今日は、横須賀を歩いてみました。
【主な経路】
(自宅)-浜見台-(京急田浦-浦賀)-光風台-若宮台-佐原-池田町-吉井-大津-三春町-米が浜-ヴェルニー公園-(逸見駅)
【参考】
ヤブツバキ Camellia japonica
シシウド Angelica pubescens
西叶神社
庚申塔群(放光山延壽院常福寺)
コバノセンナ Cassia coluteoides
プラタナス (JR横須賀駅前)
ヒラドツツジ Rhododendron × pulchrum
安房口神社
(三春町)春日神社
メタセコイア Metasequoia glyptostroboides(横須賀中央駅前)
【芝守稲荷神社】浦賀3丁目10
【白井稲荷大明神】
【茅山の庚申塔】佐原5丁目28-10
茅山の庚申塔
この庚申塔は百メートル程久村寄りのT字路の山裾にあった。そこは広場で、馬のかなぐつ(馬蹄)わつけたり、牛をつないだりする小屋があり、子供達の格好の遊び場であった。(現在は住宅が建っている。)
庚申供養塔は災いを防ぎ幸福を招く意味をこめて、村境に建てられることが多い、そこは久村の境であったが住宅建設のためこの場所に移された。六基のうち年代のわかるものでは最古は享保四年(一七一九年)新しいものは天保十三年(一八四二年)である。二基は不明。茅山については「茅山」「賀山」「香山」と三様である。
当時は各村の地境に建てられ、道の目印や隣接の村の境とし、他の地区より悪霊や疫病の侵入を防ぐのに建立したという。
平成十七年三月 久里浜地域文化振興懇話会
【茅山稲荷】佐原5丁目24
【(佐原)稲荷社】佐原5丁目10
【(岩戸)熊野神社】岩戸1丁目4-1
【佐原十郎義連城跡】
佐原城跡
山嶺3方を囲み切り立つ懸崖は、よじ登るのが難しい。 -中略- 面積は、約1萬2千㎡あり、今は畑なり、考えるに、三浦義明がいた衣笠城から地の利を得た場所に館を築き義連(よしつら)を住まわせた。地名から佐原十郎という。
治承4年(1180)8月27日に衣笠城が落城。義連は、兄の義澄らと頼朝に従い房総に行く。敵がこの城を攻め火を放ち去る。数年後、義連は、源義経に従い平氏を討ち帰る。又この地に(館を)築いている。後に左衛門尉となり奥州に移ると旧記に見える。この時よりこの跡が残されている。(現代語訳)
義連の古館 久里浜志録 加茂捨三郎元善 著(大正2年稿)
佐原十郎義連城跡の碑は、明治26年(1893)9月8日佐原の住民が義連公を顕彰するために建立した。
佐原町内会
【(池田)稲荷社】池田町5丁目9
【巡拝供養塔と庚申塔】池田町5丁目9
巡拝供養塔と庚申塔
ここは、昔の大津村池田の入り口にあたる。この巡拝塔は経塚とも呼ばれ、里の文人の竜崎戒珠が建立した笠塔婆型供養塔である。碑面文字のとおり篤い信仰心から霊場を巡り、写経の後、天保九年(一八三八)造塔された。
庚申塔は
庚申信仰から里人が講中を造り庚申の日に集合し、五穀豊穣・家内安全を祈り造塔された。文政十一年(一八二八)から大正十年までのものが十一基現存している。刻像塔一基の他はいずれも文字塔で青面金剛の刻字がある。青面金剛は憤怒の厳めしい姿で悪疫退散の力があり、日月・三猿ともに現世安穏・来世安楽、子孫長栄の意である。
平成二年二月 大津地域文化振興懇話会
【香之谷戸稲荷】吉井3丁目11
【赤門】安浦町1丁目
市制施行七十周年記念
横須賀風物百選
赤門
この門は、かつて朱塗りであったことから「赤門」と呼ばれています。
武家屋敷などでは、主家を防衛するために、屋敷の外郭に家来のための長屋を建てて、その一部を門としました。門の屋根と家屋の屋根を一連にした形の建造物を「長屋門」と呼び、この赤門もその一つです。
初めは上級武家の門で、建て方も複雑堅固なものでしたが、後に武家以外の者でも、特に功労のあった家などには、出窓や出格子のない簡単な長屋門の建築を許されました。
この長屋門の主であった長嶋家は、三浦氏の子孫と伝えられ、戦国時代、小田原北条氏の支配下にあって浜代官を務めました。更に、江戸時代には、三浦郡の総名主を務めたほどの家柄なので、この門の建築を特に許されたものと思われます。
かつて、この門前の道路は、白砂青松を連ねた海に面していて、猿島や千葉の山々が手にとるように見えた景勝の街道で、数多くの旅人の眼を楽しませてきました。門前の右手にある石柱の道標がかすかに当時を物語っています。
横須賀市民文化遺産にも指定され、現在も広く市民に親しまれています。