月別アーカイブ: 2019年12月

戸塚の社を巡って

 大晦日の今日は、戸塚まで足を延ばしてみました。
【主な経路】
(戸塚駅)-戸塚町-矢部町-上矢部町-泉区岡津町-中田北-(中田駅)


【笠間稲荷社】戸塚区戸塚町4754


【稲荷社】戸塚区戸塚町4744


街山八幡社(つじやまはちまんしゃ)】戸塚区矢部町1003

 本覚院不動尊
 庚申塔群(街山八幡社)


【梅園稲荷社】戸塚区矢部町
 街山八幡社の境内社と思われ、他にも石の社が2宇あります。

一、贈正一位梅園稲荷社御由緒
一、祭神 鳥烏帽子直垂御霊体
一、創建不詳
 伝ふ古は字峰に鎮座せられしと年号不詳蔵坪山六二八番地七坪の地に遷座せらる。此の蔵坪の地名は徳川時代に穀倉ありしより出でしものならん。享保年間~八代将軍吉宗公頃九二郎なる人此の地に住すとあり。氏子柴田竹次郎の口ひによれば文化の頃ウメ女なる寡婦住す。婦は常に稲荷を崇敬し深く祈願し霊験を授けられる。ウメ女大いに喜びしも其儘に過ごせしに或夜祭神現われ其の不法を怒る。此の時の姿は鳥帽子直垂の御霊体なりしとゆう。婦は大いに驚き此の旨を名主河原四郎左衛門に告ぐ。名主は有力者成宮茂平治と計り一同を集め協議の上中組の祭神と崇め奉る。按ずるに当地に深き御縁の武家を祭神と仰ぎしものならん。殊に勝負事には霊験著しと今に伝ふ。
 余は幼少の頃翁に肩を叩かれつつ常に其の霊験につきて聞く所あり。以降明治十七年頃迄はのぼり両側に建ち並び誠に荘厳なりしとゆう。之れ氏子が如何に敬神の念深かりしかを立証するものなり。その後社は数回御遷宮あり、之の由緒深き蔵坪山ね時世の進運に伴い土地発展して何時しか山形改まるに至る。
遷宮 明治十七年旧知山林字峰五六八番地 同三十三年矢部三四番地
   同四十年矢部二九番地 大正九年四月街山
氏子 (略)
昭和十二年四月 史跡保存主唱者 寺村清吉 誌


【稲荷社】戸塚区矢部町551-5


【第六社】戸塚区上矢部町2969

横浜市名木古木指定 No.200411 ヤブツバキ Camellia japonica


   第六社改修記念碑
 鎮守第六社の祭神は面足尊惶根尊の二柱であり神代七代の内国常立尊より第六代目の神に当たるので第六社と偁されています。大正六年一月十五日神明社の祭神天照皇大神を合祀された居ります。神社の創建は天正二年と言はれ小田原北條氏の一族甘縄左衛門太夫氏繁の請に依り讃誉牛秀上人が大善寺を創建するに当り護法の守護神として建立されたと言はれています。再建は文化四年六月十九日松尾神社及び篠塚八幡社と共に同一職方に依り三社同時に再建されたのであります。
 この度の神社改修工事は社殿屋根を銅板一文字葺本殿屋根に千木勝男木の新設社殿の改修工事拝殿正面に御影石の石貼工事鳥居の再建社合標の新設神明社屋根の銅板葺替神樂殿の屋根葺替神輿舎の新築其の他神社の当面為すべき工事は概ね完了致しました。是は偏に氏竝に崇敬者の絶大なる奉賛に依り完成した次第であります。
 仍て茲に記念碑を建て氏子一同の慶びを後世に伝えるものであります。
   昭和五十九年九月十五日
            第六社 氏子中


【伏見稲荷社】戸塚区上矢部町3025


【篠塚八幡社】戸塚区上矢部町1949

 蠶神社保食神碑(篠塚八幡社)


【丹後山神明社】戸塚区上矢部町1919

  丹後山神明社
御祭神天照大御神
 当社は古来大神宮祠また伊勢宮と称され御祭神は伊勢神宮の御分霊であったので「お伊勢さま」と親しまれてきた。御創建の年代は不詳であるが源頼朝公の愛人丹後局が当社の境内で出産されたとの伝承があり八百年前にし既にご鎮座になっていたものと思われる。
例大祭 十一月二十三日 [新嘗祭 勤労感謝の日]
 平成十四年九月六日 宮司職


丹後局供養塔
 源頼朝ノ愛妾丹後局ノ事跡ヨリ起リシモノナリ。丹後局ハ頼朝ノ寵愛厚ク妊娠ノ身ト成リ夫人政子ノ嫉妬ヲ碎ケテ当地ニ至リ伊勢宮ノ瑞籠に隠レテ憩フ處ニシテ男子出生ス。丹後局安産ノ古蹟ヨリ丹後山ト称セリ。又丹後局ノ墓ト言云エラルル塚有リテ局終焉ノ地ト思ハルル処ナリ。爾來幾星霜ヲ経テ当地ハ急激ナ発展ヲ來シ団地造成開発サルルニ当リ塚ヲ改葬シ永ク古蹟ヲ残スト共ニ局ノ霊ヲ慰ムル爲共有者一同供養塔を建立スル者成。


【松尾神社】戸塚区上矢部町421

 稲荷社(松尾神社境内)
 蚕霊神碑(松尾神社境内)


【丸山稲荷大明神】戸塚区上矢部町1624-102


【天神社】泉区岡津町53-3

 庚申塔
 双体道祖神
 ほほえみ観音


【三嶋神社】泉区岡津町2352


【(岡津町)稲荷社】泉区岡津町


【八幡宮】泉区岡津町2074-17

 富士塚
 不動堂


【稲荷社】泉区岡津町1529-2


【白山社】泉区岡津町1552
 向って右は御嶽社です。


【御霊神社】泉区中田北3丁目42-1

   御霊神社
 戸塚区・栄区・鎌倉市域の御霊神社と同じく鎌倉五郎影政を祀った神社で、昔から中田のごりょう様と呼ばれていました。明治の廃仏毀釈前は宮司家の東端に実相院の不動堂や護摩堂がありました。保安林に囲まれた石段下の弁天池は村岡川(宇田川)の源流にもなっています。池の前の庚申塔は、区域最古のもので、地域文化財に登録されています。鳥居横には、中田の子弟の教育に尽力された宮本(いたる)先生の頌德碑があります。
          泉区役所


【道祖神】戸塚区上矢部町1158

嗣法山傳心寺

 嗣法山傳心寺は、『かなざわの霊場めぐり』の第23番として掲載されている曹洞宗の寺院です。近年は、横濱金澤七福神の毘沙門天の霊場となっているので、何度か尋ねたこともありました。今日は、新編武蔵風土記稿の傳心寺の項に『白山社門ニ入テ右ニアリ小社ナリ』とあるので確認してきたのですが、境内にも入定塚のある境外地にも、それらしい社や祠は見つけることが出来ませんでした。


 境内を散策するうちに『洋算比例自在』の著者として知られる原魯?の碑があることに気づきました。


  入成(入定)塚之由来
むかし小柴と野島は濱づたい乃細道で結ばれて居りました。海乃荒る度海岸線は壊されて浜人達は困て居りました。或る秋乃夕ぐれ通りかゝった旅乃修行者(六部)が此乃地は人柱たてねばこ乃通り荒れるであろう。私がそ乃人柱にたってあげたいが今は修行の身で三年後には必ず約束を果たすといふて立ち去りました。月日に関守なく三年後の秋乃夕暮枯すゝき乃茂み乃中にこ乃修行者が立って居りました。
四尺四方の穴を掘り自分乃浩身を埋めて息をするために竹の箸を入れて静かに念佛鉦乃音に変ってそ乃餘韻は静かに秋乃夜空に流れます。虫の音が悲しく調和しますと、とう〱七日目葉末乃露乃悲しき朝を迎いました。併し其乃後はこ乃修行者乃捨身乃功徳に依り道は流される事は無くなりました。浜人は大変喜び感謝乃心を罩めて塚(入成塚)を立てゝこ乃修行者乃霊を弔いました。其乃後タンがらみぜんそく等になった人が願がけをしてたくさんの御りやくを戴いたと信仰されています。
昭和五十年丙己歳長月 川畠金介翁口伝に依る
           富井氏保管控書に依る


 嗣法山傳心寺山門
 開山大和尚禅師歴住大和尚碑
 地蔵尊
 原魯?先生埜碑
 毘沙門天
 伝海入定塚



 聖観世音菩薩像:平潟公園(金沢区平潟町16)
 新しい像と思われます。本尊を同じくする野島山染王寺に縁のある像でしょうか?

白山神社を巡って

 今日は、金沢区、磯子区でまだ撮影していなかった社を訪ねました。気づくと白山社が3社ありましたので、当サイト内の白山社へのリンクを整理してみました。


【横浜市指定名木古木】
 ケヤキ No.95015(六浦白山神社:金沢区六浦東2丁目13-20)


 タブノキ No.49287(磯子区洋光台6丁目16)


【(六浦)白山神社】金沢区六浦東2丁目13-20
 新編かなざわの歴史事典によれば、瀬戸神社に合祀されたため今では影宮ですが、綺麗に整備されたお社です。境内では横浜市指定の名木古木のケヤキが元気です。


【白山妙理大権現(白山社)】金沢区釜利谷南2丁目44
 白山信仰の主神は通常は菊理媛(くくりひめ)ですが、ここでは毘沙門天が主神格の様です。


【不明の社】金沢区釜利谷東7丁目20
 以前から気づいていた参道の分かりにくいお社です。鳥居が稲荷社を思わせますが、由緒は不明です。


【金比羅宮】金沢区釜利谷東6丁目40
 竹嵓山禅林寺に隣接する社です。


【宇賀山王社】金沢区釜利谷東7丁目11-2
 福松山自性院慈眼寺の境内社で、名称は山王社ですが、本尊は薬師如来のようです。


【熊野権現社】金沢区釜利谷東4丁目47
 隣には稲荷社が鎮座しています。


【峯白山神社】磯子区峰町623
 辿りついた時にはすっかり暗くなっていました。本殿の左右に境内社、西側の眺めが良いようです。

    峯白山神社略記
御祭神 伊邪那美命
 峰という地名は新編武蔵風土記稿(久良岐郡之七本牧領峰村)によれば、このあたりは久良岐郡の西南に位置し、山は多いけれども、特に高く突き出ているので峰と言う地名が出来たと書いてあります。風光、景色の良いことについて次の様に記してあります。「村の西北の方に小塚三つあり、三ぞう坊塚と呼ぶ、由来詳ならず、塚の辺り、最も高くして眺望殊に勝れたり、北は本牧の方を見下ろし東は一円海面にして、西南の方に富士箱根の高嶺連り、好景いはん方なし」とあります。
 又長野山(現円海山)については「村内南方にあり、土俗に円海山と呼ぶ郡中第一の高山にて眺望殊に類なし。相州鎌倉山眼前にあたり、四方の村々を足下に見下し、東は海面渺茫として房總の諸山を望み、遠くは、伊豆、箱根、富士、大山、筑波、日光、浅間等を始めとして都て、十ヶ國の山々を一望す、故に土人十國見と偁し、或は八州見とも呼ぶ。関八州一望の内に見るの義なるべし。眺望する所の十ヶ國は、駿河、甲斐、伊豆、相模、安房、上總、常陸、上野、下野、信濃等なり。」とありますように峰町は昔から風光明媚な景勝の地として知られておりました。当、嶺町の鎮守様、峰白山神社は明治以前の神仏習合の時代には、白山権現社というご社名で祀られておりました。
 創立の年代ははっきりして居りませんが、天保十五年(一八四四年)の社殿鎮座の棟札によりますと、「当社ハ鎌倉繁栄ノ頃ヨリ宇手四面ト言ウ地ニ鎮座シテ今権現ト呼」とありますので、鎌倉時代から鎮座して現在まで七百余年経て居る古社であることは確かです。
 ちなみに宇手四面とは、旧鎌倉道の道場坂の上で小名権現と言う地で現在の地番表示では洋光台六ノ二十七辺りと言う事で宅地造成前はこの辺りは樹木が生い茂った三〇〇坪程の社地があったと言う事です。現在社殿のあるところは、阿弥陀寺二十四世孝譽上人が社参の都合上、寺の近くの寺地の一部をさいて社地として天保十五年に移し祀ったものと言われて居ります。その後明治初めに神仏分離でお寺さんの管理を離れ、村民持ちの鎮守となって名を自由神社と改称し、中原、杉原健雄が神主となりました。
 明治二十五年に社殿の造営が行れ本殿、拝殿、二棟の荘厳な神明造りの社殿が完成しましたが、明治四十五年の神社合併によって栗木の日枝神社に合祀され、この時社殿も移されました。終戦の後、宗教法人法が改正され、合祀されていた神様を元の土地にもどすことになり、昭和二十二年に仮社殿を建ててご神体をお迎えして神主杉原敏夫によって還御祭を奉仕して社名を峰白山神社としました。
 その後、洋光台団地造成のため、小名権現の旧社地が売却され、これを基金として氏子の寄付を募り、鉄筋コンクリート神明造りの社殿を奉建し、昭和四十四年八月神主杉原敏之により還宮奉祝祭を執り行い現在に至って居ります。
 ところで、白山権現という神様ですが、ご本社は石川県石川郡鶴来町に鎮座される、旧、国幣中社白山比咩神社です。この神社は由緒によりますと、「霊峰白山を御神体として白山姫の大神(伊邪那美大神)を奉斎する。崇神天皇のときに白山のまつりにわ(祭りの場(?))として創建されたと伝える延喜式内社で古来白山本宮加賀一の宮として尊崇され、北陸鎮護の社名である。養老元年僧泰澄がはじめて白山登拝後は、修験道場として隆盛をきわめた。白山山頂の奥宮は養老二年の創建と伝え全国に三千有余を数える白山神社の相根源社である」という事でありましたが分かりやすく言うと養老元年に僧泰澄が白山にこもって一心に祈願をしていたら、美しい女神が白馬に乗って出現し「われは伊邪那美、天照大神の生母である。我を拝まんと望むならば白山の山頂に登って拝せよ。」と言うお告げがあったので、泰澄は、早速山頂に登って伊邪那美大神を祀ったと言う事です。
 平安末期から室町期にかけて白山には僧房三千が棟を並べ僧兵数万を擁して、熊野、比叡と肩を並べる程の大勢力となり、この山法師たちが全国を回国修行して各地に白山権現社を建てたのであります。
 北陸の景勝地白山の山頂に祀られた大神様が関東の十国を見渡す、風光明媚の地、「峰」の山頂に祀られたと言う事はまことにご神慮に叶った事だと存じます。
 神道大辞典伊邪那美命の項に「伊邪那岐ノ命ト共ニ国土ヲ修理固成シ大八州国及ビ山川、諸神ヲ生ミ給フ」とありますように、国土創建の神であり諸神を産み給うた親神様であります。
 子等の幸福を願わない親はありません。吾々氏子が己の行を正し、心を祓い清めて、大神様の御前に額ずく時、必ずや大神様の御神徳を戴く事ができましょう。
          宮司 杉原敏之 記


【注】原文には明らかなミスタイプが多数あるため、類推できる部分は修正しています。なお、白山比咩(しらやまひめ)(=菊理媛(くくりひめ))を伊邪那美(いざなみ)と同一視することは、珍しい解釈と思われます。白山神社の総本社である白山比咩神社の見解とも異なっておりますので、単なる間違いなのかどうか、これも要調査事項の様です。
–> 上記の鳥居前に掲示されていた由緒書きの祭神に関する部分は『磯子の史話』からの引用と思われます。
渋谷(2015)によれば、白山神社の総本社である加賀白山比咩神社の創始者である泰澄が白山山頂で出会った本地仏十一面観音は、自らを伊弉冉尊である名乗ったと伝えられているものの、同社の主祭神は菊理媛尊であるとされています。菊理媛と伊弉冉を同一視する解釈は、恐らくは『磯子の史話』からの引用の際に誤った(あるいは分かりやすく改変された)ものと推測されます。(2019/12/27)


 以下、その他の写真です。


【参考】
 ケヤキ Zelkova serrata
 タブノキ Machilus thunbergii
 寒念佛供養塔:釜利谷南2丁目41
 石塔群(観音、地蔵):釜利谷南2丁目43
 白山古道磨崖仏
 二ホンスイセン Narcissus tazetta var. chinensis
 地蔵尊:福松山自性院慈眼寺境内
 地蔵堂:磯子区栗木3丁目35


【三浦半島周辺の白山社】
 これまで訪ねたことのある社を中心にして、境内社や合祀社を含む白山神社を整理してみました。かつて全国に3000社あったと言われる白山神社ですが、こうしてみると、三浦半島あるいは旧相模国では寧ろ珍しい神社と言えそうです。
三浦市
 白山神社:三浦市南下浦149(旧相模国三浦郡菊名村)
横須賀市
 平作神社:横須賀市平作6丁目7(旧相模国三浦郡上平作村)
 祖母神社:横須賀市長坂3-12-15(旧相模国三浦郡長坂村)
 【白山神社跡:横須賀市浦賀1丁目9-10(旧相模国三浦郡大津村)】
藤沢市
 白山神社:藤沢市下土棚1065(旧相模国高座郡下土棚村)
鎌倉市
 白山神社:鎌倉市今泉3丁目13-20(旧相模国鎌倉郡今泉村)
 甘縄明神宮:鎌倉市長谷1丁目12-1(旧相模国鎌倉郡長谷村)
 白山社:鎌倉市稲村ガ崎1丁目6(旧相模国鎌倉郡極楽寺村)
 五社稲荷神社:鎌倉市岩瀬1399(旧相模国鎌倉郡岩瀬村)
横浜市
 白山社:横浜市泉区岡津町1552(旧相模国鎌倉郡岡津村)
 白山神社:横浜市栄区東上郷町44-9(旧相模国鎌倉郡上之村)【白山社跡:横浜市栄区長倉町1-29】
 白山社(舞岡八幡宮境内):横浜市戸塚区舞岡町946(旧相模国鎌倉郡舞岡村)
 白山神社:金沢区六浦東2丁目13-20(旧武蔵国久良岐郡三分村)【合祀先:瀬戸神社
 白山妙理大権現:横浜市金沢区釜利谷南2丁目44(旧武蔵国久良岐郡宿村)
 峰白山神社:横浜市磯子区峰町623(旧武蔵国久良岐郡峰村)
 白山神社:横浜市磯子区上町12(旧武蔵国久良岐郡根岸村)
 白山社:横浜市南区別所2丁目30-29(旧武蔵国久良岐郡別所村)
 春日神社:横浜市港南区日野中央2丁目9-3(旧武蔵国久良岐郡宮下村)
 住吉神社:横浜市港北区小机町110(旧武蔵国橘樹郡小机村)
 潮田神社:横浜市鶴見区潮田町3-131-1(旧武蔵国橘樹郡潮田村)
 (新羽北)杉山神社:港北区新羽町3918(旧武蔵国都築郡新羽村)
 若雷神社:横浜市港北区新吉田町3490(旧武蔵国都築郡吉田村)
東京・埼玉
 白山神社:東京都文京区白山5丁目31-26(旧武蔵国武蔵国豊島郡小石川村)
 大麻止乃豆乃天神社:東京都稲城市大丸847(旧武蔵国都築郡多磨郡大丸村)
 白山神社:さいたま市大宮区堀の内町2丁目(旧武蔵国都築郡足立郡大宮村)


【参考文献】
 蘆田伊人編(1985)新編相模国風土記稿第三巻、大日本地誌大系㉑、385p.、雄山閣
 蘆田伊人編(1985)新編相模国風土記稿第四巻、大日本地誌大系㉒、393p.、雄山閣
 蘆田伊人編(1985)新編相模国風土記稿第五巻、大日本地誌大系㉓、443p.、雄山閣
 蘆田伊人編(1985)新編相模国風土記稿第六巻、大日本地誌大系㉔、390p.、雄山閣
 林述斎・間宮士信編(1982)新編武蔵風土記稿横浜・川崎編第一巻、480p.、千秋社.
 林述斎・間宮士信編(1982)新編武蔵風土記稿横浜・川崎編第二巻、520p.、千秋社.
 横須賀市社会科研究会編(1978)横須賀皇国地誌残稿、134p.
 白井永二・土岐昌訓(1979)神社辞典、360+31p.、東京堂出版.
 金沢区生涯学習”わ”の会(2010)新編かねざわ歴史事典、142+31p.
 磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会 編(1978)磯子の史話、762p .
 南区の歴史発刊実行委員会編(1976)南区の歴史、650p.
 港南の歴史発刊実行委員会編(1979)港南の歴史、781p.
 「古老を囲んで港北を語る」委員会(1976)港北百話=古老の話から=、319p.
 渋谷申博(2015)、諸国神社一宮・二宮・三宮、380p.、山川出版社.

冬の日の『こども植物園』

 今日は夕方に上大岡で家内と待ち合わせ。それまでの間に横浜市立子ども植物園を訪れました。
横浜市指定名木古木 クスノキ:No.59001、No.59002




【参考】
 クスノキ Cinnamomum camphora
 ムサ・ウェルティナ Musa velutina (アケビバナナ?、同定間違いか?)
 キンカチャ(金花茶) Camellia petelotii (syn. C. chrysantha)
 ネペンテス・ダイエリアナ Nepenthes ‘Dyeriana’
 ヤハズカズラ Thunbergia alata
 竹園
 アオノリュウゼツラン Agave americana
 アシズリノジギク Chrysanthemum japonense var. ashizuriense
 コハマギク Chrysanthemum yezoense
 ハマボウ Hibiscus hamabo
 ウグイスカグラ Lonicera gracilipes var. glabra
 チャノキ Camellia sinensis
 木原均記念碑
 ヤバネヒイラギモチ Illex cornuta
 シャクナゲ ‘太陽’ Rhododendron ‘Taiyo’
 ジャノメエリカ Erica canaliculata
 レンギョウ Forsythia suspensa
 ノコンギク Aster microcephalus var. ovatus
 カマツカ Pourthiaea villosa
 馬頭観音堂:南区中里4丁目1-17
 ツタバウンラン Cymbalaria muralis

上大岡から舞岡へ

 午後から雨の予報でしたので、降り出すまで上大岡から散策してみました。それにしても今年はこの季節になってもよく雨が降ります。
【主な経路】
(上大岡駅)-芹ヶ谷-東永谷-下永谷-平戸-前田-柏尾-舞岡-(舞岡駅)
【横浜市指定名木古木】


 No.49534, ケヤキ(平戸白旗神社)



 No.49531, ケヤキ(日枝神社)
 No.49532, ケヤキ(日枝神社)
 No.49533, ケヤキ(日枝神社)


【(代官山)白髭社碑】港南区芹が谷3丁目23

 芹ヶ谷南小学校近くにある碑です。名称からすれば、猿田彦神を祀った社がここにあったのでしょうか。本日、この後に尋ねた柏尾の猿田彦神社との関係など、いずれ調べてみたいと思います。


神奈川縣鎌倉郡永野村永谷九百六十二番地
二〇〇〇年 平成十二年十月十七日


【平戸白旗神社】戸塚区平戸町302

  平戸白旗神社の沿革
白旗神社 祭神 源頼朝命
例祭日  九月十八日
氏子区域 旧平戸町全域 即ち現平戸町及び平戸一丁目-五丁目
由緒
 当神社は、頼朝公薨じて百三年後の乾元元年(紀元一、九二二年西暦一、三〇二年)九月九日鎌倉鶴岡の相承院の元智が勧請したもので明和六年(紀元二、四二九年、西暦一、七六九年)十月十四日には相承院ょ通じ、みたましろとして「右大將家(頼朝公)の御鬒髪三筋」を送られた。(東福寺所藏文書)東福寺の神事奉仕は創祀以来凡そ五百七十年に及んだ。
 東福寺の鎮守として発足した当神社は、江戸時代には平戸村の鎮守となり(新編相模風土記(正しくは「新編相模国風土記稿」))明治六年(紀元二、五三三年西暦一、八七三年)十一月十日には村社、昭和十四年九月二十日には幣帛供進村社となったが大東亜戦争後の昭和二十八年九月十五日に県知事の認証を受け新発足して宗教法人となり神徳いよ〱明らかである。因みに現社殿は新築され昭和七年四月十日竣工したものである。昭和五十四年屋根葺替、一月十日起工、四月二日完成
平成二年十一月  御大典奉祝記念として玉垣築造
          氏子総代会


【下永谷神明社】港南区下永谷2丁目32-1
 明治政府により合祀された八幡社を記念する碑がありました。境内には双体道祖神、また六観音ならぬ七観音(?)の石像もみられました。これも要調査です。


【八幡宮?跡】
當所は長町八幡宮の?跡なり。
一祭神 譽田別命 武雍槌命
一境内 二〇四坪 一七二四番 境外七畝歩
               一七二五番
一社殿 慶応二年四月建立のもの間口二間二尺
               奥行三間
一由來
 天正年代領主の謹待奉祀せし處なり。廻に殿屋敷殿藪的場隠居屋敷の地存す。古前乃川?朱欄乃橋懸れり古來郷人斉く参拝す。明治四十一年霜月三日官令により神明社に合祀す。大津氏祖業を尊び宇を興し祀怠らす偶篤仰者飯島氏靈夢呼蒙る即之畏み相議をへ茲ニ建碑永く懐き往時を偲はんとす。
           地土大津平治
 昭和十四年四月吉日 篤仰飯島房太郎
           賛者若林亮平


【御嶽神社】戸塚区上柏尾町249

當神社は建仁二年(西暦一二〇二)村人が日本武尊の御功績を追慕して石造の祠を建てたのが始めであるが、文化年間(西暦一八〇〇年代始め)當地に移築再建された。


【日枝神社】戸塚区前田町216

  日枝神社
御祭神 大山咋神(おおやまくひのかみ)
 主祭神の神系
          大国御魂神
須佐之男神-大年神-御年神
          大山咋神-別雷神
 大山咋神(おおやまくひのかみ)またの名は、山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)。この神は山近淡海(なかつおおみ)国の日枝山に坐す。また葛野(かずの)のruby>松尾(まつお)に坐す)鳴鏑(なりかぶら)になりせる神なりとあるように近江国(今の滋賀県)の日枝山比叡山に鎮まりましたのが最初で大年神の親子神で、別にその御名を山末之大主神とたたえ申し上げます。
  御神徳
 大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り大地を支配し万物成長発展、産業万般の生成化育を守護し給う御徳は広大無限であります。(古事記による)
 日枝神社は相模国鎌倉郡前山田村。現在の横浜市戸塚区前田二一六一に八二四年に創建され村の守護神として祀られ、この地に住む人々の健康と家内安全、子孫繁栄をお守りする神様です。日枝神社は、この近くで一番古くから祭られているとの言い伝られております。
例祭は、四月九日、新嘗祭は十二月八日におこなわれております。


【瑞穂神社】戸塚区柏尾町764
 鳥居がないことだけでなく、何かと風変わりな神社です。

   瑞穂神社
御祭神
「瑞穂神殿」
【主祭神】天津渦々志八奈藝大神(あまつうすうずしやつなぎのおおかみ)(天津御中主大神)
【配神】丹生都比売神(にうつひめのかみ) 火産霊神(ほむすびのかみ)
「斎宮神殿」 天照大神(あまてらすおおかみ)
「斎宮祈祷殿」 大己貴(おおあなむち)大神 少彦名(すくなひこな)大神


古神道「山蔭神道」とは
 「山蔭神道」の教義には、神代の昔、天照大御神より神勅を賜わった天児屋命(あめのこやねのみこと)より伝えられた太古神道が、今に伝承されているとされています。
 幕末の頃、萩原員幹(かずみき)の嫡男・員衡(かずひら)が光格天皇の聖旨を受け、藤原山蔭が伝えた古伝の、中臣神道を復興し、山蔭神道と称しました。
 これを光格天皇の皇子・中山忠伊(ただこれ)と、その嫡男・中山忠英に伝え、その三男・中山忠徳(ただのり)を経て、現在の当主・山蔭基英(もとひさ)に至ったものです。
 「山蔭神道」に伝承される天地創造観を、「一霊四魂(いちれいしこん)」の哲理と言い、これによる霊術は、奇跡的効験を著し、「古代の陰陽道」と共に、山蔭神道の祈祷禁厭の秘伝とされています。
     山蔭神道東海斎宮 瑞穂神社


【王子神社】戸塚区柏尾町939

 建武中興
 六百五拾年記念
   要旨
介麻久母王子神社大前宮司関正臣左久元德元弘頃御兄弟御力合波世互難楚嶇嶔能大御業比伎(建武中興)与里六百五拾年止布由々志伎運合比多留御氏子共津波御功績志久津波昭和九年祖先心(六百五拾年記念)受継疑都々大君忠實仕良久止良久平聞食世止美母
 昭和五十九年七月二十三日
     宮司 関正臣


記念事業手水舎奉納
   趣意
 霊峰富士の雄姿と阿夫利の嶺を西に望み一條として流れる柏尾川の源を成せる相模國柏尾の里は往古より護良親王を祭神と崇ぶ王子神社の御神德に守り培われと風土にして鎮守の森は親王に供奉せる宗祖の伝承の内に幾多の風雪を乗り越え今も変わらざる碑文は黙して導き氏子は境内に花開くりんどうに安き覺ゆ。
 惟らに豐芦原の瑞穂の國日本國は大神が國を肇給ひ神武の御代より親政により國を治め給ふ、千余年を経た承久、文政の年間より武家の權勢は傲慢を極め皇道は陵来せんとするに至る後醍醐天皇は皇位を継承し給えど深く宸襟を悩ませ給い武家の変態的政治一掃の宏大なる理想を皇子護良親王と相計られ給ふ親王は父君と心を一つにされ理想実現に向い天性の英邁なる思慮を振はれ全国に今旨を以って忠臣を募られ京の御所にありては参軍の中に立ち利あらずして?野大塔の山中奥深く己の身を馳せ智謀をめぐらし義烈を盡され一命をも顧みず只々偉業の成就に精進せられ、天皇親政の平安の御代に復し萬民晴天を仰ぐが如き政治体制を確立せらる。天皇は年号を建武に改め給い世の人は建武中興と偁して奉祝せり。父君の理想への偉業の基と成られし御偉德と義烈に崇敬の念その極に達するものである。
 建武中興より歳を経ること六百五拾年吾が宗祖の子孫即ち氏子として親王御神霊に心よりの感謝を捧げ祭神への敬愛そして次の世代への美德の千古変わらざる風土より時に親王の御手、足にも觸れたと偲ばられる黒木御所跡の流れの岩石を堀り更にその森林の?野桧を合せ用いて手水舎を造営し納め奉るに依り柏尾鎮守護良親王命の御神德への報恩感謝の意と成し併せ宗祖の供養とす。御神霊の加護の下、柏尾の里の永久に安らけきを祈るなり。
 昭和六十年六月一日
建武中興六百五拾年記念事業委員會
会長 氏子総代 責任役員 増田壽男 (花押)
右之記念事業之成就を期し委員會を設け会長を總意で選任
   昭和六十年七月二十三日
    王子神社
     宮司 代表委員   関 正臣
     氏子總代 責任委員 齋藤一男
     氏子總代      齋藤 茂


【猿田彦神社】戸塚区柏尾町894

  猿田彦神(さるたひこのかみ)猿田毘古神(さるたびこのかみ) 国神(くにつかみ)
「古事記」によると、天孫降臨の際、天八衢(あめのやちまた)に立ち迎えて皇孫邇々芸命(ににぎのみこと)を筑紫の日向の高千穂に導き奉り、のち天ノ鈿女神に送られて、伊勢長田五十鈴川上に到りたまふ。
 伊勢の宇治土公(うちのつきぎみ)の遠祖、太田(おほた)命は、この神の苗裔なりと云う。


 その他、本日撮影の写真です。

【参考】
 ウィンターコスモス Bidens laevis
 天理教市浜分教会:港南区東芹が谷12-17
 天理教本神分教会:南区芹が谷5丁目50

三浦半島の植物たち

 特別展『神奈川県植物誌2018と三浦半島の植物たち』が開催中と聞き、久しぶりに横須賀市自然人文博物館を訪ねました。



サケガシラ Trachipterus ishikawae JDRDAN et SNYDER
 1968年8月22日朝、三浦半島南端、浦賀水道に面した毘沙門沖の蝦の三枚網に、巨大な怪魚がかかり、横須賀市三春町の丸十魚市場に出荷されました。翌23日、魚市場のご好意で本館に寄贈されたこの魚は、全長272cm(ただし尾びれは欠損している)体高47cmまサケガシラでした。
 本種は、東京湾口以南の日本近海で比較的珍しい魚とされています。この標本はメスでホルマリン保存液の中に入れたとたん卵をだしました。きっと産卵準備のため深海から浅海にわってきたのでしょう。


アカナマダ アカナマダ科アカナマダ属 (上)
  三浦市松輪沖合 1976年5月13日 横須賀丸十魚市場寄贈
 太平洋・大西洋の西部と南部に分布し、まぐろ漁船がまれに持ち帰ります。生時の体色は淡青色で、ひれは淡紅色をしています。体の中に墨汁袋をもち、体の後端近くにある肛門から墨汁を出すといわれています。


テンガイハタ フリソデウオ科サケガシラ属 (下)
  東京湾産(浦賀水道) 1972年3月30日 鈴木昭二氏寄贈
 北海道から高知県の太平洋岸と日本海に分布し、海岸にまれに打ち上げられたものが見つかります。生時の体色は銀白色で、背びれは鮮やかな淡紅色です。鱗と臀びれはなく、尾びれも著しく小さいなどの特徴があります。


リュウグウノツカイ リュウグウノツカイ科リュウグウノツカイ属
  千葉県館山市波左間産 2003年3月 荒川寛氏寄贈
 沖合の中層域に生息していますが、まれに沿岸に漂着したり、定置網で漁獲されることがあります。生時の体色は銀色で、長く伸びる背びれ前部と腹びれはあざやかな赤色をしています。展示標本は尾びれが欠損しています。


ラブカ ラブカ科ラブカ属
  相模湾産(横須賀市長井沖) 1968年3月10日 浜田安雄氏寄贈
 日本では相模湾や駿河湾の周辺の深海からまれに漁獲されます。数億年前に栄えた古代ザメ類といくつかの共通な特徴ょ備えていることから、現生のサメのなかまでは最も原始的なものとされています。標本は雄(オス)の個体です。


シギウナギ(シギウナギ科) Nemichthys scolopaceus Richardsonm 1848
 世界中の温帯~熱帯域の水深300~2000mに生息し、全長1.4mになる。長く反り返った口先は、エサとなるサクラエビなどの甲殻類をつかまえるのに役立つと考えられている。
【参考】
 特別展入口
 ナウマンゾウ Palaeoloxodon naumanni
 サケガシラ Trachipterus ishikawae
 アカナマダ Lophotus capellei
 テンガイハタ Trachipterus trachypterus
 リュウグウノツカイ Regalecus glesne
 ラブカ Chlamydoselachus anguineus
 シギウナギ Nemichthys scolopaceus



【米が浜神明社】米が浜通1丁目(裏坂)
   神明社
祭神 大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)
   天照大神の別の御名
創建  元禄四年(一六九一)と推定され
例祭日 六月十日(慣例として五月に行なわれる)
由来  市内深田台にある神明社建て替えの際取り壊した社殿の中から出て来た「棟札」及び、その他の文献調査によれば、かの神明社はもとは米が浜のこの処にあったもので、明治十六年に背後の山(現在の中央公園)が陸軍の砲台になるために、深田台へ移設されたものであった。その跡地には御神木であったと思われる大銀杏を残すのみで、長い間に山は崩れ地形もだいぶ変化したようである。
 昭和五十四年五月、”米が浜に神社を”と云う米が浜住民の念願が実り、氏子会、町会が主唱し多数の方々の協賛のもとにこゝに米が浜神明社の再建を見ることになった次第である。
 なお、前記「棟札」の最も古いものは、元禄四年八月のもので、これはその頃こゝに神明社が現存していたことを物語っている。
  昭和五十八年五月二十一日
     米が浜神明社氏子会
     米が浜町会


   昭和五十二年市制施行七十周年記念
    横須賀風物百選 中央公園
 優れた景観を一望に収めるこの公園は、文化会館建設事業の一環として昭和三十九年から五年半の歳月と、約五千万円の経費を投じて昭和五十四年四月一日に開園したものです。
 公園の広さは約三・八ヘクタールで、サクラやウメ、カンツバキ、ジンチョウゲ、ツツジ、サツキ、サザンカなど一万本に近い四季折々の花木を中心に整備してあります。
 明治初年以来、横須賀は、海軍港を中心に発展してきました。一方で陸軍は、首都東京を中心とする東京港一体の防衛上から、明治十三年に第一号の砲台を市内の観音崎に築いて以来、その数は、三浦半島に二十八か所にのぼります。
 ここもその一つで、明治二十四年から第二次世界大戦終結までの約五十五年間「米が浜演習放題」となっていた所です。
 これらの砲台は、終戦とともに取り壊されていきました。そのような状況の中で、この公園は、砲台があった当時の地形をそのまま巧みに利用して、変化に満ちた散歩道や展望広場などを整備したものです。
 園内の東端に建つコンクリート製の塔は、戦没者慰霊塔で、船のへさきをかたどってあり、高さ八・七メートル、長さ三十一メートルあります。この塔は、明治二十七年の日清戦争から昭和二十年の第二次世界大戦終結までの市内戦没者約四千七百柱の霊を慰めるために建てられたものです。また塔内には、第二次世界大戦中の戦没者四千柱の写真や戒名札と、戦場となった外地から採集した土砂が納められています。
 毎年八月十五日に市主催の「横須賀戦没者追悼式」が行われます。
 また、平成四年十月には、核兵器廃絶。平和都市宣言の意思を内外に示すものとして、平成モニュメントを建設しました。このモニュメントは、ステンレス製で高さ約二十メートルあり、核兵器のない平和の宿る天上界(宇宙)と、われわれ人間の住む地上とが対話できるシンボル(発信基地)として制作されました。


   昭和五十二年市制施行七十周年記念
    横須賀風物百選 横須賀駅
 「汽笛一声新橋を」の歌詞で知られる鉄道唱歌に「汽車より逗子をながめつつ/はや横須賀に着きにけり/見よやドックに集りし/わが軍艦の壮大を」という一節があります。
 明治二十二年六月十六日、大船-横須賀間に開通した横須賀線の終着駅、横須賀駅開業当時の駅頭風景を上手に表現しています。
そのころの横須賀は、現在右手に見える米海軍基地内に、明治十七年に設けられた横須賀鎮守府などの諸施設がある重要な海軍基地となっていました。一方陸軍も、明治十三年から観音崎をはじめとして市内の沿岸各所に着々と砲台を築いていました。しかし、人員や物資の輸送は、横浜-横須賀間の船便に頼っている実情でした。
 明治十九年六月、陸海軍は鉄道布設の必要性を記した請議所を海軍大臣西郷従道、陸軍大臣大山巌の名を連ねて総理大臣伊藤博文に提出しました。この求めに応じて鉄道局は、翌二十年に測量を開始し、二十一年一月に工事を起こしました。工事費は、明治十九年から始まっていた東海道線建設費から四十万円支出しました。当初終着駅は、観音崎附近へとの要望がありましたが、更に五万円から十万円の予算を必要とするうえ、市街地を通さなければならない等の複雑な問題があり、現在地となりました。
 現在の駅舎は、昭和十五年に新築されたものですが、大正三年に改築した駅舎の面影をよくとどめている貴重な建物です。
 開業当時、汽車はおよそ一時間ごとに発着し、東京-横須賀間に約二時間を要しました。客車は一・ニ・三等とあり、煙突の長い機関車がそれを引きました。三等運賃は三十九銭で、当時の米価が一升十一銭前後でしたのでかなり高かったようです。乗客数は、明治四十年頃で一日平均1、843人と記録されています。
 横須賀-久里浜間は、軍の定めにより、昭和十九年四月に開通したものです。


【吾妻社】〒237-0072 横須賀市長浦町5-15-1鎮座
 創祀については創立当時の事情年代は不詳であるが、吾妻半島(現在は運河により区切られて吾妻島となり、米軍の用地として立ち入りのできない区域になっている。)の中の吾妻山山上に鎮座し、日本武尊・橘媛命の御威徳を敬仰、鎮斎され、中世には吾妻権現と呼ばれて、海上安全をはじめとするその顕著な御神徳は近郷民衆の崇敬の中枢となっていた。
 「新編相模國風土記稿」三浦郡之九長浦村の条には、「吾妻権現社村ノ北方ニアリ。社頭松樹數株アリテ海上通船ノ標トナセリ。祭神ハ橘樹姫命。神躰木像。村持。」の記載がある。
 伝承によれば、弟橘媛命の御入水ののち、御屍がこの浦に流れ寄りきたのを葬り奉ったものとも、または、媛の御入水の際に、日本武尊が握り遊ばされていた姫の衣の片袖が、命の御手に残ったのを収め祀った所とも、あるいは、媛の御櫛が流れ漂っていたのを拾い上げて、浄地山上に納めて二尊を奉斎申し上げた所ともいわれている。
 中世には、田の浦常光寺が当社の別当織となったが、その濫觴(らんしょう)は、源実朝の家臣であった鈴木三郎常廣の二男常光が、主君が非業の最期を遂げたことに無常を感じて、比叡山に登って得度し、三浦衣笠に常光寺を営んだが、吾妻社が時を経て荒廃しているのを見てこれを改修し、衣笠より来りて庵を結び奉仕したことによるという。
 爾来、鎌倉武将を始め、近郷一円に多くの崇敬者を有して修造も常に行われてきたという。
 明治六年村社に列格。
 明治三十二年、吾妻山一帯が海軍用地として買収されたため、幾百星霜由緒の深かった長浦字長浦一九七九の吾妻山を離れて、現在地に位置を移し、社殿の大改修も加えて遷座奉祀するところとなった。
 しかし、大正六年の大暴風雨のため拝殿が倒壊。大正十三年氏子崇敬者により仮社殿を再建するものの、再び台風により倒壊したという。
 昭和二十一年六月、宗教法人令により、宗教法人となった。
 氏子区域は有せず、田の浦神明社の氏子会と、長浦神明社の氏子会とが合同で奉仕している。
 例祭には湯立て神楽が奏される。
          〈宮司 佐野和史〉
祭神 日本武尊 橘媛命
祭日 春季例祭 四月後半日曜
   例祭(秋季例祭)八月十七日
   (移行の日曜)湯立て神楽
参照「新横須賀市史」(別館・文化財編(正しくは「別編◇文化遺産」))の第三編近世建築に本殿(流れ造り)についての考察が掲載されている。


 (深田台)神明社:深田台40
 地蔵尊(深田台神明社)
 横須賀中央公園
 トベラ Pittosporum tobira
 稲荷社(龍本寺境内社)
 お穴さま:米が浜通1丁目12
 (米が浜)神明社:米が浜通1丁目(裏坂)
 不明の社跡:横須賀市本町2丁目21
 護衛艦いずも (DDH-183)
 JR横須賀駅
 吾妻社:長浦町5丁目15-1
 手水鉢(嘉永七年):吾妻社

浦賀を起点に……

 今日は、横須賀を歩いてみました。
【主な経路】
(自宅)-浜見台-(京急田浦-浦賀)-光風台-若宮台-佐原-池田町-吉井-大津-三春町-米が浜-ヴェルニー公園-(逸見駅)


【参考】
 ヤブツバキ Camellia japonica
 シシウド Angelica pubescens
 西叶神社
 庚申塔群(放光山延壽院常福寺)
 コバノセンナ Cassia coluteoides
 プラタナス (JR横須賀駅前)
 ヒラドツツジ Rhododendron × pulchrum
 安房口神社
 (三春町)春日神社
 メタセコイア Metasequoia glyptostroboides(横須賀中央駅前)


【芝守稲荷神社】浦賀3丁目10


【白井稲荷大明神】


【茅山の庚申塔】佐原5丁目28-10

  茅山の庚申塔
 この庚申塔は百メートル程久村寄りのT字路の山裾にあった。そこは広場で、馬のかなぐつ(馬蹄)わつけたり、牛をつないだりする小屋があり、子供達の格好の遊び場であった。(現在は住宅が建っている。)
 庚申供養塔は災いを防ぎ幸福を招く意味をこめて、村境に建てられることが多い、そこは久村の境であったが住宅建設のためこの場所に移された。六基のうち年代のわかるものでは最古は享保四年(一七一九年)新しいものは天保十三年(一八四二年)である。二基は不明。茅山については「茅山」「賀山」「香山」と三様である。
 当時は各村の地境に建てられ、道の目印や隣接の村の境とし、他の地区より悪霊や疫病の侵入を防ぐのに建立したという。
 平成十七年三月 久里浜地域文化振興懇話会


【茅山稲荷】佐原5丁目24


【(佐原)稲荷社】佐原5丁目10


【(岩戸)熊野神社】岩戸1丁目4-1


【佐原十郎義連城跡】

   佐原城跡
 山嶺3方を囲み切り立つ懸崖は、よじ登るのが難しい。 -中略- 面積は、約1萬2千㎡あり、今は畑なり、考えるに、三浦義明がいた衣笠城から地の利を得た場所に館を築き義連(よしつら)を住まわせた。地名から佐原十郎という。
 治承4年(1180)8月27日に衣笠城が落城。義連は、兄の義澄らと頼朝に従い房総に行く。敵がこの城を攻め火を放ち去る。数年後、義連は、源義経に従い平氏を討ち帰る。又この地に(館を)築いている。後に左衛門尉となり奥州に移ると旧記に見える。この時よりこの跡が残されている。(現代語訳)
 義連の古館 久里浜志録 加茂捨三郎元善 著(大正2年稿)
 佐原十郎義連城跡の碑は、明治26年(1893)9月8日佐原の住民が義連公を顕彰するために建立した。
                      佐原町内会


【(池田)稲荷社】池田町5丁目9


【巡拝供養塔と庚申塔】池田町5丁目9

   巡拝供養塔と庚申塔
 ここは、昔の大津村池田の入り口にあたる。この巡拝塔は経塚とも呼ばれ、里の文人の竜崎戒珠が建立した笠塔婆型供養塔である。碑面文字のとおり篤い信仰心から霊場を巡り、写経の後、天保九年(一八三八)造塔された。
 庚申塔は
庚申信仰から里人が講中を造り庚申の日に集合し、五穀豊穣・家内安全を祈り造塔された。文政十一年(一八二八)から大正十年までのものが十一基現存している。刻像塔一基の他はいずれも文字塔で青面金剛の刻字がある。青面金剛は憤怒の厳めしい姿で悪疫退散の力があり、日月・三猿ともに現世安穏・来世安楽、子孫長栄の意である。
 平成二年二月  大津地域文化振興懇話会


【香之谷戸稲荷】吉井3丁目11


【赤門】安浦町1丁目

市制施行七十周年記念
 横須賀風物百選
  赤門
 この門は、かつて朱塗りであったことから「赤門」と呼ばれています。
 武家屋敷などでは、主家を防衛するために、屋敷の外郭に家来のための長屋を建てて、その一部を門としました。門の屋根と家屋の屋根を一連にした形の建造物を「長屋門」と呼び、この赤門もその一つです。
 初めは上級武家の門で、建て方も複雑堅固なものでしたが、後に武家以外の者でも、特に功労のあった家などには、出窓や出格子のない簡単な長屋門の建築を許されました。
 この長屋門の主であった長嶋家は、三浦氏の子孫と伝えられ、戦国時代、小田原北条氏の支配下にあって浜代官を務めました。更に、江戸時代には、三浦郡の総名主を務めたほどの家柄なので、この門の建築を特に許されたものと思われます。
 かつて、この門前の道路は、白砂青松を連ねた海に面していて、猿島や千葉の山々が手にとるように見えた景勝の街道で、数多くの旅人の眼を楽しませてきました。門前の右手にある石柱の道標がかすかに当時を物語っています。
 横須賀市民文化遺産にも指定され、現在も広く市民に親しまれています。

東海道を歩く-品川宿界隈

 本日外勤。帰りに旧東海道を辿ってみました。


【旧細川邸のシイ】

東京都指定天然記念物
   旧細川邸のシイ
     所在地 港区高輪一丁目十六番二十五号 高輪支所内
     指定  昭和三十六年一月三十日
 高輪支所の丘陵上に独立する単木で、樹高一〇・八メートル、幹囲り八・一三メートル、枝張りは東に六・七メートル、西に二・七メートル、南に五・六メートル、北に五・八メートルを測る巨樹である。幹の下部に大きな空洞があったため、昭和五十六年には大規模な外科手術を実施した。
 スダジイは、別名イタジイともナガジイとも呼ばれ、本州の福島県・新潟県以南、四国、九州、沖縄に分布する常緑高木である。葉は長楕円形では先は尖り大きな鋸歯がある。果実は先の尖った卵円形で二年目に熟し食用になる。古くは材は建築や家具用に使われていた。
 旧細川邸とは、肥後熊本藩細川家の下屋敷のことであり、元禄十六年(一七〇三)二月四日、赤穂事件の大石内蔵助良雄・吉田忠左衛門兼亮・小野寺十内秀和・原惣衛門元辰ら十七人が切腹を命ぜられたところとして、屋敷跡は東京都指定旧跡に指定されている。
 平成七年三月三十一日 建設
          東京都教育委員会


 上述の数値は自称ですが、環境庁による2000年の調査によると幹周740cm、樹高17mとなっています。


Natural Monuments
Kyu Hosokaea-tei no Shii
(Castanopsis sieboldii at the Former Residence of Hosokawa Family)
Address: 1-16-25 Takanawa minato City
Designated on January 30, 1961
  This beech tree Castanopsis sieboldii, natural monument, stands on the hill behind Takanawa Minato city office. It used to be a giant tree but was largely scale in 1981 because it had a huge hollow in the lower trunk that may cause collapse/ However, it still remains as large about 10.8m height and 8.13m of trunk circumference now.
  Castanopsis sieboldii, which belings to the Fagaceae hamily, is one of the major evergreen tall trees in the warm temperate forests in Japan. The leaves have the length of 5-10 centimeters, width of 2-3 centimeters. The tree blooms is early summer and bears egg-shaped fruits that become ripe and edible in the second autumn. Castanopsis has been used for building and furniture for long time.
  This tree stands on the remains of residence of Hosokawa family (chusingura revenge, where 17 Ako Roshi including Ohishi Kuranosuke Yoshitaka committed seppuku 10 1703.
          Tokyo Metropolitan Board of Education


【二本榎】

   二本榎の由来
 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手(たかなわて)」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうことなくこの榎を「二本榎(にほんえのき)」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「日本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪何丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく新稙・移植が行われ、町の大切な象徴になっております。
          平成十七年(二〇〇五年)十二月 港区


【品川宿の街道松】

「東海道品川宿」
 「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。
 旅人は、品川宿を経由して丁酉を目指し、また家路についたことから「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は一六〇〇軒、人口七〇〇〇人規模で賑わっていた。
 今でも道幅を保ち、かつての宿場町として活気が息づいている。


 この松は品海公園の改修工事竣工を祈念し品川宿で五本目の「街道松」として品川宿の方々から寄付していただいたものです。
     平成十二年四月 品川区


【仙台坂のタブノキ】

品川区指定天然記念物
  仙台坂のタブノキ
     所在 品川区東大井四丁目三番一号
     指定 昭和五十三年二月十四日(第八号)
 本樹は目通り四・六メートル、樹高二十メートルで、推定樹齢約三百年、樹勢旺盛で美しい樹容を見せている。
 タブノキは一名イヌグスともいい、クス科に属する高木で、熱帯から暖帯に生育する。我が国では四国。九州。沖縄に多く、東京でもかつては海岸沿いに随所に見られたが、震災。戦災等でその数も少なくなった。区内では鹿島神社や滝王子稲荷神社等にも古木が見られる。
  平成二十三年三月三十一日 品川区教育委員会


【参考】
 スダジイ Castanopsis sieboldii
 エノキ Celtis sinensis
 クロマツ Pinus thunbergii
 タブノキ Machilus thunbergii