野毛から幸ヶ谷へ

 本日、入荷した注文品(テープ型LED)を受け取りにみなとみらいのニトリへ。道すがら名木古木などにも立ち寄りました。野毛の福満弁財天ではクサガメ(在来種)が生息していることを確認できましたが、以前よりアカミミガメ(帰化種)の比率が増えているような気もしますし、何より幼体のみられないことが心配です。
 名木古木 街角のアート 石塔 神社
【主な経路】
 (日ノ出町駅)-野毛-掃部山-みなとみらい-幸ヶ谷-反町-(横浜駅)

【参考】
 沼ガメ(福満弁財天池)
 亀の子塚
 センリョウ Sarcandra glabra
 福満弁財天:中区野毛町3丁目128
 キャンディタフト(イロマガリバナ) Iberis umbellata
 キキョウソウ Triodanis perfoliata
 ビロードモウズイカ Verbascum thapsus
 イヌツゲ Ilex crenata var. crenata
 井伊掃部頭直弼立像
 飯岡幸吉歌碑
 ミズヒキ Persicaria filiformis
 ハアザミ Acanthus mollis
 カルガモ Anas poecilorhyncha
 ホソバウンラン Linaria vulgaris
 水の形:家住利明
 イヌマキ Podocarpus macrophyllus
 センダン Melia azedarach
 シモツケ Spiraea japonica
 ハマヒサカキ Eurya emarginata
 横浜市指定名木古木 No.49025 イチョウ Ginkgo biloba
 横浜市指定名木古木 No.49026 ケヤキ Zelkova serrata
 ヘボン博士施療所跡碑
 稲荷社:幸ヶ谷11-8
 横浜恵み教会:神奈川本町11-5
 ムクノキ Aphananthe aspera
 ビワ Eriobotrya japonica
 横浜市指定名木古木 No.200929 クスノキ Cinnamonum canphora
 横浜市指定名木古木 No.200930 イチョウ Ginkgo biloba
 笠䅣稲荷神社
 板碑:笠䅣稲荷神社
 ヒメジオン Erigeron philadelphicus
 ドクダミ Houttuynia cordata
 陽:井上信道
 キンシバイ Hypericum patulum
 ヤマモモ Morella rubra
 ヤマホウシ Cornus kousa
 マメグンバイナズナ Lepidium virginicum
 カラー Zantedeschia aethiopica “マジェスティックレッド”(?)
 カモミール Matricaria recutita
 ナンテン Nandina domestica
 ビヨウヤナギ Hypericum monogynum
 天狗像:大綱金刀比羅神社
 オトメギキョウ Campanula portenschlagiana


 横浜の開港と掃部山公園
安政五年(一八五八)
 日本の近代に先駆した大老井伊掃部頭直弼はよく内外の激動に耐え機に臨み英断日米修好通商条約を締結した
安政六年
 ここに横浜市未来の発展を予見するかのように世界の海洋に向かって開港した
明治十四年(一八八一)
 井伊大老を追慕する彦根藩士有志により開港に際しての功績を顕彰するため記念碑建立の計画をたて
明治十七年
 この地の周辺の丘を求め掃部山と称し造園を施し
明治四十二年(一九〇九)
 園内に銅像を建立しこれを記念した
大正三年(一九一四)
 井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈掃部山公園として公開された
ここに平成元年を以て
 市政一〇〇周年開港一三〇周年を迎えこれを記念してこの碑を建立した
  平成元年六月二日
       横浜市長 細郷道一


 安政五年大老井伊掃部頭直弼は、内外の紛境を排して、日米修好通商条約の調印を決行し、ひろく通商の基を開き、近代日本發展の端緒をつくった。
 明治十四年旧彦根藩有志は、直弼追慕のため建碑の擧を興し、大老の事跡に縁故深き横浜に地を卜し、戸部町に一岡を贖い、掃部山と称してここに造園を施し、明治四十二年園内一角に銅像を建立し、越えて大正三年園地とともにこれを横浜市に寄附した。
 不幸大戦中の金属回収により銅像は昭和十八年撤去の運命に逢い、公園また昔日の儚なきところ、たまたま昭和二十九年開國百年祭を催すに方り、記念行事の一環として、開國に由緒深き井伊掃部頭の銅像再建と掃部山公園の整備を企画し、ひろく市民の協賛を求め、ここに復旧の業を興した。
 昭和二十九年六月二日
        神奈川縣
        横濱市
        横濱商工會議所
          横濱市長平沼亮三書


 飯岡幸吉歌碑:掃部山公園(横浜市西区紅葉ケ丘)


  まちなかに
 緑をたもつ
   掃部山
 ましてや虫を
  聴く夜
   たのしき
     幸吉

作品名:水の形
 ガラスは鉱物と液体の性質を併せ持つ特殊な存在です。本作品は、この二重性を持つガラスを用いることで、自然と人間の一体化を意図しています。神奈川由来の根府川石の石組みから静かに湧き出る水が流れとなり、それに呼応するかの如く、ガラス=動かぬ水は徐々に形を変え、石・水・植栽・人し一体化されます。
          作者:家住 利男
 神奈川大学みなとみらいキャンパスは、多文化共生を実践する場としてこの地に誕生しました。ここに学ぶ人々には、それぞれの個性を尊重し高め合いながら、その柔軟な思考とみずみずしい感性で新しい可能性を生み出してあっほしい。「水の形」はその象徴としてここに設置されたものです。
          学校法人神奈川大学


Artwork : Shape of Water
Glass is special on that it combines the properties of minerals and liquids. By utilizing glass, which has this double character, this artwork intends to bring nature and humanity together as one. Water quietly emerging from a string of Nabukawa Stones, which originated in Kanagawa, becomes a stream and, as if response, the “unmoving water = glass” gradually changes shape and stones, plants, water and humans are integrated into one.
Artist : Toshio Iezumi
The Minato Mirai Campus of Kanagawa University has been born here in order to be a place that puts multiculturalism into practice. We wish that the people who learn here will raise each other to greater heights respecting one another’s individuality and with a flexible mindset and fresh, fluid sensitivity to create new possibilities. “Shape of Water” has been places here as symbol of this.
Kamagawa University


(ヘボン博士施療所跡碑)
      宗興寺
 一八五九(安政六)年ヘボンの来日後、まもなく米宣教医DBシモンズが来日、当、宗興寺を宿舎とした。シモンズはその後、明治初年になって横浜私立大学医学部の前身、十全医院で多数の外科手術を行い、子弟を教育した。また虫下しセメン円でも有名である。
 米宣教師ネビウスも一時宗興寺を宿舎とした。シモンズ、ネビウスが当寺を去ったあと一九六一(文久元)年四月から九月まで宗興寺はヘボンの施療所となった。ヘボンは成仏寺からここへ通い、多数の患者を無料で診察し、入院患者もあった。
 ヘボンのレリーフは幸ヶ谷在住の齊藤由蔵氏の善意で作られたものである。
  昭和五十一年十二月  ヘボン博士顕彰会


 笠䅣稲荷神社由緒


笠䅣(かさのぎ)稲荷神社
 笠䅣稲荷神社は、社伝によると天慶年間(九三八~九四七)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当っては北条時宗より神宝を奉納されている。元禄二年(一六八九)ら山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神と称された。後に笠䅣稲荷神社と改称され、明治二年二現在地に遷座された。
 また、この神社には土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に(ひとぎ)団子を供えるという。


横浜市指定有形文化財(考古資料) 板碑(いたび)
  平成六年十一月一日指定
  所有者 笠䅣稲荷神社
  所在地 神奈川区東神奈川二丁目九番一号
  時代  鎌倉時代末期~南北朝時代初期
  寸法  高 一七二・五センチメートル
      上幅三十七センチメートル
      中幅三十八センチメートル
      下幅四十一センチメートル

 通称「稲荷山」と称した山の麓に位置していましたが、明治初期に現在地に移されました。碑の頭部を三角形とし、その下部には二条の深い切れ込みが施され、身部(みぶ)は枠線によって長方形に区画されています。身部の上位には阿弥陀如来をあらわす種字「キリーク」を、中位には天蓋を配し、その下位中央には、六字名号「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研彫りで力強く刻まれています。
 本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑ですが、天蓋を配した六字名号と一対の塔を刻した特異な板碑で、本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です。
               平成七年三月
               横浜市教育委員会

野毛から幸ヶ谷へ” に1件のフィードバックがあります

  1. 笠置紳一

    今日は。入院5ヶ月、ようやく5/28に退院が決まりました。
    どえりゃー長かったけんど、お陰ですっかり元気です。

    返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です