今日は午後から東京出張。少し時間があったので、手前の駅から歩いてみました。鯨の墓があったという鮫洲八幡神社から海雲寺、荏原天神、鯨塚で知られる利田(かがた)神社などを経由して東京海洋大学まで約3kmの路程。東京海洋大学の水産資料館は、改装工事のため休館中で、鯨ギャラリーのみの見学。荏原天神ではカンヒザクラが蕾を綻ばせていました。
海照山品川寺の境内七福神 | ||||||
寿老人 |
布袋尊 |
弁財天 |
毘沙門天 |
福禄寿 |
大黒天 |
恵比寿尊 |
今日は午後から東京出張。少し時間があったので、手前の駅から歩いてみました。鯨の墓があったという鮫洲八幡神社から海雲寺、荏原天神、鯨塚で知られる利田(かがた)神社などを経由して東京海洋大学まで約3kmの路程。東京海洋大学の水産資料館は、改装工事のため休館中で、鯨ギャラリーのみの見学。荏原天神ではカンヒザクラが蕾を綻ばせていました。
海照山品川寺の境内七福神 | ||||||
寿老人 |
布袋尊 |
弁財天 |
毘沙門天 |
福禄寿 |
大黒天 |
恵比寿尊 |
磯子には明治末年に選ばれたという屛風ヶ浦八景があります。この八景は、私の知る限りでは、杉田八幡宮宮司の三浦豊氏が著わした屛風浦郷土誌(1953年)および磯子区制50周年記念に刊行された磯子の史話(1978年)に8首の和歌が載っているくらいですので、日本全国で1000か所はあるとされる八景の中でも最もマイナーな八景のひとつと思われます。
屛風ヶ浦八景は、北は本牧から南は富岡の海岸線に比較的コンパクトに分布しているのですが、今日はこの八景ゆかりの地を散策してみました。なお、順番は今回廻った順番で、基本的に南から北へと辿りました。
富岡暮雪
富岡の雪夕くれに来て見れば松にも白く花ぞ咲きける
このあたりは、昭和初期の海軍航空隊開隊の地で、戦後は米軍に接収、返還後は公務員宿舎が建設されましたが、その宿舎も閉鎖が決まり、また景観が変わっていくのかも知れません。
富岡総合公園北台展望台 |
遠くみなとみらいが望めます |
ランドマークタワー |
雪の富岡八幡宮(2014.1.14撮影) |
杉田落雁
夕霧にかげこそ見へね声近く杉田へ落る雁のひと連れ
かつて、梅の一大産地であったという杉田。今では、梅林は勿論、一枚の田んぼもありません。大正から昭和に埋め立てられた昭和町の杉田臨海緑地を訪ねました。
杉田臨海緑地 |
磯子のガントリークレーン |
咲き始めの紅梅 |
杉田梅(梅林小学校) |
中原晴嵐(清風)
中原の浦山嵐吹き絶へて夕浪の上に月の浮べる
瀟湘八景の様式に従うと晴嵐となるところ、屛風浦郷土誌で『清風』となっているのは誤植と思われます。中原地区もすっかり宅地化が進んでいますが、1294年(永仁2年)開山と伝えられる梅照山願行寺を訪ねました。
新杉田から西の方にこんもりとした小さな林があります。一見、大きな孤立木にも見える林は、タブ、サクラなどの集まりで中原の高台にあります。
梅照山願行寺 |
手押しポンプの井戸 |
白梅 |
中原の高台にある林 |
香宋庵晩鐘
夕煙麓に見へて寂しくも木の間もり来る山寺のかね
建長寺派東漸寺末とされる鳳林山篁修禅寺には、今でも立派な梵鐘がありました。
山門までの石段 |
拈華堂 |
梵鐘 |
鳳林山篁修禅寺の銘がある |
葦名橋夕照
磯山をさやかに見せて葦名橋入り日のかげの照り渡るかな
葦名橋の下を流れていた禅馬川は今はなく、芦名橋バス停に名前が残されています。芦名橋公園の柵は、葦名橋欄干だったそうです。
芦名橋バス停 |
芦名橋公園 |
芦名橋こどもプール |
なぜか懐かしい浜マーケット |
八幡橋歸帆
八幡橋見渡す船の眞帆片打連りて歸る夕ぐれ
八幡橋はいまでも残っており、近くには舟宿があります。帆かけ舟はみられませんが、今でも面影を残す一景です。
国道16号線にかかる八幡橋 |
近くの船宿 |
八幡神社 |
二トリの近くでした |
根岸夜雨
岸洗ふ浪にはあらで淋しきは蚤の苫屋の夜の村雨
根岸夜雨がどの辺りであったか知る縁はありません。かつて根岸湾の眺望の地であったという白滝不動尊を訪ねてみました。不動尊の裏手には、アルバム『ひこうき雲』に収録された佳曲『海をみていた午後』に出てくるレストラン『ドルフィン』が今でもあるそうです。
百段程階段を上ります |
これが白滝 |
本堂 |
JX日鉱日石エネルギーのコンビナート |
本牧秋月
澄みのぼる浪路淸くも本牧の海原照らす秋の夜の月
11時過ぎに京急杉田を出て、途中さんざん寄り道したので本牧臨海公園に着く頃にはすっかり日が暮れてしまいました。本牧秋月が詠まれた地も今となっては知る由もありませんが、天上影は今も変わりませんので、いつか満月の日に再訪したいと思います。
記念碑 |
ふぐの碑 |
八聖殿 |
本日の月齢は3.6 |
以下、本日撮影した写真です。
大阪2日目の今日は、ホテルのすぐ近くのユナイテッド・スタジオ・ジャパンへ。朝一番で、まずは今評判の4Kアトラクション『フォービドゥン・ジャーニー』を体験。その後、『ジョーズ』、『ジュラシックパーク』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と体験し、夕方には広島の幼稚園で双子が同級だった山田家と合流、『アニメ・セレブレーション』、『フォービドゥン・ジャーニー(2回目)』『フライト・オブ・ヒッポグリフ』も見学して、長い一日が終わりました。
今日は久しぶりの家族旅行。宿泊は、パック旅行のホテル近鉄ユニバーサル・シティ。第一日目の今日は、法善寺横丁で串揚げを戴いてから、5年半ぶり2回目のキッザニア甲子園へ。双子が職業体験している間に、私たちは、えびす宮総本社西宮神社に詣でました。
昭和43年7月25日横浜市議会の議決により決定された金沢地先埋立事業は、金沢区の富岡から乙舳に至る約660万平方メートルを対象とし、昭和46年3月15日に起工式を開催しました。事業は北の1号地から順次開始し、海の公園や八景島を含む3号地は、昭和49年に着工、昭和63(1988)年に完成、その辺りの経緯を知ることのできる碑が、柴漁港碑前交差点近くに残されています。
【碑文】
蒼穹の下魚隣耀きし地
横浜市長 細郷道一書
金沢地先埋立事業の推進に貢献した細郷道一
【由来】
傳承によれば、柴町は鎌倉時代この地の東方に長浜千軒と誇稱された村落が在って、応長元年に津波で民家の悉くが流出し、その難を逃れた漁民が良い越場として転住し、ここを小柴村と字して漁業を続けてきたとのことである。
遠くに房総の山々を望み、緑濃い丘陵地を背に砂浜続く波静かな海に、資源豊かな漁業を持った私共柴漁業協同組合の組合員は、祖先より受継いだ文化と土地と漁場を誇りをもって守り育ててきた。
昭和四十六年一月二十九日苦悩の末、横浜市発展のための大乗的見地から、蒼穹の下「魚隣耀きし海」が、金沢区地先埋立事業によって新しい台地に生まれかわることに合意した。
かつてこの地先では地曳網漁や打瀬網漁、潜水器漁、海苔養殖等々が盛んに行われた。 金沢八景の一つ「乙舳の帰帆」は、夕日に映えて波間に浮かぶ柴の打瀬船の帆を詠んだものといわれ、四季折々に多くの魚や貝が獲れ、のり篊は、秋から冬の風物詩となり、春は潮干狩、夏は海水浴と、大勢の人々が遊んだ海も今は大地となって町名も柴、福浦、幸浦、並木となる。
亦柴漁民の協同組織体として明治三十五年十一月に創立した柴漁業組合は、昭和十一年十二月法律改正により柴漁業協同組合となり、更に昭和十九年五月柴漁業会に、次いで昭和二十四年十月再び柴漁業協同組合となって、今日の柴漁業発展の基盤となった漁港をはじめ多くの諸施設を整備し、県下有数の総合單協として漁民の社会的経済的地位の向上に努めてきたが、昭和五十六年十月十五日横浜市漁業問題対策審議会の答申に副って、永年の誇りある歴史に幕を下ろし発展的に解散をした。
今ここに多くの先人の労苦に感謝の意を捧げると共に、この大地の下に眠るかつての豊かな海と、賑わった柴漁港の往時を偲ぶよすがとし柴漁業協同組合の名を永く後世に傳えることを希ってこの碑を建てる。
昭和六十三年十月吉日
柴漁業協同組合建之
元参事 天田 茂 撰文
【参考】
鈴木ら(2009)沿岸部の埋立事業にともなう周辺地域の変容-横浜・金沢地先における事例-, 地理誌叢,20:2,1-16.