月別アーカイブ: 2018年8月

キリン横浜工場を見学

 本日、振替休日。事前に予定されていましたので、予約を入れておいたキリンビール横浜工場を見学してきました。試飲で戴いた三種類のうち、一番おいしかった一番搾りプレミアムの秘密は、キリン独自に育成したホップの品種「IBUKI」に由来する独特な芳香にあるようです


【参考】
 ヒメイワダレソウ Phyla canescens var. repens
 ノリウツギ・ライムライト Hydrangea paniculata‘Limelight’

東西の浦賀を散策

 本日、浦賀を中心に歩いてみました。
浄林寺のムクロジ】馬堀町4-14-1
 七重山宝寿院浄林寺には『かまくらと三浦半島の古木・名木50選』に選ばれているムクロジがあります。サルスベリも夏の日差しの中、満開でした。


【西徳寺のイヌマキとビャクシン】鴨居2丁目20-4
 東光山無量寿院西徳寺には、『かまくらと三浦半島の古木・名木50選』に選ばれているイヌマキとビャクシンがあります。ビャクシンはさほどの大木ではありませんが、枝ぶりが見事なので撰されたものと思われます。


  西徳寺
 鎌倉の光明寺の末寺として、永禄三年(一五六〇)法誉順性(ほうよじゅんしょう)上人により開かれました。
 境内には、三浦一族の武将、和田義盛が出陣に際し、戦勝を祈願したと伝えられる「和田地蔵」が祀られています。
 また、樹齢四〇〇年以上の大きなイヌマキとビャクシンの木があり、三浦半島の名木・古木五十選紹介されています。
 裏山には、義盛の剃刀塚ゆ幕末期に江戸湾のの防備のために、この地に来た会津藩士の墓十一基があり、中には白虎隊士の身内の墓もあります。
   浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ


【白山神社跡】浦賀1丁目9-10
 浦賀駅からほど近いお社だったようです。草に覆われてわかりにくい入口近くにダンドクが咲いていました、
–> 『古老が語るふるさとの歴史南部編』にある『合わせ神社』が、この社なのかも知れません。要調査です。(2020.1.4)


【稲荷神社】鴨居1丁目31
 この地区に多数分布する稲荷社のひとつです。境内にはミニサイズの稲荷社や庚申塔群がありました。


【鴨居八幡神社】鴨居3丁目5-5
 頼朝勧請と伝えられる八幡社です。由緒書きから天満社、須賀社が合祀されているようです。境内に稲荷社、御神木のイチョウは結構見事です。


  八幡神社由緒
 祭神は誉田別尊(第十五代應神天皇)治承四年(一、一八〇)源頼朝鎌倉に入り幕府の礎石を築くに当り三浦氏は軍功のあった当三浦郡を領し一族門葉最も栄えた時である。
 其項三浦大介義明の第四子多々良四郎義春が鴨居の領主として他の三浦党と共に三浦一円に勢威を張っていた。
 当社は義春が源家の命を受け養和元年(一、一八一)鶴岡八幡宮を勧請したと伝えられる。
 新編相模國風土記には、
 「八幡社村の鎮守なり祭礼は八月十五日縁起には養和元年六月頼朝卿当縣遊覧の折勧請ありし由記せり」とある。
 明治六年村社に列せられ四十二年十月二十二日神饌幣帛料供進社に指定せらる。
祭事
 歳旦祭     一月一日
 齋燈      一月十五日
 祈年祭(初神楽) 一月十五日
 天満社例祭   五月二十五日
 大祓式     六月三十日
 須賀神社例祭  七月最終土日
 八幡神社例祭  九月十五日
 新嘗祭(終神楽) 十一月二十五日
 大祓式     十二月三十一日


  鴨居(地名の由来)
 応安(一三七三)の室町幕府の記録に「相模国 鴨江」とあります。地名の由来については、(1)アイヌ語のカムイ(神)からという説、(2)鴨の群集すると所、家居、村落とする説、(3)カモを神とする説、(4)浦のある水辺とする説など、諸説があります。
 上の台中学校の敷地からは弥生時代中期から古墳時代初期にかけての大規模な住居跡がある上の台遺跡が発見されました。
 江戸時代には、「鴨居のタイ」は逸品として知られ、江戸城の料理に用いられたといわれています。
 幕末期に江戸湾海防の任にあたった会津藩士の墓は、腰越(こしごえ)西徳寺(さいとくじ)能満寺(のうまんじ)などにあります。
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【佛嵜山観音寺跡】鴨居3丁目15-2
 三浦三十三観音霊場第十四番札所だった観音寺の跡地に再建された寂光堂です。すぐ裏に駆逐艦村雨の記念碑もありました。


  観音寺跡
 明治十三年(一八八〇)観音崎に陸軍砲台がつくられることになり、翌年、観音崎灯台の下にあった観音寺や海蝕洞穴に祀られていた鵜羽山権現はこの亀崎に移されました。
 本尊は奈良時代の僧行基の作と伝えられる十一面観音で、船守観音とも呼ばれていました。村人や完全な航海を祈る人達の海上守護仏として信仰が厚く、観音崎の地名の由来といわれています。
 この寺は、三浦三十三観音第十四番札所でしたが、昭和六十一年(一九八六)の火災で本尊を含めて焼失しました。
 現在、吉井の真福寺で札所の代行をしています。
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【越越稲荷大明神】鴨居3丁目23
 入口が民家の奥になっていてわかりにくかったのですが、近所の方に教えていただき、辿りつくことが出来ました。


【稲荷社】鴨居2丁目23
 こちらも稲荷社。覆殿の戸を開けると中もきれいに掃除されていました。赤いサルスベリの花の色が印象的でした。


【明神神社】鴨居3丁目19
 社名はGoogleMapによるもので、多くの神々を祭ったとも取れますが、奇妙な名称です。誤記の多いGoogleMapですので、後日文献調査をしたいと思います。


【不明の社】鴨居3丁目12
 観音寺の入口付近でみつけたお社です。祭神等は不明です。すぐ隣に庚申塔が二基ありました。


【稲荷大明神】鴨居2丁目24
 こちらも稲荷神を祀っているお社です。扁額によれば、原本の扁額は能満寺蔵とのことです。


【東叶神社】東浦賀2丁目21-25
 浦賀の八幡宮、東叶神社です。社叢林は県指定の天然記念物になっています。


     昭和五十二年市制施行七十周年記念
      横須賀市風物百選
       東叶神社
 祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
 この神社は、養和元年(一一八一)八月十五日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。また、このほか新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などには、この神社に関する記事が載っています。
 神社の裏山を明神山と呼び、標高は約五十メートルです。
 後北条家の頃、しばしば房総半島の里見水軍が、三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。
 明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。特にウバメガシの自生は、県内でもこの明神山だけで、ここが分布の北限とされています。この学術的に貴重な明神山一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林」となっています。


【叶神社奥院】東浦賀2丁目21-1
 明神山の山頂近くの東叶神社の奥の院です。境内社に神明社と東照宮、この一帯は浦賀城址でもあるそうです。


  浦賀城址
 戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。
 水軍の根城として山頂には空堀など城の遺構が残り、下田山・城山とも呼ばれていました。
 昔から眺望の素晴らしい所で対岸に房総半島、正面に浦賀八勝の一つ燈明堂がみられます。
 この明神山は自然の社叢林で県の天然記念物に指定されています。
 嘉永六年(一八五三)ペリーの黒船四隻が浦賀沖に来航した時、眼下の左辺りに停泊しました。
 下の絵は安藤広重の武相名所の旅日記の56景の一枚です。
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【三浦稲荷社】東浦賀2丁目11-2
 東林寺の境内に鎮座する稲荷社です。


  深本、雷電、三浦稲荷社
 南無阿弥陀佛と刻まれた六字念仏塔は祐天寺六世祐全(ゆうぜん)上人による名号(みょうごう)石塔で、江戸屋半五郎によって建立されました。名号の掘りも深く、半五郎の信仰の深さがうかがわれます。半五郎は浦賀で遊郭を営み繁盛していましたが、後にすべての財産を処分して遊女たちに分け与えて開放してやりました。自らは京都青龍寺で得度し、生き仏といわれた徳本上人の弟子深本(しんぽん)(深心(しんしん))となり仏門に帰依しました。
「浦賀事績考」によれば東林寺境内の稲荷前では文化六年(一八〇九)、当時の花形力士の雷電(らいでん)為右衛門(ためえもん)の相撲興業が行われたと記されています。
 三浦稲荷社の稲荷神は倉稲魂(うかのみたま)で五穀豊穣、開運出世、商売繁盛の神です。
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【浦賀山立像院東林寺】東浦賀2丁目10
 観音像など石像の沢山ある浄土宗寺院です。


【東耀稲荷(須賀神社)】東浦賀2丁目6
 案内板によれば、須賀神社が合祀されている稲荷社です。


東耀稲荷(とうよういなり)
 創建は天明二年(一七八二年)で、倉保命(うけもちのかみ)をお祀りしています。東耀稲荷の名の由来は、隣接する東耀山顕正寺の山号からとったもので、古くは顕正寺の境内にあったといわれています。さほど大きくありませんが、欄間や格天井(ごうてんじよう)などには見事な彫刻が施されています。
 屋根には恵比寿と大黒天の飾り瓦がのり、干鰯で栄えた東浦賀の繁栄ぶりを今に偲ばせてくれます。
 また、この稲荷には、火伏の神としても崇拝されています。
 合祀されている須賀神社は新町(しんちょう)の鎮守で、創建年代はわかりませんが、昔、悪い疫病(コロリ)が大流行したとき、新町にも何人かの死者がでたため、里人が、当社(祭神、素戔嗚尊)を勧請し、病気をしずめたと伝えられています。


【八雲神社】東浦賀1丁目17
 向背の龍は漆喰でつくられているそうです。


  八雲神社
 祭神は須佐男命(すさのおのみこと)です。この社の建物は江戸時代ののもので、もとは大谷(おおがや)満宝(まんぽう)院八雲堂という修験の寺でした。明治の廃仏毀釈で神社に変わりましたが建物はそのままで、寺の形式であるお堂建築になっており、鳥居もありません。現在も寺の宝珠が屋根に乗っています。
 お堂の内部には修験の護摩壇があります。向拝(ひさし)には漆喰で作られた龍が取り付けられ、長さ一間半の大きな木刀は大山信仰の初山競いの武勇伝が伝えられています。
 東浦賀一丁目の鎮守様として毎年六月に祭礼が行われ、須佐男命が乗った山車と猩々坊(厄除け人形)が出ます。
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【津守稲荷神社】東浦賀1丁目14


【船守稲荷神社】東浦賀1丁目11


【西叶神社】西浦賀1丁目1-13
 西叶神社は改修工事中でした。


【花水稲荷跡地】西浦賀2丁目4
 東福寺の裏手にあるとグーグルマップに示されていたお社です。何度か行きつ戻りつしてやっと見つけたのですが、既に遷座していました。


【花水稲荷】西浦賀2丁目3−20
 今年六月に遷座したばかりのお社、旧地のご近所のご婦人に教えて戴きました。日月院のお向かいで、真新しい鏡が納められていました。元講中の方に戴いた情報によれば。御神体は桐の箱に納められているとのことです。


【日月院】西浦賀2丁目6-21
 説明文によれば、月日神(国常立之神)とは関係がない様です。


   日月院(旧不動院)のこと
 大正十三年五月坂口法道師が諸願成就殊には眼疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院を建て開祖となりました。
 護摩修行水行托鉢と日夜修行に専念して居りましたが昭和十一年四月に惜しくも三十四才の若さで亡くなってしまいました。
 その後何代が人が変り昭和四十三年大黒天の不思議な導きにより法浄院が引き継ぎました。昭和六十年に古くなったお堂を新築した折に不動院を通称「日月院」と改めました。月日院の正式名は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。
大祭 正月 五月 九月 二十八日
      大護摩修行 午後二時
毎月二十八日 護摩修行 午後二時
 御安置佛
本尊 日月不動明王 大黒天 阿彌陀如来 地蔵菩薩
   弘法大師 宝海龍王 伏見稲荷 観世音菩薩
     法浄院二世住職 田中誠道
本山 法浄院 東京都大田区大森南
別院 日徳庵 静岡県伊東市一碧湖畔
別院 御嶽観音堂 長野県木曽御嶽山 三合目


【不明のお社】西浦賀2丁目9-7


【吉岡稲荷大明神】西浦賀2丁目13


【田中稲荷跡地】西浦賀1丁目
 お社の中は空っぽで遷座先は不明です。


【浦島稲荷跡地】西浦賀2丁目
 ここも遷座先は不明です。


【寶船稲荷社】西浦賀1丁目9-1
 愛宕山公園の入り口近くのお社で、これまでに何度か通りかかったこともありました。


【上町稲荷】西浦賀4丁目1
 鳥居の扁額に表示があったので、ここの神社名は確かです。境内には道祖神碑がありました。


【榊神社大禄天】西浦賀5丁目14
 浦賀奉行所を見下ろす位置に鎮座している神社で、境内社として関田五社稲荷大明神があります。


  大六天榊神社
 川間(西浦賀町五丁目)の鎮守様で、主祭神は面足彦命(おもたりひこのみこと)(猿田彦神)です。
 この神社の正式名称は榊神社大禄天神(だいろくてんじん)といい、当初は川間奥にある通称お伊勢山の中腹にありました。明治の初めに現在地に移されました。
 大禄天は第六天(多化自在天多化自在天(たけじざいてん))に語呂が通じ、修験者の信奉した仏神といわれています。
 道の分かれる所を守り邪霊の侵入を阻止する神としてお祀りしています。
 お社の漆喰彫刻は浦賀の神社仏閣に見られる特徴です。
 祭日は五月中旬の土・日曜日です。
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【為朝神社】西浦賀4丁目3-7
 虎踊が保存されていることで知られる為朝神社です。


為朝神社
 祭神 源為朝公
 御神威 疱瘡除け
 航海安全
 例祭 六月第二土曜日 宵宮祭(奉納舞 虎踊り)
        日曜日 神輿渡御


県指定重要無形文化財 虎踊
国選択無形民俗文化財 横須賀の虎踊
     所在地 横須賀市西浦賀四丁目(浜町)
     指定年月日 昭和五十一年(一九七六年)十月十九日
     選択年月日 平成十六年(二〇〇四年)二月六日
 虎踊は、享保五年(一七二〇年)、奉行所が伊豆下田から浦賀に移った時に伝えられたといわれています。
 近松門左衛門の国姓爺合戦における和藤内の虎刈りの場面を取り入れた芸能で、ここ為朝神社に特設舞台をつくって演じられます。
 和藤内の登場に始まり、太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞(舞台上を自由に振舞い数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、みえを切ります。
 虎は親子二体で、親虎には青年、小虎には少年が二人ずつ入り、和藤内には男児、唐子は女児、太唐人は成人男子が演じます。
〇「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択された「横須賀の虎踊」は、浦賀と野比の虎踊が対象です。
 平成二十年(二〇〇八年)三月十五日
          横須賀市教育委員会


【仲稲荷】西浦賀4丁目5
 境内社も稲荷社の様です。


【花稲荷神社】西浦賀4丁目5
 境内社の由緒は不明です。


【大禄天社】西浦賀5丁目
 山道を登った先のお社で、入口が分からず、通りかかった御婦人に教えて戴いたのですが、着いてみると来たことがあることに気づきました。でも、それが何時だったか、記録も記憶もありません。
 名称からして祭神は神世七代第六代と思われ、榊神社の説明文にある旧地がここなのでしょう。


【荒巻稲荷】浦賀6丁目1
 ここは、何度も来たことがあるのですが、最後に立寄ってみました。鎮座地は浦賀八景の「柳涯夜雨」の地であり、かつての花街です。


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 ダンドク Canna indica
 ムクロジ Sapindus mukorossi
 サルスベリ Lagerstroemia indica
 イヌマキ Podocarpus macrophyllus
 ビャクシン Juniperus chinensis
 サンゴジュ Viburnum odoratissimum
 サルスベリ Lagerstroemia indica
 ソテツ Cycas revoluta
 ノウゼンカズラ Campsis grandiflora
 ヒマワリ Helianthus annuus
 イチョウ Ginkgo biloba
【主な経路】
(浦賀駅)-白山神社跡-浄林寺-馬堀自然教育園-稲荷神社(鴨居1丁目)-西徳寺-鴨居八幡神社-佛嵜山観音寺跡-越越稲荷大明神-稲荷社(鴨居2丁目)-明神神社-稲荷大明神-東叶神社-叶神社奥院-三浦稲荷社-東林寺-耀稲荷(須賀神社)-八雲神社-津守稲荷神社-舟守稲荷神社-西叶神社-花水稲荷跡地-花水稲荷-日月院-吉岡稲荷大明神-田中稲荷跡地-浦島稲荷跡地-寶船稲荷社-上町稲荷-榊神社大禄天-為朝神社-仲稲荷-花稲荷神社-神天禄大社-荒巻稲荷-(浦賀駅)

逗子、葉山を経て芦名へ

 今日は、逗子、葉山でまだ訪ねていなかったお社を巡りながら芦名方面に向いました。
【主な経路】
自宅-六浦駅(京急利用)新逗子駅-長柄桜山古墳群1号墳-長柄交差点-金刀比羅社-葉山市立図書館-森山神社-小磯の鼻-下山口神明社-笠森稲荷神社-秋谷熊野神社-秋谷神明社-鎮守面神社-大楠山入口-平作4丁目-逸見駅


【桜山より】
 富士山が朧に浮かんでいました。長柄桜山第一号墳のすぐ近くです。


【金刀比羅社】葉山町堀内1881
 葉山教会へ至る坂道の途中に鎮座する金刀比羅社です。ただし、お社の中は空っぽでしたので、既に遷座したと思われます。


【森山神社】葉山町一色2165
 一色の鎮守である当社は8月25日が例祭日とのことで、今はその準備中でした。境内社は拝殿に向って左に稲荷2宇、浅間、大国主、右には神明、稲荷2宇となっています。


  森山神社
    一 御祭神 奇稻田姫命(素戔嗚尊の妃神)
    一 祭旦日 一月二日
      祈年祭 二月中旬
      例祭  八月末日曜日
      新嘗祭 十一月下旬
      行合祭 満三十二年目毎に執行
   由緒
 当社は、奇稻田姫命を奉斎し稼業繁栄、家庭円満、農耕の守護神と仰ぎ、今から一二〇〇余年前、天平勝宝(七四九~七五七年)の頃、良辨僧正によって勧請されたと伝えられる。
 三浦古尋録に、「此守山山明神ノ祭礼ハ三十三年毎也、此祭礼ノ時ハ例ニヨッテ小壺村ノ天王ノ神輿ヲ借用ルトナリ、祭礼神輿ニ札ヲ張、今其札三十四枚有、此札年来ヲ数レハ、文化申年(一八一二年迄一一二二年)ニナル」と創建年代が如実に記されている。又、江戸で正徳五年に刊行された和漢戈図絵には、「守山大明神 佐賀岡ニ在リ、社領三石、俗ニ世計大明神ト号シ、毎年十一月十五日ニ酒ヲ醸シ翌年正月十五日明神ニ供ス、其ノ酒デ善悪ヲ試シ、歳ノ豊凶ヲ計ル」と記されている。
 当時三ヶ岡に鎮座し、天正十九年十一月に、徳川家康公より社領三石が寄進されている。特に世計り神事は近隣の人等の篤い崇敬を集めていた。
 新編相模風土記に、「森山明神社鎮守ナリ神躰ハ束帯ノ座像天平勝宝年間良辨僧正勧請スト伝、天平十九年十一月社領三石ヲ寄附セラル、例祭十一月十五日但三十三年ニ當ル年ハ十一月十三日小坪村天王神輿ヲ迎十四日ニ神楽ヲ奏シ當日鶴岡社人、伶人、八乙女 等来テ管弦ヲ奏シ二神輿ヲ舁テ海岸ニ至ル是ヲ神忌ト唱フ」とある。
 海辺の当地に農耕に深い関係のある神事が今日迄伝承されていることは非常に珍しく、この地域の人等が作付をする上で、重要な指針であった証拠であろう。
 明治六年六月村社に列し、同四十一年神饌幣帛供進神社に指定される。
 昭和三十九年 三十三年大祭を記念して、氏子崇敬者の浄財で現在の社殿を改築した。
                    謹白
      宗教法人 森山社


【不明の社】小磯の鼻
 葉山御用邸の海側にある小磯の鼻にあるお社です。祭神等は不明です。赤井鳥居を近くで見ると塩ビパイプで組み立てられているのがわかります。


【(下山口)神明社】葉山町下山口1504
 森山神社からすぐ近くですが、こちらは下山川を隔てた下山口の鎮守です。ここでも来週が例祭とのことで準備の最中でした。


【笠森稲荷神社】葉山町下山口147
 下山川を遡ると笠森稲荷神社がありました。


【(秋谷)熊野神社】横須賀市秋谷5309
 秋谷の子産み石を見下ろす眺めの良いお社です。境内社は、金比羅宮と龍王宮、さらに「大口真神(おおくちのまがみ)」を祀っているのは三峯社でしょうか。


【秋谷神明社】須賀市秋谷2丁目14-12
 秋谷の鎮守、神明社です。境内社は由緒書きとは必ずしも一致していないようですので、要文献調査です。三浦古尋録には『鎮守神明ノ社』とだけ記載されています。



   神明社御由緒
一、御祭神 主神 天照大神(あまてらすおおかみ) 大日孁貴命(おおひめめむちのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと)
         伊弉冉命(いざなみのみこと) 事代主命(ことしめぬしのみこと)  木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
一、御由緒
 当社は、元弘元年(西暦一三三一)に若命基盛が祭神を奉戴し、相州葛原から秋谷へ移り、村民敬崇の守護神となったと伝えられている。以前は「神明宮」と称していたが、安政六年(一八五九)に神社号を許され、以来「秋谷神社神明宮」となった。現在は宗教法人「神明社」となっている。
 現在の社殿は、天保七年(一八三六)に村民の寄進によって再建されたものである。境内の八坂神社の祭礼は天王祭と称し、この日、神輿は海辺の御仮屋に七日間滞在し、その前後には湯立神楽が奉納された。御仮屋の行事は現在のところ行われていない。
一、境内社
 八坂神社、日吉社、稲荷社、六所社、御嶽山神社
一、例祭 月日   行事
 春祭 二月中旬  (祈年祭(としごいのまつり))
 夏祭 七月中旬  (神輿渡御)
 秋祭 十一月中旬 (七五三祭)
一、史跡
 神明社の鳥居の手前右側には、江戸末期に建立された市民文化資産の若命家長屋門がある。


横須賀市指定市民文化資産 ruby>若命家(わかめけ)長屋門
 屋根は瓦ぶきで、壁は漆喰、腰はなまこ壁の長屋門、入口正面に向って左手には納屋、米蔵があり、右手には畳部屋が附属する。建立年代は江戸末期と伝えられる。


【不明の社】横須賀市芦名1丁目5-11
 国道134号線沿いの芦名で不明の社をみかけました。


【鎮守面神社】横須賀市佐島1丁目20
境内社は、日谷枝神社と多数の稲荷社です。『日谷枝』と『日枝』との関係は不明です。本殿の後ろにも稲荷社がありました。


—– 誤字も含めて原文通り —–
 この神社は今から数百年前に先住民が此の地に守護社を建て村の繁栄を祈願し始め以来周辺を鎮守面と地名をつけたものです。御神体には食物を与えて下さるイザナギ・イザナミの(みこと)を拝ぎ村民達は固い絆によって苦楽を共に暮らしてきた風習伝説が私共に教えています。復興を契桟に先祖の代表者が判明されました。暖かく見守って居られると信じ報恩の意を強く復興を決意しました。これからも祭り事をもって先祖の神々の恩に報いたいと社殿内に名記してあります。復興にあたり共賛を賜われた方々と共に報恩の精神を貫く所存でございます。
  平成元年一月吉日


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 ノシラン Ophiopogon jaburan
 アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata
 ヒイロタケ Pycnoporus coccineus
 長柄の庚申塔群
 マツバボタン Portulaca grandiflora
 ソテツ Cycas revoluta
 ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii subs. thunbergii f. thunbergii
 長者が崎
 子産石(秋谷)
 石塔群(久留和):須賀市秋谷4235
 ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla
 立石:秋谷
 カンナ Canna spp.
 多孔菌類(?)
 センニンソウ Clematis terniflora
 ルリフタモジ Tulbaghia violacea
 ガビチョウ Garrulax canorus
 馬頭観音:横須賀市東逸見町4丁目

夕飯はお好み焼き

 今日は家内の帰りが遅くなるので、娘たちがお好み焼きを焼いてくれました。お好み焼きというと、全国的には関西風がよく知られているようですが、当家では広島風こそがザ・お好み焼きです。関西風は「混ぜ焼き」と呼ばれ、家ではまずお目にかかることはありません。


 家内仕込みの当家のお好み焼きは、そのままでも美味しいのですが、私は最近洋風にアレンジして、おろしニンニクにバジル、ローズマリーにオリーブオイルなどをトッピングしています。今日は、少し贅沢にプチトマトとスゥイートバジルリーフ、更に花椒も足してみました。
【追記】
 家内と娘たちは、お好みソースのトッピンクが欠かせないそうです。

逗子、葉山のお社等を散策-Prat2

 今日は、逗子の桜山と小坪で廻り残しの社を廻った後、葉山町へ足を延ばしてみました。
【主な経路】
 自宅-沼間隧道-五霊神社-(桜山上)神明社-亀岡八幡宮-八大龍王社-八大龍王社元宮-諏訪神社-秋葉権現社-披露山公園-波切不動(白滝不動)-逗子海岸-(桜山下)田越神明社-鳴鶴公園-須賀神社-諏訪神社-稲荷社-日吉神社-森戸神社-(堀内)庚申塔-椎森稲荷社-新逗子


【(桜山上)神明社】逗子市桜山5丁目4-39
 桜山に三社ある神明社の内、上の社です。


【萬榮稲荷大明神】逗子市逗子5丁目2(亀岡八幡宮境内社)


 萬榮稲荷(ばんえいいなり)
主祭神は、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)
五穀豊穣・家内安全・商売繁盛の福の神として祀られています。
イナリとは(稻生り)が変化した言葉で全国に四万社あるといわれています。
 当稲荷は、昔の市役所の南側にあったものを、
大正十二年二月十五日境内に移して新築し更に
旧警察署(今の市役所入り口付近)建設にあたり現在地に鎮座しました。
                亀岡八幡宮 氏子会


【八大龍王社】逗子市小坪5丁目20
 三浦半島には、龍神を祭ったお社がいくつかありますが、この社もそのひとつです。かつて大崎公園の南側の三崎突端に座したそうですが、現在この元宮は石の階段や鳥居が崩れ去って石碑だけが残されています。今日は大潮(月齢29.0)でしたから、磯伝いに比較的楽に辿りつくことが出来ました。


     八大龍王の由来
 八大龍王は、漁業に携わる者の守護神で、主として水中に住み、雨や雲を起こす神通力を持つと信じられ、「法華経」で釈迦が同教を説いたときに、その説法を聞いた八尊の龍王の名が「八大龍王」と総称されている。
 また、八大龍王は蛇の形をした鬼神で、天竜八部衆の一つであるとつたえられ、法華経序品に挙げられる八つの龍王で水神信仰などとして祀られている。
 「小坪の漁業と八大龍王社」昔、小坪湾は鷺の浦と呼ばれ、白鷺が舞う美しい海辺であった。
 寿永元年(一一八二)の頃、小坪は六十戸余りの漁村で、源頼朝をはじめ多くの武将の往来があり、しばしば小坪に来遊している。
 隣接する鎌倉の和賀江港(貿易港)の築港は、小坪の歴史に大きなかかわりがあり、開港によって、全国から物や人々が容易に鎌倉に入るようになった。この周辺の海に目をつけたのが、伊勢の商人であった。
 そこで志摩の漁師を小坪に移住させ、徐々に小坪集落が形成されてきたと考えられている。小坪の磯は、昔から特産のワカメが繁茂し、サザエやアワビ等の魚介類が豊漁で、志摩の海人によって、人々に海の恵みを与えてきた。
 海の守り神として祀られている伊勢町八幡宮、亀大神、竜王社などは、伊勢、志摩の漁村に見られ、小坪にも寄進され、そのルーツを知ることができる。
 この龍王社は、歴史的にも古くから存在しており小坪の漁師の厚い信仰があり、現在に伝えられている。
          小坪漁業協同組合


【秋葉権現社】逗子市小坪4丁目15
 当社はGoogleMapにも記載がないのですが、納められた御札によれば、材木座光明寺裏の秋葉権現社を勧請したお社の様です。


【田越神明社】逗子市桜山8丁目16
 現在名は田越神明社ですが、桜山の下社にあたる神社です。鳥居の脇には、なかなか立派なタブノキとカヤが育っていました。


 当神社は田越(たごえ)神明社(しんめいしゃ)と言います。
 祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)です。
 伊勢神宮の内宮、天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)よりの勧請状況は記録がなく不明ですが、鳥居の柱には、『元禄十六年六月廿二日』(西暦一七〇三年)と刻まれています。
 元禄十六年は江戸時代・東山天皇の(みよ)で、十五年十二月十四日の赤穂四十七士の討ち入りの翌年に勧請されたと思われます。
 以後三〇〇ねん、氏子十五軒にてお守り致しています。
 当(やしろ)は東京オリンピックに際し、当所に遷座されました。
     平成十五年(二〇〇三年)一月一日
                   田越神明社氏子


【須賀神社】葉山町堀内44
 なぜか拝殿にはウサギの彫刻が在りました。


【諏訪神社】葉山町堀内218
 キツネが守って居る境内社は稲荷社かと思えば、秋葉神社お札が収められていました。拝殿に向かって右側にも石の社が三基ありますが、由緒は不明です。


【稲荷社】葉山町堀内284
 清浄寺の持と思われる稲荷社です。すぐ隣の石のお社の由緒は不明です。


【日吉神社】葉山町堀内295
 境内社に稲荷社が三社、隣には地蔵堂もありました。


【森戸神社】葉山町堀内1025


    森戸大明神  御由緒
永暦元年(一一六〇年)伊豆の蛭ヶ小島に配流された源頼朝公は三嶋神社を深く信仰して、源氏の再興を祈願した。
治承四年(一一八〇年)その神助を得て旗上げに成功して、天下を治めた頼朝公は自らが信仰する三島神社の御分霊を、鎌倉に近き元山王の社地であった此の景勝の地に勧請して、永く感謝の誠を捧げたと伝えられる。
当時のことは、社宝として奉蔵の後二條院並びに花園院の院宣によっても篤く崇敬された様子がうかがわれ、又、吾妻鏡には、この地で加持祈祷が行われ、源氏はもとより三浦、北条、足利諸氏の崇敬も篤く、天正十九年(一五九一年)にし徳川家康公により社領七石が寄進されている。
その後、明治の御代に移り、葉山に御用邸が造営され、ご滞在の折には天皇、皇后両陛下を始め皇族の方々の御参拝を仰ぎ、葉山郷の総鎮守として近郷近在より多くの参詣を得ている。
特に境内より富士、箱根、伊豆、江ノ島を望む光景は絶景で、「森戸の夕照」としてかながわの景勝五十選に選定されている。
御祭神 大山祇命(おおやまつみのかみ)
    事代主命(ことしろぬしのかみ)(えびす様)

御祭日 例大祭 九月 八日
    潮神楽 六月十六日
史跡
飛柏槙(町指定天然記念物)(かながわの名木100選)
 樹齢 八百年余り
 元歴元年(一一八四年)頼朝公が当社を参拝の折、三嶋神社から種子が飛来し発芽したものと伝えられ当社の御神木である。

千貫松
 頼朝公が衣笠城に向う途中森戸の浜で休憩した時、岩上の松を見て「如何にも珍しき松よ」とほめたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松とよび候」と答えたという由来がある。


【おせき稲荷社】
 森戸神社の境内社です。


(案内板より)
  おせき稲荷社
 古来より「せきが止まらない人」又「咽を使う職業の人」たちの篤い信仰があります。


【山王日吉社】
 森戸神社の由緒書によれば、頼朝が三嶋神社を勧請する以前から鎮座していた山王社と思われます。飛柏槙のすぐ下に祀られています。


【椎森稲荷神社】葉山町一色


【妙法山神社】葉山町一色


【亀岡八幡の庚申塔群】逗子市逗子5丁目2


 路傍に青面金剛を祀って、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿を刻んだ庚申塔がある塚を庚申塚といいます。
 昔は鳥居の外側の路傍にありましたが、昭和二十年代末期に行われた道路拡張工事でここに移されました。
 中国の道教に由来する禁忌で、庚申の夜に眠ると人身中の三尸(さんし)の虫が罪を上帝に告げるとも、命を縮めるともいわれ、仏家では帝釈天青面金剛を、神道では猿田彦を祀って一晩中起きている「庚申待」という風習があり、平安時代に伝わり江戸時代に盛行しました。
 左から二・三番目が庚申塔で、小さい方が天保三年(一八三二)建立の笠型塔で、一面六臂の青面金剛が合掌して立ち、下部中央に前向きの「聞かざる」、両側に横向きの「言わざる」と「見ざる」が彫られています。
 大きい笠型塔は寛文十一年(一六七一)の建立です。寛文年間に建てられた市内の庚申塔七基中で笠型塔はここだけ、他は舟型塔です。
 一面六臂の青面金剛像が逆蓮華座に乗っており、三猿は塔の三面に各一体ずつ彫られ、正面が「聞かざる」、右側が「見ざる」で、左面が「言わざる」です。
 鎌倉で青面金剛像が彫られた最古の庚申塔は、坂の下御霊社にある延宝元年(一六七三)なので、寛文十一年(一六七一)建立の逗子の方が、鎌倉より二年早く笠型塔を拵えていたのです。
 左端の堅牢地神塔は大地をつかさどる地天(地の神)をお祀りして天保三年(一八三二)二月の建立です。
 右端の馬頭観音塔は馬の保護神として、江戸時代に広く信仰されました。


【向原庚申塔群】葉山町堀内


【葉山教会】葉山町堀内1882


【實教寺の庚申塔群】葉山町葉山町一色1355
 舟型光背の庚申塔のご本尊はお地蔵さんの様です。


 以下、その他本日撮影の写真です。


【参考】
 五霊神社のイチョウ Ginkho biloba
 サンショウ Zanthoxylum piperitum
 フヨウ Hibiscus mutabilis
 ウスヒラタケ Pleurotus pulmonarius
 コンボルブルス・サバティウス Convolvulus sabatius
 サギソウ Pecteilis radiata
 イソヒヨドリ Monticola solitarius
 江の島
 ムラサキウニ Heliocidaris crassispina
 アゴハゼ Chaenogobius annularis
 フナムシ Ligia exotica
 カメノテ Capitulum mitella
 海食洞から見た逗子マリーナ
 アオノリュウゼツラン Agave americana
 ツルナ Tetragonia tetragonioides
 ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus
 ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. disticha
 ヤブミョウガ Pollia japonica
 波切不動(白滝不動)
 ハマゴウ Vitex rotundifolia
 太陽の季節碑
 タブノキ Machilus thunbergii
 カヤ Torreya nucifera

赤レンガパーク地区で昼食

 本日は、家内と赤レンガパーク地区へ。お昼は、サークルウォークに隣接した国際協力機構(JICA)内のポート テラス カフェメダイのアーモンド焼き定食を戴きました。


【参考】
 みなとみらい地区
 メダイのアーモンド焼き定食
 ビロードモウズイカ Verbascum thapsus
 自宅より(18:32)
 落日(18:33)

逗子、葉山のお社等を散策

【五霊神社】逗子市沼間3丁目10
 沼間の鎮守五霊神社です。境内社はタブノキに抱かれた稲荷社で、境内林は神奈川県指定の天然記念物になっています。


神奈川県指定天然記念物
 五霊神社の大イチョウとその周辺樹
           昭和四十二年七月二十一日指定
 五霊神社の林は規模こそ約二、三〇〇平方メートルと小さいが、住宅密集地の中にあってひときわ緑が映え、遠くからもそのこんもりとした姿をはっきりと確認できる。タブノキの大木が中心で、スダジイ・アラカシ・シロダモ・ヤブツバキなどの自然生の常緑広葉樹のほか、ケヤキやイヌマキの高木も生育している。林内が遊園地として利用されていることから人の出入りも多く、そのため林床植物の生育は貧弱で、根本が露出している木も少くないが、樹勢は良好である。
 また、この林の中にそびえるイチョウは、樹齢八〇〇~一、〇〇〇年と推定され、樹高二十五メートルに達する高木である。
 自然植生の林は、特に都市部において消滅が著しく、今日、その姿はわずかとか残っていない。貴重な郷土の森として長く後世に伝えるために、県指定の天然記念物として保護するものである。
     昭和五十八年三月     神奈川県教育委員会


【不明の社】逗子市桜山4丁目5
 ヨークマート東逗子店の南東隅にある由緒不明のお社です。


【(桜山)熊野神社】逗子市桜山5丁目5-1
 桜山の入口近くの周辺地図に載っていたので気づいた熊野神社です。石造りの境内社がひとつありました。


【(長柄)諏訪神社】葉山町長柄1600-1
 境内社に山王社と稲荷社、拝殿に向かって左側にも石造りの境内社が三基あります。


【櫻山神明社】逗子市桜山6丁目1185
 神武寺山王社の御旅所としたとして創建したと言われる神明社です。


【桜神宮逗子分社】
 桜神宮は教派神道系の神習教の社で、桜山の「桜」とは関係がないようです。


【子ノ神社】逗子市桜山7丁目8-27
 どこにも社名は書かれていませんでしたが、GoogleMapによれば子の神(=大国主命)が祀られているようです。


【山之神社】逗子市桜山7丁目6-27
 宗泰寺の持と思われるお社ですが、現在拝殿を再建中の様でした。背後にある石のお社との関係は不明です。


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 イチョウ Ginkgo biloba
 キョウチクトウ Nerium oleander var. indicum
 イヌビワ Ficus erecta
 フヨウ Hibiscus mutabilis
 ガビチョウ Garrulax canorus
 カラスザンショウ Fagara ailanthoides
 カラスウリ Trichosanthes cucumeroides
 ラセイタソウ Boehmeria biloba
 アオバハゴロモ Geisha distinctissima
 オニドコロ Dioscorea tokoro
 アジサイ Hydrangea macrophylla
 ショウリョウバッタ Acrida cinerea
 ハナニガナ Ixeris dentata var. albiflora
 十州望
 ヒメイタビ Ficus thunbergii
 ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris(神武寺)
 ヤブミョウガ Pollia japonica
 ミンミンゼミ Hyalessa maculaticollis
 トノサマバッタ Locusta migratoria
 ニイニイゼミ Platypleura kaempferi
 オシロイバナ Mirabilis jalapa
 サンセベリア Sansevieria trifasciata

この界隈の白百合は……

 これまで、近所で見かける白百合と言えば、タカサゴユリLilium formosanumかテッポウユリL. longiflorumと思っており、萼筒の外側の色で識別していました。ところが、最近どちらかよくわからない個体が多いことに気づきました。つまり、タカサゴユリの特徴と思っていた萼筒外側の紫褐色の筋が非常に薄い、更には全くなくて純白の個体を少なからず見かけるのです。この色の違う個体の分布は連続的ですし、萼筒の色以外で形態的な違いは見られないようです。
 そこでウェブを検索してみたところ、どうやらタカサゴユリとテッポウユリのハイブリッドであるシンテッポウユリだったようです。シンテッポウユリは種子繁殖が可能とのことで、帰化植物のような現在の分布からみても、今後ますます分布を拡大していくことが予測されます。ただし、シンテッポウユリとタカサゴユリを形態的に識別することは困難だそうですので、今後は白百合 Lilium spp.とします。
 → 野外で分布を広げている白百合は、ほぼシンテッポウユリと考えてよさそうですので、今後は『シンテッポウユリ Lilium x formolongi』を採用します。(2022-06-03)

【参考】
 シンテッポウユリ Lilium formosanum x L. longiflorum