月別アーカイブ: 2022年12月

緑区、旭区、保土ケ谷区の地神(地天)

 姿を刻印した石塔(具像塔)が珍しい地天(堅牢地神)ですが、緑区には女神の姿を刻した地神塔があると聴き、確認しに行ってきました。この地区には地神塔がいくつかありますので、JR中山駅から京急井土ヶ谷駅にかけて訪ね歩きました。
【主な経路】
(中山駅)-神山-鴨居-上菅田-西谷-鶴ヶ峰-仏向町-権太坂-永田-(井土ヶ谷駅)
 (堅牢)地神塔マップ (作成中)  三浦半島の道祖神と地神 緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 戸塚区(2023-01-21) 逗子市(2023-01-15)




横浜市指定有形文化財(石造建造物)
 女神像地神塔(じじんとう)
          指定年月日 平成八年十一月五日
     所在地 緑区鴨居六丁目二一番
     員数  一基
     法量  碑高 五九・〇cm 像高四八・〇cm
     時代  江戸時代 享和三年(一八〇三)
 地神は、仏教の地天(じてん)が神格化して農作の神となった民間信仰で、講結衆(こうけつしゅう)による地神塔の造立が行われました、地震信仰は、一八世紀末頃におこって一九世紀に普及し、明治年代末年にまで及んでいます。
 横浜には多数の地神塔が遺っていて、地神信仰の盛んであったことが知られています。
 地神塔には、「堅牢(けんろう)地神」「地神塔」などの文字を刻んだだけのものが大部分で、地神の像容を彫刻したものは多くありません。また、神像でも武神の姿の男神像はありますが、女神像は稀で、この女神像地神塔は、稀少な例のひとつです。
  (刻印) 正面 「地神(右書)」
      右面 「享和三年亥八月吉日」
      左面 「大下石工」
          横浜市教育委員会


 ごはん塚碑
鎌倉初期の武将畠山重忠は元久二年六月北条義時勢の攻めに会い武藏国二俣川に於て討死逃れ來りし残党も此の地で惨殺された
村人達はその霊を慰めるべく五ヶ所に塚を建て懇ろに弔いごはん塚と呼んで花を手向けた第二次世界大戦中耕地不足の爲畑と化しその後団地造成等の変遷をたどり塚四基は姿を消したゞ一基この地に祭祀するのみ
      蓮性寺


 歴史の道
元町橋(もとまちばし)
 保土ケ谷区郷土史(昭和一三年刊)によれば、明治時代の東海道線鉄道工事以前の今井川はここで街道を横切っていました。
 橋は江戸時代の「東海道分間延絵図」にも描かれています。また、かつての字名は、ここから東側を「元保土ケ谷」、西側を「元保土ケ谷橋(むこう)」となっていました。


【参考】
地神塔(文化十三丙子(1816)年):緑区上山2丁目2-6
地蔵堂:緑区白山2丁目53-19
鴨居稲荷神社:緑区鴨居6丁目30-1
女神像地神塔:緑区鴨居6丁目21
ごはん塚:緑区鴨居7丁目32
庚申塚:保土ケ谷区上菅田町1587
稲荷社:保土ケ谷区上菅田町1585
竹山高区配水槽
キク Chrysanthemum × morifolium
笹山商店街
上菅田八幡神社:保土ケ谷区上菅田町727
狸像:保土ケ谷区上菅田町279
二十六夜塔(左)、歳ノ神(中央)、地神塔(右):保土ケ谷区上菅田町285-9
庚申塔(左)・堅牢地神塔(右):西谷町3丁目21
不動尊:保土ケ谷区西谷町4丁目7
庚申塔:保土ケ谷区西谷町4丁目10
道祖神:川島町73-1
庚申塔(2基):川島町73-1
西川島町 堅牢地神:旭区鶴ケ峰2丁目77
双体道祖神:旭区鶴ケ峰2丁目57-20
仏向杉山社:保土ケ谷区仏向町553-1
カラスウリ Trichosanthes cucumeroides
桜樹千本植栽の碑:保土ケ谷公園
保土ケ谷球場
アオノリュウゼツラン Agave americana
神奈川坂
庚申塔(左)、堅牢地神塔(右):保土ケ谷権太坂1丁目2-2
旧元町橋跡:元町自治会館
帝釈天堂(保土ケ谷町3丁目)
堅牢地神表具(掛軸):帝釈天堂(保土ケ谷町3丁目)
横浜市指定名木古木 No.48075 ケヤキZelkova serrata:外川神社


【文献】
石川博司(1998)地神信仰雑記、URL:http://koktok.web.fc2.com/isikawa/isikawaCD/dijin.htm#%E5%9C%B0%E7%A5%9E%E5%A1%94%E3%81%AE%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%B8%83、Accessed: 2022-12-30.
梅原達治(1985)埼玉県児玉町内の社日塔、札幌大学教養部紀要、27、101-120、URL: https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=5199&file_id=18&file_no=1、Accessed: 2022-12-30.
梅原達治(1987)地神信仰の地域的変異について、札幌大学教養部紀要、30、69-87、URL: https://core.ac.uk/download/pdf/230296308.pdf、Accessed: 2022-12-30.
泉区小史編集委員会(1996)地神塔と地神信仰、いずみいまむかし、URL: https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/2-shoshi/denen/10-jisijisi.html、Accessed: 2022-12-30.

冬の鷹取-六浦-朝比奈

 年の瀬の近所を歩いてみました。


【参考】
 イソギク Chrysanthemum pacificum
 シチヘンゲ Lantana camara
 コゴメウツギ Stephanandra incisa
 マルバウツギ Deutzia scabra
 オニドコロ Dioscorea tokoro
 カマツカ Pourthiaea villosa
 ガマズミ Viburnum dilatatum
 マユミ Euonymus hamiltonianus
 ヤマブキ Kerria japonica
 ヤマコウバシ Lindera glauca
 鷹取山頂上付近
 キヅタ Hedera rhombea
 ビワ Eriobotrya japonica
 東京湾方面
 みなとみらい方面
 富津方面
 アセビ Pieris japonica
 ネズミモチ Ligustrum japonicum
 マンリョウ Ardisia crenata
 ヒメオドリコソウ Lamium purpureum
 ヤツデ Fatsia japonica
 シャリンバイ Rhaphiolepis indica var. umbellata
 ドウダンツツジ Enkianthus perulatus
 イヌビワ Ficus erecta
 ネリネ・ウンドゥラータ(ヒメヒガンバナ) Nerine undulata
 寒椿 Camellia x hiemalis
 センリョウ Sarcandra glabra
 ヒマラヤユキノシタ Bergenia stracheyi
 クロガネモチ Ilex rotunda
 アオツヅラフジ Cocculus trilobus
 フイリマサキ Euonymus japonicus f. aureovariegatus

今年最後のイングリッシュガーデン

 明日のクリスマスを以て今年の営業が終了する横浜イングリッシュガーデンを尋ねました。比較的寂しい季節ではありますが、冬咲きの桜が見頃です。





【参考】
 横浜イングリッシュガーデン
 桜 Cerasus sp.
  アーコレード Cerasus sargentii x C. subhirtella ‘Accolade’(高嶺桜(千島桜)x大山桜)
  冬桜(ふゆざくら) Cerasus x parvifolia ‘Fuyu-zakura’(豆桜x大島桜)
  子福桜(こぶくざくら) Cerasus x ‘kobuku-zakura’(志那実桜x江戸彼岸)
 エレガンスみゆき Cerasus x Armenica mume ‘Elegance Miyuki’
 薔薇 Rosa sp.
  はつね
  セピア・アート
  フラグレント・ディライト
  一葉
  薔薇の海
  ゴールド・メダル
  ミス・ハープ
  ロータリー・サンライズ
  つくばの(ゆき)
  ラ・カンパネラ
  ロマンティック・アンティーク
  ディ・ブレーカー
  春の海
  アドミラル・ロドニー
  ピンク・キャット
  ベリー・ベリー・ベッキー♪♯・ローズ
  スイート・シャトー
  スパニッシュ・ビューティー
  ストロベリー・アイス
  センセーション
  スマイル優雅
 イロハモミジ ‘猩々野村’ Acer palmatum ‘Shojo-nomura’
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium
 ムーシュウチュウ(木綉球) ‘ステリーレ’ Viburnun macrocephalum ‘Sterile’
 アジサイ ‘メイアンジュ’ Hydrangea macrophylla ‘Mayange’
 バショウ Musa basjoo
 老爺柿ロウヤガキ(衝羽根柿) Diospyros rhombifolia

クリスマスのイングリッシュガーデン

 ハロウィーンが終わるとクリスマス飾りになっていました。冬薔薇はまだまだ楽しめますし、冬咲きの桜がシーズンを迎えています。




【参考】
 桜 Cerasus
  子福桜(こぶくざくら) Cerasus x ‘kobuku-zakura’(志那実桜x江戸彼岸)
  冬桜(ふゆざくら) Cerasus x parvifolia ‘Fuyu-zakura’(豆桜x大島桜)
 須磨浦普賢象 Cerasus serrulata ‘Sumaura-fugenzo’
 エレガンスみゆき Cerasus x Armenica mume ‘Elegance Miyuki’
 薔薇 Rosa spp.
  フレンチ・レース
  ホワイト・ウィングス
  パンデモウニアム
  アドミラル・ロドニー
  ドリス・リカー
  カーディナル
  ラブリー・ブルー
  ジュリアン・ポタン
  ゴールデン・オールディー
  トム・ブラウン
  はつね
  ソワレ
  スイート・チョコ
 イロハモミジ ‘猩々野村’ Acer palmatum ‘Shojo-nomura’
 オオバギボウシ Hosta sieboldiana
 ムーシュウチュウ(木綉球) ‘ステリーレ’ Viburnun macrocephalum ‘Sterile’
 ハナズオウ ‘麗香’ Cercis chinensis ‘Reiko’
 ニシキギ Euonymus alatus
 ベニバナスモモ ’システナ’ Prunus x cistena
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium
 スノードロップ Galanthus nivalis
 ツタ Parthenocissus tricuspidata
 ペラルゴニウム Pelargonium cv.
 エリカ・クリスマスパレード Erica x hiemalis cv.’chrismas parade’

冬の日に

 ここのところ、忙しい日々でしたが、今日はゆっくりと過ごせました。
【主な経路】
(南太田駅)-藤棚-横浜イングリッシュガーデン-横浜駅-みなとみらい-野毛山-(日ノ出町駅)


【参考】
 キダチロカイ(アロエ) Aloe arborescens
 エリカ・クリスマスパレード Erica x hiemalis cv. ‘chrismas parade’
 横浜イングリッシュガーデン
 イチゴノキ Arbutus unedo
 イロハモミジ Acer palmatum
 アブチロン ‘チロリアンランプ’ Abutilon megapotamicum
 少女 1981 佐藤忠良
 アンパンマンミュージアム

寺尾道を辿って

 東海道は江戸時代に幹線道として確立されたルートが今でも活用されていますが、庶民が日常利用していたと思われる側道は、現在ではルートが大きく変更されていて、昔の面影を辿ることさえ難しくなっているルートが少なくありません。そのようなかつての生活道であった古道の一つ、寺尾道を今日は辿ってみました。
 寺尾道は現在の鶴見で東海道から分岐して菊間へ通じていたとされますが、本日歩いたルートは鶴見区史(1982)の記述と庚申塔、道祖神などの石塔の分布から推定しました。実際には、途中から南進して寺尾城址を通って、生麦へ向かいました。
寺尾道(推定)周辺マップ
【主な経路】
(京急鶴見駅)-鯉ヶ淵公園-鶴見神社-諏訪坂稲荷神社-昭和坂-熊野神社-不動坂-霞橋-鶴見配水池-馬場二丁目公園-馬場稲荷-馬場城址-赤坂-駒方天満宮-岸谷庚申-反町-(横浜駅)
 先月から旭区辺りを水源とする帷子川の周辺を歩いていたのですが、我が家の書棚では、旭区郷土史の隣に鶴見区史が並んでいて、つい隣を手に取った結果、鶴見区に興味が移ってしまいました。

【参考】
 寺尾稲荷道道標(複製)
 鶴見川橋
 旅立ち:二口(Futakuchi) 金一(Kin’ichi)(Yolokama Biennale ’93)
 身禄道(みろくみち)
 鶴見神社
 寺尾稲荷道道標
 国旗制定百年記念碑
 ぼてふり(棒手振)地蔵尊
 (現在の)諏訪坂
 諏訪馬之助館跡
 諏訪坂稲荷神社
 宇迦之御魂神:諏訪坂稲荷神社
 諏訪馬之助の鎮めの石:諏訪坂公園
 道標:諏訪坂公園
 古坂
 昭和坂
 弁天池
 (寺谷)熊野神社:名木古木イチョウ No.202012(左)No.202013(右)
 鶴園(かくえん)句碑:熊野神社
 天神坂
 不動坂
 響橋
 庚申塔:東寺尾6丁目36
 心願地蔵:東寺尾6丁目33
 馬場谷戸庚申地蔵供養塔:馬場4丁目20-5
 道標:馬場5丁目13-35
 鶴見配水池配水塔:馬場3丁目29
 馬のメド坂:馬場2丁目8
 馬場稲荷:馬場3丁目17
 庚申塔:馬場3丁目3
 寺尾城址碑
 殿山公園
 庚申塔:馬場3丁目5
 宮の下:東寺尾2丁目13
 庚申塔:東寺尾1丁目24
 入江川せせらぎ緑道
 馬頭観音:馬場1丁目3-13
 子の神様:東寺尾1丁目17
 東寺尾配水池:東寺尾1丁目16-28
 赤坂
 庚申塔:西寺尾2丁目29-5
 駒形天満宮
 頌菅相遺徳(しょうかんしょういとく)碑:駒形天満宮
 上の庚申:東寺尾4丁11
 トックリラン Beaucarnea recurvata
 上の庚申:岸谷1丁目28-14
 岸谷庚申塔:岸谷4丁目3
 デロスペルマ属(耐寒松葉菊)の一種 Delosperma lebomboense、Syn. Delosperma tradescantioides var. lebomboenseか?(アプテニア属 Aptenia sp. の可能性も…)
 東子安一里塚案内版


 寺谷熊野神社は横浜市指定名木古木を尋ねたことがある神社ですが、生麦事件碑を建てたことでも知られる黒川荘三の句碑のあることに気づきました。この歌は、鶴見区史や黒川荘三の記録『千草』にも触れられていないようです。旧仮名を十分に読み取れなかったのですが、概ね下記のように書かれているのかも知れません。

具摩乃山 (熊野山)
 飛羅久留左登能 (開くる郷の)
    阿太良之久 (新しく)
 登之奈止爾麻春 (トシナとに坐す)
  可由止奈留羅舞 (カユとなるらむ)
         鶴園 (鶴園)

トシナ:年縄 = 注連縄 (?)
カユ:粥 = 粥杖 (?)
鶴園(かくえん):黒川荘三、1846(弘化3年)~1936(昭和11)、鶴見神社宮司(明治27年~昭和5年)、熊野神社宮司(大正2年~昭和5年)


変体仮名フォントを利用した、より石碑の刻印に近い表示

𛀰()()𛂙()()
 𛂮()𛃭()𛀬()𛃺()𛀿()𛁺()𛂜()
    𛀄()()𛃮()𛁅()𛀬()
 𛁺()𛁅()𛂂()()𛂌()𛃈()𛁏()
  𛀙()𛃥()()𛂂()𛃺()𛃭()𛃓()
            鶴園

【文献】
齋藤美枝(2013)郷土史の恩人黒川荘三翁、タウンニュース鶴見区版、Accessed:2022-12-17.
黒川荘三(1994)千草、千草刊行会編、316p、横浜.
金子元重(1994)田祭り復活の軌跡(黒川荘三著『千草』「発刊に際して」から転載)、Accessed:2022-12-20.


寺尾稲荷道道標(複製)
 江戸時代、ここは寺尾稲荷社(現・馬場稲荷社)へ向かう道との分岐点で、このように「寺尾稲荷道」と記された大きな道標がたてられていました。寺尾稲荷は、馬術上達や馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者も多かったといいます。また、この道は菊名へ向かう寺尾道や川崎へ向かう小杉道にもつながる、この地域の大切な道でした。なお、当時の道標は、現在、鶴見神社の境内にあり、ここにあるのはその複製です。
 This is replica of the milestone indicating the location of Terao Inari, a shrine where men used to visit hoping to improve their horsemanship skills. The original milestone,which today id stored at Tsurumi Shrine, was here since Terao-Inarimichi was one of the important streets in Turumi.


身禄道(みろくみち)
 ここから杉山明神(現・鶴見神社)へ向かう参道は身禄道と呼ばれていました。境内に富士塚があり、富士信仰を広めた食行身禄(しょくぎょうみろくみち)の像がまつられているからです。富士山に登ることはなかなかできないので、富士山に模した塚を築き、これに登り、参拝したのです。各地に多くの富士塚が築かれました。
 This street, once xalled Mirokumichi, leads to Turumi Shrine where there is a statue of Jikigyou Miroku. In the Edo period, Miroku was a famous religious leader who spread the belied in gods who reside at Mt. Fuji.


横浜市地域有形民俗文化財
寺尾稲荷道道標
       平成十八年十一月一日登録
     所有者 宗教法人 鶴見神社
     時代  文政十一年(一八二八)
 寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあたった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社に移されたときに、移されたと思われます。昭和三〇年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、道標が埋没しているのが発見されました。
  正面には 「馬上安全 寺尾稲荷道」
  左側面には「是より廿五丁」
  右側面には「宝永二乙酉二月初午
        寛延三庚午十月再建
        文政十一戊子四月再健之」
 とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。
 寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。
 平成十九年三月
          横浜市教育委員会


諏訪馬之助(すわうまのすけ)館跡(諏訪坂1-13)
 諏訪坂の町名の由来となっているこの坂の途中に、「諏訪馬之助館跡」が在ります。古くは、諏訪山と称して、永享年間(1429-1440)に、小田原北条氏の家人であった諏訪三河守が、殿山(とのやま)(現馬場町)に城を構えたとき、そこから東北に延びる丘陵の突端にこの館を築いています。
 「武蔵風土記稿」に「諏訪家屋敷」として「海道ヨリ右方ヘ五・六丁ユキテ丘上ニアリ一株ノ大松アリ是諏訪午之丞(うまのじょう)(馬之助)居住アリシ所ニテ其頃前ノ松ナリ 故ニ土人今モ諏訪ノ松トイエリ」とあります。この諏訪の松は、俗に「諏訪の物見の松」と呼ばれていましたが、文政年間(1818~1829)に枯れてしまったので、切り倒されてしまいました。
 その後、文久元年(1861)4月、老松のあった根元の塚を掘ったところ、古い石棺が出て、中から数々の遺物が発見され、後にこの塚は諏訪山古墳として奈良時代のものと推定されました。


新編武蔵風土記稿より
諏訪家屋敷
海道ヨリ右方ヘ五六丁ユキテ丘上ニアリ一株ノ大松アリ是古ヘ諏訪之丞居住アリシ所ニテ其頃前ノ松ナリ故ニ土人今モ諏訪ノ松トイリ諏訪三河守某ト云人北條家ノ家人ニテ此邊寺尾ヲ領セシコトハカノ家ノ所領役帳ナト云モノニモ出セリ牛之丞ハ其子ナトニヤ
【注】説明版表示での新編武蔵風土記稿の引用が若干異なっていますので再録します。恐らくは元資料の校訂ミスだと思われますが、馬之丞の子孫に牛之丞がいた可能性を否定できません。


   諏訪馬之助の鎮めの石
 現在の諏訪坂と旧諏訪坂にはさまれた所には、北条氏家臣の諏訪氏の館があり、永禄12(1589)年に武田信玄により滅ぼされたといわれています。
 この諏訪館に隣接した場所には、奈良時代の物と思われる古墳があり、そこから文久年間に発掘された石棺蓋の一枚が現在まで保存され、地元の人々が、「諏訪馬之助の鎮めの石」と呼んでいるものがこの石です。
 また、道標(子育地蔵)は、この地区の古道である寺尾道・末吉道の分岐を示すものとして諏訪坂に設置されていたものてす。


  馬場谷戸庚申地蔵供養塔
 この石仏は「庚申さま」といって、江戸時代の享保十九寅年に建立されたもので、お地蔵さまの碑面には、馬場谷戸の、田口・金井・石井・等七名の名前が彫られてあり、台座には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が彫刻されている庚申さまである。
 昔、谷戸の辻・辻に建てられていたもので疫病・盗賊など災いが村内に入ってこないようにとの願いから、この馬場谷戸にも建立されていたものである。
 路仏のままであったものを、何時の時代か、堂宇を建立して祀られていたが昭和三十八年三月に、田口熊吉氏によって再建され、三十八年経過して老朽により、平成十三年三月に、田口昭次氏が平成十三年三月に堂宇を再建された。


   道標(馬場5丁目13-35)
大正一五年十一月旭村青年団馬場支部の建設であるる地域の交通路を詳しく示している。
(正面) 西北寺尾(旭役場旭小学校)大網村
(右側面)菊名駅(大豆戸、太尾町)方面 南東寺尾ヲ経て西寺尾子安方面
(左側面)北寺尾別所及び末吉ヲ経て日吉、中原方面
(背面) 東鶴見(花月園総持寺)生麦方面
    大正一五年十一月青年団馬場支部(旭)
     ふるさと発見 寺尾奉行


   馬のメド坂
 この道は、室町時代から近世に至る古道として利用されてきた。この坂のあたりは馬の背中に似た地形になっています。その坂の入り口はまさしく馬のお尻のように感じられたのでこう呼ばれたようです。寺尾城主諏訪の殿様が馬術の上達に励んだと言われています。
     ふるさと発見 寺尾奉行


馬場稲荷
 もとは寺尾稲荷といい、正一位相模国稲荷大明神ともいう寺尾城主五代目馬之丞が夢に馬術の信託をうけ祈願成就した稲荷社でそれ以来馬術上達、馬上安全祈願の寺尾稲荷社として有名になった。
 宝永二年(一七〇五年)旧東海道鶴見村三家(さんや)に「鶴見神社付近」「馬上安全寺尾稲荷道」の道しるべが建てられた。諏訪坂に道しるべとして「従是(これより)寺尾道」と建てられている。
 馬場稲荷社近く現在の「東高校」の場に「馬頭観音」があった。奉納絵馬や献灯に祈願成就の武人の名が残されている。また馬場稲荷社上には寺尾城跡地の石碑が建てられている。
2000年初午  嶋田□□


   庚申塔(馬場3丁目3)
 江戸時代、享保十四年十一月(一七二九年)旧東海道の裏街道である馬のメドに原家が建立した。戦後の混乱で庚申塔を守るため一時近くに移動したがその後現在の場所に戻した。当時は道しるべや道祖神(道路の悪霊を防いで行人を守護する神)の役もしており、行き倒れの面倒もみてきた。建立から原家が代々馬場大師(馬奉行として管理し現在も尚原家子孫により祀り続けられている。)
     ふるさと発見 寺尾奉行


寺尾城址
 寺尾城は領主諏訪三河守五代(約一四〇年間)にわたりこの地にあった。後北条氏に属し、貫高は二百貫文(およそ二千石)で、北条早雲が小田原城主になる以前からすでに居城していた。
 永禄十二年(一五六九)、武田信玄が小田原城を攻めた際に、廃城になったと思われる。数百年を経た今日、その遺構(空堀・土塁跡)の一部が殿山公園などに現存している。


  寺尾城址の発掘
 殿山公園から西方にかけての丘陵一帯は、寺尾城址として古くから知られていました。平成5年12月に、殿山公園の整備事業に伴う発掘調査が財団法人横浜ふるさと歴史財団埋蔵文化センターによって実施されました。
 調査は、東西に延びる「空堀」の一部を含めた丘陵頂部の170mの範囲を対象として行われました。発掘調査の結果、空堀は西面が底の狭いV字形を示し、壁の角度(勾配)が50°~70°と急傾斜で、地表面から掘の底までの深さが約3m、底の幅は約1mでした。堀の中には土塁の崩落によると推測されるローム土が多量に堆積し、上位からは江戸時代の宝永年間に噴火した富士山の火山灰が発見されました。このことからこの堀は18世紀初頭には大部分が埋まっていたことが明らかとなりました。
 この調査によって、『新編武蔵風土記稿』ら記され「寺尾城址」として伝承されている中世城郭址の存在を初めて考古学的に裏付けることができました。
  平成6年3月  横浜市教育委員会


  寺尾城の遺構
 寺尾城は戦国時代に、小田原北条氏に仕えた諏訪三河守五代にわたる城址である。永禄十二年(一五六九)十月、武田信玄の小田原侵攻のさいに寺尾城は没落したといわれている。城跡には、当時の空堀・土塁・曲輪など中世の城郭が残り貴重な遺跡となっている。
 町名の馬場・諏訪城などに城のようすがいまに伝えられている。
         鶴見歴史の会


  庚申塔(馬場3丁目5)
 江戸時代に入って泰平の時代となり庶民の生活は比較的安定し、民間信仰が浸透して石仏などが多く作られるようになった。祠堂内には三基の石塔があり向かって右側は廻国塔(笠付)角塔で満願成就のしるしとして建てられた。その正面には二匹の猿が手をつないでいる姿は珍しい。(元文元年一七三六年)
真中は舟形地蔵の庚申塔で東寺尾の名主達が安全祈願や健康を祈って建てた。(享保十年一七二五年)
左側は全く不明である。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  デイダラボッチ
 デイダラボッチ日本各地で伝承される巨人である。馬場学校(今の東高校)に行く道におよそ千平方メートル(一反歩)のくぼ地の畑があった。この丸い形をしたくぼ地は大男の足跡と言われておりデイダラボッチと呼ばれていた。この巨人伝説は山や湖沼を作っていたと云う伝承が多く、主に関東に広く伝えられている。     ふるさと発見 寺尾奉行


  宮の下
 江戸時代(一六七〇年頃)から続く澤野家は東寺尾地区の鎮守として祀られている白幡神社(一四三五年頃建立)の麓にあることから「宮の下」の屋号で呼ばれていた。また明治初期に先祖が白幡神社の宮司を努め、神社で寺子屋を開き地域の住民や子供たちに「読み書きソロバン」を教えていたと言い伝えられ、白幡神社とのかかわりが深い。
     ふるさと発見 寺尾奉行


◇東寺尾1丁目の庚申塚紹介
§鎮座する庚申塚
1建立時期 寛保2戌12月吉祥(1742年)
2庚申塚自体 千手観音菩薩
 七難をまぬかれ衆生を救って下さる仏像で、生きとし生きるもの全てを漏らさず救う大いなる慈悲を表現している。
 ①村落守護 ②疫病退散 ③五穀豊穣 ④災難排除 ⑤長寿祈願
3菩薩像千手(四本手)
 ①上側2本手 「ツボ」と「作物」
 ②下側2本手 「弓」と「矢」
 ③頭上    「太陽」と「月」
 ④像足下   「邪気」
   人に害を与えようとする悪意の心を持った架空の生き物
 ⑤像足元   「3猿」
   数々の悪行を反省し悪い行いを(見ない)(聞かない)(言わない)を表現し眼上の菩薩様を崇拝する。
4像の銘刻文 右側 寛保二年戌十二月吉祥
       左側 寄造建庚申尊形 石橋笛子
§庚申塚建立の時代背景
~寛保2年(1742年)の江戸大災害~
 この年の夏季に日本列島中央部の関東甲信越地方は大型台風の直撃を受け未曾有の大災害に見舞われた。特に旧暦7~8月にかけて襲った数度の「暴風雨」と「高潮」によって江戸は大洪水となり上流域の「多摩川」「荒川」「利根川」が氾濫、下町の本所・浅草・下谷一帯が水没し、墨田川に架かっていた「両国橋」「新大橋」「永代橋」等多くの橋が流され、多くの住民が溺死したと記録されている。
 この時の大洪水に加え数々の災害が寛保年間(1710~1750年)に大流行した。
 ①疫病(コレラ・セキリ・ウィルス)などにより「小石川養生所」が設立される。
 ②宝永の大火災で江戸市中の60%が焼失し「火消組」が組織された。
 寛保の大水害で河川の治水政策が立案推進され数々の「善政」が幅広く実施されたことを受け、地方村落における「お地蔵様」建立の機運が高まりここ生麦-向谷においても「寺尾城」を中心とした各所で「庚申塚」が建立された。
§庚申塚の位置
~北向き祠~
 東寺尾1丁目に鎮座するこの庚申塚は他のお地蔵様と異なり「北向き」に設置されている。
 鎮座については以下のように解釈されている。
 ここ寺尾地域から見て「江戸市中」の方角が陰陽道の方位易から「鬼門」とされる〝北東方向〟に当たる。寛保2年の大災害を目の当りに経験し、地域を守るにはこの方位易に従ってお地蔵様を設置することが住民の願いであったと思われる。
 また、この石像に刻まれている「千手の4本手」の下側2本手に持たれている「弓」と「矢」から想像すると、地域の鬼門を守る守護神としての毘沙門天を模した像と考えられる。
§庚申(かのえさる)の由来
 中国古来の教えである「道教」では人間の体内には「3つ」の霊が宿っていると解釈されている。
 ①魂(コン)
 ②魄(ハク)
 ③三尸(サンシ)
『人が死』を迎えると「(こん)」は天界に昇り「(はく)」は地界に沈む。問題は『三尸(さんし)』と言う「虫」が悪さをする。「三尸(さんし)」は宿主(人間)が死を迎えて「(こん)」と「(はく)」が肉体から去った後でも残り続け、自由に遊び廻れる存在となり楽しいお祭りなどへも出掛けられるので宿主の死を望んでいる。
 また「三尸(さんし)」は1年360日で、「60日」毎に巡って来る庚申の日に宿主の体内を抜け出して夜中に天界に昇り「天帝」に宿主の日頃の行状を報告しに行く。「三尸(さんし)」は翌朝には宿主が目を覚ます前に体内に戻ってくる。そこで「60日」毎の庚申(かのえさる)の日になる前から集団で徹夜をすれば「三尸(さんし)」は体内から出ることができない。
 昔人はこの集会を年6回、3年間続けて、「三尸(さんし)」の行動を抑えたことを記念して建立したのが、『庚申塚』(正式路五:庚申待ち供養塚)である。
【注】1742年(寛保2年)は江戸4大飢饉には数えられていないが、同年8月に中部から関東甲信越にかけた地域で水害があった(町田、2014)ことが知られている。鶴見川流域等での被害状況を記した文献は見つけることはできなかったが、庚申塚の建立は12月なので関係している可能性はある。


  入江川せせらぎ緑道
 かつて山からの湧き水を水源としたこの川は建功寺川と呼ばれている。戦国時代の武士が武具や身体を洗い流したことから血の川と呼ばれていたと云う謂れもあるが上流の土壌が赤かった爲川に流れ込んで川底が赤く染まったからと云う説もある。今では水と緑のやすらぎの散歩道として親しまれている。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  子の神様:東寺尾1丁目17
 子の神様とは十二支の「ネ」ねずみを神の使いとする大国主の命(大黒天様)主屋の鬼門よけに子の方角(北)に祭られた神、もう一つには神代の根の国の神と言われ農村では水の神とも考えられていたと云う諸説がある。これからも地域の守り神として残しておきたい貴重な存在である。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  赤坂
 この坂道は江戸時゛五の天明の頃西寺尾にあった慈眼堂観音に病気平癒祈願のために母親が赤子を背負って通ったことから「赤坂」と呼ばれていた。
 他にも地主の名字でもあり、又赤土だったからという三つの由来がある。いずれにしても東寺尾の人達にとっては神奈川区子安、大口方面に出る唯一の街道で便利に使われていた道である。
     ふるさと発見 寺尾奉行


  駒形天満宮
房州(千葉県)の豪族里見義高の随臣だった平田兵庫が、一七二九年(享保一〇年)に氏神として建てた天神社に西寺尾駒形在の住民により一七四一(元文五年)に創立された駒形社を合祀し、駒形天満宮と改め今日に至る
菅原道真を祀り学術と情愛の守護神して崇められている
     昭和四十七年三月
      西寺尾郷土研究会


わが町かながわ50選
  駒形天満宮
 会談となった緑豊かな参道を上がると、境内から市街地を望むことができます。その昔、この村に住む娘と恋に落ちた若者の悲恋物語にちなんで、「駒形」の名前がついたと言われます。
     横浜市神奈川区役所


          頌菅相遺徳

     神官 平田次郎
 翰林出相公庶幾唐虞治
 紀綱漸根興權臣止放恣
 善臾能寄書諷避三台位
 髙踏雖保身其奈宗廟器
 一身固許君乑恨謫邉地
 峻徳至今馨囘膽人隋涙
 明治十六年
 十一月廿五日
     竹渓平田平治謹撰
     得水内藤正順謹書

【注】題字は、菅相(菅原道真)の(遺徳)()える碑の意味で、元々は学者から政治家になったこと、讒言により左遷されたことなどが書かれているようですが、詳細は未調査です。形式は五言排律なのでしょうか。内藤得水は深川扇橋の書家で1881(明治14)年に刊行された「全国書画一覧」の書大家之部に名を連ねています。平田はこの辺りの神職に見かける姓です。


上の庚申 延享元年十一月建立
 庚(かのえ)道路を意味する。
紀元前四世紀の頃中国黄帝老子が無為自然を唱えてその教えによる道教によって庚申塚は旅人の守護神として我が国に伝えられ庚申の日を御縁日と定め伝え民衆に信仰されて参りました。昔の人々は旅に出る時は草履等をお供えし道中の無病息災を御祈願致しました。佛家では帝釈天青面金剛をお祭りし此の行事を庚申待ち猿行と云いました。此の庚申塚は古代から伝わるこの附近の交通安全不老長寿の守護神で有ります。
         合掌
   上の庚申□□□総代
    岸谷㐧三自治会
    岸谷公園通り議会


【注】『庚が道路を意味する』というのは初めて聞きました。道祖信仰と庚申信仰が混ざっているのではないかと推測しますが、要調査です。


東子安一里塚
 旧東海道六里目の一里塚です。神奈川県内に二十ヶ所ある一里塚の内で唯一、この東子安一里塚にはその目印となるみのがありませんでした。文化三年(一八〇六)完成の東海道分間延絵図に基づき、西側の遍照院と東側の村境(現鶴見区・神奈川区境)からの比率かせ推定されるこの地に案内板を設置しました。北側の塚には榎、南側の塚には松が植えられていました。
  平成二十八年四月
 NPO法人東海道ウォークガイドの会


【文献】
 林述斎・間宮士信編(1982)新編武蔵風土記稿横浜・川崎編第二巻、520p.、千秋社.
 鶴見区史編集委員会(1982)鶴見区史、770p+15p.
 町田尚久(2014)寛保2年災害をもたらした台風の進路と天候の復元, 地学雑誌, 123(3), 363-377, URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/123/3/123_123.363/_article/-char/ja/, Accessed: 2022-12-22.


【追補】
 諏訪氏の元は信濃国の領主で、寺尾城址は現在の群馬県(旧上野国)・埼玉県(旧武蔵国)にも残されています。これらの寺尾城と鶴見区にあった寺尾城との関係は未調査です。
 (馬場)寺尾城址:神奈川県横浜市鶴見区馬場3丁目11
 菅寺尾城跡:神奈川県川崎市多摩区菅馬場2丁目30
 寺尾城跡:埼玉県川越市下新河岸55
 寺尾茶臼山城跡:群馬県高崎市寺尾町1072
 寺尾中城跡:群馬県高崎市寺尾町1064
 乗附城跡 (寺尾上城跡):群馬県高崎市乗附町


寺尾台廃堂跡【川崎市】
 寺尾台廃堂跡は、昭和二十六・二十七・四十三年の三ヵ年にわたって発掘調査されました。
 その結果、基礎の上に建てられた堂宇の存在が推測されました。基壇の平面形が約九メートルの八角形であることから、建物も小型の八角円堂で、その建立の時期は、屋根を葺いた瓦の年代から、平安時代初期(九世紀前後)と推定されます。
 この八角堂は、付属の構造物か伴わないところから、寺院というよりは、山林中にひっそりと祀られた供養堂のような性格であったと考えられ、東国における数少ない遺跡として貴重です。
 この八角堂基礎はね発掘調査の成果をもとにして、復元されました。
     川崎市教育委員会


  寺尾台八角堂跡
 この遺跡は、平安時代初期に建てられた、東日本では数少ない八角形の仏堂の跡であることがわかりました。それは、この場所より13.5mも高い山林中にありましたが、団地造成によって建立当時の位置に保存することができにくなりましたので、ここに基壇を復元し、永く保存いたします。
 栄山寺八角堂(奈良県)縮尺50分の1
寺尾台八角堂跡は、これとおなじ規模のものとおもわれます。
  昭和45年3月 川崎市
        日本住宅公団

堅牢地神(地天)


堅牢地神(けんろうじしん)は、平安時代前期に伝来した十二天の一柱『地天(Prthivi)』が原型とされ、元は女神であったらしい。その地天が仏教に取り込まれていく過程で、男神、あるいは男女対の神として描かれるようになり、男神として描かれる時には花器と(げき)を持つことが多いそうである。しかしながら、石碑としての地神塔は角柱に名称が刻まれただけの文字塔であることが多く、その姿が刻まれることはなぜか少ない。
 地天は、大地を顕す神であったことから、我が国では地主神、地母神などと混同されることもあるようだが、少なくとも元は別である。一方、地天は菩薩像として描かれることもあり、地蔵菩薩へと変容したとする考え方もあるそうである。
(堅牢)地神塔マップ (作成中) 緑区、旭区、保土ケ谷区の地神(地天)(2022-12-29)
 堅牢地神塔は、少なくとも三浦半島エリアではあまり一般的ではない。一方、旧相模国の横浜市、藤沢市などでは、それなりに分布しているようだ。これまで、単に石塔群と認識していた中にもあると思われ、この分布は双体道祖神に似ているようにも思われるので、今後整理していく予定です。

【文献】
伊藤真(2018)李通玄における『華厳経』の善知識・安住地神の理解、佛教大学仏教学会紀要、23号、27-61、URL: https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BK/0023/BK00230R027.pdf, Accessed: 2022-11-28.
田中義恭・星山晋也(1987)目で見る仏像・天、136p.、東京美術、東京.
石川博司(1998)地神信仰雑記、URL: http://koktok.web.fc2.com/isikawa/isikawaCD/dijin.htm, Accessed: 2022-11-28.
泉区小史編集委員会(1996)地神塔と地神信仰、in いずみいまむかし、URL: https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/index-pdf.files/0072_20181017.pdf, Accessed: 2022-11-28.
納冨常天(1987)『善財童子華厳縁起』について、駒澤大学仏教学部論集、18、270-298、URL: http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/19034/KJ00005120647.pdf, Accessed: 2022-11-30.