     :横浜市港北区大豆戸町239
 (22)岸根神社   :横浜市港北区岸根町377
 熊野神社     :横浜市神奈川区東神奈川1-1


【日枝大神社】川崎市川崎区小田2-14
 旧橘樹郡小田村にあった杉山神社が本殿向って右側の境内社である八王子社に合祀されています。合祀社は、稲荷神社、浅間神社、神明社、杉山社、子神三峯合社、大鷲神社と扁額に記載されていました。


潮田(うしおだ)神社】横浜市鶴見区潮田町3-131-1
 旧西潮田村にあった御嶽社と旧東潮田村にあった杉山社が合祀されています。旧杉山社の境内社だった稲荷社も潮田稲荷社として移設されています。

  潮田神社
御由緒  横浜市鶴見区潮田町三-一三一-一
 当社は、大正初期、京浜工業地帯の一大発展に伴い、耕地整理・区画整理による街造りのため。西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正九年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。社伝に依れば、景行天皇四十年、日本武尊が東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村の古杉老松の鬱蒼たる地に小祠を建て、国土の神「国常立命」、「豊雲野命」、「国狭槌命」を奉斎し、征途の無事安全を祈願したことが始まりと伝えられます。
 中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、北条氏の信仰崇敬に殊に厚いものがありました。正親町天皇の御世永禄の頃太田道灌の曾孫太田新六郎康資の領地神社として、たびたび修復されたことが、東潮田村の杉山社に残る御神鏡からうかがうことができます。
 また、正保年間に至り、地頭松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築し、寛文十年、幕府社領一段四畝二十歩を寄進したことが御嶽大権現と改称された西潮田村の御嶽社の棟札、鳥居等にのこされています。
 由来、東のお宮、西のお宮と親しまれ、特に土地が海浜であったため、房総漁民船が大漁祈願に立ち寄るなど、潮田村及び遠近の村里沿岸一帯の鎮護となりました。
明治四十二年八月
 御嶽社(国常立命・豊雲野命・国狭槌命 奉斎)に四社を合祀
    神明社 (井田方鎮座・弥都波能賈神 奉斎)
    須賀社 (井田方鎮座・素戔嗚命 奉斎)
    菅原社 (向原鎮座。菅原道真公 奉斎)
 杉山社(五十猛命 奉斎)
    白山社 (浜端鎮座・岐久理比賈命 奉斎)
    厳島社 (弁天下鎮座・市寸島比賈命 奉斎)
    若宮八万(上居村鎮座・誉田別命 奉斎)
大正八年
 御嶽社と杉山社を合併
大正九年
 一月、潮田神社と改称、四月現在地に鎮座 杉山社の境内稲荷社も移転六月五日、社伝御造営竣功奉斎祝祭斎行、例祭日となる。
御祭神
・国常立命(くにとこたちのみこと) 国土を守る神
・五十猛命(いたけるのみこと)   殖産・商工業・樹木の神
・素戔嗚命(すさのおのみこと)   病気平癒・厄除・造船海運・恋愛の神
・豊雲野命(とよくもぬのみこと)  土を豊かにする神
・国狭槌命(くにのさづちのみこと) 国土の発育を守る神
・豊受比賈命(とようけひめのみこと)食物、養蚕、織物など全ての工業営業を守る神
・岐久理比賈神(くくりひめのみこと)
・誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)武芸・安産の神
・菅原道真公(すがわらみちざねこう)学業の神


【(36)鶴見神社】横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
 旧橘樹郡鶴見村にあった杉山神社が合祀されています。境内社は右奥から、浅間神社、清明宮、祖霊社、関神社、秋葉神社、稲荷神社、大鳥神社となっています。


【(37)生麦杉山神社】横浜市鶴見区岸谷1-20-61
 ここでは杉山の名前が残されていました。境内社として稲荷社2社と祖霊社があります。

   杉山神社 略記
生麦 大黒町 岸谷 中央5 総鎮守 杉山神社
鎮座地 横濱市鶴見区岸谷一丁目二十番六一号
           (旧生麦一八四五番地)
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
祭礼日 八月一日(現在は八月の第一土・日)
境内地 七百七拾六坪
   付記
 御祭神は第十二代景行天皇の皇子として生まれ終生この国の統一と民の安泰の為につくされ尊を讃える歌に、
蝦夷(えぞ)熊襲(くまそ)しずめ給えし皇王子(すめみよ)のたけきいさお千代にかがやく」の如くであります。
   由緒
 当社の設立は古くて判りませんが、元本村にあったが天正二年(1574)に当村々社に同年八年に現地に設立されたと伝えられており、元禄十六年*万延元年に再建されるとあり、(昭和四十九年(1974)に御鎮座四百年祭を斎行)現社殿は昭和十二年に着工し十四年に竣工した。
 境内に、手水水盤に享保九年六月吉日
     石造鳥居に天明元年六月吉日の年号の彫刻が在る。
 高い石段は生麦沖に沈んだ石を村人達が引き上げ神社の階段を作る。明治十年に完成。 神楽殿(かぐらでん)は前社殿。
祖霊社
 戦後すぐ戦没英霊を祀る社を設立、当時終戦直後の時期祖先の御霊を祀る社とした。
神輿蔵庫平成十二年一月吉日(2000)新築完成
     平成十一年十二月記す 生麦 杉山神社 社務所


【菊名神社】横浜市港北区菊名6-5-14
 旧橘樹郡菊名村にあった杉山神社が合祀されています。

 菊名総鎮守 菊名神社
御祭神
 誉田別命 天照皇大神 日本武尊
 木花咲耶姫命 武内宿禰命
由緒
 社伝によると室町時代初期、私達の祖先はこの地に鎌倉・鶴岡八幡宮より御神霊を勧進し社殿を建立、その後、幾星霜を経て昭和十年八月、各村に祀られていた神明社・杉山神社・阿府神社・浅間神社を合祀して「菊名神社」と改称、昭和三十二年には社殿の改修とともに神楽殿及び社務所を建設し、住民のあらゆる交流と青少年の研修の場として地域と共に発展してまいりました。
 平成九年五月には二十一世紀にあう近代的な神楽殿及び参集殿を築きました。さらに平成二十三年十一月には、社伝を改修致しました。


  がまんさま
 寛政年間(一七八九年-一八〇一年)に築かれたと言われますが、その後嘉永四年九月に修理され、昭和三八年復元された。
 四体のうち一体だけ昔のまま残されたようです。手水鉢を支える四体の鬼の石像は長い年月苦難な事も同じ仕事にも飽きることなく不平も言わずジッと忍耐して手水鉢を守り通している雄々しい姿は人の進むべき道を諭している菊名の古い文化財の一つです。大切にいたしましょう。


【八杉神社】横浜市港北区大豆戸町239
 旧橘樹郡大豆戸(まめど)村字大西にあった杉山神社が合祀されています。

 八杉神社
「由緒沿革」
 大豆戸町には古くより、字安山の八王子社と字大西の杉山神社が鎮座していました。
 神社制度の改革に伴い、神社の尊厳保持、祭祀の厳修を計るため昭和二十二年、八王子社に杉山神社を合併し、八杉神社を創立した。
 以後も当町氏神様として五穀豊穣、家運隆盛、商売繁盛、無病息災、厄難消除等の神として御霊験あらたかにましまし、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ、文化の生みの親神であられます。
「鎮座地」港北区大豆戸町二三九
「祭神」 国狭槌命 大山祇命 日本武尊
「境内社」天満宮 羽黒大明神 神明社 三嶋大明神
               氏子中


  八杉神社【拝殿横にあった旧由緒】
 大豆戸町安山鎮座八王子社御祭神国狭槌命、大山祇命、外人神日本武尊、当社創立については詳らかでないが、武蔵風土記に記載の通り古くより同所の鎮守として崇敬を集めて居る古社である。信者制度の改革に伴い神社の神社の尊厳保持、祭祀の厳修を計るため杉山神社を八王子社へ合併し、八杉神社を創立した以後も当町氏神様として五穀豊穣、家運隆盛、商売繁昌、無病息災、厄難消除等の神として御霊験あらたかにまし々、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ文化の生みの親神であられます。


【(22)岸根杉山神社】横浜市港北区岸根町377
 旧橘樹郡彦根村にあった杉山神社と山王宮が合祀されています。

  碑文
祭神 五十猛命 杉山神社
   大山祇命 山王宮
杉山神社由来
 今を去る大永五年九月(西暦一五二五年)伊豆の国の住人岩田五郎右エ門がこの地に移住した時鎮守として勧請したと伝える。
 尚大正十三年十月(西暦一九二四年)山王山に鎮座せし山王宮由来不詳祭神大山祇命を合祀。
 昭和五十五年十月(西暦一九八〇年)社殿を新築し今日に至る。


【熊野神社】横浜市神奈川区東神奈川1-1
 旧橘樹郡斎藤分(さいとうぶん)村にあった杉山神社が合祀されています。境内社には、金刀比羅社、大鳥社、稲荷社、香取社、鹿島社が合祀されていました。


  神奈川熊野神社(熊野権現)御由緒
旧社格郷社(明治十七年四月四日列格)・鎮座地 横浜市神奈川区東神奈川一丁目一番地御祭神(主祭神)国常立命(くにとこたちのみこと) 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと) 伊邪那美尊(いざなみのみこと)
   (合祀神)天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 大己貴命(おおあなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこのみこと)
        武御名方命(たけみなかたのみこと) 五十猛命(いそたけるのみこと) 大物主命(おおものぬしのみこと) 倉稲魂命(うかのみたののみこと) 速玉男命(はやたまのおのみこと) 船玉命(ふなたまのみこと)
    御由緒概要
 当社の御創建は寛治元年六月十七日(一〇八七年)醍醐三宝院勝覚僧正が紀伊国(和歌山県)牟婁(むろ)郡熊野に()す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮主として、熊野三社大権現と号し奉る。
 口碑によれば、後三年の役に源義家公社参せられ、帰途再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝えられる。その後応永五年、山賊等のため社祠を焼かれ、僅に草祠ばかりが存していたが、明応三年六月(一四九四年)上田蔵人が普請奉行となり、宏壮なる社殿が再建せられた。また、永正七年六月二十日(一五一〇年)権現山合戦の(みぎり)、兵火に(かか)り、烏有(うゆう)に帰してしまった。次で天正五年六月(一五七七年)時の別当恵賢僧都(えけんそうづ)等が相はかり社殿を建立奉る。
 天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、別当が社前に祷し秘伝を修し奉りしことなど、徳川家との関係が深く、別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈祷の宝牘(ほうとく)(おふだ)を献上し奉ったと伝えられる。その後、正徳二年六月(一七一二年)山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ(うつ)し奉り、旧地には小祠を安置し社地三反八畝十歩を有していたが明治四年之を上地す。慶応四年一月七日(一八六八年)神奈川大火により烏有に帰したが、逐時再建整備し、明治十七年に郷社に列せられ明治四十年四月神饌幣帛料供進社に指定せらる。昭和十一年八月御鎮座八百五十年祭を斎行、二十数台の山車(だし)が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。昭和二十年五月二十九日戦災により焼失、(あまつさ)え境内をも駐留軍に接収せられたるため、やむを得ず西神奈川一丁目(二ツ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉斎す。同二十七年八月宮神輿を奉製、その後接収解除となり、再建復興に努め、同三十八年八月現社殿を完成遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌三十九年八月竣工奉祝祭を執行した。その後四十一年十一月。地区内戦没者慰霊碑を建立、同四十九年八月再建十周年記念事業として舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。昭和六十一年、御鎮座九百年祭に当り記念事業奉賛会を結成し、氏子二十四ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、神輿、神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し、社域の整備を達成した。謹んで御事歴の概要(あらまし)を誌し奉る次第であります。
                (宮司 照本 力記)


御神木 公孫樹
  樹令四百年 昭和四十八年 横浜市名木古木指定
 慶応四年(一八六八年)神奈川県大火昭和二十年(一九四五年)戦災に焼失したが見事に再生し、毎年秋にはギンナンがみのり、俗に「火防のイチョウ」として広く親しまれている。
            社務所


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 その他、本日撮影の写真です。

笠䅣(かさのぎ)稲荷神社】神奈川区東神奈川2丁目9-1
 京浜東北線の車窓から見えるので気になっていた稲荷社です。境内社にも稲荷社が2社ありました。御神木は、クスノキとイチョウです。


笠䅣稲荷神社(かさのぎいなりじんじゃ)由緒
鎮座地 神奈川県神奈川区東神奈川二~九~一
御祭神 宇賀之魂命(うがのみたまのみこと) [相殿]明治天皇 日本武尊(やまとたけるのみこと)
御神徳
 御祭神の宇賀之魂命は、「稲倉魂命(うがのみたまのみこと)」とも書き、或いは「保食神(うけもちのかみ)」とも申して、稲の豊穣を司り、食物を守護する神様です。我が国は往古より農業国であるため、人々は米を主食として生活し、篤く農耕の神様である稲荷神社を信仰してきました。また工業や商業が発達すると、稲荷神社の神徳は商売繁盛や家内安全へと広がりね衣食住の全てを守護する神様として信心されるようになりました。稲荷信仰は流行神(はやりがみ)として時代と共に幅広く普及していき、現在稲荷神社は全国で最も数多い神社として崇敬されています。
由緒沿革 天慶年間(九三八~九四七)に淳和天皇勅願所浦島院勧福寺の僧侶が、隣域の山腹(稲荷山)に社殿を建立し、伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられ、同寺の守護神・附近一帯の産土神(うぶすなのかみ)として崇敬を集めていました。文永十一年の蒙古来寇の折には、鎌倉の執権北条時宗が菊一の銘刀と神霊鈴を奉納して。国家の安泰を祈願したと伝えられます。
 戦国時代に兵火に罹災してしまったものの、永禄二年九月十九日に再興なって大祭を行い、元禄二年九月十九日には稲荷山の中腹より山麓に鎮座する運びとなりました。こりより神威が益々加わり、社前を通行する者の笠が資源と脱げて地に落ちたことから、「笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神」と使用するようになり、後に別当能満寺の阿闍梨が「笠脱」の一字を「䅣」と改め、「笠䅣(かさのぎ)稲荷大明神と改称しました。
 明治二年には旧社地が京浜間の鉄道敷設用地に接収されたため、現在地に移り、更に霊験あらたかとなって、同十七年九月二十五日「村社」の社格に列格し、大正十年九月十七日「神饌幣帛供進社」に指定されました。
 大正十二年の関東大震災により社殿が半壊に及び、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲には、社殿・神宝類の悉くを焼失する憂目を見たものの。終戦後にいち早く仮社殿を再建ししました。昭和五十四年十二月一日に新しい形式の社殿が完成すると共に、厳かに遷座祭が斎行され、平成元年の「御社殿造営十周年記念大祭」には、社前に玉垣が完成するに至りました。
例祭日 八月八日・九日(近年は八月八日・九日ら近い土曜日と日曜日)
境内社 古峯神社・祖霊神・庚申塔・地神塔・日露戦役記念碑
    板碑(鎌倉時代の慰霊碑)[横浜市指定有形文化財]
特殊神事 節分対儺式(ついなしき)(二月三日)[横浜市指定無形民俗文化財]
特殊信仰
 古くよりカサノギ稲荷さんにお参りすると、カサ(性病・婦人病)が治るという特殊な伝承があります。病気にかかった女性は土団子を作って神前に供え、お百度を踏んで祈願し、そして霊験を得て病気が治ると、団子を作ってお礼参りするという習慣が残っていて、病気平癒の御利益にも秀でています。
           笠䅣稲荷神社


【横浜一之宮神社】神奈川区入江1丁目13
 十六世紀に武蔵一宮氷川神社から勧請された神社が主体で、合祀神、境内社が多数です。冬至も近いことで辿り着いた時にはすっかり日も暮れていました。新子安から徒歩約5分と近いので、いずれ日の高いうちに再訪したいと思います。


横浜一之宮神社由緒
御鎮座 横浜市神奈川区入江一丁目十三番地3
御祭神 素戔嗚尊(建速須佐之男尊)を中心に
    事代主命(西宮神社)
    保食命(田甫、東浜、仲浜、西浜等の各稲荷社)
    面足惶根命(第六天社)
    水速迺売命(水神社)
    外の神様をお祭りして居ります。
歴史
 子安の地は神之木台遺跡、大口坂遺跡、その他があることから推察されるように縄文時代の昔より人間にとつて住みやすい環境が与えられた所でした。我々の祖先は海や山から自然の恩恵を受けて生活していたことでしょう。特に、この地は、現在でも海岸線を臨むことの出来る小高い丘ですが、近代に入り、海岸線を埋め立てるまではもう少し高い山でした。東海道沿いに展開した子安の浜の漁師にとって漁場を定める目印となっていたそうです。
 当然、漁師の信仰を集め、また、東海道沿線ということもあり古くから小祠を以ってお祭りしていたようです。
 その後、永禄四年(紀元二二二一年・西暦一五六一年)九月一日第百六代正親町天皇の御宇、武蔵国(埼玉県、東京都大部分、神奈川県東部)の一の宮元官幣大社氷川神社(埼玉県大宮市鎮座)の分霊を現在地に勧請したところから「一之宮大明神、一之宮明神社」等と称されて居ります。
 江戸時代徳川幕府の官撰地誌の最初である「新編武蔵風土記稿」にも収録され、白髭老神の伝説などもあり、連綿と祭祀が今も続いて居ります。
伝説の一例
 元禄三年(西暦一六九〇年)七月、村内に疫病が蔓延した折、入江川畔に白衣長髭の翁が現れ、「吾は一之宮大明神だが、近来氏子村民、敬神の念乏しく、社殿は大破し、祭祀を怠っているため、災禍が横行するのである。以降、祭祀の礼を厚くすれば疫病はなくなる。」と告げた。そこで神楽を奉し、神拝の式を行うと忽ち疫病がなくなったという。その他いくつもあります。
  平成六年八月吉日
      横浜一之宮神社奉賛会


【参考】
 【庚申塔(金澤山圓能院福泉寺)】川崎区小田1丁目25-12
 芦帆橋からみた鶴見川
 カワラバト Columba livia
 【開運地蔵尊】鶴見区潮田町3丁目131
 【岸谷庚申堂】鶴見区岸谷4丁目3
 【稲荷社】鶴見区岸谷1丁目22
 【福寿辨財天】鶴見区岸谷1丁目22-12
 菊間カーボン山
 ベニバナトキワマンサク Loropetalum chinense var. rubra
 【横濱六角橋郵便局】神奈川区六角橋1丁目4-1

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

【本日の主な経路】
JR八丁畷駅-日枝大神社(境内社)-潮田神社-(36)鶴見神社-(37)生麦杉山神社-菊名神社-八杉神社-(22)彦根杉山神社-熊野神社-JR仲木戸駅

川口神社のおかめ市

 埼玉県南部では12月が酉の市の季節です。今日15日は川口神社の酉の市『おかめ市』の日でした。


  川口神社
 川口神社は、社伝によると平安時代の天慶年間(938-947年)、武蔵国足立郡司武芝によって武蔵一の宮大宮氷川神社わり分祀勧請したものと伝えられています。当社はもと、氷川大明神と称し、昔から領主や民の崇敬をあつめてきました。江戸時代には、産土神として西宝山大慈院延命寺を別当寺とし、また、名主宇田川家によって社殿の再建や修造がなされました。
 明治42年2月26日、鋳物師の神として字塚越に祀られていた金山神社を合祀して、「川口神社」となりました。11月19日は金山神社ま祭礼で「裸踊り」や「寒踊り」と称して、鋳物職人たちが器量の上達を願い、裸や素足で参拝しました。

武蔵一之宮氷川三社を巡る


 12月10日は大湯祭(だいとうさい)という神事が武蔵一之宮氷川神社で執り行われる日です。もっとも氏子ではない庶民にとっては、この日に開かれる酉の市『十日市(とおかまち)』の方が大切で、私が小学生だった50年ほど前には、氷川神社を学区とする母校大宮市立北小学校では、この日は半ドンとなって、学校公認の下、みんなで十日市に出かけたことを今でも鮮明に覚えています。
 半世紀経つと、十日市の様子も随分と変わって、台所用品、大工道具などの日用品やコイ、フナ、ドジョウなど川魚の活魚販売は殆ど見られなくなりましたが、いつもとは違ったハレの日の雰囲気はいまでも変わりません。どことなく「何かが道をやってくる」に通じるものがあります。
 さて、そんな十日市の今日、旧北足立郡を中心にして200社はあると言われる氷川神社の中でも三社一体となっているという説のある武蔵一之宮氷川神社、中氷川神社(中山神社)、氷川女體神社の三社を廻ってみました。この三社を結んだラインはほぼ直線で真北からの角度が120度方向となっており、冬至の日の出方向(あるいは夏至の日没方向)とほぼ一致することが知られています。この配置の解釈についてはオカルティックな情報もあるようですが、今日は十日市のオプションとして三社を廻ってみました。

【武蔵一之宮氷川神社】大宮区高鼻町1丁目407
 まずは、実家の近くの氷川神社です。祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)の三柱で、かつては境内に3社あったと言われています。現在でも境内社は多数あります。


 境内社については、氷川神社のウェブサイトに詳しいので省略しますが、古代神とされる荒脛(あらはばき)神が門客人(もんきゃくじん)神社に祀られています。


(元)大宮市立大宮北小学校 校歌
 氷川の森の夕映えに 故郷(ふるさと)の歴史を数え
 大いなる未来を夢見 弛まなく学び勤しむ
 ああ大宮 大宮北小学校
【記憶に頼っているので間違いがあるかも知れません。】


【中山神社】見沼区中川143
 祭神は氷川神社と同じ三柱ですが、記載順が、大己貴命、素盞嗚命、稲田姫命と息子である大己貴命を筆頭としています。新編武蔵風土記稿によれば、素盞嗚命、稲田姫命の2柱はかつて境内社として祀られていたようです。この様なことから、簸王子社とも言われているそうです。境内社として、稲荷大明神、荒脛(あらはばき)神社があり、相殿には、神明社、飯成(いなり)社、淡嶋(あわしま)社、疱瘡(ほうそう)守護社、(いわい)神社、石上(いそのかみ)社、(かまど)神社、稲田宮主社の八社が祀られていました。


  中山神社
             所在地 さいたま市中川一四三
 中山神社は、かつて中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守である。創建を人皇十代崇神天皇の御代二年と伝えられる古社である。明治四十年七月。神社合祀の際に社名を現在の中山神社に改められたが、今でも通称は「中氷川神社」で通っている。「中氷川」の由来は一説には、見沼に面した高鼻・三室(浦和)・中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、()王子宮を祀り、当社が高鼻(男体)、三室(女体)の中間に位置したところから付けられたという。
 天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康から社領十五石の御朱印を賜った格式のある神社である。
 当社の祭礼の中でも、毎年十二月八日に行われた鎮火祭は特に有名で、焚き終わった炭火の上を素足で渡り、無病息災及び火難がないように祈願するものである。ただし、近年は事情によりこの行事は中断している。
 現社殿の裏側には旧社殿が保存されているが、これは桃山様式をもつ市内最古の建造物として大宮市指定文化財となっている。
  昭和五十九年三月 さいたま市


大宮市指定文化財建造物
 中山神社旧社殿
       指定 昭和四十五年八月一日
 中山神社は、古くは氷川社と称し大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る旧中川村の鎮守で、大宮市高鼻町の氷川神社と浦和市三室の氷川神社の中間に位置するため、中氷川神社とも呼び慣わされてきました。明治の終わりに山の山村神社などを合祀して現在の社名に改めました。境内では十二月八日に神事の「鎮火祭」が執り行われていましたが、現在は社殿前に建立された「御火塚」と記された小さな石碑がその名残を留めているにすぎません。この鎮火祭の火によって「中氷川」の氷が溶けてしまい、この地を中川と呼ぶようになったともいわれています。
 旧社殿は、板張り床の外陣に至る階段を設け、祭神を安置する母屋前方の屋根を、角度を変えて軒先よりさらに長くして、反りを付した板葺きの二間社です。また、社殿側面床板には脇障子や端の反り返った欄干がついていた痕跡が見受けられます。このような造りを「流造り」といい、一間社で社殿正面の階段や脇障子のないものを「見世棚造り」といい、社殿のもとになる型です。この旧社殿は簡素な板葺の「見世棚造り」が二間社となり、階段などを装飾して「流造り」に発展していく過渡期の建造物といえます。桃山期のものと考えられ。県内に現存する社殿でも古い形式に入り、市内では最古のものであり、建築学上大変貴重な資料です。
  平成三年三月
                 大宮市教育委員会


【武蔵国一ノ宮氷川女體神社】緑区宮本2丁目17
 主祭神が奇稲田姫命、配祭神は息子夫婦である三穂津姫命(みほつひめのみこと)と大己貴命となっています。


武藏國一宮 氷川女體神社
         さいたま市緑区宮本ニ-一七-一
□御縁起(歴史)
 当社は、旧見沼(みぬま)を一望できる台地の突端「三室」に鎮座する。見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保十二年(一七二七)の新田開発までは、一二平方キロメートルという広大なものであった。この沼は御手洗(みたらし)として当社と一体であり、ここに()す神は女體神、すなわち女神であった。
 創建の由緒は明和四年(一七六七)に神主武笠大学の記した『武州一宮女體宮御由緒書』(大熊家文書)によると、「崇神帝之御勧請」「出雲国大社同躰」とある。また『神社明細帳』控には、見沼近くにある当社と現在のさいたま市大宮区高鼻町鎮座の氷川神社、同市中川鎮座の中山神社(氷王子(ひのおうじ)社)の三社を合わせ氷川神社として奉斎したと載せる。
 中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(みつうろこもんひょうごくさりたち)北条泰時(ほうじょうやすとき)の奉納と伝える。
 祭祀は御船(みふね)祭と称し、隔年の九月八日に見沼に坐す女神に対して行われた。しかし、古来より続けられてきた御船祭はね享保十二年(一七二七)見沼新田の開発が始められたため。沼中の祭祀が不可能になった。このためやむをえず磐船(いわふね)と称し、沼跡の新田の小山を築き、船形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし、同十四年(一七二九)九月から斎行された。下山口新田には、祭場遺跡として「四本竹(しほんだけ)」の地名が残るが、近年の発掘調査では多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。
 社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹叢であることから、昭和五十六年に埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定された。
□御祭神
奇稲田姫(くしいなだひめ)命・大己貴(おおなむち)命・三穂津姫(みほつひめ)
□御祭日
・歳旦祭(一月一日)      ・祈年(きねん祭(二月十八日)
・祇園磐船龍神祭(五月四日)  ・名越大祓(なごしおおはらえ(七月三十一日)
・お日待(ひまち(十月七日)      ・例大祭(十月八日)
・新穀感謝祭(十一月二十三日)


 この竜神社には、さいたま市の竜伝説に因んだ竜神様が御座(おわ)します。
 かつて広大な沼であった見沼の辺のここ武蔵一宮氷川女體神社には、長年に亘り、神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、沼の主である竜神様を祭る祭祠『御船祭(みふね)』を執り行ってまいりました。享保十二年(一七二七)八代将軍吉宗公の政策で見沼は干拓され、「見沼田んぼ」となってからこのお祭りは『磐船祭(いわふね)』として今尚続けられております。遺跡によれば御船祭は十四世紀から行われていたとも推定されます。
 世界最古の閘門祭(こうもん)式運河ともいわれる見沼通船掘など、見沼には数々の歴史財産が秘められております。見沼を中心としてさいたま市内に点在する数多くの竜神伝説もその一つと言えます。
 見沼代用水のと見沼代用水から西へと引いた高沼用水、その二つの灌漑用水で田畑を耕す地域と見沼に関わる地域はほぼさいたま市全域に及んでいます。
 さいたま竜神まつり会は『文化と歴史を生かした誇りのもてるまちづくり』を目的として平成十三年(二〇〇一)五月に約五十mの巨大な昇天竜を制作し『竜神まつり』を開催致しました。
       さいたま竜神まつり会


 その他、本日撮影の写真です。

【(大門町)稲荷社】大宮区大門町1丁目17
 すずらん通りの横丁にあります。御神木はカヤの樹です。


【多子稲荷】大宮区土手町2丁目97
 氷川神社から西へ300m程に位置する稲荷神社です。かつて通っていた小学校への通学路にあるのですが、今日初めて境内に入りました。確か、境内には同級生のNくんの家があった筈ですが、今は誰も住んでいませんでした。

  稲荷神社 御由緒
 当社は、一般「多子稲荷神社」として知られており、旧土手宿村の鎮守として祀られてきた社である。勧請の時期は定かでないが、京都の伏見稲荷大社の分霊を祀ったものと伝えられ、現在の本殿は天保四年(一八三三)の建立であることが現存する棟札からわかる。また、この棟札には「奉正遷宮正一位多子稲荷大明神」とあることから、当時既に正一位の神階を受けていたことがうかがえる。
 明治四年に村社となり、同二十七年に村の南方に当たる字西耕地から字下東耕地に移転した。これが現在の社地であり、移転当時は社殿は西向きで参道は荷車が通れるほどの幅で中山道に抜けていた。ちなみに、この移転地は、鉄道の敷設に際し、旧社地がその用地にかかり、社殿に蒸気機関車の出す煤煙や火の粉が降り注ぐようになったため、やむなく行われたものである。その後、昭和二十八年に至って社殿を南向きに改め、当社は今日見られるような姿になった。
 『風土記稿』では、当社は「村民の持」とされており、祀職に関する記載はないが、棟札等の記録によれば武蔵一宮神社社家の西角井(にしつのい)家が少なくとも天保年間(一八三〇-四四)以来五代にわたって祭祀を行ってきたことがわかる。
□御祭神と御神徳
倉稲魂(うかのみたま)命・・・五穀豊穣、商売繁盛
□御祭日
・初午(三月初午)


【埼玉県護国神社】大宮区高鼻町3丁目149
 大宮公園に隣接する神社で、中学校への行き帰りに毎日通りすがったのですが、ここも境内に入ったのは初めてでした。


  由緒略記
鎮座地 さいたま市大宮区高鼻町三丁目一四九番地
祭神 鳥羽伏見の役以後の國事に殉じた埼玉県関係の英霊五万一千余柱を祀る
沿革
 昭和九年四月九日埼玉県招魂社として設立鎮座し、同十四年三月神社制度の改正により、埼玉県護國神社と改称され四月に指定護國神社となり、例大祭には神饌幣帛の供進がなされたことになった。同二十一年二月神社制度のの変革により宗教法人埼玉県護國神社と改められ更に同二十三年十月埼霊(さいたま)神社と改称、同二十七年再び埼玉県護國神社と改称し現在に至る。昭和三十年一月奉賛会が設立せられ以来年々の例大祭は埼玉県民挙て厳粛盛大に行っている。
皇室の御崇敬
 昭和九年鎮座に際し、天皇陛下の畏き祭粢料御下賜があり、朝香宮殿下の御参列があった。以来、天皇陛下を始め皇族の祭粢料御奉納は度々に及び、
昭和三十八年九月 皇太子殿下参拝
昭和四十三年十月 天皇、皇后両陛下御同列の御参拝を賜った。
平成五年五月 天皇、皇后両陛下御同列の御参拝を賜った。


【白山神社/稲荷神社】大宮区堀の内町2丁目
 狭いながらよく手入れされた居心地に良い空間です。


【大宮稲荷神社】大宮区堀の内町2丁目
 ここも広い境内ではありませんが、御神木のヒノキが見事です。


大宮稲荷神社 本社改築記念碑
 故岩井新太郎主は當社并に白山社尓盡せし功大なり依て其德を頌す。
 當社の由緒創立等は明ならね登大宮稲荷と稱へ奉る所よ里考ふれば大宮驛の開かれし頃より鎮末り末し境内もい登夛かりしに神社制度の布かれし折書き洩ら左され境内も消滅尓歸志村社にも列せざ里しが年々乃御祭のみは仕へ奉りしを岩井銀太郎岩井力藏進藤治郎?主等思ひ起し十八名と語らひて拾七歩の境内を明治二十六年六月二十一日大宮町より買受け四十四年二月十四日進藤儀一郎主より山林二十八歩を取添へまは里しも今や社殿朽腐尓属したるを憂ひて岩井喜代?主は篤き志以て本殿を改築し基本財産并尓記念碑壹基をも捧げまつりぬよ里て後の世乃鑑ともなるべく篤志の人達乃氏名を誌し置くになむ。
 大正三年(1914年)三月九日
          御社尓因縁ある
              物部正男謹誌


【大間木氷川神社】緑区東浦和5丁目19
 本殿は高鼻鎮座の氷川神社の旧本殿とのことで、稲荷社二社と石神社が合祀されているそうです。


氷川神社 御由緒
         さいたま市緑区東浦和五-二〇-二
□御縁起(歴史)
 『風土記稿』大間木村の項に。当社は「氷川社 当村及び大間木新田・大牧(おおまき)附島(つきしま)等四か村の鎮守なり、附島村民の持、末社 第六天社、牛頭天王(ごずてんのう)疱瘡(ほうそう)神、天神社、八幡社、荒神社、稲荷社、神明社、別当三光院本山派修験、中尾村玉林院配下なり、本尊不動を安ず。長一尺五寸(ばかり)、智證大師の作と云、什物(じゆうもつ)笈一(おいひとつ) 亀井六郎奥州下向の物なりと云(以下略)」と記されている。
 往時別当であった三光院の末裔(まつえい)である仲田家には『風土記稿』にも挿絵の載る室町期の優れた漆工芸である椿紋鎌倉彫笈(県指定文化財)が残されている。笈とは、行脚僧(あんぎゃそう)修験者(しゅげんじゃ)などが仏具・食物・衣類などを入れて背負う箱のことで、『風土記稿』では源義経の家来である亀井六郎重清にちなむものであるとしている。この真偽は定かでないが、亀井六郎の屋敷跡とされる所が三光院の本寺に当たる玉林院が所在した中尾村にあったと伝えられている。この笈を背負った三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、当社の創建も室町期までさかのぼることが推測される。
 市指定文化財となっている一間流造りの当社本殿は『明細帳』によると、寛文七年(一六六七)三月に武蔵国一宮(いちのみや)氷川神社が再建された際、旧本殿を買い受けたものである。
 なお、いつのころか稲荷社二社と石神社を当社に合祀したという。
□御祭神と御神徳
素戔嗚(すさのお)尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛
□御祭日
・初拝み(一月一日) ・例大祭(七月二十三日)


【主な経路】
大宮駅-(宮町)稲荷社-多子稲荷-護国神社-(武蔵一之宮)氷川神社-白山神社/稲荷社-大宮稲荷神社-中山神社-氷川女體神社-大間木氷川神社-東浦和駅


【参考】
 こりすのトトちゃん
 カヤ Torreya nucifera
 イロハモミジ Acer palmatum
 アカシデ Carpinus laxiflora
 青木昆陽先生の碑
 マーガレットアイビー Senecio macroglossus
 サカキ Cleyera japonica
 サザンカ Camellia sasanqua

みなとみらい地区で…

 本日、外勤で横浜へ。昼休みに時間があったので、あたりを散策しました。


【参考】
 ランドマークプラザ
 ジャノメエリカ Erica canaliculata
 エリカ・コロランス ‘ホワイト・デライト’Erica colorans‘White delight’
 ランドマークタワー
 横浜三塔
 キングの塔(神奈川県庁本庁舎)
 クイーンの塔(横浜税関)
 ジャックの塔(横浜市開港記念会館)
 クロスゲート前
 重要文化財 帆船日本丸
 海鳥達の風(峯田義郎作)
 ユリカモメ Larus ridibundus

杉山神社を巡る-番外編:杉山弁天

 嚴島神社といえば安芸の宮島ですが、横浜にも2社あります。祭神から見ても横浜市周辺に分布する杉山神社とは明らかに別系統ですが、かつて杉山弁天と呼ばれたそうです。今日は大桟橋に用事があったので、その帰りに武蔵の嚴島神社を訪ねました。


【(羽衣町)嚴島神社】横浜市中区羽衣町2-7-1
 これまで何度か尋ねたこともある横濱辨天です。鳥居の扁額にも『横濱辨天』と書いてありますが、石碑の銘にもある『嚴島神社』が正式名称のようです。境内に由緒書きはないのですが、元町嚴島神社の由緒書きから類推すると安芸の嚴島神社の系統であると思われます。境内社は、銭洗弁天社と豊受稲荷神社です。


【元町嚴島神社】
 これまで由緒書きを真剣に読んでいなかったのですが、改めて読んでみますと、横濱辨天の別当が起源であることがわかりますし、祭神は安芸の嚴島神社と同じ宗像三女神です。御神木のイチョウは、横浜市指定名木古木201041になっています。


元町嚴島神社縁起
 当神社は、今から約七〇〇年前より元横浜洲干島に鎮座していました清水弁天、洲干島弁天を、元禄年間に合祀し、元町一丁目の増徳院仮殿に御神体を奉安していました。しかし明治維新の神佛混淆の禁止により、増徳院から分離し、嚴島神社(いつくしまじんじゃ)として元町一丁目十五番地に社殿を造営、元町の鎮守様となりました。
 御祭神は、市杵島姫君(いちきしまひめのみこと)、多紀理姫命(たぎりひめのみこと)、多岐都姫命(たきつひめのみこと)の弁天三神と、当地に祀られていた木花開耶比売命(このはなさくやひめのみこと)を合祀し、嚴島神社の御祭神としてお祀りしております。社殿は関東大震災により焼失しましたが、御下賜材により仮殿を建設し、昭和初期、当地に遷座し再建されました。第二次世界大戦でまたもや灰燼に帰しましたが、昭和三十六年に氏子崇敬者の熱意により社殿を建立し今日にいたっています。
 嚴島神社は、商売繁盛、合格祈願、縁結びの神様でもあり、元町の発展隆盛の守護神であります。境内には末社として金刀比羅宮と、当地の名主であった石川家で奉祀されていた皇太神宮を遷座しお祀りしております。


 以下、杉田まで戻る途中で撮影したその他の写真です。

【石川町諏訪神社】横浜市中区石川町4丁目164
 随分と日が短くなったもので、石川町駅を過ぎる頃には日が沈んでいきました。


   諏訪神社由緒
 当石川町に鎮座の諏訪神社は、文明十三年(室町時代)の創立です。
 当時現在により高所に小祠があり、諏訪神社と号されて附近一帯の住民からの崇敬篤く燈明の絶えないことから石川河岸を出入りする漁船の目標となったこと『武蔵風土記久良岐郡石川村の章』に見えます。
 災害により社殿消失という不幸を経ましたが、現在三千戸の氏子を有し昭和三十八年八月には新社殿の再建もなり「はまのお諏訪さま」と親しまれ氏子と共に存続発展し続けています。
御祭神 建御名方命 たけみなかたのみこと
祭礼     一月一日    元旦祭
豆まき    二月三日    節分祭
春のおまつり 二月十七日   祈年祭
夏のおまつり 八月第一土曜日 例大祭
       十一月     七五三祈願祭
秋のおまつり 十一月二十三日 新嘗祭
毎月     一日と十五日  月並祭


【八幡橋八幡神社】横浜市磯子区原町10-9
 氷川明神が合祀されているとのウェブ情報があります。多摩川から南にはほとんど分布のない氷川神社ですので、もしそうであれば最南端の氷川神社かも知れません。
–> 出展は『書上(1823年)』のようです。
【文献】磯子区制50周年記念事業委員会(1978)、磯子の史話、p.380.


根岸旭台のレストラン『ドルフィン
 アルバム『ミスリム』に収録された名曲『海を見ていた午後』のモデルとなったとされるレストランです。

海を見ていた午後
 作詞作曲:荒井由実

あたなを思い出す この店に来るたび
坂を上って きょうもひとり来てしまった
山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える

ソーダ水の中を 貨物船がとおる
小さなアワも恋のように消えていった

あのとき目の前で思い切り泣けたら
今頃二人 ここで 海を見ていたはず
窓をほほをよせて カモメを追いかける
そんなあなたが 今も見える テーブルごしに

紙ナプキンには インクがにじむから
忘れないでって やっと書いた遠いあの日


根岸山大聖院覺王山の子育地蔵尊