栄区の社を巡る

 本日、午前中に歯科治療。午後には栄区まで足を運びました。
【主な経路】
(自宅)-六浦-浄林寺跡-武相トンネル-㹨川小川アメニティ-昇龍橋-上郷-鍛冶ケ谷-(本郷台)


【浄林寺跡】金沢区朝比奈町267

 横浜市指定名木古木 No.48140 イヌガヤ


【白山社跡】栄区長倉町1-29

昇龍橋  長倉町
 上郷(旧上野)の村社「白山社」の旧社殿の参道にかかる石橋で、橋の本体は鎌倉市今泉から産出する通称「鎌倉石」又は「今泉石」という水成岩である。構造はアーチ状の眼鏡橋で、欄干は「御影石」で本体とし材質が異なっており、「昇龍橋」の橋名と「大正四年九月吉日」の年記があるが、建造年代は定かではない。
 明治八年(1875年)、太政大臣三条実美の名で各府県に村誌郡誌を調査して差し出される公達があり、明治十二年頃に編成されたと思われる「皇国地誌」には村の河川や橋梁の記録があるが、上野村(かみのむら)の条に昇龍橋の名はみえない。これと全く構造を一にするもので、旧庄戸掘にかけられ現存する「經堂橋」の名は記載されているが、「長四間四尺木製」と記された木橋であった。經堂橋が石造のアーチ型眼鏡橋になったのは、明治三十年代の末といわれるから「昇龍橋」も材質及び構造からその頃の建造と考えられる。
 橋名と大正四年の年記を持つ欄干は材質も異なるし、また經堂橋にはこの様な欄干はないので、橋の本体より後の建造であろう。
 おそらく、大正三年に大正天皇の即位の礼が挙行されたので、この御大典を記念して翌年、村社の参道の橋に御影石の立派な欄干を作ったのであろう。九月十七日は当時村社の祭礼の日であった。
 施行者は今泉で石工業を営み、現在も今泉石を切り出している石材店の先々代と推定されている。その技術は、古くから古くからこの石で民家の(かまど)や炭焼窯等のアーチを作ってきたことにより習得されたものであろう。なお、この地に旧上野村には梅沢橋という同種の橋があったが、現在は庄戸入口の道路の下に埋没している。
 道路の拡幅や河川改修で市内の石橋のほとんどが消滅した現在、この橋は市内最古の石造橋と考えられ、文化財として貴重なものである。
 ※1間=約180cm   一尺=約30cm
  四間四尺はおよそ8m40cm
 平成4年3月                   栄区役所


【白山神社】栄区東上郷町44−9

白山神社遷坐記念碑
     白山神社御由緒
   御祭神 伊弉册尊
   例祭日 九月二十七日
伊弉册尊は伊弉諾村の妃神にして、神代に始めて陰陽夫婦の神として顕現し給い、皇祖天照大神を始め、神羅万象を生成化育し給う大神なり。仰々、当白山神社は証善提寺文書の白山権現縁起等に由るに、人皇三十五代舒明天皇の御宇、本郷総鎮守として鍛治谷神戸の地に勧請し奉る大社にして、源頼朝鎌倉開府の時幕府艮の神として深く崇敬され、仁治元庚子年三月五日執権北条泰時は長尾郷飯島村に神領二町歩を寄進すと云う。人皇九十五代後醍醐天皇正中元甲子年九月十五日光明谷山厳山に遷宮し奉り、旧地に因み神戸と称す。その地は縁起に由れば、境内神領艮之方は峯を境、坤之方は田岸を境、巽之方出厳を境、乾之方坊前山下を境とし、社の東北一町に朝水の池と号するあり。神水森々として松風満耳。神徳現然として国家安寧、五穀豊穣、村中守護の霊地也と記している。相模風土記稿は、祭神伊弉册尊神躯九寸六分は舒明天皇の作らせ給いし物と云う。別当に旧くは実応坊、後証菩提寺其職を兼管す。神職は内田和泉と云うと記し、幾多の宝物神領も有したが現在は散逸して、安政六年建立の前社殿内に藏した享禄元年、天和元年の銘ある扁額が現存する唯一の史料である。是の如く当地域有数の由緒ある当社も近来衰運に向い、就中関東大震災の折、社地社殿の崩潰にあい、上野村百余戸の氏子一同その復興に努力したるも、故あって神戸に至る。而して第二次世界大戦前後の混乱期を圣て両社殿の損傷甚だしく、氏子一同再建を念じつつ三十余の星霜を圣たり。然るに近年当地の開発著しく、山林原野悉く大住宅地に変貌するに至る。天なる哉、命なる哉、永年の宿願ここに稔り御神威の発揚と郷土の和平発展の為、現地を最適地と撰卜し、所有者三井不動産の理解を得、前社地と等価交換による譲渡を受け、鈴木社寺工務店の施工により新社殿の完成を見、昭和五十一年十月二十七日秋天に一奌の雲なき佳日。史上最高の盛儀による遷坐祭を斎行し、神光彌髙きを拝す。願わくは白山大神冥加を垂れ給い、とこしえに守護し給はんことを。
   昭和五十二年九月吉日
       白山神社宮司 小池 泉 謹誌


【横浜御嶽神社】栄区上郷町1314

 嶽寛霊神像(横浜御嶽神社)【嶽寛とは御嶽信仰の全国普及に努めた普寛行者のことでしょうか?】


【日枝社】栄区犬山町1-6


【思金神社】栄区上郷町745-1

     由緒
当、思金神社の御祭神は八意思金大神(やごころおもいかねおおかみ)様です。
古書の神話によりますと。万物創造の神高皇産霊高皇産霊(たかみけすび)の神の御子神と称せられ天の岩戸隠れに於いては「神集いに神譲り」、神々の総代表の大役を真心の極みに遂行され天照大神様を天の岩戸よりお出まし願ったと云う神話に於てはこの特筆すべき「天の岩戸開き」を始め「天孫降臨、出雲の国譲り」等、尊大なる御働きをなされた八意思金大神様の御遺徳が忍ばれます。
日本書紀は八意思金大神様のお働きを深謀遠慮と表現し古語拾遺は深思遠慮と表現しております。
八意(やごころ)」とは「(こころ)」を開く事であり多くの意見とも申します。「(こころ)」を思い諮る事は高度の結びの御神性で有り常に天照大神様の「み意」を心として一切の私心(わたしごころ)を無にして仕え奉られたものです。
霊司八意思金大神様と讃えられ政治建設(建築、商工)知恵(学門)福徳成就の神と崇められる御神徳いや高い八意思金大神様を御祭神と仰ぐ、当神社は八意思金大神様の大いなる御守護の元に打ち開いて頂き、生きる毎日の生活を、「行」と心しつつ子孫に豊かな人生を頂戴いたし度いものと念じております。
      生きていることが「行」である。
      毎日の生活が「行」である。
      一生が「年季奉公」である。
        これを人生と云う。
           「思金神社格言」
              思金神社
各位


     石碑遷宮記念
当社は大正元年に思金神社様が初代宮司平野宝導に降臨され其の証として昭和三十年高知県幡多郡佐賀町に石碑が建立された。思金神社奥社として多くの漁民や町民が参拝し、其の後横浜に本社が移され降臨百年を吉祥として石碑を本社に遷座する運びとなり現在に至る。
      皇紀二千六百七十七年
      平成二十九年八月吉日
            思金神社
             宮司 平野正兼
                  絹子


 思金神社奥の院
 魚霊の碑(思金神社奥の院境内)
 水神社(思金神社奥の院境内)


【稲荷森稲荷社】栄区上郷町169


【子ノ神日枝神社】栄区若竹町31-3

子ノ神日枝神社新築記念碑
    子ノ神日枝神社々殿再建由来
子ノ神日枝神社は旧中野村の守護神として鎮座し
「子ノ神」は大己貴命(大国主命の別名)殖産興業の神
「日枝社」は大羽咋命(大年神の御子)文化開発の神
を祭神として仰ぎ其の創建は詳らかでないが、證菩提寺建武の書に子ノ神の名ある処より古社である事は証せらるゝも当時は「子ノ神社」と「日枝社」は別社であり其の合祀については此亦不詳である。しかし社伝によれば文明年間(一、四六九年)当時此の地を所管していた上杉関東官領が土地肥沃な㹨川流域の中央部(中野の里)の守護神として、此の両社を併せ祀り農業の振興を図ったと記されている。
斯くして明治の末期に神社制度の改革があり各神社ともに基本財産壱千円がなければ他社併合すべしとの布告があり、此れに対応し神社護持の信仰厚き地元氏子民二十五名外信徒が一丸となり、菩心惨胆して基本財産壱千円(当時上田坪当たり三十銭位)の募財を達成して合社を免れ村社に列格中野集落の鎮守神として村民の信仰を集めてきたが、その後大東亜戦争終結をへて昭和三十八年(一九六三年)第百土地㈱により附近一帯が住宅地として開発せらるに伴い社有山林等を一ヶ所に集約造成された。
爾来住宅の密集と人口の増加につれ氏子地域は中野、元大橋、若竹の三地域に分れ連合体を組織し新旧住民互に融和を計りつゝ神社運営に当たってきたが其の間激しい時流の変遷の中に、社殿も老朽化し神慮の程も畏しと氏子一同産土信仰の原点に立ち戻り浄財を集め、昭和六十一年一月(一九八六年)起工式と共に工事に着手し、以来日夜協力一致して事に当り、昭和六十一年十二月此処に荘厳な社殿と完備せる社務所の竣工を見、神域一新し神威灼然と輝き渡り誠に有難き極である。
時恰も、今上天皇、在位六十年の記念すべき時にも当り、一層その意義を深らしむるものである。
此も偏に神明の加護と、氏子一同の協同精神の発露の賜と感激に堪えず。
依って、子ノ神日枝神社の沿革と社殿再建の経緯を記して、永く後世に伝える所以である。
   昭和六十一年十二月吉日
     子ノ神日枝神社宮司 村岡忠四郎 謹誌


 石塔群(子ノ神日枝神社境内)
 淤母陀琉神(おもだるのかみ)訶志古泥神(かしこねのかみ) 神位(子ノ神日枝神社境内社)(= 第六天社)


【(鍛冶ケ谷)八幡神社】栄区鍛冶ケ谷1丁目13-24


【道祖供養塔】栄区鍛冶ヶ谷一丁目33

横浜市地域指定有形民俗文化財
 横浜道の道祖供養塔
     平成十一年十一月一日登録
 江戸時代には、鍛冶ヶ谷村の北側を通り日野村に抜ける道が狭く迂曲しており、また、度々用水路が溢れるため、交通の便を良くするため、道普請を行いました。完成時には道祖神を祭り供養塔として建てられました。背面には、その経緯が記されています。
 また、道標も兼ねており「弘明寺横浜道」と開港まもない横浜を示し、当時の鍛冶ヶ谷村の様子を知る上で貴重な碑です。
 なお、この道祖供養塔の当初の位置は、鍛冶ヶ谷村二丁目の一角に所在していましたが、平成十八年十二月に現在地に移設しました。
 平成十九年三月
         横浜市教育委員会


 以下、本日撮影のその他の写真です。


【参考】
 イヌガヤ Cephalotaxus hamingtonia
 ツワブキ Farfugium japonicum
 イワタバコ Conandron ramondioides
 サネカズラ Kadsura japonica
 センニンソウ Clematis terniflora
 キヅタ Hedera rhombea
 ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus
 カルガモ Anas poecilorhyncha
 カタバミ Oxalis corniculata
 ユウガギク Aster iinumae
 トネアザミ Cirsium comosum ver. incomptum
 ホトトギス Tricyrtis hirta
 イヌタデ Persicaria longiseta
 クロガネモチ Ilex rotunda

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