湘南の大蛇伝説

 コロナ禍第四波を受けて、この連休は家で文献整理。沼間(現逗子市)と浦郷(現横須賀市)に残されている大蛇伝説が気になり調べてみました。この二つの伝説は、内容が類似しているだけでなく、その舞台は鷹取山の西側と東側であり、峰で隔てられているものの隣接しています。そもそもひとつの話から派生している可能性も十分にあり得ます。
 横須賀雑考(1968)に記述のある浦郷の大蛇伝説は、田浦町誌からの引用となっているのですが、同誌のどこから引用したかみつけることが出来ません。そこで、国立国会図書館の蔵書閲覧で調査したところ、件の引用元は『逗子町誌』であることに気づきました。(横須賀雑考は興味深い資料ではありますが、いろいろと間違いが多いので注意が必要です。)
 沼間、浦郷、どちらも七頭の蛇の話なので八岐大蛇を想いおこすのですが、沼間の伝説では諏訪社が係っているので恐らく諏訪の龍神がモデルと思われます。浦郷地区で諏訪系の社は現在一社もないのですが、日向の八王子社が諏訪社を合祀しているとの記述が田浦町誌(1928)にあり、境内にはそれともとれる石祠もあります。
 一方、逗子町誌に示された浦郷での物語の舞台となった『浅間山』は、鷹取山の東側の峰である前浅間、後浅間と思われ、生方(1994)によれば、このふたつの峰は以前はひとつであり、関東大震災で倒壊するまではこの二つにそれぞれ浅間社があったそうです。以上の情報から浦郷の大蛇伝説の舞台は鷹取川水系の一つ鳶ヶ入川の上流、現在の追浜南町辺りであったと推定されます。
 ここで、気になるのは、現在の八王子社と浅間山では少々地理的に離れており、浜見台の丘に隔てられていることです。旧浦郷地区には八岐大蛇と縁のある須賀神社を合祀している雷神社がありますので、沼間と浦郷の伝説には類似があるものの全くの別系統である可能性もあります。
 さらに、ウェブ情報によれば、浦郷の話の比定地は池子だとする情報もありますので、特に浦郷説話についてはこれら情報の基になった資料を探す必要がありそうです。
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【沼間の大蛇伝説】鷹取山の西(相模湾)側

大蛇退治【逗子町誌(1928)より転記】
(法勝寺古縁起及び口碑)
太古沼間には一帯の沼池にして、直ちに海岸に接せしものゝ如し、即ち今櫻山、沼間の境に架せる「汐止(しほど)(はし)」のあるによりても知らるべし。

汐止め橋は神武寺山門の西一町の所にあり
この邊一帯少しく地を掘るに貝殻多く、井水に塩分多くして飲料水とし難き様なり、光照寺、[廣地]附近殊に甚だし

然るに人皇第四十五代聖武天皇の御代、此の沼間の邊に恐ろしき大蛇栖み時々西海邊に出で、往來の船を覆し、火を吐き、毒を吐き、人民を苦ましむこと大なり、仍て當國の守護、長尾左京太夫善應、國家の煩人民の苦しみなることを奏上す。時恰も行基菩薩當地を巡遊し、願殿寺、延命寺、神武寺等に垂跡せらるゝの時なりければ、長尾善應大蛇退治を懇請せり。
行基即ち十一面觀音菩薩を彫刻せられ。小舟に乗りて経文を読みつゝ大蛇を退治せらる、然るに其の功德によりて大蛇却って「我れこれより萬民を救わん」とて其害毒なかりしかば、里民之を祭りて皺神社となす。大蛇七頭なりしため一頭毎に別別の地に祭り七諏訪と稱して今に七社を存す。然れども例祭は八月一日にして同日に行ひつゝあり。
尙此の十一面觀音は最も川上に一宇を建立して長尾山善應寺と稱して安置せり。

今や、矢の根川の最上流、田浦境に長尾と云う所あり、此處に善應寺ありしなるべし。長尾も善應も時の守護、長尾左京太夫善應よりとりたるなるべし、大蛇は寺の縁起には讀経の功德にて教化せりと云い、一般口碑には神武寺山王社のお力をも借りて射止めたりと傳ふ、神武寺山王社の神事よりすれば或は然るか。(同社参照)

而して長尾善應國中の人夫を集め枯木を刈って沼を埋め僅かに小池を存すこれ後の蓮沼(はすぬま)なり。

先年海軍水道敷設の為め、土地を堀たるに約一丈の下は悉く枯木の朽ちたるものなることを發見す。尙字蒲原田、前田、栗山、廣地などにて井戸を掘るに同様の木材の埋もれたるを多量に發見しつゝあり。何れも大木にして根、幹の見分けのつかぬ程なり。以てこの古事を眞なりしを知る。

其後善應寺頽廃して十一面觀音の尊像亡失せり、然るに人皇六十八代後一條院の御宇(道真全盛時代)寛仁年中の頃此の地の領主の息女、絶世の美人にして父母親戚の寵愛淺からざりしに、惜しむべし顔面に悪瘡を生じ醫術を盡すも験なく安倍保仲相して曰く、最早年中に死すべしと。
父母驚きて諏訪大明神(大蛇を祀りたるもの)に祈願したるに其の教へとして十一面觀音の像を小池の邊に發見して厚く祀りて祈りたり、不思議に感應ありて立ち所に平癒して元の如く美顔となり七十餘齢を保ちたり。
仍て小池の邊りに一宇を建立して子池山(こいけざん)感應寺と稱して尊像を祀れり。

感應寺は其東南の奥にあり、今に其名を傳ふ。
小池を我()を再()せしめたる意より子池と改め如何にも感應あらたかなるより子池山感應寺とせしなるべし今感應寺平、又は感應寺屋敷と稱する附近約五畝歩は法勝寺持なり。かゝる飛地に今かゝる寺地あるはよく其歴史を物語るものなり。

後天臺宗の名僧來りて修行せしに天童現れて閼伽水(あかすゐ)を汲み蓮華を取って觀音の尊像に注ぐと。

閼伽水を汲める天堂は諏訪明神の化身なり。よって諏訪明神を祀る閼伽(あか)(やと)と稱したりしに後(あき)(やと)となり、今に此の名を傳ふ。
明治の中頃迄は秋ヶ谷諏訪神社の境内は全部宮の地にして樹木鬱蒼たりしも今拂い下げて伐採せしは惜し、餘程名高き神社と見江て大森金五郎著「かまくら」の地圖にもこの社を載せたり。
閼伽水を汲みたる天沼(菅沼)は今五霊社の西南字菅ヶ谷の入口にしてあまぬま(〇〇〇〇)と呼ぶ。
蓮華を取りたる所を蓮沼と改めたりと云ふ其名今に存す櫻山の上なり。

後正覺坊と云ふ名僧來って天童山正覺寺と改めたり。(足利時代)

此頃は今のお林、即ち沼濱城址にありしものゝ如し、風强き爲め何時の世か今の法勝地境内に移る。

爾後凡五百年を經て又々堂塔、本尊共に頽廃して尊像を失う、寛文年中(徳川四代の末)
檀家葉山氏悪瘡を病み苦惱切にして療養の見込みなく、遂に身を捨てんとし、密かに隣山洞窟の中に入り寢食を絶ちて法華経を唱ふるみと數日なりしに、一夕疲労のあまり一朽水と思えるものを枕とし眠りたりしに急に怖心生じ眼を開けば、さきの朽木と思ひしは誤りにて、これ觀世音の尊像にして不思議の光わ發し洞中赫々たり。又我身を顧るに悪瘡忽癒えたり。
畏れ敬ひて此の尊像を携へて第十八世日長師に、其のありしことを告ぐるに、師は驚きて、不思議なるかな我も昨夜尊貴之高客來るの夢を見る、今此の像を拜するにまことにこれ往昔行基法師の眞作に疑ひなしとて、直に修理せしに容貌端嚴として大慈大悲の德を具へ給ふと、以て今日に至る。まことに由緒深きを知る。
  ……(以下略)……



七諏訪社本社

七諏訪社【逗子町誌(1928)より転記】

1.本社 (あき)(やと) 秋元常吉氏所有の竹藪中にあり、社側の大杉は倒れて伐りたれども今社前周圍八尺の銀杏あり。石の宮あり、七社の祭りを此社にて行ふ、例祭八月一日
2.大谷(おおやと) 土佐覺藏氏所有の竹藪中大岩石の前にあり、毎年正月十四日の歳頭(さいとう)はこの社前にて行ふ。
3.秋ヶ谷 桐ヶ谷利夫氏所有杉林の中、大岩石の上のあり、社則に周圍八尺の大木の大木の古株あり、石祠あり。
4.西(にし)(やと) 竹元定吉氏所有の杉林中にあり、大木、椎の森の下に石祠二、外に五輪あり。
5.(やと)(そら) 篠田寅吉氏の裏、海寶院所有の大岩石上、二本の椎の古木(根は一本周圍各々七尺余)の下に一社あり。
6.神武寺の参道の車地蔵(くるまぢざう)より更に上ること約一町右折して約一町外内坊(げないぼう)(やと)(そら)との三叉路に小高き峠あり、古來諏訪の松と稱する古木あり(今伐りて根のみ残す)附近尙樹木鬱蒼として神々し、此處に一社ありたれども、あまりに高き所なる故近時海寶院境内泉水の上部に移して一社を勧請せり。
7.神武寺山門の左側、字西(にし)(やと)竹元定吉氏、裏山の礎に石祠を建て一社を祀る。

 想ふに七社共に諏訪社と稱し其位置何れも秋ヶ谷を中心とし神武寺山門内にあり。而も各谷々の少し登りたる處なり。これ昔此邊沼地にして、稍小高き所を選びし上に土地の隆起に逢ひ今日の位置をなせるか、まことに不思議なる事どもなり。


【浦郷の大蛇伝説】鷹取山の東(東京湾)側

12.浦郷の六社大明神【横須賀雑考(1968)から転記、誤り部分は色を変えている】
 浦郷の庄の浅間山の麓にある古池に大きな毒蛇が住んでいて二十余年にわたって近くの人々を見つけてはこれを呑んでしまうということだ。これ故近くの人たちは無論のこと近郷近住の人たちすらも恐れていた。
 いよいよ天応元年五月八日のこと、相談の上この毒蛇を退治することになり郷司をはじめ腕に自信のある面々が集まりここに六十四人となり、これらの人たちで古池に向かっていった。中でも六人の武士は勇壮な働きを見せ、今の世までひの名を残し近隣の人たちから感謝された。
 この毒蛇は七つの頭であり長さは十五丈という恐ろしい大蛇であった。この退治に向かった六十四人の勇士のうちの六人古池大進信光・台()右京()光・岡本佐馬正信氏・星谷刑部大輔・石渡光氏・池子王将 ()大輔成孝が直接毒蛇に立ち向って退治したと伝えられた。
 ところがそのことあってから四カ月の後、同じ年の九月八日突然に退治された毒蛇の七つの頭が姿を現して急に先きの六人に襲いかかって来た。さしもの勇猛な六人も毒蛇にはたまりかねその日の七ツ時に時を同じくして死んでしまった。浦郷の人々はこの六人の徳を慕ってそのなきがらを埋めてそこに小詞を建てて六社大明神として祀ったということである。(田浦町誌(逗子町誌))
 この伝説によく似た「七諏訪社」が逗子市内の沼間にもある。


六社大明神(鈴木三藏藏)【逗子町誌(1928)より転記】
 浦郷庄にて淺間山の山下の古池(臺池とも云ふ)に毒蛇住み萬人を取り喰ふ事二十年餘也、此度退治事也、天應元年(一四四一)五月八日に近郷の郷司の面々六十四人出で退治す。其の中にも六人、今の世迄申殘有之毒蛇、七つの頭あり、長さ十五丈餘也、勇士六十四人の内
 一、古池大進信光  二、臺池右京純光
 三、岡本佐馬正信氏 四、星谷刑部大輔
 五、石渡光氏    六、池子王將監大輔成孝
右の者六騎にて毒蛇退治す。同年九月八日に其の體、七つの頭顯して六人に見て其の日七つ時に六人皆一同に死事、故に此の六人を六社大明神と崇奉是事、時に石渡光氏行年四十八歳也、法名曰、阿彌陀寺殿勇勝靈山大居士と號す。是は將鹽ヶ谷阿彌陀寺に石塔立てあり池子古記録にも見賜事也。
導師は東皇寺天界上人、神武寺義山上人、金澤薬王寺和門上人。


池子の歴史より抜粋【逗子市文化財調査報告書第2集 沼間・池子(1971)】
 歴史時代に入ってから室町時代までのことは、史料がなくて殆どわからない。伝説ではやはり、蛇退治の話がある。逗子高校の奥の谷 -もと将監が谷、のちの阿弥陀寺が谷- にあった六社明神にまつわる、石渡兵部大輔光氏、古池大進信光、台地右京純光、岡本佐馬正信氏、星谷刑部大輔勝頼、池子王将監大輔成孝等六人の話で、時は天応元年(781)5月、首尾よく六つの頭の大蛇を退治したが、その後、六人とも祟りで死んだので、六社大明神として祀ったという。人の名は到底平安初期のものではない。
  ……(後略)……
  当該地附近の石塔群:池子4丁目(関連性は不明)
  池子須賀神社(現神明社)には、六所宮(六所明神)が合祀されている。

【生方(1994)より転記】
*今は前浅間と後浅間は孤立して二つの峰になっているが、大正初期までは山続きで間に約1mの小径があり、その頃は後浅間は前浅間より高峰であったが、大正12年-1923の関東大震災で朽ち果てた。
 浅間社(山の神・本宮は山梨県富士吉田市の浅間神社)が老松の下に鎮座していた。後浅間にも浅間社が祀られていたが、関東大震災で崩壊して今は無い。


【(暫定的)まとめ】
 湘南地域北部の鷹取山周辺には、害をなす大蛇を退治したという伝説が2ないし3話残されている。その内、沼間地区の逸話は法勝寺縁起(1744)に、水利事業に長けた技術者集団の指導者であった行基が関係していたと記載されており、この伝説が成立した経緯が容易に推測される。ところが、浦郷地区の逸話は、浦郷地域の資料では特段の記載はみつからず、唯一の文献である横須賀雑考(1968)の記述は逗子町誌(1928)からの引用である。また、池子地区の逸話は浦郷地区と酷似しているため、同一の逸話であった可能性がある。また、なぜこれを逗子町誌が池子の伝承としてとりあげていないかは不明である。関連しそうな資料は逗子側に多いようなので、今後は逗子市立図書館の蔵書などを利用して、浦郷-池子での逸話の出展を明らかにする必要がある。
–> Part2へ続く


【文献】
 逗子町(1928)大蛇退治、逗子町誌、p.140-143.
 逗子町(1928)七諏訪社、逗子町誌、p.150-151.
 逗子町(1928)六社大明神、逗子町誌、p.204.
 逗子教育委員会(1971)逗子市文化財調査報告書第2集 沼間・池子、99p.
 横須賀文化協会(1968)浦郷の六社大明神、横須賀雑考、p.113-114.
 田中作造・高橋真太監修(1928)田浦町誌(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版).
 生方直方(1994)湘南妙義鷹取山に就いて、23p.

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