先週、矛盾に気づいた大蛇退治の伝説を確認するため、今日は、逗子市立図書館で調べもの。帰りの山道で、今年は見逃したかと思っていたサイハイランに出会えました。
さて、文献調査の結果を結論から記せば、池子-浦郷の大蛇退治の伝説の元は、池子の伝説で間違いなさそうです。『逗子子ども風土記,1989』に端的に要約されているので、下記に引用しておきます。
『改訂逗子町誌,1974』の本件に係る記載内容は、ウェブにも公開されている『逗子町誌,1928』と同じでしたが、注が付されているので参考になります。それによれば、かつて『古池』があった場所近くである逗子高校奥に六社明神社があったことが示されています。現在、六社明神社は池子神明社に合祀されており、このことは同社の縁起書から知ることが出来ます。
2つか3つか
池子の話と浦郷の話をはっきり別としている文献があるかという視点から調査したのですが、どうやらひとつもないようです。3つの伝説をそれぞれ別の話として記載している唯一の文献として菊池(1986)がありますが、この文献の『ほろびゆく大蛇(横須賀・浦郷)』をよく見ると勇士の名の間違い方が同じなので『横須賀雑考』の引用に過ぎないことがわかります。横須賀市(1981)も同様の誤字から『横須賀雑考』の引用と思われますが、ここでは浦郷でなく池子の話としています。これらのことから、『浦郷の庄』は現在の横須賀市側が舞台ではなかった、つまり、池子説話と浦郷説話はひとつの話であると推定します。
浦郷の庄?
浦郷説話は、これまで調べた限りでは『逗子町誌,1928』が大元なのですが、今更の様に気づくことは、そもそも『浦郷の庄』というものは歴史上で存在を確認できません。勿論、『浦郷村』あるいは古名である『浦之郷』と読み替えれば意味は通じますが、浦郷側でこの話を収録した資料は確認できませんでした。
『浦郷』という名は『御浦郷』から由来するとも言われており、『浦郷の庄』というのは池子を含むもう少し広い地域を意味していたのかも知れません。
池子説話の根拠
雨宮(1989)は『池子のあゆみ,1961』を引用して、六社明神の祭神は池子の6旧家の先祖であるとしています。『池子のあゆみ,1961』は、池子説話を物語として記載した資料で、本文内にも『骨子はそのままとし、それに装飾をほどこし読者に楽しく読んで頂けるように脚色しましたのでご了承下さい。』とあります。引用元は主として『逗子町誌,1928』と思われますが、根拠となった古文書として下記が挙げられています。
藤原石渡家家系図
池子王将監家家系図
岡本家系図
逗子教育委員会(1971)の指摘にもあるように、天応元年(西暦781年)とする時代考証には問題がありそうですが、6人の勇士がこの地区の祖先に繋がることが明らかなのであれば、この話が池子地区の氏神信仰に基づいていると断定してよさそうです。
浅間山はどこか
『逗子町誌,1928』に記載のある『浅間山の麓』がどこかについてですが、浦郷、池子共に此花咲耶姫をお祀りした浅間社は現在存在しません。しかしながら、浦郷側には前浅間、後浅間の峰に浅間社がかつてあったこと(生方直方、1994)、池子側も神武寺駅の東側辺りに浅間社のあったこと(東昌寺、2008)が示されています。即ち、浅間山に関しては、浦郷、池子のどちらでもあり得ることになります。
【まとめ】
【附記】
浦郷(現在の横須賀市追浜周辺)地区は、かつて軍用地確保のため多くの住民が強制移住を余儀なくされたという歴史があります。このため、旧家古文書の多くが失われており、その中に大蛇退治の説話が含まれていたたかどうかは、もはや確認する術はありません。
もうひとつの沼間伝説は、法勝寺縁起という文献が存在するので、沼間の地で成立した説話であることは間違いありません。加えて沼間山海宝院には『大蛇の鱗』と『蛇の牙』という宝物があるそうです。ただし、三浦古尋録(1812)によれば、これは沼間の大蛇のものではなく、当山開基の之源臨呼和尚が前任地で教化した大蛇に由来するとのことです。海宝院の創建は天正18年(1590)で、法勝寺縁起は延享元年(1744)なので、沼間説話の成立に之源和尚が関わっていた可能性は十分にあります。
【文献】
逗子町(1928)逗子町誌、418p.
池子区郷土研究委員会(1961)六所大明神(池子の伝説)、池子のあゆみ第一集、p.83-87.
横須賀文化協会(1968)浦郷の六社大明神、横須賀雑考、p.113-114.
逗子教育委員会(1971)逗子市文化財調査報告書第2集 沼間・池子、99p.
逗子市(1974)六社大明神、改訂逗子町誌、p.134-135.
横須賀市(1981)鷹取山の毒蛇、古老が語るふるさとの歴史、243-244.
菊池幸彦(1986)三浦半島の民話と伝説、p.99-106.
逗子教育委員会(1989)村を救った6人の勇士、逗子子ども風土記、140.
生方直方(1994)湘南妙義鷹取山に就いて、23p.
雨宮郁夫(2001)逗子の伝説(一)-沼間と池子の大蛇退治-、手帳-逗子の郷土史-、169号、98-106.
高橋恭一(1967)校訂三浦古尋録
東昌寺(2008)、池子の地勢と信仰あれこれ、URL: http://tosyoji.sakura.ne.jp/sub8.htm, Acecced:2021-05-08.
村を救った6人の勇士(逗子子ども風土記,1989より引用)
六社明神社は池子の長野・石黒・山田・只川・山下・相川6家の氏神ですが、この神社には、古い伝説があります。
人を呑み、村人を悩ましていた七つの頭を持つ大蛇が、古池に住みついていました。村人達は、総出で、大蛇を退治しようとしましたが、なかなか退治できませんでした。その時、村の6人の勇士達の働きは、めざましいものでした。ようやく、大蛇は退治されました。しかし、村人達の喜びも束の間、その3月後、大蛇のたたりのためか、6人の勇士達は、次々と死んでしまいました。そこで、村人たちは、6人の救い神として、六社明神を建てお祭りしたそうです。
六社明神社は明治45年(1912)に須賀神社境内に移されました。
六社大明神(改訂逗子町,1974より引用)
池子神明社縁起
神奈川県逗子市池子二丁目十番十一号
一、御祭神
天照大御神、他左記七小社御祭神
一、御社殿
昭和六十三年(1988)七月吉日落成 神明造り
一、管理
宮司小池千頴(横須賀市諏訪神社宮司)区長並びに各役
一、沿革
建久三年(一一九二)星ヶ谷稲荷山に天照皇大神宮として創建
正徳三年(一七一三)社殿改修
文政三年(一八二〇)社殿再興 主徳川家斉公
以来徳川家の信仰篤く殊に水戸徳川家は鎌倉扇ヶ谷の東光寺英勝寺より祭儀に列したと云う。池子村は英勝寺の領地であった。
明治六年(一八七三年)村社に列格
明治十三年(一八七七)太政官布告合祀令により、各小字の小さな神社を合祀した。その名は左記のとおり。
一、須賀社(祭神素戔嗚尊)
二、稲荷社(祭神倉稲魂命)
三、六所明神(祭神不詳)古記録によれば大蛇退治の六神
四、子神社(祭神大国主命)
五、春日社(祭神武甕槌命、経津主命、天児屋根命)
六、三島社(祭神大山祇命、事代主命)
七、神尾社(祭神不詳)
明治四十五年(一九一二)右記七社合祀大神宮社殿改築(中段)
大正十一年(一九二二)現在地(上段)に移築奥殿幣殿拝殿
昭和六三年(一九八八)社殿新築屋根入母屋本殿切妻
一、行事
三月 新年祭 七月 例祭 十月 新嘗祭合祀記念
(付記 神社境内地上段及び中段は石渡好文氏寄進)
池子神明社と神輿渡御
江戸時代、池子村は鎌倉の英勝寺(徳川家康の側室お勝の方が開山)の寺領でした。
天明八年(一七八八)と天保十二年(一八四一)、池子村に「はやり病」が蔓延しましたが、そのたびに、英勝寺から除病祈願の神輿と葵御紋の提灯が下賜され、「病封じ」の村内巡行が行われるようになりました。
毎年七月、金色の金具に黒と朱塗の見事な神輿を、白衣に烏帽子姿の人が担ぎ、神主、木遣り、お囃子の山車が続く、古式豊かな神輿渡御が行われます。
神明社の前の道は、昔は金沢街道とよばれ、金沢から池子、山の根を通って亀ヶ岡八幡宮の脇を通り、鎌倉、藤沢方面へと続いていて、荷物を馬に引かせる上人などが多く通った道でした。
逗子市・自然の回廊プロジェクト