南区の神社など

 今日は、南区の神社を中心に歩いてみました。
【主な経路】
(日ノ出町駅)-子神社-横浜橋-金刀比羅大鷲神社-熊鷹大神-坂東橋-楠森稲荷神社-堰神社-お三の宮日枝神社-(中村町稲荷山)稲荷神社-白山神社-子神社-堀ノ内稲荷神社-(蒔田山ノ根)稲荷社-(蒔田)杉山神社-西森稲荷神社-若宮八幡宮-さくら橋-(弘明寺駅)


【子神社】中区日ノ出町2丁目132
 この地域には大黒天を祭った社がいくつかあるのですが、ここは日ノ出町駅から徒歩五分の子神社です。

 旧村社 子神社ねのじんじゃ
     由緒概要
創建は遠く推古天皇の時代(西暦六〇〇年頃)と伝えられる。中世の頃より赤門の東福寺が別当(兼務)として管理して来た。神社の古事や伝記は、たびたびの火災や内戦のたる焼失霧散してしまい、その間の事ははっきりしていない。この地域に伝わっている事には、この神社は昔。里鎮守とか不入人宮ひといれずのみやと稱していた。文禄三1594年の時、松平越前守が神社の霊地保護の為、御本社の四隅に禁制札を掲げ、人の入場を禁じた。享保八1723年には神社境内地を東西四十三間(約七八m)南北九間(訳十七m)と改められた。慶応元年(一八六八年)には、当時の太田村に原村西中村、上大田地区に祀られていた諸々の神社を合わせて祀ることになった。明治六年(一八七三年)七月村社に列せられる。(神祇院)大正四年(一九一五年)九月境内を拡張し諸般の設備を完成した。大正五年(一九一六年)十月十三日神饌幣帛料供進社となった。戦後には神社本庁に属する宗教法人と成る。


大国主命おおくにぬしのみこと子神社ねのじんじゃの由来
神話『因幡の素兎』で有名な島根県の出雲大社に祀られる大国主命は元来日本の国の神様(国つ神くにつかみ)の頂点で、国王でもありました。高天原に居られた天孫系の神々に(天つ神あまつかみ)に国譲りをされ、杵築宮きづきのみやに退かれました。その徳を慕い、全国多くの地に神社が創られ、位も高く祀られています。
大国主命のお遣いが(眷属)鼠・子に当るところから干支の十干・十二支の初めにあたる甲子(きのえね)の日に祭事を行っていた。(甲子大黒きのえねだいこく)(甲子祭こうしさい)六十日にその子の日が巡って来るところから、子の神様と俗に言われ、神社の名稱も子神社ねのじんじゃとなりました。同じ呼稱の神社として、子之大神ねのおおかみ子之権現ねのごんげんなどがあります。
大黒さまは元々仏教の戦闘神で、後に神道の大国主命と習合して七福神の一神として祀られました。


【金刀比羅大鷲神社】南区真金町1丁目3
 横浜橋商店街近くの金刀比羅宮です。拝殿の続き屋に伏見稲荷も祀られています。

横浜市南区真金町鎮座
金刀比羅 大鷲神社 由緒
祭神 大物主命  崇徳天皇
   天之鳥船命 手力雄命
   日本武命
 当社は遠く安政六年(一八五九年)六月二日横浜が開港するにあたり港崎町(現在の横浜公園)に讃岐国象頭山(香川県琴平町)に鎮座する金毘羅大権現として創建された。慶応二年十月二十日の火災に類焼され翌三年吉原町に御遷座し更に明治五年に再び高島町に七丁目の海側に遷座し、金刀比羅神社と社号を改正した。これより先すでに万延元年(一八六〇年)十月六日港崎町名主佐吉代要助はかねて神奈川奉行に差し出していた琴平神社の発令許可に請書を出している。明治六年三月には地方長官の認可を受け無格社として神社明細帳に登録されることになり更に明治十五年四月に今の真金町に移転されこれが現在の神域であります。本来当社は花柳街に勧請せられたのでありますから其の移転と共にしばしばの御遷座が行われたものと思われます。大正十二年九月の関東大震災、更には大東亜戦争の戦災に惜しくも社殿は炎上され昭和二十五年仮社殿再建、平成元年八月鉄筋コンクリート入り母屋造りに建設されたものである。
 酉の市行事は明治初年高島町に金刀比羅神社が遷座された頃、江戸吉原の例に倣ってお酉様を同社境内に末社として勧請されこれが大鷲神社のはじめである。この頃から酉の市祭は盛んで、「海運守護」「商売繁盛」の守り神として崇敬厚く現在は戦後金刀比羅神社と御同座して現在の社号に社名変更された酉の市祭事はもっぱら武士階級の祭りでもあったようだが酉の市祭事が商人や花街の根強い開運守護または福運を熊手をもってかき集める縁起から喜ばれ神徳高く毎年十一月の酉の日盛大に斎行され当日は数百軒の露天
商が立ち並び開運の熊手を受けらける善男善女で殷賑を極め独占的に年中行事として有名である。
 稲荷社 祭神 宇迦之魂命
京都伏見稲荷大社の御分霊を祀り五穀を司り万民に働く食生活を授け導き人民を利し幸福を与え「稼業繁栄」「心願成就」「五穀豊穣」の御神徳ありて万物生成の霊験顕著なるものとして信仰がある。毎年二月の午の日が例祭である。


横浜市地域無形民俗文化財
   酉の市
 金刀比羅神社の境内社である大鷲<おおとり神社で毎年十一月の酉の日に行われている祭事で「お酉さま」と呼ばれ、横浜の年中行事として親しまれています。
 大鷲神社は明治五年に高島町に創建され、明治十五年に現在地に移されました。
 祭神である天之鳥船命<あめのとりふねのみことの御名に由来する酉の市は創建以来、大鷲神社の例大祭として、また年の暮れの訪れを告げる年中行事として、商売繁盛や福運をかき集める縁起物の熊手を買い求める人々でたいへん賑わいます。
 平成二十八年三月
                 横浜市教育委員会


 すし塚について ~商売繁盛・食物感謝~
このすし塚は神奈川県内にて寿司屋を営む人々(神奈川県鮨商生同組合)の希望により当社に建立されました。日々の生計のために他の生き物を犠牲にせざるを得ない鮨業の人々がその供養と感謝を表す為に建立しました。皆様も日々食事する中での生き物に対する供養と感謝をすし塚にお祈り下さい。
                 金刀比羅大鷲神社


【熊鷹大神】南区白妙町1丁目
 小ぢんまりとしたお社です。大鷲神社の分霊でしょうか。


【楠森稲荷神社】南区三春台17
 境内には稲荷社が多数あり、昭和時代に創建とある白龍辨財天の祠もあります。南区の歴史(1976)の金石一覧には楠森稲荷由緒碑と白竜弁財天由緒碑が記載されています。

     白龍辨財天由来

當地久良岐郡西中耕地山頂は霊山の氣色濃厚にして楠森稲荷大明神鎮座ましまし御告げにより白龍様の御霊存するを知れ里。時恰昭和弐拾五年拾弐月拾四日瀧壺より辨財天能御姿現れ給ひ直ちに當山に安置奉り同月弐拾弐日参拝の折「人能造りたるものに御霊は存せん自然にとぞ御霊は存する御霊入れと美影能形の如し」の御告げ登共に御姿黒きものなりしが白龍様の御色になり給ふ。「即ち神業な里」爾来霊験顕著なり。
   昭和弐拾六年拾弐月弐拾弐日
           使者 木村清一
           奉納 石坂英清


【堰神社】南区山王町5丁目32
山王橋近くの神社です。小社ながら合祀多数です。

  お三の宮日枝神社末社
堰神社せきじんじゃ     御祭神 水速女神みずはやめのかみ
水に関する一切の事を守護する神として、もとは吉田新田の最西、大岡川の水の取入れの大堰かの側らに奉祀され、後に此の地に遷座された。爾来、堰と咳が同音であることから、咳の病に霊験あらたかと広く信仰を集めている。
 線香と赤紙の小旗を賽銭と共に供え祈願し、其の平癒にあたっては線香を添えて川に流す風習があった。
庚申社こうしんしゃ道祖社どうそしゃ  御祭神 猿田彦神さるたひこのかみ
天孫瓊々杵尊ににぎのみことが降臨の際に先導された御功神。其の故を以て、旅の安全や足腰の病の平癒無事を祈り、奉賽の印として草鞋や草履を奉納し、社祠の周囲に掲げておく慣しがあった。
長者稲荷社ちょうじゃいなりしゃ   御祭神 宇迦之御魂神うかのみたまのかみ
五穀豊穣をはじめ、諸行繁栄・家内安全の守護神。もとは吉田新田を開発した。
 勘兵衛の邸脇(今の長者町九丁目)に奉祀されたと伝わる。
  平成三十年五月吉日
                堰神社奉賛会


     「咳止め守」について
 「堰神社」は、吉田新田の用水堰の守り神として鎮座されましたが、「堰」が「咳」と同音であることから、いつしか咳の神様としての信仰を広く集めるようになりました。
 爾来、堰神社には堰の病に悩む多くの参拝者が訪れるようになったという事です。
 このお守りは、咳神様のご加護に肖って、咳などの気管支の病の平癒を祈願して奉製したものです。
 お三の宮日枝神社の授与所授与しております。   お三の宮社務所


【お三の宮日枝神社】南区山王町5丁目
 名木古木多数のお社です。

     由緒
一、鎮座地 横浜市南区山王町参拾弐番地
一、社名  日枝神社ひえじんじゃ
一、祭神  大山咋命おおやまくいのみこと
      宇迦之御魂神うかのみたまのかみ
      氏子はその昔苫屋の一寒村の吉田新田なりしも、現在宮元地区・寿地区・伊勢佐木地区、埋地々区の四十余ヶ町となれり
一、例祭日 九月
一、由緒 舊は山王社稲荷社と称し後西天皇の御宇江戸の住吉田勘兵衛良信公が横浜吉田新田百十六町歩の埋立大工事を完成するに方りも新田住民の守護と五穀豊穣とを祈願のため寛文十三年九月十日社殿を建つ。なお吉田新田は万治年間より工を起し十有余年の歳月と私費八千両を投じて出来しゅったいせり。埋立によりおさんの伝説を生みたり。
一、社職 角井職部尉藤原重勝初代神社主となり、尔来三百年現宮司に至り奉仕す
一、社宝 獅子狗 寛文十三年九月十日 吉田勘兵衛良信寄進
     大神輿 昭和九年氏子寄進
     神輿車 同右
一、附記 稲荷神社(旧稲荷社)は昭和五十二年六月二十五日日枝神社に合祀し社殿の一部は神楽殿に改装す


横浜市地域史跡
吉田新田鎮守(日枝神社)境内
          平成二年十一月一日登録
 日枝神社は、吉田新田の開発者である初代吉田勘兵衛良信が、江戸の山王神社を勧請し、新田の鎮守として寛文十三年(一九七三)に創建したもので、お三の宮の愛称で市民の間に親しまれています。吉田新田の地域は、現在の関外地区の大半を占め、中区伊勢佐木町をはじめ、南区にわたって四十ヶ町を数えます。神社境内には、延宝二年(一六七四)の手水鉢があり、社宝として木彫獅子狗が残されています。例大祭は、毎年九月中旬に盛大に行われています。
 平成三年三月
                     横浜市教育委員会


【中村町稲荷山神社】南区中村町4丁目282
 中村町の稲荷社です。稲荷坂を登り詰めるとと辿りつけないお社でした。

  再建参拾年記念碑
当稲荷山稲荷神社は正一位伏見大明神乙女大明神秋元大明神三大稲荷大明神を祀り其の歴史は古く横浜開港以前より稲荷山の山頂に祭祀され多くの市民の守護神として信仰厚し
昭和弐拾年五月廿九日横浜大空襲の災害に一切焼失したが故榎本幸太郎氏ほか中村四丁目有志多数の努力により現有地に安置す此乃度茲に中村町四丁目稲荷講結成参拾年にあたり之を記念し町内安全を祈願しつゝ建立する。
昭和五拾六年弐月初午健之 石川堅治 寄進


【白山神社】磯子区上町12
 この地域ではあまりみかけない白山社です。祭神については言及されていませんでしたが、白山信仰と関わるのであれば、縁結びに霊験あらたかな菊理媛命と思われます。

 白山神社の歴史
[起源] 白山神社の起源は、神仏分離令により寶積寺から別れて、明治初年、村民有志十九名の共有地[武蔵国久良岐郡根岸村字上四八五番地]に『白山神社』として、建立されたと伝えられている。昔は、『歯』の神様と崇拝され、ご神体は、『白蛇』と謂れ、毎年十一月十七日に、祭礼が行われて来た。境内の石塔は、文政十三年庚寅(一八三〇年)三月に建造され、『願主上村中』と刻まれているところから推して、二百年近い歴史のある神社である。
[変遷]  ===秘蔵されていた資料より===
一、明治二十三年(一八九〇年)十一月十七日 白米五合、上酒二本などを供え、祭礼が行われた。以来、毎年その日に祭礼が行われて来た。
一、明治二十八年十月五日 氏子講中の一ツとして『伊勢講』が開かれた。
一、明治三十三年二月 『稲荷講』が始まり、『御手洗石』が設置された。
一、明治三十九年十一月十七日 『根岸町字上氏子中』が、鳥居を建立した。当初の一は、百米位下の方で、大正六年二月九日に現在の位置に移築された。
一、大正四年十一月、御大典奉納の據集が行われ、一〇一名より浄財、金四拾五円六拾銭が寄贈された。
一、大正五年五月一日 社伝の大改修工事が完了(総費用 参拾弐円弐六銭)関係者二十二名より、寄付金が寄せられた。
一、昭和二年十一月十七日 参道の石段及び石垣の工事が施された。
一、昭和五十一年十一月十七日 戦時中・戦後の一字、中断していた講中を復活して、地主十九名の登記が完了して『氏子の会』を結成し、祭礼も復活することになった。
一、平成五年十一月十七日 社殿建替え並びに石段等の補修工事が完了して、竣工式が執り行われた。
一、平成十二年十一月十七日 『氏子の会』発足百十周年記念式典を盛大に開催して、記念し『上町・白山さまの歴史』を発行した。
一、平成十六年九月 土地の共有者十五名の総意により、原点に還り、境内の土地を寶積寺に委譲した。今後は、上町々内の有志にて『白山さまの会』を結成して、管理・運営を行うこととなった。
一、平成二十年十一月十七日 明治三十九年十一月に建立された鳥居は関東大震災にも耐えてきたが、老朽化してきたので白御影の美しい鳥居に建て替えられた。
一、平成二十二年十一月十七日 『上講中』発足(明治二十三年(一八九〇年))百二十年を迎えたので「続上町白山さまの歴史」を発刊し例大祭を開催した。
     平成二十二年十一月十七日
                   白山さまの会


【子神社】南区堀ノ内町2丁目134
 南区堀ノ内の子神社、字柿ヶ谷に鎮座した杉山神社が合祀されています。御神木のイチョウで結構大きな樹ですが、名木古木には登録されていないようです。

鎮座地 横浜市堀ノ内町2-134番地
御祭神 大国主命・倉稲魂命
御神徳 産業加護・医薬・縁結びの神
由緒  昭和20年4月15日戦災により全焼して創立何月日不明なるも古老言によれば………、起源は磯子区岡村の三殿台の山続きであること等により古墳時代と推定される。何時の頃から江戸時代までは室生寺別当が兼帯したが明治16年2月村社に列せられる。戦後宗教法人となり昭和28年に氏子中の協力により本殿、社務所、神楽殿が復興して今日に至る。
例祭日 毎年8月25日・26日頃
御神木 いちょう 樹齢約500年余
※地鎮祭・初宮等各種祈祷お受け致します。
     子之神社 社務所


【堀之内稲荷神社】南区堀ノ内2丁目211

 蒔田城跡近くの稲荷社。境内社としての稲荷社も多数です。


  堀ノ内稲荷神社の由緒沿革
この地域は、お稲荷さんの祠の多い処でした。
大正時代には神道系・扶桑教の教会となりました。
同時に紋栄講も設立されました。
昭和三年に京都の伏見稲荷大社より正一位稲荷の御分霊を賜りました。昭和二十八年に宗教法人となるに際し名称を堀ノ内町の町名をとって堀之内稲荷神社となりまして、現在に至っております。
 御祭神 宇迦御霊大神
 御神徳 五穀豊穣・家内安全・商売繁盛
 例祭日 五月十三日(現在 前の日曜日)
 付属の建築物 本殿  昭和四十一年に改築
        参集殿 平成十年に改築
        招魂殿 平成九年に改築
        教化事業 付属 三星幼稚園
        (昭和二十三年創立 平成七年建替)


【稲荷社】南区蒔田山ノ根
 蒔田の森公園に隣接する稲荷社です。


【(蒔田)杉山神社】南区宮元町3町48
 蒔田の杉山神社です。平日の昼間は幼稚園となっていて立ち入れ禁止ですので、今日初めて境内に入ることが出来ました。


【西森稲荷大神】南区蒔田町原105
 境内には、田ノ原大黒天の小詞もありました。

     西森稲荷大神 ご由緒
西森稲荷神社は古くは蒔田稲荷、大原稲荷として農耕食物の御神徳与える豊受大神を奉斎して来ました。江戸の時代においては除地として租税免除の区域とされ、明治の時代に神仏混合分離制度また神社合祀令発布により杉山神社(南区宮元町)に合祀される事になりました。
『数百年来の此の地を離れることを惜しみ合祀により廃社すると云えども神霊はなお此の地に静まり給う』
御神託を受け、蒔田町の有志らが合議を重ね旧文部省教会所制度に改めて官許を得、西森稲荷大神を奉斎し、杉山神社神職がこれを兼任する形となりました。
当神社の御神徳の評判は遠く房総方面にも響き。それを証明する供物や日清日露戦争の戦勝祈願の記録を現在に伝えています。
また1923年(大正12年)の関東大震災では大岡川・中村川区域が八割以上の全壊に見舞われたにも関わらず奇跡的にも当社区域は類焼を免れました。
また別の時代には神狐の声に目を覚ました神職が山上の神殿に火災の類が及ぶのを未然に防いだ事もありました。
以下は当時の人々が西森稲荷大神の御神威を崇敬した言葉であります。
〇思うに一に祈願信仰者の真心によって、また稲荷大神の御神徳霊験の顕著なるを知るべきなり
かくの如き広大無辺極まりなき御功徳の大神がいらっしゃるなら此の世の生きとし生けるもの全てが大神のご加護を受け、人々がその御威光を仰ぐだろう
※ 注 現在当社は金刀比羅大鷲神社(南区黄金町)の兼務社です
          昭和11年に当社氏子崇敬者たちにより記す


おもかる石
古来より伝承された占いです
御真言
神威如嶽しんいじょがく
神恩如海しんおんじょかい
右の御真言を三回唱えて願い事を念じ持ち上げて下さい。軽く感じたら願い事が叶います。
     合掌
平成七年十月吉日
  郷社西森稲荷教会


【若宮八幡宮】南区大岡1丁目5-1

   若宮八幡宮御由緒
御祭神 大雀命おほさざきのみこと(仁徳天皇) 誉田別命  武甕槌命
    天照皇大神     道志留邊命 猿田彦命
    伊邪那美命     市杵島姫命 事解男命
御神徳 大雀命(仁徳天皇)は、往古国民に衣食住の道を教えられていたが、或る年高殿に上られ四方を見渡したところ、冷害続きによりどの家からも竈の煙が見えず。多くの国民が食することに困窮していることを知り、天皇ご自身が質素倹約に努められると共に、向こう三年間の税の納付を免せられ、その三年後に国民の生活が多少豊かになったのを喜び、更に三ヵ年間の免税を実施され、国民と共に国家の創建に力を尽くされた方で、生命の充実、発展の御守護を土台として、国の護り、産業、事業のみちをお授け下さった神様であります。
由緒沿革 源頼朝が鎌倉に幕府を開くにあたり、武蔵国久良岐郡(横浜市の南部地
域)の今の地が、鎌倉の鬼門にあたるので、厄除け鎮護等の目的をもった数ヵ所に社寺を創建しましたが、そま一つとして当若宮八幡宮は、建久四年(西暦一一九三年)九月七日鶴岡八幡宮の境内社である若宮八幡宮の別宮として創建されたと伝えられています。当初は若宮八幡大神と号し、神佛習合の社で永く久良岐郡大岡川村下大岡の鎮守として、諸人の崇敬が大変厚く、建立以来今日に至るまで凡そ八百余年の間、平和と豊かな生活即ち天下泰平、五穀豊穰の祈りの庭として、また、氏子の魂の尊厳を自覚する聖域として護持されて来ました。永禄七年、北条氏康の命によって灌大僧正源秀天が当若宮八幡宮の別当となり、寶積寺と稱して以来現在に至っています。明治六年村社に列せられ、明治三十九年には神社統合の趣旨に基づき、近隣八社の氏子信徒が協議の上、明治四十一年十一月二十五日若宮八幡宮に合祀され、十九ヶ町の総鎮守となりました。昭和二十二年(西暦一九四七年)第十七代寶積育三宮司は、第二次世界大戦後の道義の弛緩、思想の低下、世情の混迷頽廃を憂い、十九ヶ町の氏子有志と協議し、若宮八幡宮奉賛会(渡部清治会長)を組織し、神威の加護のもとに恒久の平和を祈願し、併せて祖国再建の成就を念願し、由緒深きこの宮を維持し愈々神威顕揚に奉仕し、念願達成に努める事としました。昭和三十六年、祖先が建立した床しい茅葺きの社殿もいたく古し。風雨に耐え難くなったので、時の寶積一郎宮司のと二代目奉賛会加藤五十春会長及び氏子十九ヶ町奉賛会理事との協議により、氏子各位からの浄財を仰ぎ、社殿等の御造営再建を行うことを決め、現在の本殿(鉄筋コンクリート造)幣殿拝殿(銅板等木像八幡造)及び神楽殿、社務所が昭和三十九年十月に再興され今日に至りました。平成六年は、宮社造営三十周年を迎えるにあたり、記念事業を興すべく三代目奉賛会種田百一会長はじめ氏子が総意を結集し、その記念の一つとしてこの若宮八幡宮由緒碑及び若宮招魂社由緒碑を建立したものであります。
大祭  八月第四土曜日及び日曜日
中裁  一月七日・五月七日
小祭  除夜祭 元旦祭
月例祭 毎月七日
天満宮・伏見稲荷大明神・浅間神社・若宮招魂社


  若宮招魂社由緒
御祭神 第二次世界大戦(昭和十六年十二月から昭和二十年八月まで)において、氏子十九ヶ町の地域から出征し、戦没された軍人、軍属、看護婦さん等四百八十余柱の方々をお祀りしてあります。
由緒  昭和二十七年(西暦一九五三年)時の寶積育三宮司は、若宮八幡宮奉賛会初代会長(渡部清治氏)並びに奉賛会理事等と協議し、かつ、末永くその栄誉を讃えるため建立したものであります。


 その他、本日撮影の写真です。

【子育地蔵尊】中区伊勢佐木町7丁目
安産子育地蔵尊(一六地蔵尊)由来
 富山県出身の僧、奥田眞眠が明治三十七年この地に、横浜善光寺別院を創建し、子宝が授かりすくすくと丈夫に育つようにと現世利益の守り佛として、お地蔵様を安置されました。そのお姿は左手に嬰児を抱き、左手には錫杖を持たれた坐像であり、信仰を広く集めていらっしゃいましたが、大正十二年、九月の関東大震災、昭和二十年五月の横浜大空襲と未曽有の大災害を我々市民と共に二度も受難されました。震災、戦災の供養もこめ霊験あらたかと信仰され、一と六のつく日に縁日が行われることから「一六地蔵」とも呼ばれ、今でも親しまれております。
御利益はどなたにも及んでおります。
   安産子育 恋愛成就 授かり祈願
   家内安全 交通安全 商売繁盛


【参考】
 光のモニュメント(大通公園光の波間広場)
 キンレンカ Tropaeolum majus
 子育地蔵尊(勢佐木町7丁目)
 万治橋、南吉田橋、駿河橋、記念碑(富士見川公園)
 道慶地蔵尊
 ガクアジサイ Hydrangea macrophylla f. normalis
 庚申塔(南区山王町5丁目32)
 マルバストラム Malvastrum lateritium
 月下美人 Epiphyllum oxypetalum
 ブライダルベール Gibasis pellucidia
 さくら橋

【文献】
 南区の歴史発刊実行委員会(1976)南区の歴史、650p.

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