双体神像道祖神の分布に関して、いくつか気になっていたことを、これまでの知見を参照しつつ、検証してみました。
【検証1】双体道祖神の分布は豊かさと関連するか?
【検証2】双体道祖神は旧相模国に多いのか?
【検証3】神を火中に投じてよいのか?
三浦半島の道祖神と地神 地神・道祖神マップ (作成中)
【検証1】双体道祖神の分布は豊かさと関連するか?
横浜市は旧武蔵国と旧相模国に跨っており、なぜか相模国エリアには広く分布する双体神像の道祖神が、武蔵国エリアでは殆ど確認できない。その分布の理由は明らかにはされていないものの、仮説はいくつか提出されてきたようである。そのうちのひとつ、双体神像塔は文字塔より高価であるため、経済的に豊かな講中により建てられたであろうという仮説につき検証してみた。
使用した統計値は、WikiPediaで公開されている江戸時代の旧国別石高の変遷で、1633年(寛永10年)の調査結果を1.0とした時の年代毎の伸び率を示したのが図1である。江戸時代を通じて伸び率が最も高いのは武蔵国であるが、相模国と大きな違いがあるとは言えない。また、神奈川県以上に双体道祖神塔が残されている信濃国より武蔵国のほうが明らかに高い伸び率となっていた。あくまでも平均値での比較ではあるが、武蔵国より相模国のほうが豊かであったとは言えない。
図1は、あくまでも国別の比較なので、もう少し詳しく地域別の比較もしてみたい。そこで現在の横浜市内にかつて存在していた橘樹、久良岐、鎌倉、都築の4郡に三浦郡を加えて比較したのが図2である。こうしてみると旧国内でも地域差があり、双体道祖神の分布との関係はますます見えなくなる。
従って、その地の豊かさが双体道祖神の造塔と直接関係していたとは言い難いようである。
【文献】
WikiPedia、旧国別石高の変遷, Accessed:2023-02-17.
【検証2】双体道祖神は旧相模国に多いのか?
『旧武蔵国には旧相模国に比べて双体道祖神が少ない』というのは私が歩いていて感じた事であり、ウェブにもその様な記述があったので、『やっぱり、そうか』と納得していた。しかしながら、それを数値をもって確かめたことはなかった。
そこで、1970年代に実施された神奈川県の調査結果(岸上,1981)で横浜市内に確認された85基につき、改めて集計した。まず、郡別、形態別で集計したのが表1であり、道祖神碑は、武蔵国より相模国で多数残されていたと言ってもよさそうである。
一方、双神像碑と文字碑との割合は、相模国側で著しく高いとまでは言えず、旧武蔵国にも8基の双神像碑が残されていたことが分かる。そこで、さらに詳しく見るために、現在の区別で集計すると表2になる。
表2によれば、旧相模国エリアでも現栄区での道祖神数が突出しており、ここでは双体神像も多く残っていたが、他の相模国四区は武蔵国の区と比較して跳び抜けて双体神像が多いというほどではなかった。港南区はほぼ中央に旧国境が南北に走っている区であるが、道祖神碑が残されているのは相模国側の鎌倉郡のみであった。
続いて、表2の各区での道祖神碑総数と双体神像碑割合の関係をプロットすると図3になる。一見ばらついて見えるが、総数が4以下の区を除いてみれば、良い相関関係が見られた。
以上により、横浜市に限って言えば、旧武蔵国より旧相模国で多くの道祖神碑が残されており、道祖神碑の総数が多いほど、双体道祖神碑の割合が高いと言ってよさそうである。
【文献】
岸上興一郎(1981)横浜市の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.8-54
【検証3】神を火中に投じてよいのか?
これは、私が考えた仮説だが『神を火の中に投げ込むのは不敬』ではないだろうか。それで、道祖神が火祭りの主神とされる地域では、双体神像が分布しないのではないかと考えた。しかし、この仮説については調べるほどに反証がみつかってきた。
まず、広川(1982)によれば、横須賀市須軽谷でのおんべ焼につき、
おんべを燃やすときは、道祖神を中に入れ、大勢の子供達が神棚に上げた三又で地面をたたき、大声で「おんべを焼くよ」と知らせました。
としている。須軽谷の道祖神は丸石型で、確かにかつて焼かれた跡が残っている。瀬川(2022)によれば、既に行われなくなったおんべ焼の丸石が土中に埋まっていた事例も報告されている。この地区ではおんべ焼の丸石とは別に道祖神の石宮が残されているので、神たる道祖神は石祠内に坐し、丸石道祖神は神の力を発揮するための装置であるとも考えられる。
ところが、長島(1981)によれば、横須賀市北部の追浜東で「どんど焼き」に用いた「さいと」が絵入りで紹介されていて、その「さいと」の中心には塞の神の石祠が描かれている。このケースでは、神に対する依り代ごと放火ではないだろうか。
次に、私どもの地域では御神体が道祖神さまですから、中心の太い竹の根元へ道祖神を置きます。その周りに杉の枯葉を置き、その上にワラの内飾りと門松を小さく切って、周りの竹の間から交互に詰め込みます。そして、最後に円すい型の竹を、しめ縄を使って結びます。
十四日中に、この作業が終了すると、子供たちは宿番(毎年順番で宿をする家が決まっていた)の家へ集まり、その夜は菓子などを食べて午前零時になるのを待ちます。
いよいよ午前零時に過ぎると、子供たちは「せえと燃すぞ」と、大声で触れ回ります。そして村中の人たちが集まったところで、火を付けます。
(追浜東・長島 弘)
さらに、三浦半島地域では唯一、双体神像道祖神が残されている逗子市小坪に関する文献(内田,1981)には下記の記述がある。
大正のなかば頃までは、一月十四日の朝、六時頃、まだ船が出ないうちに各神社毎に「サイトウ」の火を炊いた。沖へ出る前に火にあたっていったのである。このときお宮から若いしが「ドウロクジン」塔を運んできて、火の中に入れて焼いた。
小坪地区は全域が漁村であり、集落ごとの神社の境内に双体神像道祖神塔が今でも残されているのだが、この双体神像を小正月の火祭りの際に毎年焼いていたことを、この文献から知る事が出来る。
この種の記載は具体的な場所までは言及されないまでも、ウェブ、案内誌など、他にも多数見られる。丸石の場合は道祖神そのものでなく道祖神を祀る際の装置であるとも考えられるし、石祠は依り代に過ぎないのかも知れない。しかしながら、神像碑となれば限りなく神そのものに近いと考えられる。災厄や穢れを払う道祖神の力は、火により供給強化されるらしく、火中に晒すことは不敬に当たらないらしい。
三浦半島の道祖神と地神 地神・道祖神マップ (作成中)
【文献】
広川武雄(1982)須軽谷のおんべ、in 古老が語るふるさとの歴史西部編、横須賀市市長室広報課編、p182-183.
瀬川渉(2022)横須賀市須軽谷上の里の丸石道祖神、横須賀市博物館研究報告(人文科学)、66、57-66、URL: https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/wp/wp-content/uploads/2022/04/j66-4_Segawa_2022.pdf, Accessed: 2023-03-13.
長島弘(1981)正月行事、in 古老が語るふるさとの歴史北部編、横須賀市市長室広報課編、p177-184.
内田武雄(1981)逗子の道祖神、in 神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁文化財保護課編)、p.182-186.