旧浦郷村周辺のお社、など

 今日は、近くの神社を中心に廻ってみました。
【おしんめ様】
 追浜駅から最も近いお社はこちらになります。遠野物語には『オシラサマ』として記載されている家の神様ですが、この追浜本町のおしんめ様の由緒は不明です。


【横浜創学館高等学校】


校訓
 勤労愛好の習慣を養う
 強靭な身体を作る為に普段の鍛錬を行なう
 春のような心で人と協和する
 堅忍持久敢て屈しない不動の精神を養う
          中村㐂一郎謹書


【弁天社】(野島)


 弁天社
御祭神 市杵嶋姫命
子守の神様・子どもの守護神をお祀りしているお宮です。
御神徳 安産祈願


【野島稲荷神社】


野島稲荷神社由来
鎮座地 横浜市金沢区野島町二十三ノ一
祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
合祀神 大照皇大神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真公、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)誉田別命(ほむたわけのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)須佐之男命(すさのおのみこと)
境内社 神明社、船玉社、秋葉神社、金毘羅神社、天満宮、皇大神宮
神事と芸能 元旦祭一月一日、賽の神一月十四日、稲荷祭二月初午日、夏大祭七月吉日、汐祭九月一日、霜月祭十一月二十三日
社殿 相之間造、本殿流造、幣殿両下造、拝殿入母屋造、銅板葺
由緒沿革
 金沢八景の一つ野島の夕照で知られる野島山南側山裾に鎮座する稲荷神社(正一位稲荷大明神)は豊川稲荷、笠間稲荷、伏見稲荷の日本三大稲荷の中の伏見稲荷の系統です。
 この神社は野島町の総鎮守で倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)をおまつりしています。野島神社は安貞元年一二二七年今から約七百七十年の昔、鎌倉時代に阿波守長島維忠の発願により造立したものと伝えられています
 また、土地の古老によれば万治年間(一六五八~一六六〇年)野島浦の南端に紀州大納言徳川頼宜公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称したということです。
 稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にあり、そのたる鬼門の守り神として頼宜公の厚い尊信を受け社殿造営にも力を尽くしたということです。
  平成十四年五月吉日 氏子総代


手水舎
神社のおりに際して身を清める所
本手水舎は平成十四年に豊洲の稲荷神社(伏見稲荷)より譲り受け遷移したものです。
移設・建築にあたっては当時の氏子衆が手作りで行いました。


【船玉社】(野島稲荷神社境内社)


 船玉社
御祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)天烏船命(あめのとりふねのみこと)
 船の守護神である船魂を航路往来の守護神として祀られているお宮です。
御神徳 航海安全、豊漁祈願


【大神宮】(野島稲荷神社境内社)


 大神宮
御祭神 大照皇大神(あまてらすおおみかみ)
    天手男神(あまのたじからおのかみ)
    萬幡豊秋津師姫神(よろずはたとよあきつしひめのかみ)
伊勢神宮より御分霊を賜り奉祀されているお宮です。
御神徳 国家鎮護・家内安全・運動上達・縁結・子宝(女性の守り神様)


【天神社】(野島稲荷神社境内社)


 天神社
御祭神 菅原道真公
天満宮とも称され学問の神とし祀られているお宮です。
御神徳 学業成就・合格祈願


【立石稲荷大明神】
 追浜南町では唯一のお社です。


【豊海稲荷】
 稲荷谷戸に鎮座する追浜東町唯一の神社です。火災により焼失した雷神社別当寺の慶蔵院(けぞういん)の銘がある水盤が残されています。


正一位豊海稲荷大明神安鎮之事
右雖為本宮之奥秘依
格別願望小祀式修
封之嚴璽令授與焉
祭祀慎之莫怠也
  本宮
安永年七年十一月豊日正五位下摂津守行
              荷田宿袮信邦
  相州三浦郡浦之郷村
     惣村中
     氏子中
江戸本町壹町目
   取次池永宗右衛門殿


慶蔵院(けぞういん)について
 追浜古賀志町3丁目42番地の豊海稲荷社石段下にある浄水盤に、慶蔵院の名が刻んである。慶蔵院は雷神社の旧名雷電社(寛政10年-1798 瀬戸神社の古文書では雷電大明神とある)の別当寺であったという。
 新編相模風土記稿(天保5年-1834)浦ノ郷村の項には次のように記されている。
 「慶蔵院 本山修験<小田原駅玉滝坊霞下>正本山と号す、古は武州金沢にあり、今六浦米倉丹後守陣屋前の小橋をけそういん橋と云、是其旧跡なり、元禄九年此地に移る、本尊不動を置く、」
「薬師堂 慶蔵院持、天神を相殿とす、元は字天神が崎に社あり、破壊の後爰に移す、」「稲荷社 慶蔵院持」

 慶蔵院では雨乞をした記録がある。嘉永6年-1853 7月雨乞祈祷したが、霊験なく雨は降らなかったという古文書である。(相州三浦郡金谷村 福本三郎家文書198–199頁 横須賀市内の各図書館にあり)

 「久々湿無之二付、浦郷村修験慶蔵院え五穀成就雨乞御祈祷今日より二夜二日被仰付き候間、此段村々二おゐて到承知小前えも不洩様可申聞候、尤、御礼□□候間、来ル五日より相渡候二付、村々申合受取罷出候様可到候。以上、
  丑七月 日     郡代所」
(大意)久しくお湿りがないので、浦郷村慶蔵院へ五穀成就の雨乞いを今日から二日二晩の祈祷を申し付けました。

「久々湿無付、先日浦郷村慶蔵院へ五穀成就雨乞御祈祷被仰付候所験無之二付、猶又関本最乗寺へ御祈祷御頼二相也候間、此段村々におゐて承知到、小前へも不洩様可申聞候、尤、明八日より御礼・御水為相渡候間。最寄村々申合請取可罷出候、以上、
  七月七日      郡代所
              鴨居村始め
              上山口村迄」
(大意)久しくお湿りがないので、浦郷村慶蔵院へ五穀成就の雨乞いを申し付けましたが、霊験がないので、更に関本最乗寺へ祈祷を頼みました。

 また、瀬戸神社の古文書にも慶蔵院に関する記録がある。(瀬戸神社社家佐野家所蔵文書=金沢文庫図書室にある『瀬戸神社』677-678頁)
 「寛政十一己未年(1799年)七月十六日に」浦郷村雷電大明神の御社に於いて雨乞御座候。拙者(瀬戸神社社家)慶蔵院両人にて相勤候処、神慮の御かんのふ有之、十七日の晩方より少々雨ふり日々廿日迄雨ふり申候」
「同年同月廿二日に浦郷村御地頭様より雷電え雨乞の御祈祷慶蔵院え仰付られ、中原村泉蔵院を慶蔵院方より相頼み、一七日の内御祈祷相勤候えども、一向雨ふり申さず候、誠に御地頭様よりの仰付けられ候儀に御座候は得重き儀に御座候、左様候えども雨ふり申さず候、尤雨迄の御札惣百姓五十四ヶ村惣名主方、お役所え罷出銘々頂戴仕候」
(大意)寛政11年7月16日に浦郷村雷電大明神のおやしろで雨乞いがあれました。瀬戸神社社家と慶蔵院が勤めましたところ、神様の思し召しにより17日の晩から少々雨が降り、20日まで雨が降りました。
 7月22日に浦郷村御地頭様より雷電社へ雨乞いの祈祷を慶蔵院へ仰せ付けられ、慶蔵院は中原村泉蔵院を頼んで7日間の祈祷を勤めましたが、少しも雨は降りませんでした。真人に御地頭様の仰せ付けは重大なことですが、雨は降りませんでした。


横須賀市追浜東町三丁目四二番地
豊海稲荷社の浄水盤
間口八五cm 奥行五一cm 高さ五〇cm
奉納
別當慶蔵院乗全代
當村願主惠比須屋七蔵
  石工小矢部村清蔵
天保六乙未歳四月吉日


【神明社】
 寛文十二年(1635年)創始と伝えられ、祭神は大照皇大神(あまてらすおおみかみ)。田浦町誌によれば、稲荷社(祭神:宇賀御魂命(うかのみたまのみこと))と酒ノ宮社(祭神:玉依媛命(たまよりひめのみこと))の二社が大正七年に合祀されたそうです。本殿の右奥には由来不明の境内社もあります。


敬神ノ司志神明社境内ノ荒涼セルヲ憂ヒ大正五年十月ヨリ櫻松樹ヲ植付ケ神地ノ尊厳ヲ保全セントシ爾来月々其費ヲ献スルヲ五星霜今ヤ神苑春花夏緑幽静ナルヲ以テ同志ノ初願玆二貫徹セリ依テ記念ノ碑ヲ建立ス
 大正十年七月一日 芳仙謹書㊞


【大国主社】
 グーグルマップでは深浦神社となっていますが、田浦町誌、新編相模風土記稿によれば、大国主社となっていますし、自称も『大国主社』です。平成27年度に実施された急傾斜地崩壊対策工事のため、北側の景観が失われました。
祭神 大巳貴命(おおあなむちのみこと)
合祀 亀島社(祭神:事代主命(ことしろぬしのみこと))


【稲荷神社】(浦郷町3丁目)
 文献では確認しておらず、古いものではなさそうですが、新鮮な油揚げが供えられていました。


【山中社】
 新編相模風土記稿にも山神社として記載があり、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)です。境内社があるのですが、由緒は不明です。


【八王子神社】
 新編相模国風土記稿に「八王子權現社 慶長十一年勸請の棟札あり、牛頭天王を合祀す、」とあります。一方、田浦町誌には、稲荷社、諏訪社の境内社があることになっています。詳細は不明ですが、拝殿のすぐ右のお社には狐の使い魔が確認できますので、これが稲荷社と思われます。


【船越神社】
 熊野社と日枝神社の合祀により成立したことが、田浦町誌にも載っています。境内社については、今のところ不詳です。

船越神社
鎮座地 神奈川県横須賀市船越町一丁目十一番地
祭神 速玉之男命(はやたまのおのみこと)
   大山咋命(おおやまくいのみこと)
由緒沿革
 速玉之男命(熊野社)
当社は足利義満の頃の応安二年(一三六八年)十月九日に若山県新宮市の熊野速玉大社の祭神速玉之男命を船越の禅宗景徳寺境内に地主神として勧請したと伝えられている。
明治三年(一八七〇年)神仏分離令により神社と寺が国策で分離され現在地に遷宮した。明治十二年(一八七九年)九月十九日六浦瀬戸の米倉子爵の邸内社社殿を譲り受け移築して御霊を遷宮した。この社は神輿殿として現存している。
 大山咋命(日枝神社)
当社は東京都千代田区永田町の旧官幣大社日枝神社の大山咋命をこの船越に寛文年間(一六六一~一六七三年)に武州久良岐郡金澤の永島祐伯が船越を開拓したが、元禄十六年(一七〇三年)の震災店名六年(一七八六年)の洪水寛政三年(一七九一年)の津波でその都度荒廃し永島忠篤が祖先の偉業を継ぎ海辺に波除けを築堤し開拓の鎮護として突堤に社を建立し勧請した。
 昭和三年(一九二八年)十二月十八日に両者を合祀し昭和八年(一九三三年)十一月三日竣工して昭和九年(一九三四年)一月八日正式に船越神社に改称し承認された。
第二次世界大戦の後氏子崇敬者により護持され昭和二十八年(一九五三年)十二月一日神奈川県指令第三二一九号により宗教法人船越神社の承認を得て今日に及んでいる。
昭和五十八年(一九八三年)に遷宮五十周年を記念して社殿を改修再建して昭和六十年(一九八五年)二月二十一日に完成した。
   奉献 有限会社大前田建設
   平成十一年七月吉日 健之 和風謹書㊞

【文献】
 蘆田伊人編集(1985)村里部三浦郡巻之三浦ノ郷村、新編相模国風土記稿第五巻、234-237.
 田中作造・高橋真太監修(1928)田浦町誌(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版).
 沢田雅也(1987)追浜の史跡探訪,追浜地域文化振興懇話会.


その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 ショウジョウソウ Euphorbia heterophylla
 ピンクノウゼンカズラ Podranea ricasoliana
 スズカケノキ Platanus orientalis
 鷹取山と落日

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