鎌倉には八雲神社が4社あります。今日は、その4カ所を廻ってみました。祭神を同じくする八坂神社など、通りかかったお社も撮影しております。それで気づくことは、この地域にも稲荷社の多いことです。
【西御門八雲社】
西御門自治会館と棟続きの小さなお社は、満光山来迎寺の隣にありました。御神木はタブノキです。
【山ノ内八雲神社】
さほど大きくはないお社で由緒書きもみあたりませんでしたが、境内社、石塔群など多数確認できました。
【常盤八雲神社】
由緒書きによれば、鎌倉幕府開幕の頃に創建された神社で合祀多数です。
【大町八雲神社】
辿りついた時には、既に日没過ぎでしたが、ここが4社の内では最も規模が大きく境内社も沢山ありました。
【扇ヶ谷八坂神社】
近隣では、戸塚、東俣野、江の島などにも八坂神社がありますが、鎌倉市内の独立社としては唯一の様です。御神木はタブノキです。
西御門八雲神社
祭神
建立は定かではありませんか、『風土記稿』に因れば字大門の天王社がもとだと考えられています。
現在の社殿は天保三年の建造だと言われています。
須佐男命は『古事記』『日本書紀』でも知られる神様で、特に須佐男命は乱暴で天照大神が怒って天の岩戸に隠れた神話や
常盤八雲神社
常盤の鎮守、此の地は平安時代後期、梶原景時の領地であり、当社は治承年間(1177年~1181年)に除災祈願のため建立された。慶長年間(1596年~1917年)当村、矢沢与左衛門光広が熊野社を勧請、これを八雲神社に合祀し、さらに明治時代村内鎮守、御嶽神社、諏訪神社の両社も合祀された。
伝説
昔梶原にあった加護社のご神体が大雨で流された。それを見つけた農民が山に祀り麦飯を供えたのが起こりというものである。参拝の時、”常盤の天王麦天王竹の子びしゃくで水かけろ”と唱えるしきたりがあるのはこの伝説による。
祭神
神徳 除災招福 農業守護 産業振興 良縁成就
御祭 七月
大町八雲神社略歴
祭神
由緒
永保年中新羅三郎源義光公の勧請と云う。室町時代関東菅領足利成氏公は公方屋敷に渡御した当社の神輿に奉幣を行うを例とした。戦国時代小田原城主北条氏直公は祭礼保護の「虎印禁制状」を下賜された。
古くは祇園天王社と称したが、明治維新に八雲神社と改称された。
祭礼
例祭の神輿渡御に伴う「天王唄」や「鎌倉ばやし」の神事芸能を伝え、正月六日には「湯花神楽」が行はれる。
八坂大神「相馬天皇」由緒
鎮座地 鎌倉市
祭神
例祭 七月十二日
由緒
神幸式は五日、十二日の両日行はれてゐたが今では十二日のみとなった。中世御神幸の神輿荒ぶるを以って師常館の岩窟に納め新たに調進したと傳えられる。独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである。
【稲荷社】六浦瀬ヶ崎神社
グーグルマップでは瀬ヶ崎神社となっていますが、実態は稲荷社の様です。ただし、境内社が少なくとも二座あるので、名称成立には何か謂れがあるのかも知れません。社殿の後ろには横浜市の名木古木に指定されたビャクシンが聳えていました。
記念碑
欽憶神社ハ、尊厳二神苑ハ清洒ニテ敬虔之域也。然年経月超二随ヒ境内漸次荒漠ヲ告シ時適
一.以神慮を奉慰
一.以皇國の隆昌又村内發展祈願
之爰二碑壹基ヲ建設シ記念トスト伝。
維時
【厄神様】六浦三艘
上杉謙信の北条攻めに与した名もない武士の霊を祭った祠です。由来書きにある永禄三年は、同四年の間違いと思われます。
厄神様の由来
今より三百九十六年前(戦国時代)安房両総の豪族里見義弘は、北条氏の領有たる相模をせめんとし、
その当時六浦村には悪い病気(今で言う伝染病)で多くの人々が死亡されました。その時神社の付近に武士の霊魂の火柱が立ち其の武士を祀ってくれれば三艘村の悪い病気ははらってくれると言うお伝えでした。(伝説による)
当時の村の人々が此処に横穴を掘り祠を作って其の武士の遺骨を祀ったのであります。其の後は悪い病気も出ず平和な村となりました。それ故に厄の神様として(俗に村人は厄神様とし)毎年四月一日村中の人が盛大にお祭りを行ったのであります。その後大東亜戦争で昭和十八年以降昭和四十五年迄中絶しましたが(但し念仏講の人々は毎年四月一日に行事を行ってくれました)昭和四十六年より九月の浅間神社の祭りと一緒に行事を行う事に町内の役員会で決定しました。尚今年九月の祭りの大掃除の時に当時を偲ぶ遺骨が発見され十月三日再埋葬され五輪の塔の下に埋葬されてあります。其の隣にある石の珠は馬が死んだ時に祀った石です。場所は六浦村千九十番地鈴木文吉宅の山裾ですが今は現状の様に山を崩し昔の面影はありませんのでこの場所に移しました。
昭和四十六年九月吉日 三艘町内会
【白山神社/稲荷社】(六浦東)
新版かねざわの歴史によれば、三分村高谷の鎮守であった当社は、
【三艘浅間神社】
【北辰神社】金沢区六浦5丁目8
「宗教法人」としての登録はある様ですが、門が開いているのは見たことがなく、お社としての実態は不明です。
【山王神社】(高舟台)
この界隈では唯一の山王社。祭神は
【朝比奈稲荷神社】
県道23号線から見える祠が以前から気になっていたのですが、訪ねてみると稲荷社でした。
【(金井氏建立の)神社】
これも以前から気になってはいましたが、昭和になってから建てられたという以外は不明です。
【朝比奈熊野神社】
朝夷奈切通開鑿の折に勧請された熊野権現社です。深山に佇むお社の周辺は、ヤブミョウガの群落となっており、青い実がきれいでした。
朝比奈町鎮守 熊野神社
御祭神
御由緒
古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際して守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中地頭加藤太郎左衛門尉之を再建す。里人の崇敬亦篤く安永及嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと伝爾
朝夷奈切通
鎌倉七口ノ一二シテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝二當リ大切通小切通ノ二ツアリ土俗二朝夷奈三郎義秀一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラルルモ東鑑二
昭和十六年三月建 鎌倉市青年團
国史跡 朝夷奈切通(昭和44年6月5日指定)
鎌倉幕府は、仁治元年(1240)
当時の六浦には、塩の産地であり、
また、鎌倉防衛上必要な
鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の
鎌倉
【
天神七柱、地神五柱の計十二柱の神々を祀る熊野神社系の神社で、十二所地区のの鎮守社です。折しも宵宮のお祭りの日でした。
【大江稲荷神社】
十二所には稲荷神社もあるのですが、祭神は他の稲荷社とはちょっと変わっているようです。
祭神は大江広本公である。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた時、政所の初代別当(長官)として、頼朝の右腕を勤めた人物。初午祭では、神主ではなくご本尊の大江広本木像を祀る。
十二所の五大堂明王院のご住職が、読経供養する。
【浄明寺熊野神社】
稲荷山浄妙寺の隣に位置する熊野権現社で、観光地鎌倉でありながらこまで来る人は希です。今日も鳥居脇のベンチを借りて昼食を戴きました。
浄明寺地区の鎮守さま
熊野神社の祭神神楽について
相模風土記に「熊野神社は村の鎮守なり」と記録されております。このお宮は古くから浄明寺地区の氏神様として信仰されてきました。
社伝によれば応永年間(1504年~1520年)に社殿を再建したと伝えられています。明治六年(1873年)には国より正式に浄明寺地区の鎮守として公認され、昭和二十七には宗教法人として登記され現在にいたりました。
祭神は、 天宇須女命
伊邪諾命
伊邪冊命 の三柱です。
七月の祭礼(夏祭り)には神楽が奏されますが、「湯花神楽」「鎌倉神楽」といわれ地元の人々から愛されていました。然し最近では数年おきにおこなっています。火の神水の神を招神して感謝し除災招福を祈り、弓矢の威力で悪鬼調伏を行います。
平成八年十月吉日
熊野神社総代 関口貞夫
【鎌倉宮】
護良親王を祭った大塔宮です。ここまで来ると観光客で賑わっていました。
【荏柄天神社】
菅原道真公を祀った天神様です。日本三天神の一社を自称しています。
【熊野権現社】(荏柄天神社境内社)
元二階堂鎮守。明治六年に荏柄天神社に合祀されたそうです。
【白旗神社】
頼朝公を祀った神社です。
白旗神社由緒記
一.祭神 源頼朝公
一.例祭日 一月十三日
一.由緒
この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあって髻の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
正治元年(一一九九)一月十三日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参加した。
その後鶴岡八幡宮は共僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け明治維新に際し寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。
現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。
持仏………守り本尊として、常に身近に置いて信仰する仏像
【巽神社】
巽神社「巽荒神」由緒
鎮座地 鎌倉市扇ガ谷1-9-7
祭神 奥津日女命、奥津日子命
火産霊命
例祭 十一月二十八日
由緒
御祭神は竈の神、火の神として霊験あらたかな神で延暦二十年坂上田村麻呂東夷鎮撫の際、葛原岡に勧請したと伝えられる。永承の年に源頼義が社殿を改築す。その後(年代不詳)現在の地に遷座された。古くは寿福時の鎮守神として崇敬され、その位置が寿福寺の
【諏訪神社】
巽神社の境内社です。社伝の中のお札には、今小路泉ヶ谷諏訪神社と書かれていました。
【鶴岡八幡宮】
全国的にも名の知れた鎌倉八幡宮です。旧社格は国幣中社、現在は神社庁別表神社です。創建はそれほど古いわけではなく、
【
鶴岡八幡宮の境内社になります。鎌倉・江ノ島七福神にも入っています。
旗上辨戝天社御由緒記
治承四年(一一八〇)八月源頼朝公は源家最高の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、十月鎌倉に移る。直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした。
夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(一一八二)大庭景義に命じ境内の東西に池を掘らしめ。東の池(源氏池)には三島を廃止、三は産なりと祝い、西の池(平家池)にし四島を造の四は死なりと平家滅亡を祈った。こり池が現在の源平池である。
そして東の池の中の島に辨戝天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった他の堂塔と共に除かれた。その後昭和三十一年篤信家の立願にわって再興され、さらに昭和五十五年九月鶴岡八幡宮創建八百年祭を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。
因みに弁戝天信仰は、鎌倉時代に既に盛んで妙音芸能の女神福徳利財の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた弁財天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。
祭日 | 例大祭 四月初巳の日 祈願祭 毎月 巳の日 |
旗上奉納 | 二引の白旗に御神号を記したのが用意してあります。お申込み下さると願意氏名を記し、祈祷して奉納し、毎日神前に揚げます。 |
旗上祈祷 | 源頼朝公旗上げして後、遂に大願成就した神徳により開店、事業拡張を始め家内安全、商売繁盛、必勝祈願、病気平癒、縁結び等の申込みを受け付けております。 |
政子石拝観 | 古来縁結びの霊能があり、姫石とも称し世に知られている。 |