【田浦町誌(1928)p142-144】第十一章宗教 第一節神社 第一項雷神社
(一)現状
一、鎮座。田浦町浦郷字本浦三〇三番地
二、社格。村社(指定神社)
三、祭神。火雷神 神体は束帯騎馬の像
四、社殿。本殿奥行二間、間口一間半。 拝殿奥行二間半 間口三間半 向殿一間三尺出一間 明治十六年七月新築したもので茸上萱草木造建築。
五、摂社。須賀神社。稲利社。疱瘡神。金毘羅社。
六、境内。四百五十八坪
北に森林を負ひ南面してゐる。石階五十段も下れば大鳥居があり玉垣により一劃をなしてゐる。境内には数種の樹木鬱蒼と茂り中にも大銀杏三本は数百年の樹齢を偲ばせる。昭和三年国道に続く参道を築造した。
七、境外所有地。耕地一段七畝十八歩
八、氏子。四〇五戸(明治十二年)
千二百戸(昭和三年)
(ニ)社掌。四百五戸(明二十九年一人認可)
車掌 秋山鎧次郎
(三)由緒又は沿革
一、承平元年(紀元一五九一年人皇六十一代朱雀天皇御宇)創建
二、天正九年(仝 二二四一年人皇一〇六代正親町天皇御宇)十一月領主朝倉能登守旧地苗割より移す。
三、天正十九年以降徳川氏代々高二石の地を賜ふ明治四十九年知。
四、宝永四年(紀元二三六七年)再建。
五、明治六年社格許可。
六、明治十六年七月境内を拡張し社殿を更に上段頂に近き処の現位置に新築す。
以前の社殿は今猶階段西側にあり山腹を切りこみて地域を作り(十二坪)石階十六段を残す規模現今の半にも当たらず。
七、大正十五年九月廿五日付神奈川県広報布告四一一号明治卅九年勅令第九十二号に依り神饌幣帛料を奉る指定神社となる。
八、延享年間(今より約百八十年前)当時別当たりし慶蔵院火焼の節古書消失に依り由緒不詳。
九、新編相模風土記三浦郡巻の三に
雷電社
村ノ鎮守ナリ神体ハ束帯騎馬ノ像ナリ、牛頭天皇を合祀ス天正九年領主朝倉能登守勧請事ハ宝永四再建ノ棟札ニ見ユ。其文ハ
奉再建雷電大明神御宝前総氏子天正九年辛巳年霜月三日朝倉能登守大壇新造立。宝永四丁亥年九月九日酒井雅楽頭武運長久当郷除災難。
古ハ塩浜ノ辺ニアリ今其他ヲ奥院ト云フ。棍柏一株アリ神木ト唱フ社領二石ノ御朱印ハ天正十九年賜フ。例祭六月十五日当日神輿を奥院に移シ神楽ヲ奉ス。
九月九日村持下同シ
末社 稲利。 疱瘡神
【校訂三浦古尋録(1967)p.14】
○鎮守雷電明神 御朱印二石此社ハ昔シ此処ヱ雷電鳴渡テ落夫ヲ里人祭テ雷電明神ト崇ム其後雷鳴スレ共此村ヱ落ツト云事ナシト云。
【新編相模国風土記稿(1985)、p235-236】
○雷電社 村の鎮守なり。神躰は束帶騎馬の像なり。牛頭天王を合祀す。天正九年領主朝倉能登守勸請す。事は寶永四年再建の棟札に見ゆ。(其文に奉再興雷電大明神御寶前總氏子天正九年幸巳年霜月三日、朝倉能登守大檀那、新造立、寶永四丁亥年九月九日、酒井雅樂頭武運長久當郷除災難)古は鹽濱の邊にあり、今其地を奥院と云ふ、棍柏栢一株あり神木と唱ふ社領二石の御朱印は天正十九年賜ふ例祭六月十五日(當日神輿を奥院に移し、樂を奉す、)九月九日村持下同じ。△末社 稻利 疱瘡神
【こども風土記(1988)、p25-26, p33-34】
雷神社
追浜駅から国道にそって左折すると間もなく右手に鳥居が見えてきます。旧村社の雷神社(かみなり神社)です。
石段をのぼると中腹に朱塗りの社殿が、まわりの木立の深い影とよく調和して建っています。茅葺の旧社殿が昭和三0年に焼失したため、同三三年に再建されたものです。
この神社は俗に「かみなりさま」で親しまれ、海上安全や災害除けの守り神として、広く信仰されてきました。
最新は火雷命(ほのいかずちのみこと)で、伝えによりますと承平元年(九三一)に創建されたといわれています。古い時代には塩浜(現追浜三丁目一二番地・つき島の地)に鎮座していましたが、のち天正九年(一五八一)に領主であった朝倉能登守が、現在地の下段に移し、さらに前橋藩主の酒井
雅楽頭忠清が再建しています。延享年間(一七四四~四七)に神社を管理していた慶蔵院が火災で焼けたため古い記録を失いましたが、徳川幕府から社領二石をうけていました。明治六年(一八六三)村社となり。同一六年七月に境内を拡張して上段の地(現在地)に神社を移し、社殿を新築して現在の規模となっています。
字
苗割にあります塩浜の旧地(現追浜町三~一二)は飛地境内で、祭礼の前夜にはここから夜中に御渡行事が。現在でも行われています。
築島
追浜駅前から銀座通りを100メートルばかり行くとボタンヤ文房具店があり、その角を右折して路地に入ると、間もなく左手に空地があり、枯木がかこいの中に立っていまるのが見えます。雷神社の旧地で「築(つき)島」と呼ばれているところです。
このあたりは古くは入り江で、塩田(海水から塩をとるための砂田)の中に小さな島があったもので、昭和のはじめころまでは、黒松が群生しており、大正の震災まえは、まだ周囲の面影をのこしていました。
古い言い伝えによりますと、ここには月のものがある女性を隔離した、月小屋があった場所であるといわれており、つき島の名はこれによるものと思われます。各地にみられる女性の生理をけがれたものとしていち習慣が、この地にも根強くあったことをうかがわせます。
ここの伝説として次のようなお話があります。
今から四〇〇年ほど前、天正(一五七三~八五)のある年の夏もこのつき島に大音響とともに落雷があり、大きな火柱がたちのぼりました、村人が女たちを心配してかけつけてみると彼女たちはみな無事で、そのかわりかたわらの柏槇の木が火を発してもえていました。村人たちはこの奇跡を不思議がり、神が柏槇の木を身代わりに立たせ、彼女たちを救ったのだと、この木の保存をはかることにしました。領主の朝倉能登守は、「それは神の加護である。その神を雷神社として村の鎮守とせよ」といわれ、扶持米をあたえて、神社を維持されたといいます。
現在では松林もなくなり、御神木といわれる伝説の枯木と池に、わずかに昔をしのぶのみで、民家にかこまれた風景には、その面影はありません。片すみに昭和六年に建立された「雷神社旧跡之碑」がたっています。
【雷神社奥の院の碑】追浜町3丁目12
雷神社故址
雷神社田浦町浦郷村社也祠奮在此地天正九年朝倉影隆遷之於今地云蓋本祠創建在承平
元年距今實一千年也當時海水變入圍繞陸地白波拍手自爲一島名築島長汀曲浦相接万過
寂寞一漁村耳爯来星霜幾百年四境變爲塩田構居營生者漸多矣傳云天正年閒里人避雨於
祠畔時黒雲掩天電光閃々迅雷擘耳凄氣迫人終轟然震地衆駮然既而雲霽雨收則祠前柏樹
幹枝折裂而無復一人死傷者乃相謂曰是神以樹代人也一村崇信愈篤一株枯木現在地中央
枝朽皮剥僅存残骸耳民至今祈塞不怠爲接地有池盖往時海水之遺跡也近時槍桑之變附近
畫爲田圃里落故址亦将歸荒廢里人憂之望月勘作君以任侠聞自謂吾少社来住地土受里人
庇保有年以得能成今日之巷豈可無𫝂酬呼乃進約當故址修築之工池原爲田川氏𫝂屬田川
氏名平三郎一郷素封也常致力於公益有衆望欣然割其𫝂屬一半提供之呼田甚右衛門氏亦
有奉公之志寄附宅地數歩於是決議起工拮据數閲月修築乃成實昭和六年六月也故址幅員
凢四十歩東方擁池々廣五千歩築以圓石混凝土數株青松護枯木風致閒雅神威自嚴然頃曰
望月君又投數百金欲立碑傳其事蹟嘱丈於余々與君有舊不可辭乃記其梗概勒之銘曰
滄桑三變 里巷聿榮 神域釐革 載見民情 大塚孝惟撰并書
昭和六年九月
【横須賀雑考(1968)、p108】
五、雷神社の神木
ある年の夏、夕飯をすませた本浦郷の乙女たち十数名が、築島さまの境内に生い茂った槇柏下に集まってさまざまの浮世話に興じていた。
折柄、鷲取山の頂上に俄かに黒雲が立ちこめ見る間に一天墨を流したように暗闇となり風さえ烈しくなりついに篠つく雨も加わってまるで天地がひっくりかえるかと思われた。するどくひらめく稲妻、とどろく雷鳴に乙女たちは槇柏の下でおののきふるえるものすごい中で夢中で口々に神や仏に祈りをしていた。
ところが少しして不思議にもさしものものすごかった風雨もぴたりとやみ雷鳴も収まった。ほっとして我にかえった乙女たちは顔を見合わせ無事を喜び合った。あたりを見ると築島さまの祠は無くなり神木の槇柏は八つ裂きなり葉も枝も幹もみんな黒焦げとなっていた。乙女たちはびっくりして「築島さまが私たちを守って下され身代わりになって下さったのだ。」と喜び合い神様のおかげを感謝していた。
この地の領主朝倉能登守はこの話を話を聞き、早速里人に沙汰して社殿を新築させ雷神社と命名し自らも社領を寄進して長くこの村の鎮守とさせたという。(横須賀市史稿)
浜空神社について
昭和十一年十一月富岡(現富岡公園内)に横濱航空隊が開設され、飛行艇隊の守護神として昭和十三年『鳥船神社』が創建され、奉斎会によってお祀りされていました。
戦後に至り、その功績を戦没者の慰霊の誠を捧げむと昭和五十六年六月『鳥船神社』跡地に『
浜空神社』として新たに戦没者並に戦後物故者二千余柱の英霊をお祀りされました。
殊に、昭和十七年八月ソロモン海戦最前線のツラギに進攻せし三百三十八名の飛行艇隊員は、壮烈なる玉砕を遂げるにあたり、ここに合わせて御魂が合祀されております。
戦後六十三年の歳を重ねるに、世話人の高齢化により維持困難ということになり、追浜航空隊甲飛行会のご尽力により平成二十年六月ご神殿を此の地に遷座し、追浜航空隊戦没者並に物故者の英霊ともども永遠にお祀り致す事となりました。
因みに、当時の飛行艇は、川西H8K2海軍二式飛行艇及び川西H6K5海軍九七飛行艇が主力機となっていたそうです。
平成二十年六月吉日
雷神社社務所
浜空神社世話人代表 加藤亀雄
【雷神社年表】新・追浜歴史年表(2019)
○天正9(1581)年11月3日
朝倉能登守景隆、雷電社を苗割(築島)より現在地の下段に社殿を新築・勧請する。(『風土記稿』)
○天正19(1591)年11月
徳川家康、三浦郡の諸社寺に所領を寄進する。浦之郷村では本浦・雷電社2石、同良心寺15石、同自得寺3石、榎戸・能永寺3石。(『風土記稿』)
○元和3(1617)年3月21日
本浦・雷電社、徳川秀忠より寺領安堵の朱印状を受け取る。(『新市史』資古中補)
○寛文5(1665)年7月11日
将軍家綱、浦之郷村雷神社、良心寺、能永寺等の三浦郡24寺8社に寺社領・諸役免除等の朱印状を下す。(『県史』資料5)
○宝永4(1707)年9月9日
浦之郷村の領主前橋藩主酒井忠挙(?)、雷電社を再建する。大工鈴木善兵衛。(『風土記稿』)
○延享年間(1744~48)
この頃、 本浦・雷電社の別当慶蔵院が火災に罹り、雷電社関係の古文書等を焼失する。(『田浦町誌』
○寛延元(1748)年10月24日
本浦・別当慶蔵院、無宿に付同院名代の自得寺が電雷社領を管理し、同社領の朱印願一札を浦賀役所に差し出す。(自得寺文書)
○寛政11(1799)年7月16日
本浦・雷電社の境内で慶蔵院と金沢瀬戸神社の両者が雨乞いを行い、翌日から降雨とのこと。(瀬戸神社文書)
○文化5(1808)年1月
村大工矢沢吉右衛門、本浦・雷電社の大神輿を新造する。(雷神社文書)
○文化5(1808)年7月4日
本浦・雷電社の大神輿(天王神輿)が装飾を施されて完成、浦賀に着岸する。(雷神社文書)
○嘉永元(1848)年2月
鎌倉仏師三橋永助が雷電社天王神輿の四神像を彩色修理する。(雷神社文書
○明治6(1873)年6月
雷神社、村社の社格が許可される。(『田浦町誌』)
○明治6(1873)年9月10日
起源は不明であるが、この日三浦相撲が雷神社で開催され、例年この日に行われる。(『市体育史』
○明治9(1876)年3月28日
県令より「社寺無代御下ケ渡同払下ケ御達書」が通達され、第15大区会所は5月9日社寺に対し通知する。このため、雷神社、良心寺、自得寺、能永寺等の旧朱印地・除地が無代および有償で払い下げられる。(横須賀市所蔵文書)
○明治10(1877)年3月
浦郷村代表人高橋弥惣八等4町村から「神社合併伺」が県令に提出される。これには、浦郷村字天神の天神社(天文6年勧請)及び同村字湯屋ノ下の山ノ神社が同村雷神社に合併、同村東鉈切の稲荷社が同所神明社に合併、同村字大久保の諏訪社が同所八王子社に合併することが記される。(『新市史』資近現Ⅰ)
○明治11(1878)年5月30日
浦郷村内の天神社、山ノ神社、稲荷社(2)、諏訪社の小5社が、雷神社等に合併する。( 横須賀市所蔵文書 )
○明治12(1879)年11月
『神社明細帳(三浦郡)』(明治12年調)によれば、浦郷村字本浦・村社雷神社は境内313坪、氏子600戸。祠掌(神主)秋山長平とある。(若松町・諏訪神社所蔵)
○明治16(1883)年7月
雷神社社殿を新築する。同時に境内を拡張し、社殿を下段より中腹の現在地に移す(浦郷字本浦303番地)。(『田浦町誌』)旧社殿は金沢の洲崎に移されたという。(『追浜とその付近』)
○明治36(1903)年9月10日
雷神社で三浦相撲が興行される。三浦相撲は毎年定期的に三浦半島の10か所で実施され、雷神社もこの月日に催される。(『県体育史』)
○大正15(1926)9月25日
雷神社、県公報布告411号により神饌幣帛料を奉る指定神社となる。(『田浦町誌』)
○昭和3(1928)年
雷神社で国道に続く参道を築造する。(『田浦町誌』)
○昭和4(1929)年10月
雷神社に狛犬・石灯籠が氏子によって、奉納される。(「刻銘」)
○昭和6(1931)年9月
築島跡(現・追浜町3丁目)に「雷神社古址」碑を建立する。望月勘作の捐資による。(碑文銘)
○昭和13(1938)年5月
雷神社の石段を1,100円で改修する。
○昭和30(1955)年6月
雷神社社殿(追浜本町)が焼失する。(『神新』)
○昭和32(1957)年12月
雷神社社殿(RC造)が再建される。設計大岡実博士、施工高坂工務店。(大岡実建築研究所 HP)
○昭和35(1960)年9月
雷神社境内に「戦没者慰霊碑」を浦郷支所管内戦没者慰霊碑建設委員会が建立、題字野村吉三郎書。(刻銘碑文)
○昭和42(1967)年11月
雷神社前の歩道橋が竣工する。
○平成20(2008)年7月13日
雷神社の天王祭で宮神輿の渡御が47年振りに復活する。(『神新』)
【文献】
田中作造・高橋真太監修(1928)田浦町誌(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版)、p142-144.
加藤山寿(1967)校訂三浦古尋録、菊池武, 小林弘明, 高橋恭一 校訂、238p、横須賀市図書館、横須賀.
河井恒久ら(1685)新編鎌倉志巻之八、In 蘆田伊人編、大日本地誌大系㉔新編相模国風土記稿第六巻、p235-236.
辻井善弥(1988)横須賀こども風土記下巻、横須賀市民文化財団、横須賀、p25-26.
横須賀文化協会(1968)雷神社の神木、横須賀雑考、p108.
上杉孝良(2019)新・追浜歴史年表, 追浜地域運営協議会、URL:
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2742/documents/oppama_rekishinenpyo.pdf, Accesed: 2025-11-29.