入江川を遡る~河口から西園橋まで

 現在神奈川区に流入する河川は、滝の川と入江川の2川です。滝の川は片倉町辺りが源流域ですが暗渠化が進み、表面流下しているのは国道1号線から南東側の1km程の短い河川です。一方、東寺尾辺りの支流を集める入江川は、第一京浜まではごく普通の小川ですが、明治時代の埋め立て地に流入するや、複雑な派川(運河)にわかれています。主要な2派川の他に少なくとも7つの小派川に分かれているようです。今日はこの入江川を遡ってみました。途中、いくつかの神社、カナガワの地名の元になったとも言われる上無川の旧地も立ち寄りました。
 神奈川区河川マップ  名木古木  神社  石塔  ひまわり


 星野橋ほしのはし
 星野橋人道橋ほしのはしじんどうきょう
 龍宮橋りゅうぐうはし
◎龍宮橋と周辺-わが町かながわ50選
 明治以降、埋立が進んだ土地をぬうように通る運河には、龍宮橋をはじめ、星野橋(現在地)・村雨橋など、いくつもの橋が架かり、船運が減った今は、静かな水辺に水鳥が暮らしています。この先、海側にある龍宮橋からは、ポートサイド周辺の景色を臨むことが出来ます。
 (旧貨物線橋梁)
 浦島第4号橋梁



 村雨橋むらさめはし
 千鳥橋ちどりはし
 瑞穂橋みずほばし
 瑞穂大橋みずほおおはし
◎瑞穂橋付近-わが町かながわ50選
 橋のたもとから、みなとみらいやハマウィングを一望できます。夜には手前の水面にライトアップの光が映り、横浜港の夜景が昼とは違った雰囲気をつくりだします。
 首都高1号横羽線



 荒木橋あらきはし
 新浦島橋しんうらしまはし
   新浦島橋の今昔
 入江川第二派川に架かる新浦島橋は。浦島町と新浦島町1丁目を結ぶ橋として、明治41年(西暦1908年)頃に築造されました。
 現在の新浦島町は、明治40年(西暦1907年)に開始された埋立工事により造成され、新浦島橋は長い間、民間企業(日本カーボン株式会社等)の専用橋として使用されていましたが、昭和62年(西暦1987年)に横浜市に移管されました。
 新浦島橋の旧橋は、特徴的なレンガ造りの橋脚で支えられ、地域から愛されていましたが、橋脚・床版の劣化が激しくなり、また地震対策も必要とされていただめ、平成25年(西暦2013年)に架替工事を開始し、平成30年(西暦2018年)に新しい新浦島橋が開通しました。
 ここに展示されているのは、旧橋のレンガ造りの橋脚の一部です。この橋脚のようにもレンガの小口で構成される段と長手のみで構成される段が交互に積層するレンガの積み方は、「イギリス積み」と呼ばれます。
 また、新しい新浦島橋の桁の色はレンガをイメージした色とし、橋の四隅の親柱には、レンガ積みのデザインを採用し、レンガ造りの橋脚のイメージを残すように工夫しています。



 常盤大橋ときわはし
 富士見大橋ふじみはし
 入江川河口方面/首都高1号横羽線・貨物線



 入江橋いりえばし
 京急本線・JR線(子安川カード)
 私用の橋(現在不使用)
 宮前橋みやさきはし
 下大入橋しもおおいりはし



 入江橋
 大門橋だいもんはし
 大入橋おおいりはし
 はぜ橋
 神滝橋かみたきはし



 神之木橋かみのきはし
 神入橋かみいりはし
 こぶな橋
 神尾橋かみおはし
 学校下橋がっこうしたはし


 


 久保下橋くぼしたはし
 (橋名不明)
 西園下橋さいえんはし



 神奈川駅中図絵に見える『荒宿?橋』というのは、現在滝の川に架かっている幸ケ谷の土橋どはしとは別で、金川砂子の図会から見ると、神奈川小学校の場所にあった慈雲寺と神明宮の間を流れる上無川に架かっていた橋のようです。
【上無川】
上無川かみなしがわ
 「神奈川」は、鎌倉幕府の執権、北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名であるが、その由来にしさまざまな言い伝えがある。
 その一つとして「江戸名所図会」の上無川に項には「神奈川本宿の中の町と西の町の道を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源が定かでないたる上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワというようになった」という説が記してある。
 上無川は、現在の神奈川小学校東脇にあったとされているが、関東大震災後の復興計画により埋め立てられ、今では、川の姿を見ることはできない。


【神社】


洲崎大神:神奈川区青木町5-29
井戸守稲荷社/元町稲荷社(洲崎大神境内社)
【経年劣化に伴う掠れが激しいため誤判読の可能性あり】
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洲﨑大神由緒畧記
祭神 天太玉命
   天比理刀賣命
相殿 素盞男命
   大山咋命
例祭 六月六七八日
創立 建久二年六月二十六日
祭神天太玉命は神祇政治の祖神、天比理刀賣命はその御妃の神にまします。源頼朝公石橋山の合戦に敗れ相州真鶴より海路安房に渡り安房洲崎の安房神社に参籠再起を祈り後に天下を平定して鎌倉幕府を開くや神恩を忘れず安房神社に幣帛を奉ると共にこの地を按定して御分霊を勧請して一祠を創建し鎌倉幕府直轄の神社として祭典を厳修せる。頼朝公奉献の神境今に伝承す。
昭和十五年に御鎮座七百五十年祭を執行す。大正十二年九月一日の震災、昭和二十年五月十日戦災等、氏子と共に度々火災に戦災に炎上せるも氏子民の協力奉仕により共に再建復興され昭和三十一年六月竣工奉告祝賀祭を執行す。
  昭和三十一年六月     宮司 吉田〇〇(読み取れず)
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参考文献
 洲崎大神(武蔵国橘樹郡神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)情報、, Accessed:2020/12/21.
 神奈川区誌編纂刊行実行委員会(1977)神奈川区誌、628+59p.


和田森稲荷神社:神奈川区神奈川2丁目10-22


顕彰碑
 このたび榎本金右衛門殿と佐藤眞弘殿より敬神の発露と町内発展のご意志から和田森稲荷神社および浜町二丁目町内会館の敷地の寄贈を受けました。ついては両氏の町内発展に尽くされた顕著な功績に感謝しここに碑文として末永く顕彰します。
 寄贈された土地
横浜市神奈川区神奈川二丁目拾番二十一の土地
 二十二、四六坪
昭和五十九年四月吉日



神明宮:神奈川区東神奈川2丁目34-6
◎神明宮
神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ正安元年(一二九九)の勧請としており、この神社に能満寺が草創当時より極めて密接な関係にあったことを伺わせる。
 かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現れ、洲崎神社およびこの神社に牛頭天王を祠ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。


村社碑
 神明社在神奈川邊明治十八年七月
 更為村社蓋其創立雖不詳係文治年
 前云社前一川當時水滿今日流涸神
 奈川邑昔者人少今則家多而神明歸
 信者二百五十餘戸古來其尊崇可知
 也今也有志者相謀茲建村社碑亦紀
 念之意〇
 明治十八年九月 櫻門撰併書
          石井新五郎刻


◎能満寺:神奈川区東神奈川2丁目32-1
 能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(一二九九)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられる。
 かつては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。


銀太郎稲荷:神奈川区新町5-2


白山神社:神奈川区浦島町373


青木稲荷大明神/白頭山竜神(白山神社境内社)
飯縄権現社(白山神社境内社)



祠:神奈川区子安通1丁目
中外神社:神奈川区守屋町1丁目1-4


福本稲荷神社:神奈川区子安通1丁目


稲荷社:神奈川区大口通68-2


白幡身代り地蔵尊:神奈川区白幡町3-16


  身代り地蔵の由来  奉賛会
昔尾張の國から幼い兄妹が武蔵の國に住む叔父を尋ねて旅を続けこの地蔵尊前まできた処辻強盗が現れ太刀を振りかざして襲ってきました。兄妹はとっさに地蔵尊の蔭にかくれたため、太刀の手元が狂い地蔵尊の首を切り落としました。そのはずみで刀は折れ切先は辻強盗につきささり、返り血で地蔵尊は朱に染まってしまったが、兄妹は危うく難を免れたと伝えられています。以来、土地の人はこれを身代り地蔵尊または血染めの地蔵尊と呼び益々信仰するようになりました。
幼い兄妹の命を救った地蔵尊のご利益により現在に至るも参詣者の後を絶たないのもむべなるかなと思われます。 合掌
  昭和五十二年十月 寄贈 赤澤房美
              坂本新一 (刻)


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 ナギ Nageia nagi
 金港橋きんこうはし
 イチョウ Ginkgo biloba
 神奈川水再生センター
 神奈川通公園
 災害用井戸(神奈川区浦島町)
 庚申塔:神奈川区子安通2丁目206
 入江川公園
 大口子育地蔵:神奈川区大口通66
 みなとみらい方面(神之木台より)
 スナックひまわり:神奈川区白幡町1-10

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