月別アーカイブ: 2020年12月

歳の瀬の鷹取山

 昨日の金沢八景権現山に続いて、今日は鷹取山を歩いてみました。ヤブツバキの花の時期には少し早いので少々淋しい季節なのですが、木本植物の葉など今の季節でないと気づくことの出来なかった彩に気づきます。遠目に白い花のように見えたのは、シロヨメナの総苞片でした。


C-252 シロダモハコブフシ【湯川(1996)を転記】
 シロダモタマバエ Pseudosphondylia neolitseae Yukawa(1974) によって葉に形成される虫えいである。展開直後の葉表には直径2~3mmの赤い斑点が現れ、その後急速に生長し、初夏には成熟する。虫えいの葉表部には黒褐色で先端の丸くなった円錐形、葉裏部は茶褐色で半球形を呈する。九州南部では、高さは2.8~5.0mm、直径は2.1~3.5mmで、葉表部の突出の方が葉裏部のそれよりも大きい。暖かい地方ではこの傾向がさらに強くなるが、九州北部などでは、逆に、葉裏の半球形の部分が大きくなり、葉表の円錐形の部分が小さくなる。内部はほぼ球形の幼虫室があり、淡黄褐色の幼虫が1匹入っている。成虫は虫えいの葉裏部から羽化する。多いときには、葉当たりの虫えい数が100個にも達することがあり、葉が折れ曲がったり、捻じれたりする。
 生態 基本的には年1世代であるが、まれに2年1世代のものもある(図II-17)。成虫は4月上~中旬に羽化し、20~40mmに伸びた新芽の中に産卵する。羽化した幼虫は新葉に潜入し、その部分が赤斑点になり、初夏には顕著な虫えいとなる。1齢で越夏し、秋には2齢から3齢に進み、翌春、虫えい内で蛹化する。2年1世代のものは2年目の秋まで1齢のままで、その後、年1世代のものと同じような経過をたどる。これまで内部寄生蜂としてコガネコバチ科のGastrancistrus sp.、外部寄生蜂としてシロダモタマバエコマユバチ Bracon tamabae Maetô(1991) (=Ibobracon scurra Fischer)が知られている(436ページ参照)。
 分布 本州、佐渡、伊豆諸島、四国、九州、種子島、屋久島、南西諸島。
(参考文献) 井手(1928)、Maetô(1991)、Sunose(1982)、巣瀬(1986d)、鈴木(1980)、Takasu & Yukawa(1984)、薄葉(1977)、山内ら(1982)、矢野(1964)、Yukawa(1974, 1976b, 1983a)、湯川(1979a, 1984a, 1988d)、Yukawa et al.(1976)、湯川・松岡(1992)、湯川・巣瀬(1988)。
虫癭ちゅうえい = 虫こぶ。

【参考】
 イソギク Chrysanthemum pacificum
 シロヨメナ Aster ageratoides
 ツルマサキ Euonymus fortunei
 コゴメウツギ Stephanandra incisa
 ナンテン Nandina domestica
 カニクサ Lygodium japonicum
 イタビカズラ Ficus nipponica
 オオバウマノスズグサ Aristolochia kaempferi var. kaempferi
 エビヅル Vitis ficifolia
 マルバウツギ Deutzia scabra
 シロダモ Neolitsea sericea
 マンリョウ Ardisia crenata
 オニシバリ Daphne pseudomezereum
 前浅間
 コウヤボウキ Pertya scandens
 キヅタ Hedera rhombea
 マユミ Euonymus hamiltonianus
 ハゼノキ Rhus succedanea
 ウグイスカグラ Lonicera gracilipes
 トネアザミ Cirsium comosum ver. incomptum
 ヤマブキ Kerria japonica
 ヤマコウバシ Lindera glauca
 親不知
 子不知
 ビワ Eriobotrya japonica
 ヤブツバキ Camellia japonica
 アセビ Pieris japonica
 壁画群
 リュウノヒゲ Ophiopogon japonicus
 ハリギリ Kalopanax septemlobus
 シロダモハコブフシ
 ヤツデ Fatsia japonica
 コセンダングサ Bidens pilosa var. pilosa
 サルトリイバラ Smilax china
 アオキ Aucuba japonica
 アケビ Akebia quinata
 釈迦如来像
 ミツバアケビ Akebia trifoliata
 ナワシログミ Elaeagnus pungens
 サザンカ Camellia sasanqua
 セイヨウヒイラギ Ilex aquifolium
 ギョリュウバイ Leptospermum scoparium
 夕照橋よりみた富嶽


参考文献
渡邉-東間加奈・大井-東間哲雄(2016)日本産オオバウマノスズクサ群の分類学史およびオオバウマノスズクサとアリマウマノスズクサの混同について、Bunrui, 16(2):131-151、URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/bunrui/16/2/16_01602-06/_pdf/-char/ja、accesed: 2020-12-29.
湯川淳一(1996)日本原色虫えい図鑑、p.201.

歳の瀬の金沢八景権現山

 計画から5年以上経ってしまった金沢八景西公園(仮称)は八景権現山公園に名称が決まって、円通寺客殿再建築工事を伴う整備事業が行われています。実際に工事をしている所はあまり見かけませんが、完成予定は2020年3月31日とのことです。
 権現山の金沢八景側の上り口は石敢當が守っていたのですが、今日はみつけることが出来ませんでした。ヤブツバキはまだ咲始めといったところです。


 八景権現山公園
 イヌマキ Podocarpus macrophyllus
 ハリギリ Kalopanax septemlobus
 ヤマモミジ Acer amoenum var. matsumurae
 スエヒロタケ Schizophyllum commune
 シロヨメナ Aster ageratoides
 ノダフジ Wisteria floribunda
 イタビカズラ Ficus nipponica
 イヌガヤ Cephalotaxus hamingtonia
 ツルマサキEuonymus fortunei var. fortunei
 紅葉
 サルトリイバラ Smilax china
 ヤブツバキ Camellia japonica
 シーパラダイス、富津方面
 笠森稲荷神社
 ヤツデ Fatsia japonica
 不動祠(上行寺)
 イヌガヤ Cephalotaxus hamingtonia (横浜市名木古木 No.49292):上行寺
 11月で廃業したそよ風食堂

大宮を訪ねて-2020年12月

 今日は、大宮の母を訪ねました。いつもにも増して元気そうで、孫たちの作った昼食も喜んでくれました。


【参考】
 本日のメニュー
  オムライス、ジャーマンポテト、サーモン生春巻き付きサラダ、デザート(ガナッシュケーキ、アップルトルテ、焼きプリン)
 武蔵一之宮氷川神社で時差初詣
 帰りに寄ったアニメイト池袋本店【ベツレヘムの星の代わりにごちうさのティッピー
 池袋のクリスマスイルミネーション

入江川を遡る~西園橋から源流地点まで

 今日は先日の続きで入江川の源流近辺まで歩いてみました。
 入江川、滝の川マップ  神社  坂道  石塔  ひまわり


 西園橋さいえんはし
 名称不明の橋 x 2
 久保下橋くぼしもはし
 暗渠流出口



 農園橋
 暗渠流入口
 第一子園橋
 名称不明の橋 x 4



 第二子園橋
 名称不明の橋 x 2


a16-18
 


 名称不明の橋 x 2

 第四子園橋
 名称不明の橋 x 5


「入江川せせらぎ緑道」と下水処理水を有効に利用して水辺を復活したことで。平成10年度「手作り郷土ふるさと賞」に認定されました。
  下水道局のキャラクター
   かばのだいちゃん
 名称不明の橋 x 3



 向谷橋
 名称不明の橋 x4



 松蔭橋
 名称不明の橋
 暗渠流出口
 源流噴出モニュメント
 白幡下橋
 源流地点
 名称不明の橋


【入江川支流】
 入江川には、入江川遊水地を源流として水道道下の暗渠を介して合流する支流があるのですが、この支流の側道は来春まで工事中(2020.2.26までを予定)で通行禁止となっていました。名前のついている橋はなさそうですが、来年また尋ねたいと思います。


 この柵内の入江川遊水地管理地は、地区の運動公園として利用登録団体に午前9時から午後6時まで開放しています。利用時間以外の夜間・早朝には中に入れません。
 なお、利用団体の登録並びにご利用申込にあたっては、入江川遊水地多目的広場管理委員会までお尋ねください。
 横浜道路局河川管理課 ☎671-2855


宋興寺


◎宋興寺とヘボン博士
 曹洞宗宋興寺は、上の『神奈川駅中図絵』では権現山の麓に描かれている。
 開港当時、アメリカ人宣教師で医師であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑にたてられている。
 このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽力した人である。


滝ノ橋と本陣跡


慶運寺けいうんじ
 慶運寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観おんよしょうかんによって開かれた。京の連歌師谷宗牧は、『東国紀行』の天文十四年(一五四四)三月三日の条に「ほどなくかな川につきたり、此処へもこづくへ小机の城主へいひつけられ。旅宿運慶寺にかまへたり」と書いている。開港当時はフランス領事館に使われた。
 また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。


横浜市地域有形民俗文化財
 浦島太郎伝説関係資料
        平成七年十一月一日登録

  所有者 宗教法人慶運寺けいうんじ 宗教法人蓮法寺れんぽうじ
  所在地 神奈川区神奈川本町一八番地二 神奈川区七島町二一番地
本尊浦島観音(旧観福寿寺かんぷくじゅじ) 一躯
浦島父子塔(旧観福寿寺旧在) 一基
浦島寺碑(旧観福寿寺旧在) 一基
  登録資料 伝供養塔 三基
顕彰歌碑 太田唯助作 一基
 横浜市神奈川区にも伝わる浦島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考えられますが、同寺は慶応四年(一八六八)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。しかし、『江戸名所図会えどめいしょずえ』『金川砂子かながわすなご』などの文献には縁起に関する記述がみられます。
 それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が二〇歳余りの頃、澄の江の浦から龍宮にいたり、そこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り、父母のことを訪ねたところ、三百余年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。
 この浦島太郎伝説が伝わっていた観福寿寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(本寺)と、大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた蓮法寺(神奈川区七島町二一番地)に残されています。
 慶運寺に移された浦島観世音は、浦島太郎が龍宮から玉手箱とともに持ち帰ったとされるもので、亀の形をした台座の上に「浦島寺」と刻まれた浦島寺碑や浦島父子塔とともに、浦島伝説を今日に伝えるものです。
          横浜市教育委員会


 宋興寺に掲示された説明文(最後の一段落以外は同文でした)



◎大口通商店街
 アーケードに沿って個性的な懐かしい店が並ぶ、気取りのない生き生きとした商店街で、近所の人たちの台所を支えています。周辺の商店街とあわせ、その安さには定評があります。



曹洞宗徳雄山建功寺
 建功寺は、永禄年間(一五六〇頃)当寺二世聲庵守聞和尚が寺尾城主諏訪馬之助の帰依を受けて創建し師の伊勢原龍散寺三世大州長譽和尚を勧請、開山した禅寺で、慶長十四年(一六〇九)この地に堂宇を建立した。開基諏訪氏の定紋諏訪梶を寺紋とし、寺宝として延宝三年(一六七五)鋳造の法堂鐘がある。
 平成七年七月 第十七世 大観信歩代



馬場の赤門(旧澤野家長屋門)
人類は太古の昔より地上に石を立て土を盛り上げてそれが碑となり塚となって後世に傳えられた。我が家の祖先は二百有余年前此の地に分家祖先三代にわたりよく働き郷土郷党のために尽した。
東西馬場北の寺尾西四ヶ村徳川幕府直領の総代名主として名字帯刀並びに間口八間半の長屋門に紅殻塗を許された人稱して、「赤門」と呼び近郷の目標となる。明治の初年には土地所有の面積十八万坪記録したが第二次世界大戦敗戰の余波は我が家にも及び、所有地の大部分が解放を命せらるに至った。
之は歴史の興亡を考へれば止むなきを得ない事ではあるが子々孫々に至るまで祖先の功労威徳に報いる事、守護神伏見稲荷の祭祀を忘るべからず。
心今もいこい
    在さむ自然林
永久に傳えむ鳥のすみかに
 昭和五十二年七月 *)
沢野家九代豊ス々選文建碑
 川崎市会議員篠田茂男書
*:近くに石碑もあり、仮名遣いの違いなどを除けば同文だが、そちらでは「昭和四十八年五月」となっていて、篠田氏の名前もない。


【板碑】
   告
  馬場の赤門【板碑】
江戸時代の名主(代官の支配下に村内の民政を扱った)屋敷の長屋門で幕府より紅がらぬりを許された。安政年間一八五五年に建てられ東寺尾、北寺尾、西寺尾、馬場、四ヶ村総代名主当時の建物です。
     ふるさと新発見
        寺尾奉行


【大理石碑】
  赤門
江戸時代の名主(代官支配下に村内民政を扱った)屋敷の長屋門で幕府より紅がらぬりを許るされた。安政年間(一八五五年)に建てられ東寺尾北寺尾西寺尾馬場四ヶ村総代名主当時の建造物
 昭和四十五年十二月
    寺尾郷土研究會


馬頭観音像:鶴見区馬場5丁目1-9


     告
 馬頭観世音像
鶴見区内には十五基ほどある観世音像にはほとんどが個人で建てたものだがこの像は台石正面に「寺尾村池谷講中」と書かれてあり、村で建てた珍しいものである。
寺尾城から来た馬が立ち止まって動かない事から馬の完全祈願として建てられた説と、運搬馬として神川宿への助郷に〇われたという二つの謂われがあり文化二年(一八〇五に建てられた。
     ふるさと発見
       寺尾奉行



     市場村一里塚由来記
昔街道一里毎に塚を築は塚上に榎を植えて標示した。これもを一里塚という。江戸日本橋を起点に東海道に造られた市場村一里塚もその一つで今(昭和三十八年)から三百六十年前、即ち慶長九年徳川家康が東海、東山、中山、諸道を修理する時築いたものが明治初年
までは相對して道の兩側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。日本橋から数えて五里(三十粁)に當る。永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるもので地元有志これを惜しみ昭和二十五年八月大谷石をもって土止めをしこえて三十八年五月補修を加えこの碑を達つ
     昭和三十八年五月
          熊野神社宮司   萩原豊英
          一里塚保存会代表 鈴木菊蔵
                   松本喜代之介
                   外 有志一同


  市場の一里塚
 慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
 里程の目標として人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。
 ここは江戸より五里目の塚に当り、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期までの塚の上には榎の大木が繁茂していました。
 昭和8年(1932)6月「武州橘樹郡市場村一里塚」(添田担書)の碑が建立されました。
 平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました。
          横浜市教育委員会
          財団法人横浜国際観光協会
                 平成5年3月


その他の写真
 キンクロハジロと思って望遠撮影していたカモ類はスズガモでした。最近一段と視力が落ちているようです。


【参考】
 キダチロカイ Aloe arborescens
 イチョウ Ginkgo biloba
 スズガモ Aythya marila
 エビヅル Vitis ficifolia
 ハシボソガラス Corvus corone
 コサギ Egretta garzetta
 雷神社(須賀市追浜本町1-9)
 浦谷山法福寺(横須賀市追浜本町1-19)
 青木山延命院本覺寺(神奈川区高島台1-2)
 開塔山日輪院宗興寺(神奈川区幸ヶ谷10-6)
 吉祥山茅草院慶運寺(神奈川区神奈川本町18-2)
 台座の亀(慶運寺)
 浦島観音堂(慶運寺)
 立町歩道橋上より東を望む
 鷲の湯(神奈川区七島町151)
 大口通商店街
 大口駅前
 入江川公園
 福助湯
 徳雄山建功寺:鶴見区馬場1丁目2-1
 馬場の赤門(旧澤野家長屋門):横浜市鶴見区馬場1丁目10-23
 稲荷社:鶴見区馬場2丁目23-13
 デイサービスひまわり畑:横浜市鶴見区馬場3-18-22
 庚申塔:鶴見区東寺尾6丁目36
 大阪(東寺尾)
 熊野神社:寺谷1丁目21-7
 弁天社;弁天池(鶴見区寺谷1丁目16-13)
 鶴見川
 鶴見川橋
 下町稲荷:鶴見区市場下町9-23
 庚申堂:鶴見区市場下町9
 稲荷社:市場一里塚

恵比寿ガーデンプレイスへ

 来年2月で閉店する三越恵比寿店へ行ってきました。コロナ禍の平日とはいえ確かに人出が少ないようで、ビアステーション恵比寿でゆったりと食事が出来ました。生、ハーフ&ハーフ、プレミアムブラックと飲み比べた結果、やはりヱビスは生がベストのようでした。


Baccarat Etrenal Lights -歓びのかたち-
 2020年11月14個~2021年1月11日
バカラは今から256年前、フランス・ロレーヌ地方バカラ村で創設されたクリスタルブランドです。毎冬、この恵比寿ガーデンプレイスで明かりを灯し、今年、21回目を迎えました。2020年は、世界にとって、苦難の1年となりました。このシャンデリアの灯りは、日本中の医療従事者、並びに日常の生活を支えていただいた多くの方への感謝の明かりです。そしてこの250灯の輝きによって、一人でも多くの皆様に希望、勇気、夢や笑顔が生まれる事を、私たちは願います。
 主催:恵比寿ガーデンプレイス バカラ パシフィック株式会社
 特別協賛:SUS株式会社  後援:在日フランス大使館
【本日の昼食】
 ヱビス 生ビール
 ヱビス ハーフ&ハーフ
 ヱビス プレミアムブラック
 トルコライス
 酸辣湯麺(韓国麺)

臺町十五景を訪ねて

 今日は、幕末の浮世絵に残された「臺町十五景」の地を訪ねてみました。いわゆる八景とは少々趣が異なっててはいますので、瀟湘八景型に準えることは困難ですが、世に知らしめたい景色を撰しているという点では共通するものがあります。横浜開港資料館(2019)によれば、初代歌川広重作の「神奈川台石崎楼上十五景一望之圖」に基づき、下記の15景とされています。
 1,2,3,4,8,9,12,15の八つが現在の台町周辺、他は遠景となっていましたので、今日訪ねたのはこの八か所と6の平沼です。なお、4の芝生は現在は西区ですが、かつては神奈川区なので周辺としているものと推定されます。
「臺町十五景」
 01.清水山清水
 02.将軍山櫻花
 03.本覺寺宿鴉
 04.芝生の秋
 05.鹿野山(望)月
 06.平沼塩煙
 07.芙峯遥望
 08.港千鳥
 09.宮洲汐干
 10.野毛海苔舟
 11.橫濱漁火
 12.権現山夕陽
 13.洲乾雪
 14.本牧舶風
 15.洲嵜神社


09.宮洲汐干
 一望圖によれば、滝の川に架かる滝の橋よりやや西側の地点ですので、現在の神奈川公園当りの干潟と思われます。神奈川公園ではイチョウの黄葉が終りに近づいており、第一京浜を隔てた幸ヶ谷小学校では、壁画の改修作業中でした。


15.洲嵜神社
 洲嵜神社は、12世紀に源頼朝が安房国から勧請したと伝えられる古社です。かつては神奈川湊がすぐ前だったようです。

◎洲崎大神
 洲崎大神は、建久二年(一一九一)、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。
 「江戸名所図会」の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。


【経年劣化に伴う掠れが激しいため誤判読の可能性あり】
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洲﨑大神由緒畧記
祭神 天太玉命
   天比理刀賣命
相殿 素盞男命
   大山咋命
例祭 六月六七八日
創立 建久二年六月二十六日
祭神天太玉命は神祇政治の祖神、天比理刀賣命はその御妃の神にまします。源頼朝公石橋山の合戦に敗れ相州真鶴より海路安房に渡り安房洲崎の安房神社に参籠再起を祈り後に天下を平定して鎌倉幕府を開くや神恩を忘れず安房神社に幣帛を奉ると共にこの地を按定して御分霊を勧請して一祠を創建し鎌倉幕府直轄の神社として祭典を厳修せる。頼朝公奉献の神境今に伝承す。
昭和十五年に御鎮座七百五十年祭を執行す。大正十二年九月一日の震災、昭和二十年五月十日戦災等、氏子と共に度々火災に戦災に炎上せるも氏子民の協力奉仕により共に再建復興され昭和三十一年六月竣工奉告祝賀祭を執行す。
  昭和三十一年六月     宮司 吉田〇〇(読み取れず)
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参考文献
 洲崎大神(武蔵国橘樹郡神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)情報, Accessed:2020/12/21.
 神奈川区誌編纂刊行実行委員会(1977)神奈川区誌、628+59p.


12.権現山夕陽
 権現山は戦国時代の古戦場でしたが、幕末の埋め立て事業で平削され、現在の山頂附近は幸ヶ谷公園となっています。桜の名所としても知られていますが、近年は手入れが行き届いておらず、委託業者に刈り込まれた姿を、年輩の男性が嘆いていらっしゃいました


◎権現山
 かつてこのあたりは権現山と呼ばれ、本覚寺のある高島台と尾根伝いに繋がる急峻な山であった。戦国時代、当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田蔵人は、北條早雲に味方して謀反を起こし、この山上に砦を築いてたてこもった。合戦は上杉氏の勝利に終わったが、その後、上杉氏の力が弱まり北條氏による関東支配が始まった。
 幕末から、明治にかけて、お台場や鉄道用地に埋め立て、開削などのために山は削られ、現在のように低くなった。


08.港千鳥
 現在の青木橋の辺りと思われますが、今では当時を偲ぶものはなにもありません。当時は尾根続きだった権現山と高島台の間には、JR線と京急線が引き切りなしに行きかっています。


03.本覺寺宿鴉
 青木山本覺寺は、江戸時代にアメリカ領事館として利用されたことで知られており、当時山門近くに聳えていた玉楠(タブノキ)に星条旗が掲げられていたと伝えられています。現在でも境内に6本の名木古木が残っています。


◎本覺寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(一五三二)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。
 開港当時。ハリスは自ら見分け。渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覺寺をアメリカ領事館に決めたという。
 領事館時代は白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。


02.将軍山櫻花
 神奈川区誌(1977)によれば、現在の大網神社は、創建時は将軍飯縄大権現と称し、鎮座地も現在の裏山上だったそうです。この山の桜を愛でた一景と思われます。天狗が高尾山から安房に渡る際に立寄るという言い伝えがあるそうで、境内には稲荷社、龍神社、弁天社もありました。


◎大網金刀比羅神社と一里塚
 この神社は、社殿によると平安末期の創立で、もと飯縄社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大網金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から崇められ、大天狗の伝説でも知られている。
 また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目にあたり、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった。


01.清水山清水
 斉藤(2019)によれば『①清水山は台町の坂の頂上にある大日堂の山号』とのヒントがあったのですが、この大日堂がどこにあったのか探し当てることは出来ていませんでした。一方、神奈川臺関門跡の碑の裏山に『東海道清水山』という立札がありましたので、このあたりのことの様です。当該地近くの私有地に井戸が残されていました。


◎神奈川台の関門跡
 ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が造られた。そのうちの西側の関門が神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。


 以上の七か所が台町エリアの景で、後は台町から見渡すことの出来る景になります。


04.芝生の秋
 芝生は現在の浅間町の旧名で、昭和の初期までは神奈川区でした。建造物の少なかった時代には台町から浅間神社がよく見えたに違いありません。浅間下歩道橋からはランドマークタワーがよく見えました。


◎浅間神社と富士の人穴
 創建は承暦4(1080)年、富士浅間社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村(しぼうむら)鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖に富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴(ひとあな)」と呼ばれる古代の橫穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。


06.平沼塩煙
 平沼も地名こそ残っていますが、今はすべて埋め立てられ、当時の塩焼きを偲ぶことが出来るのは水天宮くらいでしょうか。広大な土地にガスタンク、住宅展示場、横浜イングリッシュガーデンがあるのがこの地区です。


以下は、以前に撮影した関連地の映像です。
05.鹿野山(望)月-東京湾観音


07.芙峯遥望-野毛のつり橋から見た富士山


 10.野毛海苔舟-野毛福満弁財天


11.橫濱漁火-氷川丸


13.洲乾雪-象の鼻パーク


 14.本牧舶風-本牧八聖殿


【参考文献】
 斉藤司(2019)、神奈川宿台町からの眺望と横浜、Accessed 2020-12-13.
 神奈川区誌編纂刊行実行委員会(1977)神奈川区誌、628+59p.


 以下はその他本日撮影の写真です。


【参考】
 街角のアート
  仮想境界面/物体-1(2008年):矢萩喜従郎(Imaginary Boundary Planes / Object -1 2008 : Kijuro Yahagi)
  仮想境界面/物体-2(2008年):矢萩喜従郎(Imaginary Boundary Planes / Object -2 2008 : Kijuro Yahagi)
  仮想境界面/物体-3(2008年):矢萩喜従郎(Imaginary Boundary Planes / Object -3 2008 : Kijuro Yahagi)
  仮想境界面/物体-4(2008年):矢萩喜従郎(Imaginary Boundary Planes / Object -4 2008 : Kijuro Yahagi)
 金港公園
 イチョウ Ginkgo biloba
 タラヨウ Ilex latifolia
 滝の川
 キンクロハジロ Aythya fuligula
 タブノキ Machilus thunbergii
 神奈川台関門跡
 亀のデザインの車止め
 沢渡中央公園
 メタセコイア Metasequoia glyptostroboides
 ツワブキ Farfugium japonicum
 亀型ブロックと通常ブロックの境界
 アオサギ Ardea cinerea
 ウミウ Phalacrocorax capillatus
 常盤山査子(ピラカンサ) Pyracantha spp.
 ビワ Eriobotrya japonica

入江川を遡る~河口から西園橋まで

 現在神奈川区に流入する河川は、滝の川と入江川の2川です。滝の川は片倉町辺りが源流域ですが暗渠化が進み、表面流下しているのは国道1号線から南東側の1km程の短い河川です。一方、東寺尾辺りの支流を集める入江川は、第一京浜まではごく普通の小川ですが、明治時代の埋め立て地に流入するや、複雑な派川(運河)にわかれています。主要な2派川の他に少なくとも7つの小派川に分かれているようです。今日はこの入江川を遡ってみました。途中、いくつかの神社、カナガワの地名の元になったとも言われる上無川の旧地も立ち寄りました。
 神奈川区河川マップ  名木古木  神社  石塔  ひまわり


 星野橋ほしのはし
 星野橋人道橋ほしのはしじんどうきょう
 龍宮橋りゅうぐうはし
◎龍宮橋と周辺-わが町かながわ50選
 明治以降、埋立が進んだ土地をぬうように通る運河には、龍宮橋をはじめ、星野橋(現在地)・村雨橋など、いくつもの橋が架かり、船運が減った今は、静かな水辺に水鳥が暮らしています。この先、海側にある龍宮橋からは、ポートサイド周辺の景色を臨むことが出来ます。
 (旧貨物線橋梁)
 浦島第4号橋梁



 村雨橋むらさめはし
 千鳥橋ちどりはし
 瑞穂橋みずほばし
 瑞穂大橋みずほおおはし
◎瑞穂橋付近-わが町かながわ50選
 橋のたもとから、みなとみらいやハマウィングを一望できます。夜には手前の水面にライトアップの光が映り、横浜港の夜景が昼とは違った雰囲気をつくりだします。
 首都高1号横羽線



 荒木橋あらきはし
 新浦島橋しんうらしまはし
   新浦島橋の今昔
 入江川第二派川に架かる新浦島橋は。浦島町と新浦島町1丁目を結ぶ橋として、明治41年(西暦1908年)頃に築造されました。
 現在の新浦島町は、明治40年(西暦1907年)に開始された埋立工事により造成され、新浦島橋は長い間、民間企業(日本カーボン株式会社等)の専用橋として使用されていましたが、昭和62年(西暦1987年)に横浜市に移管されました。
 新浦島橋の旧橋は、特徴的なレンガ造りの橋脚で支えられ、地域から愛されていましたが、橋脚・床版の劣化が激しくなり、また地震対策も必要とされていただめ、平成25年(西暦2013年)に架替工事を開始し、平成30年(西暦2018年)に新しい新浦島橋が開通しました。
 ここに展示されているのは、旧橋のレンガ造りの橋脚の一部です。この橋脚のようにもレンガの小口で構成される段と長手のみで構成される段が交互に積層するレンガの積み方は、「イギリス積み」と呼ばれます。
 また、新しい新浦島橋の桁の色はレンガをイメージした色とし、橋の四隅の親柱には、レンガ積みのデザインを採用し、レンガ造りの橋脚のイメージを残すように工夫しています。



 常盤大橋ときわはし
 富士見大橋ふじみはし
 入江川河口方面/首都高1号横羽線・貨物線



 入江橋いりえばし
 京急本線・JR線(子安川カード)
 私用の橋(現在不使用)
 宮前橋みやさきはし
 下大入橋しもおおいりはし



 入江橋
 大門橋だいもんはし
 大入橋おおいりはし
 はぜ橋
 神滝橋かみたきはし



 神之木橋かみのきはし
 神入橋かみいりはし
 こぶな橋
 神尾橋かみおはし
 学校下橋がっこうしたはし


 


 久保下橋くぼしたはし
 (橋名不明)
 西園下橋さいえんはし



 神奈川駅中図絵に見える『荒宿?橋』というのは、現在滝の川に架かっている幸ケ谷の土橋どはしとは別で、金川砂子の図会から見ると、神奈川小学校の場所にあった慈雲寺と神明宮の間を流れる上無川に架かっていた橋のようです。
【上無川】
上無川かみなしがわ
 「神奈川」は、鎌倉幕府の執権、北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名であるが、その由来にしさまざまな言い伝えがある。
 その一つとして「江戸名所図会」の上無川に項には「神奈川本宿の中の町と西の町の道を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源が定かでないたる上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワというようになった」という説が記してある。
 上無川は、現在の神奈川小学校東脇にあったとされているが、関東大震災後の復興計画により埋め立てられ、今では、川の姿を見ることはできない。


【神社】


洲崎大神:神奈川区青木町5-29
井戸守稲荷社/元町稲荷社(洲崎大神境内社)
【経年劣化に伴う掠れが激しいため誤判読の可能性あり】
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洲﨑大神由緒畧記
祭神 天太玉命
   天比理刀賣命
相殿 素盞男命
   大山咋命
例祭 六月六七八日
創立 建久二年六月二十六日
祭神天太玉命は神祇政治の祖神、天比理刀賣命はその御妃の神にまします。源頼朝公石橋山の合戦に敗れ相州真鶴より海路安房に渡り安房洲崎の安房神社に参籠再起を祈り後に天下を平定して鎌倉幕府を開くや神恩を忘れず安房神社に幣帛を奉ると共にこの地を按定して御分霊を勧請して一祠を創建し鎌倉幕府直轄の神社として祭典を厳修せる。頼朝公奉献の神境今に伝承す。
昭和十五年に御鎮座七百五十年祭を執行す。大正十二年九月一日の震災、昭和二十年五月十日戦災等、氏子と共に度々火災に戦災に炎上せるも氏子民の協力奉仕により共に再建復興され昭和三十一年六月竣工奉告祝賀祭を執行す。
  昭和三十一年六月     宮司 吉田〇〇(読み取れず)
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参考文献
 洲崎大神(武蔵国橘樹郡神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)情報、, Accessed:2020/12/21.
 神奈川区誌編纂刊行実行委員会(1977)神奈川区誌、628+59p.


和田森稲荷神社:神奈川区神奈川2丁目10-22


顕彰碑
 このたび榎本金右衛門殿と佐藤眞弘殿より敬神の発露と町内発展のご意志から和田森稲荷神社および浜町二丁目町内会館の敷地の寄贈を受けました。ついては両氏の町内発展に尽くされた顕著な功績に感謝しここに碑文として末永く顕彰します。
 寄贈された土地
横浜市神奈川区神奈川二丁目拾番二十一の土地
 二十二、四六坪
昭和五十九年四月吉日



神明宮:神奈川区東神奈川2丁目34-6
◎神明宮
神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ正安元年(一二九九)の勧請としており、この神社に能満寺が草創当時より極めて密接な関係にあったことを伺わせる。
 かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現れ、洲崎神社およびこの神社に牛頭天王を祠ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。


村社碑
 神明社在神奈川邊明治十八年七月
 更為村社蓋其創立雖不詳係文治年
 前云社前一川當時水滿今日流涸神
 奈川邑昔者人少今則家多而神明歸
 信者二百五十餘戸古來其尊崇可知
 也今也有志者相謀茲建村社碑亦紀
 念之意〇
 明治十八年九月 櫻門撰併書
          石井新五郎刻


◎能満寺:神奈川区東神奈川2丁目32-1
 能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(一二九九)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられる。
 かつては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。


銀太郎稲荷:神奈川区新町5-2


白山神社:神奈川区浦島町373


青木稲荷大明神/白頭山竜神(白山神社境内社)
飯縄権現社(白山神社境内社)



祠:神奈川区子安通1丁目
中外神社:神奈川区守屋町1丁目1-4


福本稲荷神社:神奈川区子安通1丁目


稲荷社:神奈川区大口通68-2


白幡身代り地蔵尊:神奈川区白幡町3-16


  身代り地蔵の由来  奉賛会
昔尾張の國から幼い兄妹が武蔵の國に住む叔父を尋ねて旅を続けこの地蔵尊前まできた処辻強盗が現れ太刀を振りかざして襲ってきました。兄妹はとっさに地蔵尊の蔭にかくれたため、太刀の手元が狂い地蔵尊の首を切り落としました。そのはずみで刀は折れ切先は辻強盗につきささり、返り血で地蔵尊は朱に染まってしまったが、兄妹は危うく難を免れたと伝えられています。以来、土地の人はこれを身代り地蔵尊または血染めの地蔵尊と呼び益々信仰するようになりました。
幼い兄妹の命を救った地蔵尊のご利益により現在に至るも参詣者の後を絶たないのもむべなるかなと思われます。 合掌
  昭和五十二年十月 寄贈 赤澤房美
              坂本新一 (刻)


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 ナギ Nageia nagi
 金港橋きんこうはし
 イチョウ Ginkgo biloba
 神奈川水再生センター
 神奈川通公園
 災害用井戸(神奈川区浦島町)
 庚申塔:神奈川区子安通2丁目206
 入江川公園
 大口子育地蔵:神奈川区大口通66
 みなとみらい方面(神之木台より)
 スナックひまわり:神奈川区白幡町1-10

臺町十五景

 本日、雨天。雨宿りのつもりで立ち寄った横浜駅地下二階の南北通路で「神奈川臺石﨑樓上十五景一望之圖」と称する初代歌川広重の複製図をみかけました。制作年が正しければ最晩年の作で、ここに示されていた15景を名称を頼りにプロットしてみると(ありえない配置になっているので)『広重は必ずしも現場で取材していないことがある』という説に納得がいきます。
 画面右に描かれている櫻屋はいまでも営業を続ける田中屋の前身、左下の橋は滝の川に今でも架かっている滝の橋です。神奈川台場の構築が始まるのは翌年(1859年)のことですし、この風光明媚な入江(袖ヶ浦)のほぼ中央でランドマークタワーが開業するのは135年後になります


神奈川臺石﨑樓上十五景一望之圖
 安政五年(1858年):初代安藤広重画(横浜開港資料館所蔵)
「臺町十五景」
 01.清水山清水
 02.将軍山櫻花
 03.本覚寺宿鴉
 04.芝生の秋
 05.鹿野山(望)月
 06.平沼塩煙
 07.芙峯遥望
 08.港千鳥
 09.宮洲汐干
 10.野毛海苔舟
 11.橫濱漁火
 12.権現山夕陽
 13.洲乾雪
 14.本牧舶風
 15.洲嵜神社

滝の川を遡って

 当初入江川水系を巡るつもりでしたが、雨脚が一向に弱まらず、今日は滝の川のみにしました。準用河川滝の川は、水量はそこそこある河川ですが、国道1号線を潜ると暗渠化していて、地表を流下するのは僅か1kmほどの短い河川となっています。


 万代橋ばんだいばし 幸橋さいわいはし 綿花橋めんかはし 滝の橋たきのはし 土橋どはし (京浜急行本線鉄橋) 慶運橋けいうんはし (私用)橋 (私用)橋 (JR線鉄橋) 境橋 暗渠出口


◎神奈川台場跡
 安政六年(一八五九)五月、幕府は伊豫松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
 当時の台場は総面積二万六千余平方メートル(約八千坪)の海に突き出た扇形で、約七万両の費用と工期約一年を要し、萬延元年(一八六〇)六月竣工した。
 明治三十二年二月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正十年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。


◎滝ノ橋と本陣跡
 上の図は「金川砂子」に描かれた、江戸後期の神奈川宿の風景である。現在と同じ場所にあった滝ノ橋を中心に、江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていた。本陣とは、大名や公家などが宿泊したり、休息するための幕府公認の宿である。
 滝ノ橋のすぐ脇には高札場が見える。高札場は幕府の法度や掟を庶民に徹底させるための重要な施設である。この高札場は、現在の地区センターに復元されている。


 孤峯突兀
 聳天涯
 萬里滄濵
 一片霞
 拂檻徐風
 吹不尽
 四時薺發
 滿山花
  釋 玄瑞


【参考】
 街角のアート  滝の川  神社等
 THE・FAMILY:Ettoreエットレ Sottsassソットサス
 蔦金商店
 伏見市場稲荷大神:神奈川区山内町(横浜市中央卸売市場本場内)
 ガトーよこはま(株式会社つま正)
 笠間稲荷大明神:神奈川区神奈川1丁目3-14
 神奈川台場跡
 伏見大漁稲荷神社:神奈川区神奈川1丁目5-21
 滝之橋権現山
 キダチロカイ Aloe arborescens

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