三浦半島の植物たち

 特別展『神奈川県植物誌2018と三浦半島の植物たち』が開催中と聞き、久しぶりに横須賀市自然人文博物館を訪ねました。



サケガシラ Trachipterus ishikawae JDRDAN et SNYDER
 1968年8月22日朝、三浦半島南端、浦賀水道に面した毘沙門沖の蝦の三枚網に、巨大な怪魚がかかり、横須賀市三春町の丸十魚市場に出荷されました。翌23日、魚市場のご好意で本館に寄贈されたこの魚は、全長272cm(ただし尾びれは欠損している)体高47cmまサケガシラでした。
 本種は、東京湾口以南の日本近海で比較的珍しい魚とされています。この標本はメスでホルマリン保存液の中に入れたとたん卵をだしました。きっと産卵準備のため深海から浅海にわってきたのでしょう。


アカナマダ アカナマダ科アカナマダ属 (上)
  三浦市松輪沖合 1976年5月13日 横須賀丸十魚市場寄贈
 太平洋・大西洋の西部と南部に分布し、まぐろ漁船がまれに持ち帰ります。生時の体色は淡青色で、ひれは淡紅色をしています。体の中に墨汁袋をもち、体の後端近くにある肛門から墨汁を出すといわれています。


テンガイハタ フリソデウオ科サケガシラ属 (下)
  東京湾産(浦賀水道) 1972年3月30日 鈴木昭二氏寄贈
 北海道から高知県の太平洋岸と日本海に分布し、海岸にまれに打ち上げられたものが見つかります。生時の体色は銀白色で、背びれは鮮やかな淡紅色です。鱗と臀びれはなく、尾びれも著しく小さいなどの特徴があります。


リュウグウノツカイ リュウグウノツカイ科リュウグウノツカイ属
  千葉県館山市波左間産 2003年3月 荒川寛氏寄贈
 沖合の中層域に生息していますが、まれに沿岸に漂着したり、定置網で漁獲されることがあります。生時の体色は銀色で、長く伸びる背びれ前部と腹びれはあざやかな赤色をしています。展示標本は尾びれが欠損しています。


ラブカ ラブカ科ラブカ属
  相模湾産(横須賀市長井沖) 1968年3月10日 浜田安雄氏寄贈
 日本では相模湾や駿河湾の周辺の深海からまれに漁獲されます。数億年前に栄えた古代ザメ類といくつかの共通な特徴ょ備えていることから、現生のサメのなかまでは最も原始的なものとされています。標本は雄(オス)の個体です。


シギウナギ(シギウナギ科) Nemichthys scolopaceus Richardsonm 1848
 世界中の温帯~熱帯域の水深300~2000mに生息し、全長1.4mになる。長く反り返った口先は、エサとなるサクラエビなどの甲殻類をつかまえるのに役立つと考えられている。
【参考】
 特別展入口
 ナウマンゾウ Palaeoloxodon naumanni
 サケガシラ Trachipterus ishikawae
 アカナマダ Lophotus capellei
 テンガイハタ Trachipterus trachypterus
 リュウグウノツカイ Regalecus glesne
 ラブカ Chlamydoselachus anguineus
 シギウナギ Nemichthys scolopaceus



【米が浜神明社】米が浜通1丁目(裏坂)
   神明社
祭神 大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)
   天照大神の別の御名
創建  元禄四年(一六九一)と推定され
例祭日 六月十日(慣例として五月に行なわれる)
由来  市内深田台にある神明社建て替えの際取り壊した社殿の中から出て来た「棟札」及び、その他の文献調査によれば、かの神明社はもとは米が浜のこの処にあったもので、明治十六年に背後の山(現在の中央公園)が陸軍の砲台になるために、深田台へ移設されたものであった。その跡地には御神木であったと思われる大銀杏を残すのみで、長い間に山は崩れ地形もだいぶ変化したようである。
 昭和五十四年五月、”米が浜に神社を”と云う米が浜住民の念願が実り、氏子会、町会が主唱し多数の方々の協賛のもとにこゝに米が浜神明社の再建を見ることになった次第である。
 なお、前記「棟札」の最も古いものは、元禄四年八月のもので、これはその頃こゝに神明社が現存していたことを物語っている。
  昭和五十八年五月二十一日
     米が浜神明社氏子会
     米が浜町会


   昭和五十二年市制施行七十周年記念
    横須賀風物百選 中央公園
 優れた景観を一望に収めるこの公園は、文化会館建設事業の一環として昭和三十九年から五年半の歳月と、約五千万円の経費を投じて昭和五十四年四月一日に開園したものです。
 公園の広さは約三・八ヘクタールで、サクラやウメ、カンツバキ、ジンチョウゲ、ツツジ、サツキ、サザンカなど一万本に近い四季折々の花木を中心に整備してあります。
 明治初年以来、横須賀は、海軍港を中心に発展してきました。一方で陸軍は、首都東京を中心とする東京港一体の防衛上から、明治十三年に第一号の砲台を市内の観音崎に築いて以来、その数は、三浦半島に二十八か所にのぼります。
 ここもその一つで、明治二十四年から第二次世界大戦終結までの約五十五年間「米が浜演習放題」となっていた所です。
 これらの砲台は、終戦とともに取り壊されていきました。そのような状況の中で、この公園は、砲台があった当時の地形をそのまま巧みに利用して、変化に満ちた散歩道や展望広場などを整備したものです。
 園内の東端に建つコンクリート製の塔は、戦没者慰霊塔で、船のへさきをかたどってあり、高さ八・七メートル、長さ三十一メートルあります。この塔は、明治二十七年の日清戦争から昭和二十年の第二次世界大戦終結までの市内戦没者約四千七百柱の霊を慰めるために建てられたものです。また塔内には、第二次世界大戦中の戦没者四千柱の写真や戒名札と、戦場となった外地から採集した土砂が納められています。
 毎年八月十五日に市主催の「横須賀戦没者追悼式」が行われます。
 また、平成四年十月には、核兵器廃絶。平和都市宣言の意思を内外に示すものとして、平成モニュメントを建設しました。このモニュメントは、ステンレス製で高さ約二十メートルあり、核兵器のない平和の宿る天上界(宇宙)と、われわれ人間の住む地上とが対話できるシンボル(発信基地)として制作されました。


   昭和五十二年市制施行七十周年記念
    横須賀風物百選 横須賀駅
 「汽笛一声新橋を」の歌詞で知られる鉄道唱歌に「汽車より逗子をながめつつ/はや横須賀に着きにけり/見よやドックに集りし/わが軍艦の壮大を」という一節があります。
 明治二十二年六月十六日、大船-横須賀間に開通した横須賀線の終着駅、横須賀駅開業当時の駅頭風景を上手に表現しています。
そのころの横須賀は、現在右手に見える米海軍基地内に、明治十七年に設けられた横須賀鎮守府などの諸施設がある重要な海軍基地となっていました。一方陸軍も、明治十三年から観音崎をはじめとして市内の沿岸各所に着々と砲台を築いていました。しかし、人員や物資の輸送は、横浜-横須賀間の船便に頼っている実情でした。
 明治十九年六月、陸海軍は鉄道布設の必要性を記した請議所を海軍大臣西郷従道、陸軍大臣大山巌の名を連ねて総理大臣伊藤博文に提出しました。この求めに応じて鉄道局は、翌二十年に測量を開始し、二十一年一月に工事を起こしました。工事費は、明治十九年から始まっていた東海道線建設費から四十万円支出しました。当初終着駅は、観音崎附近へとの要望がありましたが、更に五万円から十万円の予算を必要とするうえ、市街地を通さなければならない等の複雑な問題があり、現在地となりました。
 現在の駅舎は、昭和十五年に新築されたものですが、大正三年に改築した駅舎の面影をよくとどめている貴重な建物です。
 開業当時、汽車はおよそ一時間ごとに発着し、東京-横須賀間に約二時間を要しました。客車は一・ニ・三等とあり、煙突の長い機関車がそれを引きました。三等運賃は三十九銭で、当時の米価が一升十一銭前後でしたのでかなり高かったようです。乗客数は、明治四十年頃で一日平均1、843人と記録されています。
 横須賀-久里浜間は、軍の定めにより、昭和十九年四月に開通したものです。


【吾妻社】〒237-0072 横須賀市長浦町5-15-1鎮座
 創祀については創立当時の事情年代は不詳であるが、吾妻半島(現在は運河により区切られて吾妻島となり、米軍の用地として立ち入りのできない区域になっている。)の中の吾妻山山上に鎮座し、日本武尊・橘媛命の御威徳を敬仰、鎮斎され、中世には吾妻権現と呼ばれて、海上安全をはじめとするその顕著な御神徳は近郷民衆の崇敬の中枢となっていた。
 「新編相模國風土記稿」三浦郡之九長浦村の条には、「吾妻権現社村ノ北方ニアリ。社頭松樹數株アリテ海上通船ノ標トナセリ。祭神ハ橘樹姫命。神躰木像。村持。」の記載がある。
 伝承によれば、弟橘媛命の御入水ののち、御屍がこの浦に流れ寄りきたのを葬り奉ったものとも、または、媛の御入水の際に、日本武尊が握り遊ばされていた姫の衣の片袖が、命の御手に残ったのを収め祀った所とも、あるいは、媛の御櫛が流れ漂っていたのを拾い上げて、浄地山上に納めて二尊を奉斎申し上げた所ともいわれている。
 中世には、田の浦常光寺が当社の別当織となったが、その濫觴(らんしょう)は、源実朝の家臣であった鈴木三郎常廣の二男常光が、主君が非業の最期を遂げたことに無常を感じて、比叡山に登って得度し、三浦衣笠に常光寺を営んだが、吾妻社が時を経て荒廃しているのを見てこれを改修し、衣笠より来りて庵を結び奉仕したことによるという。
 爾来、鎌倉武将を始め、近郷一円に多くの崇敬者を有して修造も常に行われてきたという。
 明治六年村社に列格。
 明治三十二年、吾妻山一帯が海軍用地として買収されたため、幾百星霜由緒の深かった長浦字長浦一九七九の吾妻山を離れて、現在地に位置を移し、社殿の大改修も加えて遷座奉祀するところとなった。
 しかし、大正六年の大暴風雨のため拝殿が倒壊。大正十三年氏子崇敬者により仮社殿を再建するものの、再び台風により倒壊したという。
 昭和二十一年六月、宗教法人令により、宗教法人となった。
 氏子区域は有せず、田の浦神明社の氏子会と、長浦神明社の氏子会とが合同で奉仕している。
 例祭には湯立て神楽が奏される。
          〈宮司 佐野和史〉
祭神 日本武尊 橘媛命
祭日 春季例祭 四月後半日曜
   例祭(秋季例祭)八月十七日
   (移行の日曜)湯立て神楽
参照「新横須賀市史」(別館・文化財編(正しくは「別編◇文化遺産」))の第三編近世建築に本殿(流れ造り)についての考察が掲載されている。


 (深田台)神明社:深田台40
 地蔵尊(深田台神明社)
 横須賀中央公園
 トベラ Pittosporum tobira
 稲荷社(龍本寺境内社)
 お穴さま:米が浜通1丁目12
 (米が浜)神明社:米が浜通1丁目(裏坂)
 不明の社跡:横須賀市本町2丁目21
 護衛艦いずも (DDH-183)
 JR横須賀駅
 吾妻社:長浦町5丁目15-1
 手水鉢(嘉永七年):吾妻社

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