三浦半島の道祖神と地神

(本日、雨天につき、文献整理でした)
 地神塔と(双体)道祖神の分布の関係を調べるために文献調査していたところ、神奈川県での道祖神のまとまった調査(神奈川県の道祖神調査報告書,1981)が昭和末期に行われていたことに気づきました。しかも、鈴木(2011)によれば、神奈川県は、長野県、群馬県に次いで多くの道祖神塔が残されている県であるだけでなく、道祖神石塔の半数が双体神の像容なのだそうです。これらの文献の考察などを参考に以下に備忘を記録しておきます。


(堅牢)地神塔マップ (作成中)  地神(地天)  三浦半島での分布(まとめ)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09)

【全国分布】
 石碑としての道祖神は、北は青森県から南は島根県まで分布するが、分布密度が高いのは、長野県、群馬県、神奈川県、静岡県、山梨県、新潟県など本州中部と鳥取県を中心とした山陰地方の東西二ヶ所である。
 地神塔の分布は道祖神より限定されるが、東日本では神奈川県に、西日本では岡山県と香川県に多く分布する。入植者によって導入された北海道でもみられる。

【形態】
 道祖神碑は、文字碑と双体神像碑に大別され、文字碑の場合は道標を兼ねていることが屡々ある。双体神像の場合には、性別不詳の二神の場合と、夫婦とみられる男女神の場合があり、男女神の場合は安曇野地域で数多くみられているため、安曇野型と呼ぶこともある。また、陰陽二石などの性器を模した道祖神石碑も知られる。近年設置された道祖神は、信仰とは関係なく、美術品あるいは観光や宣伝目的であることが多く、その場合はほぼ例外なく安曇野型となっている。鈴木(2011)によれば、神奈川県の道祖神はほぼ半数が双体神像碑となっている。
 石碑を建てることはないが、境界を示す注連縄『道切り』(小口,1985)、東北地方などでみられる稲わらや木で作られた『人形神』(伊能,1919)も結界内を守護するという性格は、石碑道祖神と同質と考えられる。また、三浦半島の西海岸では、球状コンクルージョンを子産石(こうみいし)と称して安産祈願する風習が残されており(瀬川,2022)、道祖神碑と置き換わっている可能性がある。村松(1981)によれば、三浦半島最南端に位置する三浦市でもゴロ石と呼ばれるおんべ焼に用いる丸石が多数確認されている。
 地神塔は、文字碑であることが圧倒的に多くなっており、『地神塔』『堅牢地神塔』と刻まれていることが多い。神像塔の場合は、女神の場合男神の場合があるが、男女二神の例はないようで、神像塔では文字が刻まれないことが多いため、双体道祖神とは区別できていない可能性もある。徳島県を中心とする地域では、五角柱の石碑に農耕に関係する五柱の神名を刻んだ形態があり、徳島県を中心に分布することから徳島型、また儀式に用いたという意味で醮儀型と呼ぶ。

【祭祀神】
 道祖神の神は、日本古来の『みちの神』とされる。神名は明らかにされていないが、伊弉諾が黄泉から戻った際の禊で生じた道俣神(ちまたのかみ)、国譲りの際の道案内で知られる猿田彦神を始め他の神との習合も知られているようである。朝鮮半島のチャンスン(長生)の影響があるとも言われる(諏訪,1994)。
 堅牢地神の原型は十二天の一柱である地天であるとされ、元々は女神であるが、仏教に取り込まれる過程で、男神あるいは男女二神とされるようになったと言われる。田中(2021)によれば、堅牢地神は、文殊菩薩が化して現れた仙人の教化により菩提心を得て、弁財天と堅牢地神のふたつの名を与えられた野干(狐)だという説話が残されている。徳島型の地神塔で刻まれる神名は下記の通り。
 天照大神(あまてらすおおみかみ)
 大己貴命(おおあなむちのみこと) (= 大国主)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) (= 稲荷)
 埴安媛命(はにやすひめのみこと)
 北海道では、倉稲魂命の代わりに稲荷神と習合することのある豊受比売命(とようけびめのみこと)を当てている塔もある(石川,1990)。なお、藤沢市亀井野の地神社の祭神は埴安媛命である。

【呼称】
道祖神の他、ドウロクジン(道禄神、道陸神、道六神)、サイノカミ(賽の神、幸の神、性の神)などと多くの呼び名があり、『おくの細道』では『そゞろ神(漫ろ神)』となっている。
 堅牢地神の原型は地天(Pṛthvī)であり、地神と呼ばれることもある。ただし、出雲神話系の神である埴安媛命などとの習合も見られるようで『地の神』と理解するほうが良いのかもしれない。地神を祀る石塔としての名称は、堅牢地神塔、地神塔、地祇塔、社日塔、天社神塔などが知られている。地神のよみかたは全国的には『じしん』あるいは『ちじん』であるが、横浜市泉区周辺では『じじん』(泉区総務部,2019)と訛っていた様である。

【講】
 宗教行事集団である『講』の規模について伊東(1982)が興味深い指摘をしている。『一般に戸塚区では地神講の方が庚申講より一つの組の単位が大きかったようである。(原文通り)』地神講が五穀豊穣を祈るという結界内の村落単位であったのに対して、庚申講はより小さい単位で主宰されており、しかもこの二つは重なりがあったという指摘が戸塚区での調査結果に基づき示されている。

【行事儀式】
 関東甲信越地方では、小正月(1月15日)の火祭りを『ドウソジン』と呼ぶ地域が多く『どんど焼き』また三浦半島では『おんべ(御幣)焼き』などの名称も知られていて、いずれも道祖神と関連があると考えられている。また、桜井(1966)によれば、農作物につく害虫を駆除する行事『虫送り』も道祖神信仰に関わる。堅牢地神を奉斎する講は社日講と呼ばれることも多く、春秋の彼岸日に一番近い(つちのえ)の日に社日祭を開催する。この祭りは社日に田の神と山の神が交代するという信仰と関係するとされている。


【三浦半島域での分布】(まとめ)
 三浦半島域では、多くの庚申塔を今でも確認できるが、道祖神は少なく、地神塔は殆どみかけない。数少ない道祖神も、ごく最近(平成以降)建てられたものを除けば、すべて文字塔である。
《道祖神》
 川口(1981)は道祖神信仰の分布は諏訪信仰圏を意味するとしている。これは諏訪信仰とミシャグジ(石神)信仰との関連において全国的にみると正しいのかも知れないが、三浦半島には諏訪系の神社が少なくとも20社程度は現存しており、必ずしも当てはまらない。道祖神の本質の際たるものは『塞ノ神』すなわち境界(結界)を防御する神である。これと同等な機能をもつ『道切り』と呼ばれる習俗が横須賀市長井町荒井地区に残されている。『道切り』に類似する風習は東京湾の対岸でも知られており、昭和中期の自動車の普及に伴って交通の妨げになるという理由で急速に衰退したと考えられている。また、三浦半島西海岸では道祖神信仰とみなすこともできる子産石信仰のあったことが、道祖神碑の分布に関係した可能性がある。道祖神が三浦半島域で少ないのは、かつて盛んだった『道切り』が廃れてしまったことや道祖神の代わりとなりうる『子産石信仰』があったことに関係しているかも知れない。

 なお、三浦市南下浦町金田には3基の夫婦地蔵があり、これを外見から双体道祖神でないと断ずることは難しい。もし、これが道祖神であるならば、三浦半島最南端の双体道祖神ということになる。
  双体神像道祖神の分布に関する検証(3件)

《地神塔》
 地神塔の分布については、五角柱を特徴とする徳島型は領主による造塔推奨があったことが認められている(梅原,1987)ため別にして考察する必要がある。道祖神講、また庚申講の様な日待講は、教団化した宗教者の関与が少ないことが特徴であり、このため民間宗教と総称される。ところが、相模の地神信仰は、特定の宗教指導者の関与が大きいとされている(梅原,1987)。このことが、地神塔の分布に寄与した可能性がある。その象徴的な例が、神像を刻した塔については、かつて高座郡西俣野(現藤沢市)にあった御嶽山神禮寺で発行された表具(掛軸)の影響があった(伊東,1982;梅原,1987)と考えられており、神像地神塔が藤沢市周辺に多いことと関係する。


 文字塔も含めて三浦半島域で地神塔が少ない理由は、これまで確認できた文献にも言及はなく、未だ明らかにされていない様である。地神講は祭祀集団の規模から考えると道祖神講とは競合しても庚申講との競合があるとは思えず、もしあるとすれば『道切り』の祭祀集団と競合していた可能性があるものの、これらは今のところ憶測にすぎない。
 上述のこと等を基に、信仰集団(講)のサイズと領主や宗教指導者(神職や僧侶)の関与の度合いに注目して概念としてまとめれば、下図(市橋,未発表)のようになる。

領主等の関与度と集団サイズによる民間信仰の配置


 地神塔の分布を考える時、考慮すべき他の祭祀集団=講はいろいろありそうだが、葉山地区を中心にして石塔を確認でき、浅間神社とも関係のある富士講、半島全域で石塔ではなく石祠や社を持つことが多い稲荷講などに注目する必要があると考えられる。

 さらに、地神信仰の典型は農業神としての地の神に五穀豊穣を願う事に照らすと、漁労の割合が多くなる沿岸地域では平野部に比べて、地神信仰は伝播し難かったた可能性もある。


 これまでのところ、三浦半島エリアで確認できた地神塔は、逗子市の亀岡八幡境内地蔵山石塔群山の根石塔群、および横須賀市根岸の牛宮神社境内にある4基である。
 双体神像の道祖神は、伊勢からの移住にともなって導入されたと推測される小坪地区を除くと3基(追浜本町1丁目上山口林3丁目)を確認しているが、これら3基は過去の文献には見当たらず、摩滅状態から見ていずれも最近建てられたと思われる。
 以上のことはあくまでも石碑の分布についての考察であるが、石碑がなかったからと言って信仰が存在しなかったことにはならない。特に地神信仰の場合では、石碑を立てずに表具(掛軸)の掲示により祭祀したことも多いらしい。私の知る限りでは、現在三浦半島最南端の地神塔は横須賀市根岸2丁目の地神様であるが、この碑はかつてこの地域に地神講があったことを後世に伝えるために、昭和45(1970)年になって建てられたものである。恐らく、三浦半島で最新の地神塔でもあると思われる。
 さらに、三浦半島地域で石塔群、庚申塔群と認識していた中に馬頭観音、五輪塔などが多数あったことは記憶しており、その中に地神塔や双体道祖神 が紛れている可能性もある。いずれ機会があれば、文献調査、現地調査も含めて検討してみたい。


【文献】
鈴木英恵(2011)東西に見る道祖神の現状、年報非文字資料研究、(7)、457-478, URL:https://researchmap.jp/suzukihanae/published_papers/35840919Accessed:2023-01-04.
梅原達治(1987)地神信仰の地域的変異について、札幌大学教養部紀要、30、69-87, URL: https://core.ac.uk/download/pdf/230296308.pdf、Accessed: 2022-12-30.
高橋晋一(2004)地神塔と三神塔、徳島地域文化研究 (2), 1-11, Accessed: 2023-01-01.
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藤井慶治(1981)横須賀市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.73-84.
村松豊(1981)三浦市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.187-191.
川口謙ニ(1981)総論、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p1-7.
桜井徳太郎(1966)民間信仰、334+10p、塙書房、東京.
小口千明(1985)農村集落における精神的ムラ境の諸相-茨城県桜村における虫送りと道切りを事例として-,城西人文研究,12,37-51, URL:https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000110736.pdf
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八木康幸(1984)村境の象徴論的意味,人文研究,34(3), URL:(a href=”file:///C:/Users/hidek/Downloads/343-01.pdf”>, Accessed:2023-01-14.
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