上大岡から舞岡へ

 午後から雨の予報でしたので、降り出すまで上大岡から散策してみました。それにしても今年はこの季節になってもよく雨が降ります。
【主な経路】
(上大岡駅)-芹ヶ谷-東永谷-下永谷-平戸-前田-柏尾-舞岡-(舞岡駅)
【横浜市指定名木古木】


 No.49534, ケヤキ(平戸白旗神社)



 No.49531, ケヤキ(日枝神社)
 No.49532, ケヤキ(日枝神社)
 No.49533, ケヤキ(日枝神社)


【(代官山)白髭社碑】港南区芹が谷3丁目23

 芹ヶ谷南小学校近くにある碑です。名称からすれば、猿田彦神を祀った社がここにあったのでしょうか。本日、この後に尋ねた柏尾の猿田彦神社との関係など、いずれ調べてみたいと思います。


神奈川縣鎌倉郡永野村永谷九百六十二番地
二〇〇〇年 平成十二年十月十七日


【平戸白旗神社】戸塚区平戸町302

  平戸白旗神社の沿革
白旗神社 祭神 源頼朝命
例祭日  九月十八日
氏子区域 旧平戸町全域 即ち現平戸町及び平戸一丁目-五丁目
由緒
 当神社は、頼朝公薨じて百三年後の乾元元年(紀元一、九二二年西暦一、三〇二年)九月九日鎌倉鶴岡の相承院の元智が勧請したもので明和六年(紀元二、四二九年、西暦一、七六九年)十月十四日には相承院ょ通じ、みたましろとして「右大將家(頼朝公)の御鬒髪三筋」を送られた。(東福寺所藏文書)東福寺の神事奉仕は創祀以来凡そ五百七十年に及んだ。
 東福寺の鎮守として発足した当神社は、江戸時代には平戸村の鎮守となり(新編相模風土記(正しくは「新編相模国風土記稿」))明治六年(紀元二、五三三年西暦一、八七三年)十一月十日には村社、昭和十四年九月二十日には幣帛供進村社となったが大東亜戦争後の昭和二十八年九月十五日に県知事の認証を受け新発足して宗教法人となり神徳いよ〱明らかである。因みに現社殿は新築され昭和七年四月十日竣工したものである。昭和五十四年屋根葺替、一月十日起工、四月二日完成
平成二年十一月  御大典奉祝記念として玉垣築造
          氏子総代会


【下永谷神明社】港南区下永谷2丁目32-1
 明治政府により合祀された八幡社を記念する碑がありました。境内には双体道祖神、また六観音ならぬ七観音(?)の石像もみられました。これも要調査です。


【八幡宮?跡】
當所は長町八幡宮の?跡なり。
一祭神 譽田別命 武雍槌命
一境内 二〇四坪 一七二四番 境外七畝歩
               一七二五番
一社殿 慶応二年四月建立のもの間口二間二尺
               奥行三間
一由來
 天正年代領主の謹待奉祀せし處なり。廻に殿屋敷殿藪的場隠居屋敷の地存す。古前乃川?朱欄乃橋懸れり古來郷人斉く参拝す。明治四十一年霜月三日官令により神明社に合祀す。大津氏祖業を尊び宇を興し祀怠らす偶篤仰者飯島氏靈夢呼蒙る即之畏み相議をへ茲ニ建碑永く懐き往時を偲はんとす。
           地土大津平治
 昭和十四年四月吉日 篤仰飯島房太郎
           賛者若林亮平


【御嶽神社】戸塚区上柏尾町249

當神社は建仁二年(西暦一二〇二)村人が日本武尊の御功績を追慕して石造の祠を建てたのが始めであるが、文化年間(西暦一八〇〇年代始め)當地に移築再建された。


【日枝神社】戸塚区前田町216

  日枝神社
御祭神 大山咋神(おおやまくひのかみ)
 主祭神の神系
          大国御魂神
須佐之男神-大年神-御年神
          大山咋神-別雷神
 大山咋神(おおやまくひのかみ)またの名は、山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)。この神は山近淡海(なかつおおみ)国の日枝山に坐す。また葛野(かずの)のruby>松尾(まつお)に坐す)鳴鏑(なりかぶら)になりせる神なりとあるように近江国(今の滋賀県)の日枝山比叡山に鎮まりましたのが最初で大年神の親子神で、別にその御名を山末之大主神とたたえ申し上げます。
  御神徳
 大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り大地を支配し万物成長発展、産業万般の生成化育を守護し給う御徳は広大無限であります。(古事記による)
 日枝神社は相模国鎌倉郡前山田村。現在の横浜市戸塚区前田二一六一に八二四年に創建され村の守護神として祀られ、この地に住む人々の健康と家内安全、子孫繁栄をお守りする神様です。日枝神社は、この近くで一番古くから祭られているとの言い伝られております。
例祭は、四月九日、新嘗祭は十二月八日におこなわれております。


【瑞穂神社】戸塚区柏尾町764
 鳥居がないことだけでなく、何かと風変わりな神社です。

   瑞穂神社
御祭神
「瑞穂神殿」
【主祭神】天津渦々志八奈藝大神(あまつうすうずしやつなぎのおおかみ)(天津御中主大神)
【配神】丹生都比売神(にうつひめのかみ) 火産霊神(ほむすびのかみ)
「斎宮神殿」 天照大神(あまてらすおおかみ)
「斎宮祈祷殿」 大己貴(おおあなむち)大神 少彦名(すくなひこな)大神


古神道「山蔭神道」とは
 「山蔭神道」の教義には、神代の昔、天照大御神より神勅を賜わった天児屋命(あめのこやねのみこと)より伝えられた太古神道が、今に伝承されているとされています。
 幕末の頃、萩原員幹(かずみき)の嫡男・員衡(かずひら)が光格天皇の聖旨を受け、藤原山蔭が伝えた古伝の、中臣神道を復興し、山蔭神道と称しました。
 これを光格天皇の皇子・中山忠伊(ただこれ)と、その嫡男・中山忠英に伝え、その三男・中山忠徳(ただのり)を経て、現在の当主・山蔭基英(もとひさ)に至ったものです。
 「山蔭神道」に伝承される天地創造観を、「一霊四魂(いちれいしこん)」の哲理と言い、これによる霊術は、奇跡的効験を著し、「古代の陰陽道」と共に、山蔭神道の祈祷禁厭の秘伝とされています。
     山蔭神道東海斎宮 瑞穂神社


【王子神社】戸塚区柏尾町939

 建武中興
 六百五拾年記念
   要旨
介麻久母王子神社大前宮司関正臣左久元德元弘頃御兄弟御力合波世互難楚嶇嶔能大御業比伎(建武中興)与里六百五拾年止布由々志伎運合比多留御氏子共津波御功績志久津波昭和九年祖先心(六百五拾年記念)受継疑都々大君忠實仕良久止良久平聞食世止美母
 昭和五十九年七月二十三日
     宮司 関正臣


記念事業手水舎奉納
   趣意
 霊峰富士の雄姿と阿夫利の嶺を西に望み一條として流れる柏尾川の源を成せる相模國柏尾の里は往古より護良親王を祭神と崇ぶ王子神社の御神德に守り培われと風土にして鎮守の森は親王に供奉せる宗祖の伝承の内に幾多の風雪を乗り越え今も変わらざる碑文は黙して導き氏子は境内に花開くりんどうに安き覺ゆ。
 惟らに豐芦原の瑞穂の國日本國は大神が國を肇給ひ神武の御代より親政により國を治め給ふ、千余年を経た承久、文政の年間より武家の權勢は傲慢を極め皇道は陵来せんとするに至る後醍醐天皇は皇位を継承し給えど深く宸襟を悩ませ給い武家の変態的政治一掃の宏大なる理想を皇子護良親王と相計られ給ふ親王は父君と心を一つにされ理想実現に向い天性の英邁なる思慮を振はれ全国に今旨を以って忠臣を募られ京の御所にありては参軍の中に立ち利あらずして?野大塔の山中奥深く己の身を馳せ智謀をめぐらし義烈を盡され一命をも顧みず只々偉業の成就に精進せられ、天皇親政の平安の御代に復し萬民晴天を仰ぐが如き政治体制を確立せらる。天皇は年号を建武に改め給い世の人は建武中興と偁して奉祝せり。父君の理想への偉業の基と成られし御偉德と義烈に崇敬の念その極に達するものである。
 建武中興より歳を経ること六百五拾年吾が宗祖の子孫即ち氏子として親王御神霊に心よりの感謝を捧げ祭神への敬愛そして次の世代への美德の千古変わらざる風土より時に親王の御手、足にも觸れたと偲ばられる黒木御所跡の流れの岩石を堀り更にその森林の?野桧を合せ用いて手水舎を造営し納め奉るに依り柏尾鎮守護良親王命の御神德への報恩感謝の意と成し併せ宗祖の供養とす。御神霊の加護の下、柏尾の里の永久に安らけきを祈るなり。
 昭和六十年六月一日
建武中興六百五拾年記念事業委員會
会長 氏子総代 責任役員 増田壽男 (花押)
右之記念事業之成就を期し委員會を設け会長を總意で選任
   昭和六十年七月二十三日
    王子神社
     宮司 代表委員   関 正臣
     氏子總代 責任委員 齋藤一男
     氏子總代      齋藤 茂


【猿田彦神社】戸塚区柏尾町894

  猿田彦神(さるたひこのかみ)猿田毘古神(さるたびこのかみ) 国神(くにつかみ)
「古事記」によると、天孫降臨の際、天八衢(あめのやちまた)に立ち迎えて皇孫邇々芸命(ににぎのみこと)を筑紫の日向の高千穂に導き奉り、のち天ノ鈿女神に送られて、伊勢長田五十鈴川上に到りたまふ。
 伊勢の宇治土公(うちのつきぎみ)の遠祖、太田(おほた)命は、この神の苗裔なりと云う。


 その他、本日撮影の写真です。

【参考】
 ウィンターコスモス Bidens laevis
 天理教市浜分教会:港南区東芹が谷12-17
 天理教本神分教会:南区芹が谷5丁目50

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