帷子川水系を訪ねて ~part.3 今井川合流地点から帷子川分水路分流堰

 帷子川水系を訪ねて part1.西区  part.2 帷子川から今井川へ part4.菅田川、くぬぎ台川、市沢川
【水系マップ】帷子川  大岡川  入江川・滝野川  宮川・六浦川  侍従川  鷹取川


今井川流入地点から光栄橋

今井川流入地点
天王橋(てんのうはし)
帷子橋(旧東海道)
古町橋(ふるまちはし)(古東海道)
愛染橋
常盤橋(ときわはし)
水道管(常盤橋)
(河童)
川辺公園
柳橋人道橋(やなぎはしじんどうきょう)(下)
柳橋(やなぎはし)
柳橋人道橋(やなぎはしじんどうきょう)(上)
星川下橋(ほしかわしもばし)
星川駅
星川橋人道橋(ほしかわはしじんどうきょう)
星川橋(ほしかわはし)
宮川橋(みやかわはし)(水道道)
すみれウォーク
川田橋(かわだはし)
星和橋(せいわはし)
保土ケ谷陸橋
平和橋(へいわはし)
和田橋(わだはし)
和田町駅
製缶橋
宮崎跨線橋
水道管(宮崎橋)
宮崎橋
(相鉄本線)
光栄橋(こうえいはし)


相鉄・JR直通線からふれあい橋

(相鉄・JR直通線)
両郡橋
人道橋(両郡橋)
稲荷橋
川島橋
(環状2号線)
かるがも橋
新橋(しんばし)
鷲山橋(わしやまはし)
菅田川流入地点
学校橋(がっこうはし)
くぬぎ台川合流地点(耕地橋)
(無名の橋)
(東海道新幹線)
逆田橋(さかたはし)
上逆田橋(かみさかたはし)
田原橋(たわらばし)
公園
(相鉄本線)
中田橋(なかたはし)
新井川流入地点
下中田橋(したなかだばし)
ふれあい橋
帷子川分水路分流堰
愛宕橋



天王町駅
帷子橋復刻(天王町駅前公園)
古町橋(ふるまちはし)


横浜市地域史蹟
 旧帷子橋(かたびらばし)
         登録年月日 平成十年十一月九日
         所在地   保土ケ谷区岩間町一丁目五番地
         所有者   横浜市
         登録区域  保土ケ谷区岩間町一丁目五番地の一部
 江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれていたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ケ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内 保土ケ谷」は特に有名です。
 大橋や新町橋とも呼ばれていた帷子橋について、『新編武蔵風土記稿』の帷子町(保土ケ谷宿のうち)の項には、「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ髙欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられます。昭和四十九年(一九六四)七月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王寺駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。


歴史の道
古町橋(ふるまちばし)
江戸時代初期の東海道
 現在知られている「旧東海道」は、慶長6年(1601年)に保土ケ谷宿が成立した当時のものではなく、慶安元年(1648年)に竣工されてものでねそりまで追分(宮田町1丁目)から上方(かみがた)方面の東海道はここを通っていました。現在、追分から神明社あたりまでの道筋は判明していますが、そこから境木までの道筋には諸説があります。
古町通(ふるまちどおり)
 このあたりには江戸初期まで屋敷や寺が多くありましたが、新道の造成に伴い屋敷は街道沿いに移され、新しい街並みを形成しました。ここから追分へ至る道は「新町」(現:岩間町、帷子町)に対比して「古町通」と呼ばれ、元禄年間の書物には「古町通屋敷跡」の字が見られます。
旧古町橋
 この場所には江戸時代初期の東海道が帷子川をわたる「古町橋」がありました。慶安年間の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対応して、「新町橋」と呼ばれていました。また、かねてから暴れ川として氾濫を繰り返していた帷子川の改修が昭和38年(1963年)に決定され、帷子川の流路は北側に変更されました。それにともない、現在の古町橋は昭和41年(1966年)に、ここから葯120メートル北に架設されています。
     平成16年3月 保土ケ谷区役所


市沢川(陣ヶ下渓谷)

(私用橋)
くぬぎ橋
神社下橋
(嬬恋神社より)


帷子川分水路

分流地点の水門
下白根橋(しもしらねばし)
帷子川分水路通水記念碑(帷子川ふれあい広場)
帷子川分水路


平成2年度 都市河川緊急整備工事
 (帷子川分水路 分流堰ゲート)
 純径間   6.5m
 扉高    5.2m
 門数    3門
 開閉速度  開時 0.3m/min
       閉時 1.0m/min
 扉体重量  9.7t (1門分)
 製作年月  平成3年3月
 製作    IHI 石川島播磨重工業株式会社


 その他の写真です。帷子川流域は、杉山神社が多く分布することでも知られており、以前にもこの地域を訪ねたことがありました。

金沢文庫駅で
南太田駅前
霞橋(かすみばし)
初代霞橋
藤方豆腐店跡
クチナシ Gardinia jasminoides
イソギク Chrysanthemum pacificum
キダチチョウセンアサガオ Brugmansia suaveolens
県営藤棚団地8号棟
ばらの幼稚園
願成寺坂(がんじょうじざか)
ヤマハギ Lespedeza bicolor
シネマノヴェチェント:中央2丁目1-8
東京ガス平沼整圧所
カワウ Phalacrocorax carbo
カワラバト Columba livia
アカミミガメ Trachemys scripta
コイ Cyprinus carpio(川田橋)
クロガネモチ Ilex rotunda
(和田)杉山神社:和田1丁目10-4
和田町商店街
和田地蔵尊:和田1丁目17-5
ホトトギス Tricyrtis hirta
ハシボソガラス Corvus corone
(川島)杉山神社:川島町896
嬬恋稲荷:川島町901-1
センダングサ Bidens biternata
ラッコ:西谷町公園
ウサギ:西谷町公園
ブラシノキ Callistemon speciosus


横浜市認定歴史的建造物
 霞橋
  建造年 1928(昭和3)年
  レンガ壁・門柱 1913(大正2)年
  設計者 内務省復興局
 2004 横浜市


かながわの橋100選 霞橋


霞橋 Kasumi Bridge
 初代の霞橋は大正2(1913)年に架けられましたが、関東大震災により損壊しました。現在の霞橋は、レンガ壁や門柱に初代の橋のものを再使用し、昭和3(1928)年に竣工した2代目です。この橋は、「かながわの橋100選」と「横浜市認定歴史的建造物」に指定されています。城壁を思わせる重厚な構造(鉄筋コンクリートアーチ橋)は、地域のランドマークになっています。
 明治末期から大正期にかけて横浜電気鉄道の路線網は拡大し、大正10(1920)年に横浜市営電気鉄道(横浜市電)となりました。東側から橋下の道路へ下りる階段が、休憩所と一体的にレンガで築造されているところに当時の面影を見ることができます。初代霞橋の下の道は、電車が通る専用軌道でしたが、市電久保山線は、モータリゼーションの発展に伴い、マイカーの普及で街中に自動車が氾濫したため、昭和44(1969)年に廃止されました。
 この付近は古くは霞耕地と呼ばれ、大正期に入ってから別荘などが建てられるようになっていましたが、震災を機に、被災がひどかった市中心部からの避難地となり、住宅地となりました。「霞ヶ丘」は、昭和10(1935)年に町会町名整理により字名に因んで町名となりました。霞は雲霞のカスミの他に、カ(処)スミ(住み)、即ちスミ(住)カ(処)のこととも言われています。


霞橋 Kasumi Bridge
The original Kasumi bridge was built in 1913 (Taisho 2), but was destroyed in the Great Kanto Earthquake. The current Kasumi bridge is the Second version of the bridge, and was built in 1928 (Showa 3), reusing the brick walls and pillars of the original bridge. This bridge has been selected as one of “Kanagawa’s Top 100 Bridges” and has been designated as one of “Yokohama’s Recognized Historic Architectures.” The sturdy structure (an arched bridge made of reinforced concrete) which reminds one of a rampart is a landmark of the region.
From the end of the Meiji period to the Taisho period, Yokohama Electric Railway’s network expanded until it become Yokohama Electric Tramway (Yokohama Tramway) in 1920 (Taisho 10). A trench in a hill was made when Yokohama Tramway’s Kuboyama Line was being constructed, and Kasumi Bridge was built to bridge the two crests of the hill. under the east side of the bridge, one can still see the vestiges of the old brick rest stop and stairs leading down to the road. Although the road under the original bridge was initially used exclusively by tramcars, the city become flooded with automobiles as private cars become popular with the development of motorization, and Yokohama Tramway`s Kuboyama Line was forced to discontinued service in 1969 (Showa 44).
This area used to be known as Kasumi fields, and in the Taisho period, vacation homes and the like started to be built in the area. however, with the Great Kanto Earthquake it become an evacuation site for people from the heavily damaged city center, and later become a residential area. Kasumigaoka gained its town name during the organization of town borders and names in 1935 (Showa 10). Other than the character kasumi of the word “cloud and haze” in Japanese, it is also said that kasumi id reordering of the word sumika which means dwelling place.


初代霞橋。橋と橋詰の階段は一体のレンガ造。橋の下の道は電車が通るため。小さなアーチ橋であった。
The original Kasumi Bridge. The bridge and its stairway were made of bricks and build as a single structure. Since only tramvars passed under the bridge, the arch was relatively low.
横浜開港資料館所蔵


【文献】
横浜市、だいちゃんマップ、横浜市行政地図情報提供システム、Accessed:2022-11-12.
ROIS-DS、帷子川分水路 [1400010007] 帷子川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット、Accessed:2022-11-12.
神奈川県(2014)帷子川水系河川整備計画, 、Accessed:2022-11-12.

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