追浜銀座の佐倉が、昨日11月26日をもって閉店していました。追浜1丁目から現在地(追浜本町1丁目)に移転して営業を続けていらっしゃったのですが、気づかぬうちの閉店でした。追浜からまたも名店が消えてしまうのは残念です。
閉店のお知らせ
ながい間のご利用ありがとうございました。事情により11月26日のサンドイッチのみの販売で終了となります。
ありがとうございました。
職場の移転後、初めての実施となる災害時の帰宅訓練、設定された1時間では訓練にならないので、休日を利用して実施しました。2019年の時に作製した野帳留めが今回も役に立ちました。今回は地図を使わずに記憶で予定経路を辿った結果、掘割川の久良岐橋に出るつもりが中村橋に出てしまったのが間違い箇所でした。
【記録】所要時間:6時間14分、総歩数:34,480歩、総距離:(72cm/歩で換算)24.8km、平均時速4.0km/hr
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区間毎速度の変化 |
今日は、帷子川中流に合流する支流を尋ねました。陣ヶ下渓流公園でみかけた赤い実は、タンキリマメではなくトキリマメの方でした。水の橋は、水道道が通っていることから名付けられたようです。
帷子川水系を訪ねて part1.西区 part2.帷子川から今井川へ part3.今井川合流地点から帷子川分水路分流堰
【水系マップ】帷子川 大岡川 入江川・滝野川 宮川・六浦川 侍従川 鷹取川
庚申さまの由来(菅田町344の説明版より)
■庚申
■道祖神
村里の入り口や分かれ道で、悪霊の侵入を防ぎ、通行人を守る道路の神で、塞の神といいます。旅行安全、縁結び、安産、子供を守る神として、信仰する風習が東日本に広まりました。
■さいと焼き
どんど焼き、左義長などともいいます。この町では【せいと焼き】と呼び、門松やしめ飾りを燃やして、その勢いで書き初めが高くあがるのを喜ぶ光景もありました。餅や団子を焼いて食べ健康を祈り、燃えさしの松を戸口にさしこんで家内安全を願う風習も続いています。
現在では以上の三つが結びつき、その火祭りが正月十四日におこなわれています。
平成八年一月吉日 上菅田町下地区庚申講
【文献】
横浜市公共下水道台帳
帷子川水系を訪ねて part1.西区 part.2 帷子川から今井川へ part4.菅田川、くぬぎ台川、市沢川
【水系マップ】帷子川 大岡川 入江川・滝野川 宮川・六浦川 侍従川 鷹取川
横浜市地域史蹟
旧
登録年月日 平成十年十一月九日
所在地 保土ケ谷区岩間町一丁目五番地
所有者 横浜市
登録区域 保土ケ谷区岩間町一丁目五番地の一部
江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれていたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ケ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内 保土ケ谷」は特に有名です。
大橋や新町橋とも呼ばれていた帷子橋について、『新編武蔵風土記稿』の帷子町(保土ケ谷宿のうち)の項には、「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ髙欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられます。昭和四十九年(一九六四)七月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王寺駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。
歴史の道
旧
江戸時代初期の東海道
現在知られている「旧東海道」は、慶長6年(1601年)に保土ケ谷宿が成立した当時のものではなく、慶安元年(1648年)に竣工されてものでねそりまで追分(宮田町1丁目)から
このあたりには江戸初期まで屋敷や寺が多くありましたが、新道の造成に伴い屋敷は街道沿いに移され、新しい街並みを形成しました。ここから追分へ至る道は「新町」(現:岩間町、帷子町)に対比して「古町通」と呼ばれ、元禄年間の書物には「古町通屋敷跡」の字が見られます。
旧古町橋
この場所には江戸時代初期の東海道が帷子川をわたる「古町橋」がありました。慶安年間の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対応して、「新町橋」と呼ばれていました。また、かねてから暴れ川として氾濫を繰り返していた帷子川の改修が昭和38年(1963年)に決定され、帷子川の流路は北側に変更されました。それにともない、現在の古町橋は昭和41年(1966年)に、ここから葯120メートル北に架設されています。
平成16年3月 保土ケ谷区役所
平成2年度 都市河川緊急整備工事
(帷子川分水路 分流堰ゲート)
純径間 6.5m
扉高 5.2m
門数 3門
開閉速度 開時 0.3m/min
閉時 1.0m/min
扉体重量 9.7t (1門分)
製作年月 平成3年3月
製作 IHI 石川島播磨重工業株式会社
かながわの橋100選 霞橋
霞橋 Kasumi Bridge
初代の霞橋は大正2(1913)年に架けられましたが、関東大震災により損壊しました。現在の霞橋は、レンガ壁や門柱に初代の橋のものを再使用し、昭和3(1928)年に竣工した2代目です。この橋は、「かながわの橋100選」と「横浜市認定歴史的建造物」に指定されています。城壁を思わせる重厚な構造(鉄筋コンクリートアーチ橋)は、地域のランドマークになっています。
明治末期から大正期にかけて横浜電気鉄道の路線網は拡大し、大正10(1920)年に横浜市営電気鉄道(横浜市電)となりました。東側から橋下の道路へ下りる階段が、休憩所と一体的にレンガで築造されているところに当時の面影を見ることができます。初代霞橋の下の道は、電車が通る専用軌道でしたが、市電久保山線は、モータリゼーションの発展に伴い、マイカーの普及で街中に自動車が氾濫したため、昭和44(1969)年に廃止されました。
この付近は古くは霞耕地と呼ばれ、大正期に入ってから別荘などが建てられるようになっていましたが、震災を機に、被災がひどかった市中心部からの避難地となり、住宅地となりました。「霞ヶ丘」は、昭和10(1935)年に町会町名整理により字名に因んで町名となりました。霞は雲霞のカスミの他に、カ(処)スミ(住み)、即ちスミ(住)カ(処)のこととも言われています。
霞橋 Kasumi Bridge
The original Kasumi bridge was built in 1913 (Taisho 2), but was destroyed in the Great Kanto Earthquake. The current Kasumi bridge is the Second version of the bridge, and was built in 1928 (Showa 3), reusing the brick walls and pillars of the original bridge. This bridge has been selected as one of “Kanagawa’s Top 100 Bridges” and has been designated as one of “Yokohama’s Recognized Historic Architectures.” The sturdy structure (an arched bridge made of reinforced concrete) which reminds one of a rampart is a landmark of the region.
From the end of the Meiji period to the Taisho period, Yokohama Electric Railway’s network expanded until it become Yokohama Electric Tramway (Yokohama Tramway) in 1920 (Taisho 10). A trench in a hill was made when Yokohama Tramway’s Kuboyama Line was being constructed, and Kasumi Bridge was built to bridge the two crests of the hill. under the east side of the bridge, one can still see the vestiges of the old brick rest stop and stairs leading down to the road. Although the road under the original bridge was initially used exclusively by tramcars, the city become flooded with automobiles as private cars become popular with the development of motorization, and Yokohama Tramway`s Kuboyama Line was forced to discontinued service in 1969 (Showa 44).
This area used to be known as Kasumi fields, and in the Taisho period, vacation homes and the like started to be built in the area. however, with the Great Kanto Earthquake it become an evacuation site for people from the heavily damaged city center, and later become a residential area. Kasumigaoka gained its town name during the organization of town borders and names in 1935 (Showa 10). Other than the character kasumi of the word “cloud and haze” in Japanese, it is also said that kasumi id reordering of the word sumika which means dwelling place.
初代霞橋。橋と橋詰の階段は一体のレンガ造。橋の下の道は電車が通るため。小さなアーチ橋であった。
The original Kasumi Bridge. The bridge and its stairway were made of bricks and build as a single structure. Since only tramvars passed under the bridge, the arch was relatively low.
横浜開港資料館所蔵
皆既月食時には、天王星食も見られるとのことですが、今の私の視力ではちよっと無理です。
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等々力渓谷は、23区内で唯一の渓谷とのことです。
東京都指定名勝
所在地 世田谷区等々力二丁目外
指定 平成十一年三月三日
等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約一キロメートルの都区内唯一の渓谷である。
玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかれて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。
都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要である。
平成十一年九月
東京都教育委員会
今日は横浜駅を起点にして、西区の帷子川から保土ヶ谷区へ、さらに今井川を遡ってみました。
帷子川水系を訪ねて part1.西区 part.3 分水路分流堰まで part4.菅田川、くぬぎ台川、市沢川
【水系マップ】帷子川 大岡川 入江川・滝野川 宮川・六浦川 侍従川 鷹取川