月別アーカイブ: 2021年5月

大宮では…

 ひと月ぶりに尋ねた大宮では、母が元気にしていました。外回りでは、繁茂し過ぎたノアサガオの剪定、季節の終ったアメリカフウロやナガミヒナゲシを処分し、芽生えのうちにヤブカラシ、ヒメムカシヨモギなどを抜き去りました。今年もシンテッポウユリの花を見ることが出来るかもしれません。


 帰りに通りかかった大宮公園では、少なくとも2018年までは生きていたアカシデが枯死していました。
【参考】
 セイヨウヒルガオ Convolvulus arvensis
 ヒメジョオン Erigeron annuus
 モンシロチョウ(雌) Pieris rapae
 アカシデ Carpinus laxiflora (枯死)

鷹取山-2021.05.29

 少しは運動しようと午後から鷹取山へ。山頂下の公園までなら僅か片道4000歩、あまり運動にはなっていない模様です。ハイキングコースでは、有毒植物オニシバリが赤く美味しそうに熟していましたし、もうすっかり初夏の顔ぶれです。


【参考】
 ホザキシモツケ Spiraea salicifolia
 オニシバリ Daphne pseudomezereum
 ムラサキシキブ Callicarpa japonica
 マルバウツギ Deutzia scabra
 マユミ Euonymus hamiltonianus
 ガクアジサイ Hydrangea macrophylla f. normalis
 サルトリイバラ Smilax china
 ウバユリ Cardiocrinum cordatum
 アカネ Rubia argyi
 オカトラノオ Lysimachia clethroides
 カラスザンショウ Fagara ailanthoides
 メドハギ Lespedeza cuneata
 ウツギ Deutzia crenata
 アカメガシワ Mallotus japonicus
 ケイワタバコ Conandron ramondioides var. pilosus
 ツクバネウツギ Abelia spathulata
 シロツメクサ Trifolium repens
 ツタバウンラン Cymbalaria muralis
 ヤマホタルブクロ Campanula punctata var. hondoensis
 シロバナマンネングサ Sedum album
 ノビル Allium macrostemon
 ドクダミ Houttuynia cordata
 ダイオウグミ Elaeagnus multiflora var. gigantea
 首斬観音
 ヒマワリ Helianthus annuus
 ヤエノドクダミ Houttuynia cordata
【参考文献】
三橋 博 (1966) オニシバリ(ジンチョウゲ科)、有毒植物(8)、牧草と園藝、14(11)、21、URL:https://www.snowseed.co.jp/wp/wp-content/uploads/grass/grass_196611_09.pdf>
小西 天二, 和田 俊一, 清沢 脩 (1993) オニシバリ(Daphne pseudo-mezereum)の成分研究 : 葉について、薬学雑誌、113(9)、670-675, DOI: https://doi.org/10.1248/yakushi1947.113.9_670

野毛から幸ヶ谷へ

 本日、入荷した注文品(テープ型LED)を受け取りにみなとみらいのニトリへ。道すがら名木古木などにも立ち寄りました。野毛の福満弁財天ではクサガメ(在来種)が生息していることを確認できましたが、以前よりアカミミガメ(帰化種)の比率が増えているような気もしますし、何より幼体のみられないことが心配です。
 名木古木 街角のアート 石塔 神社
【主な経路】
 (日ノ出町駅)-野毛-掃部山-みなとみらい-幸ヶ谷-反町-(横浜駅)

【参考】
 沼ガメ(福満弁財天池)
 亀の子塚
 センリョウ Sarcandra glabra
 福満弁財天:中区野毛町3丁目128
 キャンディタフト(イロマガリバナ) Iberis umbellata
 キキョウソウ Triodanis perfoliata
 ビロードモウズイカ Verbascum thapsus
 イヌツゲ Ilex crenata var. crenata
 井伊掃部頭直弼立像
 飯岡幸吉歌碑
 ミズヒキ Persicaria filiformis
 ハアザミ Acanthus mollis
 カルガモ Anas poecilorhyncha
 ホソバウンラン Linaria vulgaris
 水の形:家住利明
 イヌマキ Podocarpus macrophyllus
 センダン Melia azedarach
 シモツケ Spiraea japonica
 ハマヒサカキ Eurya emarginata
 横浜市指定名木古木 No.49025 イチョウ Ginkgo biloba
 横浜市指定名木古木 No.49026 ケヤキ Zelkova serrata
 ヘボン博士施療所跡碑
 稲荷社:幸ヶ谷11-8
 横浜恵み教会:神奈川本町11-5
 ムクノキ Aphananthe aspera
 ビワ Eriobotrya japonica
 横浜市指定名木古木 No.200929 クスノキ Cinnamonum canphora
 横浜市指定名木古木 No.200930 イチョウ Ginkgo biloba
 笠䅣稲荷神社
 板碑:笠䅣稲荷神社
 ヒメジオン Erigeron philadelphicus
 ドクダミ Houttuynia cordata
 陽:井上信道
 キンシバイ Hypericum patulum
 ヤマモモ Morella rubra
 ヤマホウシ Cornus kousa
 マメグンバイナズナ Lepidium virginicum
 カラー Zantedeschia aethiopica “マジェスティックレッド”(?)
 カモミール Matricaria recutita
 ナンテン Nandina domestica
 ビヨウヤナギ Hypericum monogynum
 天狗像:大綱金刀比羅神社
 オトメギキョウ Campanula portenschlagiana


 横浜の開港と掃部山公園
安政五年(一八五八)
 日本の近代に先駆した大老井伊掃部頭直弼はよく内外の激動に耐え機に臨み英断日米修好通商条約を締結した
安政六年
 ここに横浜市未来の発展を予見するかのように世界の海洋に向かって開港した
明治十四年(一八八一)
 井伊大老を追慕する彦根藩士有志により開港に際しての功績を顕彰するため記念碑建立の計画をたて
明治十七年
 この地の周辺の丘を求め掃部山と称し造園を施し
明治四十二年(一九〇九)
 園内に銅像を建立しこれを記念した
大正三年(一九一四)
 井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈掃部山公園として公開された
ここに平成元年を以て
 市政一〇〇周年開港一三〇周年を迎えこれを記念してこの碑を建立した
  平成元年六月二日
       横浜市長 細郷道一


 安政五年大老井伊掃部頭直弼は、内外の紛境を排して、日米修好通商条約の調印を決行し、ひろく通商の基を開き、近代日本發展の端緒をつくった。
 明治十四年旧彦根藩有志は、直弼追慕のため建碑の擧を興し、大老の事跡に縁故深き横浜に地を卜し、戸部町に一岡を贖い、掃部山と称してここに造園を施し、明治四十二年園内一角に銅像を建立し、越えて大正三年園地とともにこれを横浜市に寄附した。
 不幸大戦中の金属回収により銅像は昭和十八年撤去の運命に逢い、公園また昔日の儚なきところ、たまたま昭和二十九年開國百年祭を催すに方り、記念行事の一環として、開國に由緒深き井伊掃部頭の銅像再建と掃部山公園の整備を企画し、ひろく市民の協賛を求め、ここに復旧の業を興した。
 昭和二十九年六月二日
        神奈川縣
        横濱市
        横濱商工會議所
          横濱市長平沼亮三書


 飯岡幸吉歌碑:掃部山公園(横浜市西区紅葉ケ丘)


  まちなかに
 緑をたもつ
   掃部山
 ましてや虫を
  聴く夜
   たのしき
     幸吉

作品名:水の形
 ガラスは鉱物と液体の性質を併せ持つ特殊な存在です。本作品は、この二重性を持つガラスを用いることで、自然と人間の一体化を意図しています。神奈川由来の根府川石の石組みから静かに湧き出る水が流れとなり、それに呼応するかの如く、ガラス=動かぬ水は徐々に形を変え、石・水・植栽・人し一体化されます。
          作者:家住 利男
 神奈川大学みなとみらいキャンパスは、多文化共生を実践する場としてこの地に誕生しました。ここに学ぶ人々には、それぞれの個性を尊重し高め合いながら、その柔軟な思考とみずみずしい感性で新しい可能性を生み出してあっほしい。「水の形」はその象徴としてここに設置されたものです。
          学校法人神奈川大学


Artwork : Shape of Water
Glass is special on that it combines the properties of minerals and liquids. By utilizing glass, which has this double character, this artwork intends to bring nature and humanity together as one. Water quietly emerging from a string of Nabukawa Stones, which originated in Kanagawa, becomes a stream and, as if response, the “unmoving water = glass” gradually changes shape and stones, plants, water and humans are integrated into one.
Artist : Toshio Iezumi
The Minato Mirai Campus of Kanagawa University has been born here in order to be a place that puts multiculturalism into practice. We wish that the people who learn here will raise each other to greater heights respecting one another’s individuality and with a flexible mindset and fresh, fluid sensitivity to create new possibilities. “Shape of Water” has been places here as symbol of this.
Kamagawa University


(ヘボン博士施療所跡碑)
      宗興寺
 一八五九(安政六)年ヘボンの来日後、まもなく米宣教医DBシモンズが来日、当、宗興寺を宿舎とした。シモンズはその後、明治初年になって横浜私立大学医学部の前身、十全医院で多数の外科手術を行い、子弟を教育した。また虫下しセメン円でも有名である。
 米宣教師ネビウスも一時宗興寺を宿舎とした。シモンズ、ネビウスが当寺を去ったあと一九六一(文久元)年四月から九月まで宗興寺はヘボンの施療所となった。ヘボンは成仏寺からここへ通い、多数の患者を無料で診察し、入院患者もあった。
 ヘボンのレリーフは幸ヶ谷在住の齊藤由蔵氏の善意で作られたものである。
  昭和五十一年十二月  ヘボン博士顕彰会


 笠䅣稲荷神社由緒


笠䅣(かさのぎ)稲荷神社
 笠䅣稲荷神社は、社伝によると天慶年間(九三八~九四七)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当っては北条時宗より神宝を奉納されている。元禄二年(一六八九)ら山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神と称された。後に笠䅣稲荷神社と改称され、明治二年二現在地に遷座された。
 また、この神社には土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に(ひとぎ)団子を供えるという。


横浜市指定有形文化財(考古資料) 板碑(いたび)
  平成六年十一月一日指定
  所有者 笠䅣稲荷神社
  所在地 神奈川区東神奈川二丁目九番一号
  時代  鎌倉時代末期~南北朝時代初期
  寸法  高 一七二・五センチメートル
      上幅三十七センチメートル
      中幅三十八センチメートル
      下幅四十一センチメートル

 通称「稲荷山」と称した山の麓に位置していましたが、明治初期に現在地に移されました。碑の頭部を三角形とし、その下部には二条の深い切れ込みが施され、身部(みぶ)は枠線によって長方形に区画されています。身部の上位には阿弥陀如来をあらわす種字「キリーク」を、中位には天蓋を配し、その下位中央には、六字名号「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研彫りで力強く刻まれています。
 本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑ですが、天蓋を配した六字名号と一対の塔を刻した特異な板碑で、本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です。
               平成七年三月
               横浜市教育委員会

鷹取山を越えて長柄桜山古墳へ

 霧雨模様の一日でしたが、梅雨入り前に少しは運動しておきました。十州望にある石碑に何やら刻まれている事には以前から気づいていましたが、今日は写真を撮って読み取ってみました。内容は、若き日の大正天皇が訪れたことに因んで石標を建設した事が記されている様です。当時の総門は東逗子駅の踏切近くだったそうですから、表参道口の石碑のことでしょうか?

【主な経路】自宅-浜見台-鷹取山-神武寺-持田遺跡址-桜山-長柄桜山古墳群-(逗子葉山駅-六浦)-自宅


【参考】
 ベッコウカガンボ Dictenidia pictipennis
 ヘメロカリス Hemerocallis spp.
 アイビーゼラニウム Pelargonium peltatum
 ヤマグワ Morus australis
 シラユキゲシ Eomecon chionantha
 ノハタカラクサ Tradescantia flumiensis
 楢葉裏丸玉五倍子(ナラハウラマルタマフシ)
 オニシバリ Daphne pseudomezereum
 ウツギ Deutzia crenata
 ヒイロタケ Pycnoporus coccineus
 マユミ Euonymus hamiltonianus
 カモガヤ Dactylis glomerata
 ナワシロイチゴ Rubus parvifolius
 キツネノマゴ(?) Justicia procumbens
 ムラサキニガナ(?) Paraprenanthes sororia
 ツクバネウツギ Abelia spathulata
 マルバウツギ Deutzia scabra
 ジムグリ Elaphe conspicillata
 ハコネウツギ Weigela coraeensis
 ウメモドキ lex serrata
 ガマズミ Viburnum dilatatum
 十州望の石碑
 アリドオシ Damnacanthus indicus
 醫王山来迎院神武寺本殿薬師堂
 ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris (神武寺のなんじゃもんじゃ)
 神武寺山門仁王阿像
 神武寺山門仁王吽像
 六地蔵:沼間2丁目(神武寺)
 ケイワタバコ Conandron ramondioides var. pilosus
 弥勒菩薩像(みろくやぐら)
 神武寺総門
 車地蔵尊(神武寺表参道)
 クサイチゴ Rubus hirsutus
 地蔵尊:沼間2丁目6-1
 クレマチス Clematis spp.
 タチアオイ Althaea rosea
 スイカズラ Lonicera japonica
 友情:岩田実
 ヒマワリ Helianthus annuus
 持田遺跡址
 オオシマザクラ Prunus lannesiana var. speciosa)
 マメカミツレ Cotula australis
 ヒメヒオウギ(白花) Freesia laxa ‘Alba’
 モモイロヒルザキマツヨイグサ Oenothera speciosa
 馬頭観音(葉桜団地中央公園)
 ツタバキリカズラ Maurandya barclayana
 長柄桜山古墳1号墳
 念佛供養塔:長柄桜山古墳群
 シロヒトリ Chionarctia nivea
 長柄桜山古墳2号墳
 ガクアジサイ Hydrangea macrophylla f. normalis
 キバナアマ Reinwardtia indica
 ケヤキ Zelkova serrata 逗子市指定保存樹:木16
 ケヤキ Zelkova serrata 逗子市指定保存樹:木17
 スズキ Lateolabrax japonicus


【十州望の石碑より】
門標建設賛助合名
 攀登神嶽乃東見房總西乃對箱根富
 士北乃望日光筑波海面出没東西間
 四時眺望真箇浄世塵埃明治廿八年
東宮殿下行啓以来貴顕頻登嶽而憾總
 門無標也當山七十二世暢海闍梨募
 賛助七十二名切出巨石於是本宮臺
 之下彫刻神武寺之三宇建之總門傍
 余随喜記事由焉
  明治三十九年丙午十月 鎌倉寶戒寺五十六世慈潤 ㊞


神武寺薬師堂説明文
神武寺奥之院  神武寺の梵鐘  逗子八景  みろくやぐら


  持田遺跡
 持田台地はこの附近まで海が入りこんでいた古代に遠い祖先たちがつくった大きな村落のあったところである。この地が開発されるにあたり、事前に発掘調査をおこない、弥生時代以降平安時代にかけて、祖先が残した家のあとや遺物が明らかにされた。弥生時代中期およそ二千年前にこの台地に村をつくった人々は谷間の湿地に水田を作り、私達の郷土に農業とその文化の基礎を築いていったのである。
 その後も人々がここで長く生活を送ったことは弥生後期から古墳時代を経て平安初期までの遺物が数多く発見されたことによって知られる。
 昭和四十九年十月吉日
     逗子市教育委員会


葉山町指定文化財第30の3号
馬頭観音塔(道標)
          昭和51年6月17日指定
 道標を兼ねた馬頭観音塔で、鎌倉道と金沢道を案内したものです。明治八亥五月吉日(一九七五年)建立。文字塔で、中央正面に馬頭観音と刻み、その両側に道案内の文字を刻んでいます。かつて馬は農耕や運搬に重宝されたことから、近世以降、馬頭観音は動物救済や交通安全を祈願する民間信仰の対象とされました。
 本塔はもとは長柄「しいけいし谷戸」(現在の才戸坂上(さいとさかうえ)付近)の尾根の岐路にあったものですが、葉桜団地開発の際には仙光院境内に移されました。昭和50年、葉桜団地五周年を記念して、現在の場所へ移動されたものです。
 平成27年6月
         葉山町教育委員会


国指定史跡 長柄桜山古墳群第1号墳
 四世紀後半(約一六〇〇年前・古墳時代前期)に造られた、逗子市と葉山町にまたがる丘陵上にある県内最大級の前方後円墳です。墳丘の長さは約九〇mで、山を削って成型した上に約一・五m盛り土ょして築いています。後円部は三段、前方部は二段の段築(斜面に段を設ける構造)になっていますが、第二号墳のような葺石はありません。
 後円部の中央やや東寄りに幅約一・六m、長さ約七mの陥没抗(埋められた木棺が腐って地面が沈んだ窪み)があり、その約一・五m下に粘土槨(棺を粘土でおおった埋葬施設)が一基あることがわかっていますが、内部は調査していなかったため、副葬品などし未確認です。
 周辺からは円筒埴輪や壺形埴輪の破片が数多く出土し、後円部の墳頂部には、埋葬施設を囲うように埴輪が列をなして並べられていたことがわかっています。
     逗子市・自然の回廊プロジェクト


国指定史跡 長柄桜山古墳群第1号墳  平成14年12月19日指定
発見
 平成11年(1999年)3月、地元の考古学愛好家 東家(とうや)洋之助(ようのすけ)さんが、携帯電話アンテナ工事のために伐採整地された山頂で埴輪の破片を発見し、古墳であることがわかりました。
規模と形状
 第1号墳は逗子市と葉山氏の境界線上にあり、全体の長さ約90m、後円部の直径約51m、墳頂部の標高は約127mです。4世紀後半(約)1,600年前、古墳時代前期)に造られた、県内に現存するものとしては第2号墳とともに最大級の規模をもつ前方後円墳です。発掘調査の結果、自然の山を削った後に盛り土をして造られたこと、前方部2段、後円部3段の段築を有すること、古墳の上に円筒形や壺形の埴輪が立てられてたいことなどがわかっています。第2号墳のような葺石は確認されていません。
被葬者
 発揮津調査によって、後円部に粘土槨と呼ばれる埋葬施設が1基存在することも確認されました。当寺この付近で活躍した有力者で、機内とも関係のある人物が葬られている可能性がありますが、具体的なことは残念ながらわかりません。
重要性
 三浦半島西岸に位置する逗子葉山付近は、太平洋の交通の要だったと考えられます。第一号墳から東には、東京湾や房総半島を望むことがてきます。この地に築かれた長柄桜山古墳群は、当時の関東と機内を結ぶ交通や、南関東の地域情勢を考える上でたいへん重要です。
今後
 平成23年(2011年)3月に整備基本計画を策定しました。今後は同計画に沿って古墳が将来にわたって末永く保存されるように整備していく予定です。
                平成23年3月
     逗子市教育委員会・葉山町教育委員会


国指定史跡 長柄桜山古墳群第2号墳  平成14年12月19日指定
発見
 平成11年(1999年)3月に第1号墳が発見されてほどなく、県内の考古学研究者からこの山も古墳でしないかと指摘され、同年6月に神奈川県教育委員会が試掘調査を行った結果、古墳と確認されました。
規模と形状
 第2号墳は逗子市と葉山町の境界線上にあり、全体の長さが約88m、後円部の直径約54m、墳頂部の標高はちょうど100m、4世紀後半(約1,600前、古墳時代前期)に造られた、県内に現存する古墳としては第1号墳とともに最大級の規模をもつ前方後円墳です。発掘調査はごく一部しか行われていませんが、円筒形や壺形の埴輪が立てられていたこと、墳丘の斜面がこぶし大ほどの葺石で覆われていることなどがわかっています。埴輪と葺石の両方をもつ前方後円墳は、南関東では初めて確認された貴重なものです。
被葬者
 当時のこの付近で活躍した有力者で、機内とも関係のあった人物が葬られている可能性が考えられますが、具体的なことは残念ながらわかりません。
重要性
 三浦半島請願に位置する逗子・葉山付近は、太平洋側の交通の要だったと考えられます。第2号墳から西を見れば、相模湾に浮かぶ江ノ島をはじめ、大山や富士山が一望にできます。この地に築かれた長柄葉山古墳群は、当時の完投し機内を結ぶ交通や、南関東の地域情勢を考える上でたいへん重要です。
今後
 平成23年(2011年)3月に整備基本計画を策定しました。今後は同計画に沿って発掘調査を実施し、整備していく予定です。
                平成23年3月
     逗子市教育委員会・葉山町教育委員会


  六代御前の墳墓の由来
      昭和三十六年一月吉日
「六代御前墓」と彫りたる小碑は徳川幕府の末年水戸藩士斎田三左衛門の建てしものにして是れ六代御前の墳墓なり
安ずるに六代御前は桓武天皇十五代の後胤にして三位中将平維盛の嫡男小松内府重盛の嫡孫平相國清盛の曾孫なり榮華を極めたる平家全盛時代に生れ一門没落の際母と共に京洛菖蒲谷に匿れ潜みしが文治元年北條時政に囚へられ東下して駿河の千本松原に至り將に斬首に逢はんとせる際(ささ)に文覺上人の懇請に由りたる將軍源頼朝の赦免狀到着によりて放免せられ文覺上人に伴はれて髙雄山洛西神護寺に入り剃髪して妙覺と曰い三位禪師と呼ばれ専心佛道を修めたり建久五年六代御前の妙覺は文覺上人の添書を(もた)鎌倉に赴き大江廣元に就きて情を陳べ思ょ謝せしに頼朝も深く重盛の舊恩を追懐し厚く之を待遇したり然るに正治元年文覺上人不軌を圖り發覺して流罪に問はるゝや六代御前の妙覺も捕へられたり關東に送られ田越川の畔に於て處刑せられたり行年二十有六村民深く之を憐み遺骸を収めて川の邉に葬り墳墓を築き常に香華を捧げて供養を懈らず以て現今に至れり田越川を御最後川と曰ふは之に原づけり
嗚呼六代御前は綾に畏き皇胤にして平家の嫡統なるも時運非にして一門の凋落に逢ひ一度縲紲斧鑊を免れて佛法三昧に入りしも復罪なき罪に問はれて田越川邉の露と消えたる誰かは同情の涙を揮はざる 星移り物換はりて茲に七百年逗子の浦風今も悲を含み田越川の流猶咽ぶに似たり 有志者(疋+貝)謀り其の墳墓を修理し、其の塋域を擴張し其の遺跡を明にし其の冤魂を慰め併せて地方に仁厚の美風を永久に傳へんとす冀くは江湖諸彦幸に賛助せられんことを

横須賀中央で……

 そろそろ梅雨入りが近いとの知らせを受けて、今日は横須賀のスーパーで買い物。途中で立ち寄ったうみかぜ公園からは、千葉県側がよく見えました。


ストエカス系ラベンダー Lavandula stoechas
イヌツゲ Ilex crenata var. crenata
アリウム・クリストフィー Allium christophii
メリケンガヤツリ Cyperus eragrostis
猿島
日本製鉄の高炉群(君津)
東京湾観音

晩春の鷹取山周辺を歩く

 本日、逗子市立図書館を訪ねた際に撮影した写真です。


【主な経路】
(自宅)-ハイキングコース浜見台入口-船越防災トンネル-沼間-逗子市立図書館-OK逗子店-なぎさ通り-山の根-池子-ハイキングコース池子入口-湘南鷹取-(自宅)


三浦平九郎胤義遺孤の碑由来(逗子5丁目14-4)
 承久三年(一二二一)後鳥羽上皇は鎌倉の執権北条義時を討伐しようと兵を挙げられた。このとき三浦義村は幕府方に、弟の三浦胤義は上皇方にと兄妹敵味方にわかれて戦った。上皇方がやぶれて胤義は死に十一歳を頭に幼い五人が衣笠屋部の祖母のもとに養なわれていたが、十一の子をのぞいて九歳、七歳、五歳、三歳の四人の男の子が義村の郎黨小川十郎によってここ田越川に斬られた。
 嘉禄元年(一二二五)九月北条泰時は三浦義村と共にこの地を訪れて弁僧正や門弟をして八万四千基の石塔を建てて跡を弔ったという。今はそれもほろびてしまってあとかたもない。
 大正十二年石橋敏明氏が建てられた碑がわずかに昔を語っている。
         逗子市観光協会


  東昌寺阿弥陀如来坐像
 青竜山東昌寺は真言宗のお寺で、もと鎌倉葛西か谷にあった東勝寺の歴史を受けついだ古刹であると伝えています。
 境内の阿弥陀堂にまつられている木造阿弥陀如来坐像は高さが2.5m余の大きなお象で、昔からあった古い像が享保十二年(1727)焼失したものを再建、宝暦八年(1757)十月に完成供養が行われました。
 作者は鎌倉扇が谷の仏師三橋宮内忠之です。江戸時代の作品ですが、逗子では珍しい巨像の上、造立の時期や作者も明確で貴重な仏像として市の重要文化財に指定されています。
         逗子市教育委員会


【参考】
 エゴノキ Styrax japonica
 マルバウツギ Deutzia scabra
 ウグイスカグラ Lonicera gracilipes
 ムラサキシキブ Callicarpa japonica
 コゴメウツギ Stephanandra incisa
 ウツギ Deutzia crenata
 ガマズミ Viburnum dilatatum
 ヒミズ Urotrichus talpoides
 マユミ Euonymus hamiltonianus
 クワキヨコバイ Epiacanthus gutttiger
 オニスゲ Carex dickinsii
 ムラサキニガナ Paraprenanthes sororia
 ヤブキリ Tettigonia orientalis
 ホウチャクソウ Disporum sessile
 オニドコロ Dioscorea tokoro
 クサイチゴ Rubus hirsutus
 常盤山査子(ピラカンサ) Pyracantha spp.
 メキシコマンネングサ Sedum mexicanum
 ヒメヒオウギ Freesia Laxa
 スイカズラ Lonicera japonica
 トベラ Pittosporum tobira
 サクラ(?) Cerasus spp.(海宝院)
 キウイフルーツ Actinidia chinensis var. deliciosa
 稲荷社:桜山4丁目16
 ハタケニラ Nothoscordum gracile
 ユウゲショウ Oenothera rosea
 桜山庚申塔:桜山4丁目15
 石塔群:池子2丁目1-5
 桜山道祖神:池子2丁目1-5
 マメツゲ Ilex crenata var. crenata f. bullata
 三浦平九郎胤義遺孤の碑
 ヘラオオバコ Plantago lanceolata
 カラタネオガタマ Magnolia figo Syn. Michelia figo
 トケイソウ Passiflora caerulea
 東昌寺阿弥陀如来坐像
 庚申塔:池子神明社
 石塔群:池子神明社
 池子神明社
 地蔵尊:池子神明社
 コバンソウ Briza maxima
 イソヒヨドリ Monticola solitarius、雄
 郵便ポスト:池子2-20-4
 石塔群:旧将監が谷入り口付近
 キショウブ Iris pseudacorus
 アヤメ Iris sanguinea
 サイハイラン Cremastra appendiculata
 マムシグサ Arisaema japonicum
 東京南線1・2号線47より東京南線3・4号線47を望む
 サルトリイバラ Smilax china
 ナツトウダイ Euphorbia sieboldiana
 釈迦如来像
 ゲンペイコギク Erigeron karvinskianus
 ツリージャーマンダー(クリオネ) Teucrium fruticans
 ヤマグワ Morus australis
 モチツツジ Rhododendron macrosepalum

湘南の大蛇伝説(part2)

 先週、矛盾に気づいた大蛇退治の伝説を確認するため、今日は、逗子市立図書館で調べもの。帰りの山道で、今年は見逃したかと思っていたサイハイランに出会えました。


 さて、文献調査の結果を結論から記せば、池子-浦郷の大蛇退治の伝説の元は、池子の伝説で間違いなさそうです。『逗子子ども風土記,1989』に端的に要約されているので、下記に引用しておきます。
 『改訂逗子町誌,1974』の本件に係る記載内容は、ウェブにも公開されている『逗子町誌,1928』と同じでしたが、注が付されているので参考になります。それによれば、かつて『古池』があった場所近くである逗子高校奥に六社明神社があったことが示されています。現在、六社明神社は池子神明社に合祀されており、このことは同社の縁起書から知ることが出来ます。


2つか3つか

 池子の話と浦郷の話をはっきり別としている文献があるかという視点から調査したのですが、どうやらひとつもないようです。3つの伝説をそれぞれ別の話として記載している唯一の文献として菊池(1986)がありますが、この文献の『ほろびゆく大蛇(横須賀・浦郷)』をよく見ると勇士の名の間違い方が同じなので『横須賀雑考』の引用に過ぎないことがわかります。横須賀市(1981)も同様の誤字から『横須賀雑考』の引用と思われますが、ここでは浦郷でなく池子の話としています。これらのことから、『浦郷の庄』は現在の横須賀市側が舞台ではなかった、つまり、池子説話と浦郷説話はひとつの話であると推定します。


浦郷の庄?

 浦郷説話は、これまで調べた限りでは『逗子町誌,1928』が大元なのですが、今更の様に気づくことは、そもそも『浦郷の()』というものは歴史上で存在を確認できません。勿論、『浦郷村』あるいは古名である『浦之郷』と読み替えれば意味は通じますが、浦郷側でこの話を収録した資料は確認できませんでした。
 『浦郷』という名は『御浦(みうら)郷』から由来するとも言われており、『浦郷の庄』というのは池子を含むもう少し広い地域を意味していたのかも知れません。


池子説話の根拠

 雨宮(1989)は『池子のあゆみ,1961』を引用して、六社明神の祭神は池子の6旧家の先祖であるとしています。『池子のあゆみ,1961』は、池子説話を物語として記載した資料で、本文内にも『骨子はそのままとし、それに装飾をほどこし読者に楽しく読んで頂けるように脚色しましたのでご了承下さい。』とあります。引用元は主として『逗子町誌,1928』と思われますが、根拠となった古文書として下記が挙げられています。
   藤原石渡家家系図
   池子王将監家家系図
   岡本家系図
 逗子教育委員会(1971)の指摘にもあるように、天応元年(西暦781年)とする時代考証には問題がありそうですが、6人の勇士がこの地区の祖先に繋がることが明らかなのであれば、この話が池子地区の氏神信仰に基づいていると断定してよさそうです。


浅間山はどこか

 『逗子町誌,1928』に記載のある『浅間山の麓』がどこかについてですが、浦郷、池子共に此花咲耶姫をお祀りした浅間社は現在存在しません。しかしながら、浦郷側には前浅間、後浅間の峰に浅間社がかつてあったこと(生方直方、1994)、池子側も神武寺駅の東側辺りに浅間社のあったこと(東昌寺、2008)が示されています。即ち、浅間山に関しては、浦郷、池子のどちらでもあり得ることになります。


【まとめ】

1.湘南地方東部の鷹取山周辺に伝わる大蛇退治伝説の内、池子説話は沼間説話を下敷きにして池子地区で成立したと思われる。
2.池子説話は池子の氏神に係る民間伝承であり、かつて現在の横須賀市北部にあった浦郷村(田浦町)とは関係ないと思われる。
3.浦郷地区で再録された大蛇退治伝説は確認できず、『横須賀雑考』等が『逗子町誌』を不適切に引用した結果、流布されたものと推定される。


【附記】

 浦郷(現在の横須賀市追浜周辺)地区は、かつて軍用地確保のため多くの住民が強制移住を余儀なくされたという歴史があります。このため、旧家古文書の多くが失われており、その中に大蛇退治の説話が含まれていたたかどうかは、もはや確認する術はありません。
 もうひとつの沼間伝説は、法勝寺縁起という文献が存在するので、沼間の地で成立した説話であることは間違いありません。加えて沼間山海宝院には『大蛇の鱗』と『蛇の牙』という宝物があるそうです。ただし、三浦古尋録(1812)によれば、これは沼間の大蛇のものではなく、当山開基の之源臨呼(しげんりんこ)和尚が前任地で教化した大蛇に由来するとのことです。海宝院の創建は天正18年(1590)で、法勝寺縁起は延享元年(1744)なので、沼間説話の成立に之源和尚が関わっていた可能性は十分にあります。


【文献】
 逗子町(1928)逗子町誌、418p.
 池子区郷土研究委員会(1961)六所大明神(池子の伝説)、池子のあゆみ第一集、p.83-87.
 横須賀文化協会(1968)浦郷の六社大明神、横須賀雑考、p.113-114.
 逗子教育委員会(1971)逗子市文化財調査報告書第2集 沼間・池子、99p.
 逗子市(1974)六社大明神、改訂逗子町誌、p.134-135.
 横須賀市(1981)鷹取山の毒蛇、古老が語るふるさとの歴史、243-244.
 菊池幸彦(1986)三浦半島の民話と伝説、p.99-106.
 逗子教育委員会(1989)村を救った6人の勇士、逗子子ども風土記、140.
 生方直方(1994)湘南妙義鷹取山に就いて、23p.
 雨宮郁夫(2001)逗子の伝説(一)-沼間と池子の大蛇退治-、手帳-逗子の郷土史-、169号、98-106.
 高橋恭一(1967)校訂三浦古尋録
 東昌寺(2008)、池子の地勢と信仰あれこれ、URL: http://tosyoji.sakura.ne.jp/sub8.htm, Acecced:2021-05-08.



村を救った6人の勇士(逗子子ども風土記,1989より引用)

 県立逗子高校の奥に大銀杏の木があります。この木は、六社明神社がここにあった頃、その入り口に植えられたものです。
 六社明神社は池子の長野・石黒・山田・只川・山下・相川6家の氏神ですが、この神社には、古い伝説があります。
 人を呑み、村人を悩ましていた七つの頭を持つ大蛇が、古池に住みついていました。村人達は、総出で、大蛇を退治しようとしましたが、なかなか退治できませんでした。その時、村の6人の勇士達の働きは、めざましいものでした。ようやく、大蛇は退治されました。しかし、村人達の喜びも束の間、その3月後、大蛇のたたりのためか、6人の勇士達は、次々と死んでしまいました。そこで、村人たちは、6人の救い神として、六社明神を建てお祭りしたそうです。
 六社明神社は明治45年(1912)に須賀神社境内に移されました。


六社大明神(改訂逗子町,1974より引用)

 俗称、六社神社ともいう。県立逗子高校のテニスコート近くの大銀杏は、お宮の入り口に立っていた木。その社殿は大正の初期、諸社合祀のため廃社となって今はない。大蛇退治の伝説として言い伝えられている。毎年九月八日に祭祀があった。この銀杏は山田源蔵という人が徴兵検査に甲種合格クジのがれの供木ということである。(逗子高校50周年記念誌より)


  池子神明社縁起

一、鎮座地
 神奈川県逗子市池子二丁目十番十一号
一、御祭神
 天照大御神、他左記七小社御祭神
一、御社殿
 昭和六十三年(1988)七月吉日落成 神明造り
一、管理
 宮司小池千頴(横須賀市諏訪神社宮司)区長並びに各役
一、沿革
 建久三年(一一九二)星ヶ谷稲荷山に天照皇大神宮として創建
 正徳三年(一七一三)社殿改修
 文政三年(一八二〇)社殿再興 主徳川家斉公
 以来徳川家の信仰篤く殊に水戸徳川家は鎌倉扇ヶ谷の東光寺英勝寺より祭儀に列したと云う。池子村は英勝寺の領地であった。
 明治六年(一八七三年)村社に列格
 明治十三年(一八七七)太政官布告合祀令により、各小字の小さな神社を合祀した。その名は左記のとおり。
 一、須賀社(祭神素戔嗚尊)
 二、稲荷社(祭神倉稲魂命)
 三、六所明神(祭神不詳)古記録によれば大蛇退治の六神
 四、子神社(祭神大国主命)
 五、春日社(祭神武甕槌命、経津主命、天児屋根命)
 六、三島社(祭神大山祇命、事代主命)
 七、神尾社(祭神不詳)
 明治四十五年(一九一二)右記七社合祀大神宮社殿改築(中段)
 大正十一年(一九二二)現在地(上段)に移築奥殿幣殿拝殿
 昭和六三年(一九八八)社殿新築屋根入母屋本殿切妻
一、行事
 三月 新年祭  七月 例祭  十月 新嘗祭合祀記念
  (付記 神社境内地上段及び中段は石渡好文氏寄進)


池子神明社と神輿渡御

 明治十年(一八七七)の「合祀令」(一村一社にまとめる)によって、池子村の小字にあった六社大明神(逗子高校の奥にあった)などの七社は、須賀社のあった地に「村社神明社」としてまとめられ、明治四十五年(一九一二)、新殿を建て、合祀されました。
 江戸時代、池子村は鎌倉の英勝寺(徳川家康の側室お勝の方が開山)の寺領でした。
 天明八年(一七八八)と天保十二年(一八四一)、池子村に「はやり病」が蔓延しましたが、そのたびに、英勝寺から除病祈願の神輿と葵御紋の提灯が下賜され、「病封じ」の村内巡行が行われるようになりました。
 毎年七月、金色の金具に黒と朱塗の見事な神輿を、白衣(はくちょう)に烏帽子姿の人が担ぎ、神主、木遣り、お囃子の山車が続く、古式豊かな神輿渡御が行われます。
 神明社の前の道は、昔は金沢街道とよばれ、金沢から池子、山の根を通って亀ヶ岡八幡宮の脇を通り、鎌倉、藤沢方面へと続いていて、荷物を馬に引かせる上人などが多く通った道でした。
     逗子市・自然の回廊プロジェクト

湘南の大蛇伝説

 コロナ禍第四波を受けて、この連休は家で文献整理。沼間(現逗子市)と浦郷(現横須賀市)に残されている大蛇伝説が気になり調べてみました。この二つの伝説は、内容が類似しているだけでなく、その舞台は鷹取山の西側と東側であり、峰で隔てられているものの隣接しています。そもそもひとつの話から派生している可能性も十分にあり得ます。
 横須賀雑考(1968)に記述のある浦郷の大蛇伝説は、田浦町誌からの引用となっているのですが、同誌のどこから引用したかみつけることが出来ません。そこで、国立国会図書館の蔵書閲覧で調査したところ、件の引用元は『逗子町誌』であることに気づきました。(横須賀雑考は興味深い資料ではありますが、いろいろと間違いが多いので注意が必要です。)
 沼間、浦郷、どちらも七頭の蛇の話なので八岐大蛇を想いおこすのですが、沼間の伝説では諏訪社が係っているので恐らく諏訪の龍神がモデルと思われます。浦郷地区で諏訪系の社は現在一社もないのですが、日向の八王子社が諏訪社を合祀しているとの記述が田浦町誌(1928)にあり、境内にはそれともとれる石祠もあります。
 一方、逗子町誌に示された浦郷での物語の舞台となった『浅間山』は、鷹取山の東側の峰である前浅間、後浅間と思われ、生方(1994)によれば、このふたつの峰は以前はひとつであり、関東大震災で倒壊するまではこの二つにそれぞれ浅間社があったそうです。以上の情報から浦郷の大蛇伝説の舞台は鷹取川水系の一つ鳶ヶ入川の上流、現在の追浜南町辺りであったと推定されます。
 ここで、気になるのは、現在の八王子社と浅間山では少々地理的に離れており、浜見台の丘に隔てられていることです。旧浦郷地区には八岐大蛇と縁のある須賀神社を合祀している雷神社がありますので、沼間と浦郷の伝説には類似があるものの全くの別系統である可能性もあります。
 さらに、ウェブ情報によれば、浦郷の話の比定地は池子だとする情報もありますので、特に浦郷説話についてはこれら情報の基になった資料を探す必要がありそうです。
–> Part2へ続く


【沼間の大蛇伝説】鷹取山の西(相模湾)側

大蛇退治【逗子町誌(1928)より転記】
(法勝寺古縁起及び口碑)
太古沼間には一帯の沼池にして、直ちに海岸に接せしものゝ如し、即ち今櫻山、沼間の境に架せる「汐止(しほど)(はし)」のあるによりても知らるべし。

汐止め橋は神武寺山門の西一町の所にあり
この邊一帯少しく地を掘るに貝殻多く、井水に塩分多くして飲料水とし難き様なり、光照寺、[廣地]附近殊に甚だし

然るに人皇第四十五代聖武天皇の御代、此の沼間の邊に恐ろしき大蛇栖み時々西海邊に出で、往來の船を覆し、火を吐き、毒を吐き、人民を苦ましむこと大なり、仍て當國の守護、長尾左京太夫善應、國家の煩人民の苦しみなることを奏上す。時恰も行基菩薩當地を巡遊し、願殿寺、延命寺、神武寺等に垂跡せらるゝの時なりければ、長尾善應大蛇退治を懇請せり。
行基即ち十一面觀音菩薩を彫刻せられ。小舟に乗りて経文を読みつゝ大蛇を退治せらる、然るに其の功德によりて大蛇却って「我れこれより萬民を救わん」とて其害毒なかりしかば、里民之を祭りて皺神社となす。大蛇七頭なりしため一頭毎に別別の地に祭り七諏訪と稱して今に七社を存す。然れども例祭は八月一日にして同日に行ひつゝあり。
尙此の十一面觀音は最も川上に一宇を建立して長尾山善應寺と稱して安置せり。

今や、矢の根川の最上流、田浦境に長尾と云う所あり、此處に善應寺ありしなるべし。長尾も善應も時の守護、長尾左京太夫善應よりとりたるなるべし、大蛇は寺の縁起には讀経の功德にて教化せりと云い、一般口碑には神武寺山王社のお力をも借りて射止めたりと傳ふ、神武寺山王社の神事よりすれば或は然るか。(同社参照)

而して長尾善應國中の人夫を集め枯木を刈って沼を埋め僅かに小池を存すこれ後の蓮沼(はすぬま)なり。

先年海軍水道敷設の為め、土地を堀たるに約一丈の下は悉く枯木の朽ちたるものなることを發見す。尙字蒲原田、前田、栗山、廣地などにて井戸を掘るに同様の木材の埋もれたるを多量に發見しつゝあり。何れも大木にして根、幹の見分けのつかぬ程なり。以てこの古事を眞なりしを知る。

其後善應寺頽廃して十一面觀音の尊像亡失せり、然るに人皇六十八代後一條院の御宇(道真全盛時代)寛仁年中の頃此の地の領主の息女、絶世の美人にして父母親戚の寵愛淺からざりしに、惜しむべし顔面に悪瘡を生じ醫術を盡すも験なく安倍保仲相して曰く、最早年中に死すべしと。
父母驚きて諏訪大明神(大蛇を祀りたるもの)に祈願したるに其の教へとして十一面觀音の像を小池の邊に發見して厚く祀りて祈りたり、不思議に感應ありて立ち所に平癒して元の如く美顔となり七十餘齢を保ちたり。
仍て小池の邊りに一宇を建立して子池山(こいけざん)感應寺と稱して尊像を祀れり。

感應寺は其東南の奥にあり、今に其名を傳ふ。
小池を我()を再()せしめたる意より子池と改め如何にも感應あらたかなるより子池山感應寺とせしなるべし今感應寺平、又は感應寺屋敷と稱する附近約五畝歩は法勝寺持なり。かゝる飛地に今かゝる寺地あるはよく其歴史を物語るものなり。

後天臺宗の名僧來りて修行せしに天童現れて閼伽水(あかすゐ)を汲み蓮華を取って觀音の尊像に注ぐと。

閼伽水を汲める天堂は諏訪明神の化身なり。よって諏訪明神を祀る閼伽(あか)(やと)と稱したりしに後(あき)(やと)となり、今に此の名を傳ふ。
明治の中頃迄は秋ヶ谷諏訪神社の境内は全部宮の地にして樹木鬱蒼たりしも今拂い下げて伐採せしは惜し、餘程名高き神社と見江て大森金五郎著「かまくら」の地圖にもこの社を載せたり。
閼伽水を汲みたる天沼(菅沼)は今五霊社の西南字菅ヶ谷の入口にしてあまぬま(〇〇〇〇)と呼ぶ。
蓮華を取りたる所を蓮沼と改めたりと云ふ其名今に存す櫻山の上なり。

後正覺坊と云ふ名僧來って天童山正覺寺と改めたり。(足利時代)

此頃は今のお林、即ち沼濱城址にありしものゝ如し、風强き爲め何時の世か今の法勝地境内に移る。

爾後凡五百年を經て又々堂塔、本尊共に頽廃して尊像を失う、寛文年中(徳川四代の末)
檀家葉山氏悪瘡を病み苦惱切にして療養の見込みなく、遂に身を捨てんとし、密かに隣山洞窟の中に入り寢食を絶ちて法華経を唱ふるみと數日なりしに、一夕疲労のあまり一朽水と思えるものを枕とし眠りたりしに急に怖心生じ眼を開けば、さきの朽木と思ひしは誤りにて、これ觀世音の尊像にして不思議の光わ發し洞中赫々たり。又我身を顧るに悪瘡忽癒えたり。
畏れ敬ひて此の尊像を携へて第十八世日長師に、其のありしことを告ぐるに、師は驚きて、不思議なるかな我も昨夜尊貴之高客來るの夢を見る、今此の像を拜するにまことにこれ往昔行基法師の眞作に疑ひなしとて、直に修理せしに容貌端嚴として大慈大悲の德を具へ給ふと、以て今日に至る。まことに由緒深きを知る。
  ……(以下略)……



七諏訪社本社

七諏訪社【逗子町誌(1928)より転記】

1.本社 (あき)(やと) 秋元常吉氏所有の竹藪中にあり、社側の大杉は倒れて伐りたれども今社前周圍八尺の銀杏あり。石の宮あり、七社の祭りを此社にて行ふ、例祭八月一日
2.大谷(おおやと) 土佐覺藏氏所有の竹藪中大岩石の前にあり、毎年正月十四日の歳頭(さいとう)はこの社前にて行ふ。
3.秋ヶ谷 桐ヶ谷利夫氏所有杉林の中、大岩石の上のあり、社則に周圍八尺の大木の大木の古株あり、石祠あり。
4.西(にし)(やと) 竹元定吉氏所有の杉林中にあり、大木、椎の森の下に石祠二、外に五輪あり。
5.(やと)(そら) 篠田寅吉氏の裏、海寶院所有の大岩石上、二本の椎の古木(根は一本周圍各々七尺余)の下に一社あり。
6.神武寺の参道の車地蔵(くるまぢざう)より更に上ること約一町右折して約一町外内坊(げないぼう)(やと)(そら)との三叉路に小高き峠あり、古來諏訪の松と稱する古木あり(今伐りて根のみ残す)附近尙樹木鬱蒼として神々し、此處に一社ありたれども、あまりに高き所なる故近時海寶院境内泉水の上部に移して一社を勧請せり。
7.神武寺山門の左側、字西(にし)(やと)竹元定吉氏、裏山の礎に石祠を建て一社を祀る。

 想ふに七社共に諏訪社と稱し其位置何れも秋ヶ谷を中心とし神武寺山門内にあり。而も各谷々の少し登りたる處なり。これ昔此邊沼地にして、稍小高き所を選びし上に土地の隆起に逢ひ今日の位置をなせるか、まことに不思議なる事どもなり。


【浦郷の大蛇伝説】鷹取山の東(東京湾)側

12.浦郷の六社大明神【横須賀雑考(1968)から転記、誤り部分は色を変えている】
 浦郷の庄の浅間山の麓にある古池に大きな毒蛇が住んでいて二十余年にわたって近くの人々を見つけてはこれを呑んでしまうということだ。これ故近くの人たちは無論のこと近郷近住の人たちすらも恐れていた。
 いよいよ天応元年五月八日のこと、相談の上この毒蛇を退治することになり郷司をはじめ腕に自信のある面々が集まりここに六十四人となり、これらの人たちで古池に向かっていった。中でも六人の武士は勇壮な働きを見せ、今の世までひの名を残し近隣の人たちから感謝された。
 この毒蛇は七つの頭であり長さは十五丈という恐ろしい大蛇であった。この退治に向かった六十四人の勇士のうちの六人古池大進信光・台()右京()光・岡本佐馬正信氏・星谷刑部大輔・石渡光氏・池子王将 ()大輔成孝が直接毒蛇に立ち向って退治したと伝えられた。
 ところがそのことあってから四カ月の後、同じ年の九月八日突然に退治された毒蛇の七つの頭が姿を現して急に先きの六人に襲いかかって来た。さしもの勇猛な六人も毒蛇にはたまりかねその日の七ツ時に時を同じくして死んでしまった。浦郷の人々はこの六人の徳を慕ってそのなきがらを埋めてそこに小詞を建てて六社大明神として祀ったということである。(田浦町誌(逗子町誌))
 この伝説によく似た「七諏訪社」が逗子市内の沼間にもある。


六社大明神(鈴木三藏藏)【逗子町誌(1928)より転記】
 浦郷庄にて淺間山の山下の古池(臺池とも云ふ)に毒蛇住み萬人を取り喰ふ事二十年餘也、此度退治事也、天應元年(一四四一)五月八日に近郷の郷司の面々六十四人出で退治す。其の中にも六人、今の世迄申殘有之毒蛇、七つの頭あり、長さ十五丈餘也、勇士六十四人の内
 一、古池大進信光  二、臺池右京純光
 三、岡本佐馬正信氏 四、星谷刑部大輔
 五、石渡光氏    六、池子王將監大輔成孝
右の者六騎にて毒蛇退治す。同年九月八日に其の體、七つの頭顯して六人に見て其の日七つ時に六人皆一同に死事、故に此の六人を六社大明神と崇奉是事、時に石渡光氏行年四十八歳也、法名曰、阿彌陀寺殿勇勝靈山大居士と號す。是は將鹽ヶ谷阿彌陀寺に石塔立てあり池子古記録にも見賜事也。
導師は東皇寺天界上人、神武寺義山上人、金澤薬王寺和門上人。


池子の歴史より抜粋【逗子市文化財調査報告書第2集 沼間・池子(1971)】
 歴史時代に入ってから室町時代までのことは、史料がなくて殆どわからない。伝説ではやはり、蛇退治の話がある。逗子高校の奥の谷 -もと将監が谷、のちの阿弥陀寺が谷- にあった六社明神にまつわる、石渡兵部大輔光氏、古池大進信光、台地右京純光、岡本佐馬正信氏、星谷刑部大輔勝頼、池子王将監大輔成孝等六人の話で、時は天応元年(781)5月、首尾よく六つの頭の大蛇を退治したが、その後、六人とも祟りで死んだので、六社大明神として祀ったという。人の名は到底平安初期のものではない。
  ……(後略)……
  当該地附近の石塔群:池子4丁目(関連性は不明)
  池子須賀神社(現神明社)には、六所宮(六所明神)が合祀されている。

【生方(1994)より転記】
*今は前浅間と後浅間は孤立して二つの峰になっているが、大正初期までは山続きで間に約1mの小径があり、その頃は後浅間は前浅間より高峰であったが、大正12年-1923の関東大震災で朽ち果てた。
 浅間社(山の神・本宮は山梨県富士吉田市の浅間神社)が老松の下に鎮座していた。後浅間にも浅間社が祀られていたが、関東大震災で崩壊して今は無い。


【(暫定的)まとめ】
 湘南地域北部の鷹取山周辺には、害をなす大蛇を退治したという伝説が2ないし3話残されている。その内、沼間地区の逸話は法勝寺縁起(1744)に、水利事業に長けた技術者集団の指導者であった行基が関係していたと記載されており、この伝説が成立した経緯が容易に推測される。ところが、浦郷地区の逸話は、浦郷地域の資料では特段の記載はみつからず、唯一の文献である横須賀雑考(1968)の記述は逗子町誌(1928)からの引用である。また、池子地区の逸話は浦郷地区と酷似しているため、同一の逸話であった可能性がある。また、なぜこれを逗子町誌が池子の伝承としてとりあげていないかは不明である。関連しそうな資料は逗子側に多いようなので、今後は逗子市立図書館の蔵書などを利用して、浦郷-池子での逸話の出展を明らかにする必要がある。
–> Part2へ続く


【文献】
 逗子町(1928)大蛇退治、逗子町誌、p.140-143.
 逗子町(1928)七諏訪社、逗子町誌、p.150-151.
 逗子町(1928)六社大明神、逗子町誌、p.204.
 逗子教育委員会(1971)逗子市文化財調査報告書第2集 沼間・池子、99p.
 横須賀文化協会(1968)浦郷の六社大明神、横須賀雑考、p.113-114.
 田中作造・高橋真太監修(1928)田浦町誌(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版).
 生方直方(1994)湘南妙義鷹取山に就いて、23p.