戸塚区の名木古木-part2

 先週に続いて、戸塚区の名木古木を訪ねました。
横浜市指定名木古木


 福聚山養當院盛徳寺:戸塚区上倉田町560
No.49516、49517 イチョウ Ginkgo biloba


 大島山宝林院善了寺:戸塚区矢部町125

No.49222 イチョウ Ginkgo biloba
No.49223 イチョウ Ginkgo biloba
No.49224 カヤ Torreya nucifera
No.49225 ヤマザクラ Cerasus jamasakura


 東峯八幡宮:戸塚区吉田町1263
No.49566 スダジイ Castanopsis sieboldii
No.49567 イチョウ Ginkgo biloba


 天龍山圓福寺:戸塚区舞岡町336

No.49525 ヒムロ Chamaecyparis pisifera cv. Squarrosa
 時既に遅く、滅失です。折れた後はまだ真新しく、昨年の台風被害でしょうか。この寺の門前にある石塔群には、双体道祖神がありました。


 舞岡八幡宮:戸塚区舞岡町946
番号不明 イチョウ Ginkgo biloba
No.49528 スギ Cryptomeria japonica


 桜岡山長福寺:戸塚区舞岡町2589
番号不明 イトヒバ Chamaecyparis obtusa ‘Pendula’


 天神山貞昌院:港南区上永谷5丁目1-3
No.49243 イチョウ Ginkgo biloba
No.49244 イチョウ Ginkgo biloba


 永谷天満宮:上永谷5丁目1-5
No.49242 イチョウ Ginkgo biloba
No.200403 アカガシ Quercus acuta

かながわの名木100選 昭和59年12月選定
上永谷の天神社のカシ 和名:アカガシ(ブナ科)
 幹が根元近くで3本に分かれ、それぞれ上部で枝が多数分岐し、大きな樹冠を形成している巨樹である。横浜市の名木古木に指定されている。
樹高 25メートル  胸高周囲 6.0メートル
樹齢 約350年(推定)
 アカガシは、東北南部から九州の山地に生える常緑高木である。樹高25メートル、胸高周囲5メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。


【(矢部町)稲荷神社】戸塚区矢部町67


【木之間稲荷社】戸塚区吉田町644

  木之間稲荷社縁起
 當木之間稲荷社は伏見稲荷大社の御分霊を祭祀した社です。相州戸塚宿吉田元町字宿下の住民が五穀豊穣をを祈願する素朴な敬神の心を以て江戸時代中期(約二〇〇年以前)に創建されました。以来人々の厚い信仰を得て今に至る由緒深い稲荷社です。
 昭和六十一年柏尾川の拡張工事に伴い現在の地を基として遷座記念として石碑を建て後日の基と致します。
          氏子一同


【東峯八幡大神】戸塚区吉田町1263

旧本殿遺蹟之碑
   八幡大神由緒
祭神 第十五代應神天皇  例祭 九月十五日
鎮座地 戸塚区吉田町字東ノ峯一二六三番地
當地累代の名主・渡邉三左衛門の祖先が永久二年十一月十五日(紀元一七七四、西暦一一一四)當町字中打越に勧請したのが始めであって其の凡そ六百五十年後の明治二年九月六日現在地に遷座した。爾來東ノ峯八幡と俗偁し當地一帯を八幡山と呼ぶ。明治までは東嶺山金剛寺寶藏院持、現在は神社本廳所管。
本殿は安政五年四月に改築し昭和三十七年には再建百年記念祭を行った。拝殿は昭和四十一年四月十六日の改築である。社前の椎の大木は源義家が東征の折休息したとの傳承に因み「白旗の椎」と呼び横浜市指定の名木である。
    昭和四十六年四月十六日


【舞岡八幡宮】戸塚区舞岡町946

   舞岡八幡宮 戸塚区舞岡町九四六番地
祭神
 譽田別命(主祭神) 息長足姫命 比咩大神(以上相殿)
 考安天皇 仁徳天皇 国常立命(以上明治六年合祀)
特殊行事 湯花(湯立)神楽 四月十五日 例祭日
年鑑恒例祭
 一月一日   歳旦祭   八月二十日   風祭
 二月当日   節分祭   九月一日    二百二十日祭
 二月十一日  紀元祭   九月秋分    秋祭・英霊顕彰祭
 三月十四日  祈年祭   十月十七日   神嘗祭神楽遥拝
 三月当日   春分祭   十一月三日   明治祭
 四月十五日  例祭    十二月一日   新嘗祭・七五三祝祭
 四月二十九日 昭和祭   十二月冬至   星祭
 六月三十日  夏越祓   十二月二十三日 天長祭
 七月二十日  蟲送り   十二月三十一日 除夜祭・年越祭
由緒
 昔、当地一帯を腰(越)村と呼んで居た頃、白幡が空に舞ったので村の名を舞岡と改めたと云ふ。その幡は当地の西方三十キロの落幡村(現秦野市)に落ちたと傳へるが、この奇瑞に因んで石清水八幡宮を勧請したのが当神社の始めであって、特に乾元元年(紀元一、九六三・西暦一、三〇二)三月であった。爾来、村の鎮守として崇敬せられ明治六年村社、大正六年幣帛供進指定村社(例祭の折、市区町村長が装束を着けて幣帛を奉る)と成り、昭和二十八年宗教法人と成って現在に至る。
相模国鎌倉郡舞岡町はやがて神奈川県鎌倉郡川上村舞岡と成り、昭和十四年には横浜市域の拡大に伴って横浜市戸塚区舞岡町と成った。昭和三十年代末の住宅地造成に伴って南舞岡町が生まれたが、当神社の氏子区域であることは變らない。


舞岡八幡宮と湯花神楽
 この社には湯花神楽が伝えられる。忌竹をめぐらし中央の大釜に熱湯をわかし巫祝が呪言して笹葉に浸した湯を神前と参詣人にまく。
     戸塚観光協会


舞岡八幡宮境内社相殿(左より)
 日枝社、稲荷社、愛染社、疱瘡社、疫神社
白山社(中央):舞岡八幡宮境内社


【永谷天満宮】上永谷5丁目1-5

  永谷天満宮
 「新編相模国風土記稿」鎌倉郡山之内庄永谷上村の項に「天神社 村の鎮守なり、身躰は長一寸八尺、縁起に據るに延喜二年菅公筑紫に在て寶鏡に向ひ、躬づから摸刻して令子敦茂に與へられし眞像なりとぞ、(後略)」とあります。
 天満神社として信仰されている菅原道真が、延喜2年(902)筑紫(現福岡県)大宰府において鏡に写した姿を彫刻した自身像三躰のうちの一躰を子供の敦茂に授けました。敦茂はこの像を奉帯し関東に下向永谷郷に居住しました。その後菅原文時・藤原道長・上杉金吾を経て、明応2年(1543)宅間伊織之介が修造、天正10年(1582)宅間規富が新たに社殿を造営したと伝えられています。
 江戸時代になり、学問を奨励したので学問の神様として江戸近郊にまで知られ、境内は、入試合格祈願の絵馬などが数多く見られます。
 裏山にある筆塚は、敦茂の遺髪と筆を埋めたと伝えられ菅秀筆と呼ばれています。
 なお、尊体三体のうち一体は福岡県太宰府市の安楽寺に、一体は大宰府藤井寺市の道明寺に安置されました。


   天神さまと牛
 當神社の御祭神 菅原道眞公 即ち天神さまの、牛に因むお話の中から先づ記します。㈠天神さまは、おとなしい白い牛を飼ってをられたが、左遷の發令と共に不意に行方が分から貳くなった。天神さまは其の牛を案じつつ大宰府にお下りの途中、道明寺の門前で暗殺されようとなさった。此の時どこから現れたか刺客を蹴散らしてお救いしたものこそ他ならぬ其の牛だったといふお話
㈡天神さまの御遺書に「お墓の事は牛が知ってゐるから其の赴く所に葬る様に」とあったところ葬儀の牛車は安楽寺で止まったのでそこに葬り申上げたといふお話-太宰府天満宮の始まりに因むお話
 さて牛は農耕に不可欠缺として大事にされて來ましたが、慌てることなく、黙々と、一歩々々を踏みしめつつ、働くことこそ、天神さまの思召しに叶ってゐるのではないでせうか。私共もあやかりたいと思ひ、茲に一筆致します。
 當神社では、筑紫の安楽寺、河内の道明寺、相模の天照寺(古來當神社と一體の天神山貞昌院)を日本三躰天神と言い傳へてゐることを追記します。
   昭和五十七年九月二十五日
    -道真公薨後一、〇七九年の例祭日-
 日本三躰 永谷天満宮
        宮司 關正臣 (花押)

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