鷹取山を越えて長柄桜山古墳へ

 霧雨模様の一日でしたが、梅雨入り前に少しは運動しておきました。十州望にある石碑に何やら刻まれている事には以前から気づいていましたが、今日は写真を撮って読み取ってみました。内容は、若き日の大正天皇が訪れたことに因んで石標を建設した事が記されている様です。当時の総門は東逗子駅の踏切近くだったそうですから、表参道口の石碑のことでしょうか?

【主な経路】自宅-浜見台-鷹取山-神武寺-持田遺跡址-桜山-長柄桜山古墳群-(逗子葉山駅-六浦)-自宅


【参考】
 ベッコウカガンボ Dictenidia pictipennis
 ヘメロカリス Hemerocallis spp.
 アイビーゼラニウム Pelargonium peltatum
 ヤマグワ Morus australis
 シラユキゲシ Eomecon chionantha
 ノハタカラクサ Tradescantia flumiensis
 楢葉裏丸玉五倍子(ナラハウラマルタマフシ)
 オニシバリ Daphne pseudomezereum
 ウツギ Deutzia crenata
 ヒイロタケ Pycnoporus coccineus
 マユミ Euonymus hamiltonianus
 カモガヤ Dactylis glomerata
 ナワシロイチゴ Rubus parvifolius
 キツネノマゴ(?) Justicia procumbens
 ムラサキニガナ(?) Paraprenanthes sororia
 ツクバネウツギ Abelia spathulata
 マルバウツギ Deutzia scabra
 ジムグリ Elaphe conspicillata
 ハコネウツギ Weigela coraeensis
 ウメモドキ lex serrata
 ガマズミ Viburnum dilatatum
 十州望の石碑
 アリドオシ Damnacanthus indicus
 醫王山来迎院神武寺本殿薬師堂
 ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris (神武寺のなんじゃもんじゃ)
 神武寺山門仁王阿像
 神武寺山門仁王吽像
 六地蔵:沼間2丁目(神武寺)
 ケイワタバコ Conandron ramondioides var. pilosus
 弥勒菩薩像(みろくやぐら)
 神武寺総門
 車地蔵尊(神武寺表参道)
 クサイチゴ Rubus hirsutus
 地蔵尊:沼間2丁目6-1
 クレマチス Clematis spp.
 タチアオイ Althaea rosea
 スイカズラ Lonicera japonica
 友情:岩田実
 ヒマワリ Helianthus annuus
 持田遺跡址
 オオシマザクラ Prunus lannesiana var. speciosa)
 マメカミツレ Cotula australis
 ヒメヒオウギ(白花) Freesia laxa ‘Alba’
 モモイロヒルザキマツヨイグサ Oenothera speciosa
 馬頭観音(葉桜団地中央公園)
 ツタバキリカズラ Maurandya barclayana
 長柄桜山古墳1号墳
 念佛供養塔:長柄桜山古墳群
 シロヒトリ Chionarctia nivea
 長柄桜山古墳2号墳
 ガクアジサイ Hydrangea macrophylla f. normalis
 キバナアマ Reinwardtia indica
 ケヤキ Zelkova serrata 逗子市指定保存樹:木16
 ケヤキ Zelkova serrata 逗子市指定保存樹:木17
 スズキ Lateolabrax japonicus


【十州望の石碑より】
門標建設賛助合名
 攀登神嶽乃東見房總西乃對箱根富
 士北乃望日光筑波海面出没東西間
 四時眺望真箇浄世塵埃明治廿八年
東宮殿下行啓以来貴顕頻登嶽而憾總
 門無標也當山七十二世暢海闍梨募
 賛助七十二名切出巨石於是本宮臺
 之下彫刻神武寺之三宇建之總門傍
 余随喜記事由焉
  明治三十九年丙午十月 鎌倉寶戒寺五十六世慈潤 ㊞


神武寺薬師堂説明文
神武寺奥之院  神武寺の梵鐘  逗子八景  みろくやぐら


  持田遺跡
 持田台地はこの附近まで海が入りこんでいた古代に遠い祖先たちがつくった大きな村落のあったところである。この地が開発されるにあたり、事前に発掘調査をおこない、弥生時代以降平安時代にかけて、祖先が残した家のあとや遺物が明らかにされた。弥生時代中期およそ二千年前にこの台地に村をつくった人々は谷間の湿地に水田を作り、私達の郷土に農業とその文化の基礎を築いていったのである。
 その後も人々がここで長く生活を送ったことは弥生後期から古墳時代を経て平安初期までの遺物が数多く発見されたことによって知られる。
 昭和四十九年十月吉日
     逗子市教育委員会


葉山町指定文化財第30の3号
馬頭観音塔(道標)
          昭和51年6月17日指定
 道標を兼ねた馬頭観音塔で、鎌倉道と金沢道を案内したものです。明治八亥五月吉日(一九七五年)建立。文字塔で、中央正面に馬頭観音と刻み、その両側に道案内の文字を刻んでいます。かつて馬は農耕や運搬に重宝されたことから、近世以降、馬頭観音は動物救済や交通安全を祈願する民間信仰の対象とされました。
 本塔はもとは長柄「しいけいし谷戸」(現在の才戸坂上(さいとさかうえ)付近)の尾根の岐路にあったものですが、葉桜団地開発の際には仙光院境内に移されました。昭和50年、葉桜団地五周年を記念して、現在の場所へ移動されたものです。
 平成27年6月
         葉山町教育委員会


国指定史跡 長柄桜山古墳群第1号墳
 四世紀後半(約一六〇〇年前・古墳時代前期)に造られた、逗子市と葉山町にまたがる丘陵上にある県内最大級の前方後円墳です。墳丘の長さは約九〇mで、山を削って成型した上に約一・五m盛り土ょして築いています。後円部は三段、前方部は二段の段築(斜面に段を設ける構造)になっていますが、第二号墳のような葺石はありません。
 後円部の中央やや東寄りに幅約一・六m、長さ約七mの陥没抗(埋められた木棺が腐って地面が沈んだ窪み)があり、その約一・五m下に粘土槨(棺を粘土でおおった埋葬施設)が一基あることがわかっていますが、内部は調査していなかったため、副葬品などし未確認です。
 周辺からは円筒埴輪や壺形埴輪の破片が数多く出土し、後円部の墳頂部には、埋葬施設を囲うように埴輪が列をなして並べられていたことがわかっています。
     逗子市・自然の回廊プロジェクト


国指定史跡 長柄桜山古墳群第1号墳  平成14年12月19日指定
発見
 平成11年(1999年)3月、地元の考古学愛好家 東家(とうや)洋之助(ようのすけ)さんが、携帯電話アンテナ工事のために伐採整地された山頂で埴輪の破片を発見し、古墳であることがわかりました。
規模と形状
 第1号墳は逗子市と葉山氏の境界線上にあり、全体の長さ約90m、後円部の直径約51m、墳頂部の標高は約127mです。4世紀後半(約)1,600年前、古墳時代前期)に造られた、県内に現存するものとしては第2号墳とともに最大級の規模をもつ前方後円墳です。発掘調査の結果、自然の山を削った後に盛り土をして造られたこと、前方部2段、後円部3段の段築を有すること、古墳の上に円筒形や壺形の埴輪が立てられてたいことなどがわかっています。第2号墳のような葺石は確認されていません。
被葬者
 発揮津調査によって、後円部に粘土槨と呼ばれる埋葬施設が1基存在することも確認されました。当寺この付近で活躍した有力者で、機内とも関係のある人物が葬られている可能性がありますが、具体的なことは残念ながらわかりません。
重要性
 三浦半島西岸に位置する逗子葉山付近は、太平洋の交通の要だったと考えられます。第一号墳から東には、東京湾や房総半島を望むことがてきます。この地に築かれた長柄桜山古墳群は、当時の関東と機内を結ぶ交通や、南関東の地域情勢を考える上でたいへん重要です。
今後
 平成23年(2011年)3月に整備基本計画を策定しました。今後は同計画に沿って古墳が将来にわたって末永く保存されるように整備していく予定です。
                平成23年3月
     逗子市教育委員会・葉山町教育委員会


国指定史跡 長柄桜山古墳群第2号墳  平成14年12月19日指定
発見
 平成11年(1999年)3月に第1号墳が発見されてほどなく、県内の考古学研究者からこの山も古墳でしないかと指摘され、同年6月に神奈川県教育委員会が試掘調査を行った結果、古墳と確認されました。
規模と形状
 第2号墳は逗子市と葉山町の境界線上にあり、全体の長さが約88m、後円部の直径約54m、墳頂部の標高はちょうど100m、4世紀後半(約1,600前、古墳時代前期)に造られた、県内に現存する古墳としては第1号墳とともに最大級の規模をもつ前方後円墳です。発掘調査はごく一部しか行われていませんが、円筒形や壺形の埴輪が立てられていたこと、墳丘の斜面がこぶし大ほどの葺石で覆われていることなどがわかっています。埴輪と葺石の両方をもつ前方後円墳は、南関東では初めて確認された貴重なものです。
被葬者
 当時のこの付近で活躍した有力者で、機内とも関係のあった人物が葬られている可能性が考えられますが、具体的なことは残念ながらわかりません。
重要性
 三浦半島請願に位置する逗子・葉山付近は、太平洋側の交通の要だったと考えられます。第2号墳から西を見れば、相模湾に浮かぶ江ノ島をはじめ、大山や富士山が一望にできます。この地に築かれた長柄葉山古墳群は、当時の完投し機内を結ぶ交通や、南関東の地域情勢を考える上でたいへん重要です。
今後
 平成23年(2011年)3月に整備基本計画を策定しました。今後は同計画に沿って発掘調査を実施し、整備していく予定です。
                平成23年3月
     逗子市教育委員会・葉山町教育委員会


  六代御前の墳墓の由来
      昭和三十六年一月吉日
「六代御前墓」と彫りたる小碑は徳川幕府の末年水戸藩士斎田三左衛門の建てしものにして是れ六代御前の墳墓なり
安ずるに六代御前は桓武天皇十五代の後胤にして三位中将平維盛の嫡男小松内府重盛の嫡孫平相國清盛の曾孫なり榮華を極めたる平家全盛時代に生れ一門没落の際母と共に京洛菖蒲谷に匿れ潜みしが文治元年北條時政に囚へられ東下して駿河の千本松原に至り將に斬首に逢はんとせる際(ささ)に文覺上人の懇請に由りたる將軍源頼朝の赦免狀到着によりて放免せられ文覺上人に伴はれて髙雄山洛西神護寺に入り剃髪して妙覺と曰い三位禪師と呼ばれ専心佛道を修めたり建久五年六代御前の妙覺は文覺上人の添書を(もた)鎌倉に赴き大江廣元に就きて情を陳べ思ょ謝せしに頼朝も深く重盛の舊恩を追懐し厚く之を待遇したり然るに正治元年文覺上人不軌を圖り發覺して流罪に問はるゝや六代御前の妙覺も捕へられたり關東に送られ田越川の畔に於て處刑せられたり行年二十有六村民深く之を憐み遺骸を収めて川の邉に葬り墳墓を築き常に香華を捧げて供養を懈らず以て現今に至れり田越川を御最後川と曰ふは之に原づけり
嗚呼六代御前は綾に畏き皇胤にして平家の嫡統なるも時運非にして一門の凋落に逢ひ一度縲紲斧鑊を免れて佛法三昧に入りしも復罪なき罪に問はれて田越川邉の露と消えたる誰かは同情の涙を揮はざる 星移り物換はりて茲に七百年逗子の浦風今も悲を含み田越川の流猶咽ぶに似たり 有志者(疋+貝)謀り其の墳墓を修理し、其の塋域を擴張し其の遺跡を明にし其の冤魂を慰め併せて地方に仁厚の美風を永久に傳へんとす冀くは江湖諸彦幸に賛助せられんことを

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