杉山神社を巡る-Part9 東部9社

 今日は、鶴見区周辺の杉山神社縁の社を廻ってみました。この地区は、杉山の名前が残っていない社の多いことが特徴です。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 日枝大神社(境内社):川崎市川崎区小田2-14
 潮田神社     :横浜市鶴見区潮田町3-131-1
 (36)鶴見神社   :横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
 (37)生麦杉山神社 :横浜市鶴見区岸谷1-20-61
 菊名神社     :横浜市港北区菊名6-5-14
 八杉神社     :横浜市港北区大豆戸町239
 (22)岸根神社   :横浜市港北区岸根町377
 熊野神社     :横浜市神奈川区東神奈川1-1


【日枝大神社】川崎市川崎区小田2-14
 旧橘樹郡小田村にあった杉山神社が本殿向って右側の境内社である八王子社に合祀されています。合祀社は、稲荷神社、浅間神社、神明社、杉山社、子神三峯合社、大鷲神社と扁額に記載されていました。


潮田(うしおだ)神社】横浜市鶴見区潮田町3-131-1
 旧西潮田村にあった御嶽社と旧東潮田村にあった杉山社が合祀されています。旧杉山社の境内社だった稲荷社も潮田稲荷社として移設されています。

  潮田神社
御由緒  横浜市鶴見区潮田町三-一三一-一
 当社は、大正初期、京浜工業地帯の一大発展に伴い、耕地整理・区画整理による街造りのため。西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正九年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。社伝に依れば、景行天皇四十年、日本武尊が東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村の古杉老松の鬱蒼たる地に小祠を建て、国土の神「国常立命」、「豊雲野命」、「国狭槌命」を奉斎し、征途の無事安全を祈願したことが始まりと伝えられます。
 中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、北条氏の信仰崇敬に殊に厚いものがありました。正親町天皇の御世永禄の頃太田道灌の曾孫太田新六郎康資の領地神社として、たびたび修復されたことが、東潮田村の杉山社に残る御神鏡からうかがうことができます。
 また、正保年間に至り、地頭松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築し、寛文十年、幕府社領一段四畝二十歩を寄進したことが御嶽大権現と改称された西潮田村の御嶽社の棟札、鳥居等にのこされています。
 由来、東のお宮、西のお宮と親しまれ、特に土地が海浜であったため、房総漁民船が大漁祈願に立ち寄るなど、潮田村及び遠近の村里沿岸一帯の鎮護となりました。
明治四十二年八月
 御嶽社(国常立命・豊雲野命・国狭槌命 奉斎)に四社を合祀
    神明社 (井田方鎮座・弥都波能賈神 奉斎)
    須賀社 (井田方鎮座・素戔嗚命 奉斎)
    菅原社 (向原鎮座。菅原道真公 奉斎)
 杉山社(五十猛命 奉斎)
    白山社 (浜端鎮座・岐久理比賈命 奉斎)
    厳島社 (弁天下鎮座・市寸島比賈命 奉斎)
    若宮八万(上居村鎮座・誉田別命 奉斎)
大正八年
 御嶽社と杉山社を合併
大正九年
 一月、潮田神社と改称、四月現在地に鎮座 杉山社の境内稲荷社も移転六月五日、社伝御造営竣功奉斎祝祭斎行、例祭日となる。
御祭神
・国常立命(くにとこたちのみこと) 国土を守る神
・五十猛命(いたけるのみこと)   殖産・商工業・樹木の神
・素戔嗚命(すさのおのみこと)   病気平癒・厄除・造船海運・恋愛の神
・豊雲野命(とよくもぬのみこと)  土を豊かにする神
・国狭槌命(くにのさづちのみこと) 国土の発育を守る神
・豊受比賈命(とようけひめのみこと)食物、養蚕、織物など全ての工業営業を守る神
・岐久理比賈神(くくりひめのみこと)
・誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)武芸・安産の神
・菅原道真公(すがわらみちざねこう)学業の神


【(36)鶴見神社】横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
 旧橘樹郡鶴見村にあった杉山神社が合祀されています。境内社は右奥から、浅間神社、清明宮、祖霊社、関神社、秋葉神社、稲荷神社、大鳥神社となっています。


【(37)生麦杉山神社】横浜市鶴見区岸谷1-20-61
 ここでは杉山の名前が残されていました。境内社として稲荷社2社と祖霊社があります。

   杉山神社 略記
生麦 大黒町 岸谷 中央5 総鎮守 杉山神社
鎮座地 横濱市鶴見区岸谷一丁目二十番六一号
           (旧生麦一八四五番地)
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
祭礼日 八月一日(現在は八月の第一土・日)
境内地 七百七拾六坪
   付記
 御祭神は第十二代景行天皇の皇子として生まれ終生この国の統一と民の安泰の為につくされ尊を讃える歌に、
蝦夷(えぞ)熊襲(くまそ)しずめ給えし皇王子(すめみよ)のたけきいさお千代にかがやく」の如くであります。
   由緒
 当社の設立は古くて判りませんが、元本村にあったが天正二年(1574)に当村々社に同年八年に現地に設立されたと伝えられており、元禄十六年*万延元年に再建されるとあり、(昭和四十九年(1974)に御鎮座四百年祭を斎行)現社殿は昭和十二年に着工し十四年に竣工した。
 境内に、手水水盤に享保九年六月吉日
     石造鳥居に天明元年六月吉日の年号の彫刻が在る。
 高い石段は生麦沖に沈んだ石を村人達が引き上げ神社の階段を作る。明治十年に完成。 神楽殿(かぐらでん)は前社殿。
祖霊社
 戦後すぐ戦没英霊を祀る社を設立、当時終戦直後の時期祖先の御霊を祀る社とした。
神輿蔵庫平成十二年一月吉日(2000)新築完成
     平成十一年十二月記す 生麦 杉山神社 社務所


【菊名神社】横浜市港北区菊名6-5-14
 旧橘樹郡菊名村にあった杉山神社が合祀されています。

 菊名総鎮守 菊名神社
御祭神
 誉田別命 天照皇大神 日本武尊
 木花咲耶姫命 武内宿禰命
由緒
 社伝によると室町時代初期、私達の祖先はこの地に鎌倉・鶴岡八幡宮より御神霊を勧進し社殿を建立、その後、幾星霜を経て昭和十年八月、各村に祀られていた神明社・杉山神社・阿府神社・浅間神社を合祀して「菊名神社」と改称、昭和三十二年には社殿の改修とともに神楽殿及び社務所を建設し、住民のあらゆる交流と青少年の研修の場として地域と共に発展してまいりました。
 平成九年五月には二十一世紀にあう近代的な神楽殿及び参集殿を築きました。さらに平成二十三年十一月には、社伝を改修致しました。


  がまんさま
 寛政年間(一七八九年-一八〇一年)に築かれたと言われますが、その後嘉永四年九月に修理され、昭和三八年復元された。
 四体のうち一体だけ昔のまま残されたようです。手水鉢を支える四体の鬼の石像は長い年月苦難な事も同じ仕事にも飽きることなく不平も言わずジッと忍耐して手水鉢を守り通している雄々しい姿は人の進むべき道を諭している菊名の古い文化財の一つです。大切にいたしましょう。


【八杉神社】横浜市港北区大豆戸町239
 旧橘樹郡大豆戸(まめど)村字大西にあった杉山神社が合祀されています。

 八杉神社
「由緒沿革」
 大豆戸町には古くより、字安山の八王子社と字大西の杉山神社が鎮座していました。
 神社制度の改革に伴い、神社の尊厳保持、祭祀の厳修を計るため昭和二十二年、八王子社に杉山神社を合併し、八杉神社を創立した。
 以後も当町氏神様として五穀豊穣、家運隆盛、商売繁盛、無病息災、厄難消除等の神として御霊験あらたかにましまし、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ、文化の生みの親神であられます。
「鎮座地」港北区大豆戸町二三九
「祭神」 国狭槌命 大山祇命 日本武尊
「境内社」天満宮 羽黒大明神 神明社 三嶋大明神
               氏子中


  八杉神社【拝殿横にあった旧由緒】
 大豆戸町安山鎮座八王子社御祭神国狭槌命、大山祇命、外人神日本武尊、当社創立については詳らかでないが、武蔵風土記に記載の通り古くより同所の鎮守として崇敬を集めて居る古社である。信者制度の改革に伴い神社の神社の尊厳保持、祭祀の厳修を計るため杉山神社を八王子社へ合併し、八杉神社を創立した以後も当町氏神様として五穀豊穣、家運隆盛、商売繁昌、無病息災、厄難消除等の神として御霊験あらたかにまし々、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ文化の生みの親神であられます。


【(22)岸根杉山神社】横浜市港北区岸根町377
 旧橘樹郡彦根村にあった杉山神社と山王宮が合祀されています。

  碑文
祭神 五十猛命 杉山神社
   大山祇命 山王宮
杉山神社由来
 今を去る大永五年九月(西暦一五二五年)伊豆の国の住人岩田五郎右エ門がこの地に移住した時鎮守として勧請したと伝える。
 尚大正十三年十月(西暦一九二四年)山王山に鎮座せし山王宮由来不詳祭神大山祇命を合祀。
 昭和五十五年十月(西暦一九八〇年)社殿を新築し今日に至る。


【熊野神社】横浜市神奈川区東神奈川1-1
 旧橘樹郡斎藤分(さいとうぶん)村にあった杉山神社が合祀されています。境内社には、金刀比羅社、大鳥社、稲荷社、香取社、鹿島社が合祀されていました。


  神奈川熊野神社(熊野権現)御由緒
旧社格郷社(明治十七年四月四日列格)・鎮座地 横浜市神奈川区東神奈川一丁目一番地御祭神(主祭神)国常立命(くにとこたちのみこと) 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと) 伊邪那美尊(いざなみのみこと)
   (合祀神)天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 大己貴命(おおあなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこのみこと)
        武御名方命(たけみなかたのみこと) 五十猛命(いそたけるのみこと) 大物主命(おおものぬしのみこと) 倉稲魂命(うかのみたののみこと) 速玉男命(はやたまのおのみこと) 船玉命(ふなたまのみこと)
    御由緒概要
 当社の御創建は寛治元年六月十七日(一〇八七年)醍醐三宝院勝覚僧正が紀伊国(和歌山県)牟婁(むろ)郡熊野に()す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮主として、熊野三社大権現と号し奉る。
 口碑によれば、後三年の役に源義家公社参せられ、帰途再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝えられる。その後応永五年、山賊等のため社祠を焼かれ、僅に草祠ばかりが存していたが、明応三年六月(一四九四年)上田蔵人が普請奉行となり、宏壮なる社殿が再建せられた。また、永正七年六月二十日(一五一〇年)権現山合戦の(みぎり)、兵火に(かか)り、烏有(うゆう)に帰してしまった。次で天正五年六月(一五七七年)時の別当恵賢僧都(えけんそうづ)等が相はかり社殿を建立奉る。
 天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、別当が社前に祷し秘伝を修し奉りしことなど、徳川家との関係が深く、別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈祷の宝牘(ほうとく)(おふだ)を献上し奉ったと伝えられる。その後、正徳二年六月(一七一二年)山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ(うつ)し奉り、旧地には小祠を安置し社地三反八畝十歩を有していたが明治四年之を上地す。慶応四年一月七日(一八六八年)神奈川大火により烏有に帰したが、逐時再建整備し、明治十七年に郷社に列せられ明治四十年四月神饌幣帛料供進社に指定せらる。昭和十一年八月御鎮座八百五十年祭を斎行、二十数台の山車(だし)が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。昭和二十年五月二十九日戦災により焼失、(あまつさ)え境内をも駐留軍に接収せられたるため、やむを得ず西神奈川一丁目(二ツ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉斎す。同二十七年八月宮神輿を奉製、その後接収解除となり、再建復興に努め、同三十八年八月現社殿を完成遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌三十九年八月竣工奉祝祭を執行した。その後四十一年十一月。地区内戦没者慰霊碑を建立、同四十九年八月再建十周年記念事業として舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。昭和六十一年、御鎮座九百年祭に当り記念事業奉賛会を結成し、氏子二十四ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、神輿、神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し、社域の整備を達成した。謹んで御事歴の概要(あらまし)を誌し奉る次第であります。
                (宮司 照本 力記)


御神木 公孫樹
  樹令四百年 昭和四十八年 横浜市名木古木指定
 慶応四年(一八六八年)神奈川県大火昭和二十年(一九四五年)戦災に焼失したが見事に再生し、毎年秋にはギンナンがみのり、俗に「火防のイチョウ」として広く親しまれている。
            社務所


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 その他、本日撮影の写真です。

笠䅣(かさのぎ)稲荷神社】神奈川区東神奈川2丁目9-1
 京浜東北線の車窓から見えるので気になっていた稲荷社です。境内社にも稲荷社が2社ありました。御神木は、クスノキとイチョウです。


笠䅣稲荷神社(かさのぎいなりじんじゃ)由緒
鎮座地 神奈川県神奈川区東神奈川二~九~一
御祭神 宇賀之魂命(うがのみたまのみこと) [相殿]明治天皇 日本武尊(やまとたけるのみこと)
御神徳
 御祭神の宇賀之魂命は、「稲倉魂命(うがのみたまのみこと)」とも書き、或いは「保食神(うけもちのかみ)」とも申して、稲の豊穣を司り、食物を守護する神様です。我が国は往古より農業国であるため、人々は米を主食として生活し、篤く農耕の神様である稲荷神社を信仰してきました。また工業や商業が発達すると、稲荷神社の神徳は商売繁盛や家内安全へと広がりね衣食住の全てを守護する神様として信心されるようになりました。稲荷信仰は流行神(はやりがみ)として時代と共に幅広く普及していき、現在稲荷神社は全国で最も数多い神社として崇敬されています。
由緒沿革 天慶年間(九三八~九四七)に淳和天皇勅願所浦島院勧福寺の僧侶が、隣域の山腹(稲荷山)に社殿を建立し、伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられ、同寺の守護神・附近一帯の産土神(うぶすなのかみ)として崇敬を集めていました。文永十一年の蒙古来寇の折には、鎌倉の執権北条時宗が菊一の銘刀と神霊鈴を奉納して。国家の安泰を祈願したと伝えられます。
 戦国時代に兵火に罹災してしまったものの、永禄二年九月十九日に再興なって大祭を行い、元禄二年九月十九日には稲荷山の中腹より山麓に鎮座する運びとなりました。こりより神威が益々加わり、社前を通行する者の笠が資源と脱げて地に落ちたことから、「笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神」と使用するようになり、後に別当能満寺の阿闍梨が「笠脱」の一字を「䅣」と改め、「笠䅣(かさのぎ)稲荷大明神と改称しました。
 明治二年には旧社地が京浜間の鉄道敷設用地に接収されたため、現在地に移り、更に霊験あらたかとなって、同十七年九月二十五日「村社」の社格に列格し、大正十年九月十七日「神饌幣帛供進社」に指定されました。
 大正十二年の関東大震災により社殿が半壊に及び、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲には、社殿・神宝類の悉くを焼失する憂目を見たものの。終戦後にいち早く仮社殿を再建ししました。昭和五十四年十二月一日に新しい形式の社殿が完成すると共に、厳かに遷座祭が斎行され、平成元年の「御社殿造営十周年記念大祭」には、社前に玉垣が完成するに至りました。
例祭日 八月八日・九日(近年は八月八日・九日ら近い土曜日と日曜日)
境内社 古峯神社・祖霊神・庚申塔・地神塔・日露戦役記念碑
    板碑(鎌倉時代の慰霊碑)[横浜市指定有形文化財]
特殊神事 節分対儺式(ついなしき)(二月三日)[横浜市指定無形民俗文化財]
特殊信仰
 古くよりカサノギ稲荷さんにお参りすると、カサ(性病・婦人病)が治るという特殊な伝承があります。病気にかかった女性は土団子を作って神前に供え、お百度を踏んで祈願し、そして霊験を得て病気が治ると、団子を作ってお礼参りするという習慣が残っていて、病気平癒の御利益にも秀でています。
           笠䅣稲荷神社


【横浜一之宮神社】神奈川区入江1丁目13
 十六世紀に武蔵一宮氷川神社から勧請された神社が主体で、合祀神、境内社が多数です。冬至も近いことで辿り着いた時にはすっかり日も暮れていました。新子安から徒歩約5分と近いので、いずれ日の高いうちに再訪したいと思います。


横浜一之宮神社由緒
御鎮座 横浜市神奈川区入江一丁目十三番地3
御祭神 素戔嗚尊(建速須佐之男尊)を中心に
    事代主命(西宮神社)
    保食命(田甫、東浜、仲浜、西浜等の各稲荷社)
    面足惶根命(第六天社)
    水速迺売命(水神社)
    外の神様をお祭りして居ります。
歴史
 子安の地は神之木台遺跡、大口坂遺跡、その他があることから推察されるように縄文時代の昔より人間にとつて住みやすい環境が与えられた所でした。我々の祖先は海や山から自然の恩恵を受けて生活していたことでしょう。特に、この地は、現在でも海岸線を臨むことの出来る小高い丘ですが、近代に入り、海岸線を埋め立てるまではもう少し高い山でした。東海道沿いに展開した子安の浜の漁師にとって漁場を定める目印となっていたそうです。
 当然、漁師の信仰を集め、また、東海道沿線ということもあり古くから小祠を以ってお祭りしていたようです。
 その後、永禄四年(紀元二二二一年・西暦一五六一年)九月一日第百六代正親町天皇の御宇、武蔵国(埼玉県、東京都大部分、神奈川県東部)の一の宮元官幣大社氷川神社(埼玉県大宮市鎮座)の分霊を現在地に勧請したところから「一之宮大明神、一之宮明神社」等と称されて居ります。
 江戸時代徳川幕府の官撰地誌の最初である「新編武蔵風土記稿」にも収録され、白髭老神の伝説などもあり、連綿と祭祀が今も続いて居ります。
伝説の一例
 元禄三年(西暦一六九〇年)七月、村内に疫病が蔓延した折、入江川畔に白衣長髭の翁が現れ、「吾は一之宮大明神だが、近来氏子村民、敬神の念乏しく、社殿は大破し、祭祀を怠っているため、災禍が横行するのである。以降、祭祀の礼を厚くすれば疫病はなくなる。」と告げた。そこで神楽を奉し、神拝の式を行うと忽ち疫病がなくなったという。その他いくつもあります。
  平成六年八月吉日
      横浜一之宮神社奉賛会


【参考】
 【庚申塔(金澤山圓能院福泉寺)】川崎区小田1丁目25-12
 芦帆橋からみた鶴見川
 カワラバト Columba livia
 【開運地蔵尊】鶴見区潮田町3丁目131
 【岸谷庚申堂】鶴見区岸谷4丁目3
 【稲荷社】鶴見区岸谷1丁目22
 【福寿辨財天】鶴見区岸谷1丁目22-12
 菊間カーボン山
 ベニバナトキワマンサク Loropetalum chinense var. rubra
 【横濱六角橋郵便局】神奈川区六角橋1丁目4-1

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

【本日の主な経路】
JR八丁畷駅-日枝大神社(境内社)-潮田神社-(36)鶴見神社-(37)生麦杉山神社-菊名神社-八杉神社-(22)彦根杉山神社-熊野神社-JR仲木戸駅

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