アジサイ開花状況、等-イングリッシュガーデン他

 少し早いかなと思いつつ、横浜イングリッシュガーデンなどで開花状況を見てきました。ヤマアジサイ、ガクアジサイは開花が始まっていますが、多くの品種はまだ開花には至っていませんでした。品種名等は自称を参考にしておりますが、多少なりとも疑問ありです。恐らくアジサイ類は殆どすべて『アジサイ』としているのでしょう。
 今日は、夜間は立ち入り禁止となってしまう蒔田の森公園にも立寄ることが出来ました。


アジサイ Hydrangea spp.
 アジアン・ビューティー・紅 ‘Asian Beauty Beni’
 星花火
 天竜千鳥
 青覆輪清澄沢 ‘Ao-fukurin-kiyosumi-sawa’
 ブルービッグボール
 雨に唄えば ‘Ame-ni-utaeba’
 渥見絞り
 ウエディングドレス
 ポージー・ブーケ・グレース
 ホワイトダイヤモンド
 土佐の楽園
 綿帽子
 藍姫
 雪てまり
 肥後錦
 マリーテレーズ
 ユングフラウ ジェミニ
 新朝日
 ポージー・ブーケ・ララ ‘Posy Bouquet Lala’
 初恋
 ポージー・ブーケ・エヴィータ ‘Posy Bouquet Evita’
 フラウ・ノブコ ‘Frau Nobuko’
 ソレイユ
 アラモード ‘A La Mode’
 マジカル・ルビーレッド
 サンセット ‘Sanset’
 マジカル・コーラル ‘Magical Coral’
 カメレオン・ハイドランジア
 千代女 ‘Chiyojyo’
 ミスサオリ
 泉鳥いずみどり
 綾波
 フラウ・マリコ ‘Frau Mariko’
 エンドレスサマー
 ゼブラフラミンゴ
 ピンキーリング・ピンク
 火渡り
 エンジェリカ
 旭の舞姫
 フェアリーアイ
 万結珠まゆだま
 スパイク・ブルー
 フェアリー・キッス
 恋物語
 沙良レッド
 シルキーホワイト
 春よ恋
 ハワイアン・ファーストレディ
 雷電
 ダンス・パーティー
 天使のほっぺ
 マジカル・グリーン・ファイアー

ガクアジサイ Hydrangea macrophylla f. normalis
 ’白斑入りガクアジサイ’ 恋路が浜 ‘Shiro-fuiri Gaku-ajisai’
 ’花火アジサイ’ (墨田の花火) ‘Hanabi-Ajisai’
 ’初霜’ ‘Hatsushimo’
 ’黒軸アジサイ’ (ニグラ) ‘Kurojiku Ajisai’
 ’大和アジサイ’ (古代紫) ‘Yamato Ajisai’

ヤマアジサイ Hydrangea serrata
 (ヤマアジサイ韓国型) ‘海峡’ ‘Kaikyo’
 (ヤマアジサイ西日本型) ‘剣の舞’ ‘Tsurugi-no-mai’
 (ヤマアジサイ西日本型) ‘伊予獅子てまり’ ‘Iyo-shishi-temari’
 (ヤマアジサイ東日本型) ‘静香’ ‘Shizuka’
 (ヤマアジサイ西日本型) ‘土佐童’ ‘Tosa Warabe’
 (ヤマアジサイ西日本型) ‘白雪姫’ ‘Shirayukihime’

カシワバアジサイ Hydrangea quercifolia
 ’リトル・ハニー’ ’Little Honey’
 ’スノー・フレーク’ ‘Snow Flake’

ジョウザンアジサイxヤマアジサイ ‘桂夢衣’ Dichroa febrifuga x Hydrangea serrata ‘Kamui’


以下は、アジサイ類以外の写真です。


バラ
 安曇野 Rosa ‘Azumino’
 ローテ・マックス・グラフ ‘KORmax’ ROTE MAXGRAF
 ピュール・カプリス ‘Pur Caprice’

セイヨウバイカウツギ Philadelphus satsumi
ハナタバコ ‘ライムグリーン’ Nicotiana alata ‘Lime Green’
(八重咲)クレマチス Clematis白万重しろまんえ
ヒメリンゴ(クラブアップル) Malus x cerasifera
イガグリスゲ Carax grai (オニスゲ Carex dickinsiiの品種か?)
(八重咲)ドクダミ Houttuynia cordata
ヒメシャラ Stewartia monadelpha
アベリア ‘エドワード・ゴーチャー’ Abelia ‘Edward Goucher’
ソヨゴ(雌花) Ilex pedunculosa
クリ Castanea crenata


  蒔田の森公園
平成9年、森正勝氏から、庭園、林等、約7,000m2の土地を横浜市に寄付されました。横浜市では、この貴重な緑を保全して次世代に残すため蒔田の森公園として整備しました。
————————– 蒔田の歴史 ————————–
 戦国時代。武蔵世田谷(東京都世田谷区)一体を支配していた足利市の流れを持つ豪族、吉良氏が蒔田に移り住んだことが、蒔田城の始まりです。蒔田の城は「蒔田御所」、「蒔田殿」などと呼ばれていました。
 蒔田城のあった場所は、現在の横浜英和学園校地で、城の形状は、天守閣や石垣のある近世城郭ではなく、土塁や空堀をめくせらした簡単なもので、丘陵城郭と呼ばれるものです。本丸は学園の礼拝堂の辺りで、その南に天守台があったとされています。
 当時この蒔田の森公園一帯は、蒔田城の馬場があったといわれ、「馬場のもり」(ばんばのもり)、「馬場谷」(ばばやつ)と呼ばれていました。
 第二次大戦時には、清水の豊富な敷地南側の山の中腹にある防空壕に、空襲を避けて、家を失った多くの人が生活していました。
 また、戦後には、庭に遊具などを設置して解放され、近所の子供たちに「森自動公園」と呼ばれて親しまれていました。     平成12年3月 横浜市緑政局


【平沼神社(水天宮)】西区平沼2丁目8-20

  平沼新田と平沼神社(水天宮)の由来
 平沼新田は、帷子川下流地帯の新田のうち、江戸時代の最後に、その最先端に開かれた。今の平沼一・二丁目西平山町あたりである。平沼家は、常陸(茨城県)の出身で、明暦年間(一六五五~一六五八年)に保土ヶ谷宿に移って代々造酒業を営んでいたが、天保十年(一八三九年)五代目平沼九兵衛が埋立を始め、七代目九兵衛の時に大成した。七代目九兵衛は二十二才の時文久三年(一八六三年)平沼新田に移住し、新田開発のかたわら製塩業を営み、明治に入ってもなお新田の築造を続けた。平沼神社は天保十年九月五日に五代目九兵衛が新田の守護神として創建した。もとは、水天宮と称したが、明治の初年に平沼神社と改称し村社に列せられた。言い伝えによると、この新田の住民の多くは製塩業に従事していたが、或る日その一人が海水取り入れの水路に水天宮の御札(御魂みたま)が流れ着いているのを拾い挙げこれを地主の九兵衛が神の啓示とその場所(今の元平沼橋のあたり)に祠を作って水天宮を祭ったのが始めである。その後も市街地の発展によって、三度も位置を変え、大正二年(一九一三年)に今の境内に社殿を造営し現在に至っている。
水天宮は、「水徳の神」として安産や水難・火災よけに霊験があるとされることから、大正十二年九月一日の大震災に、四辺は猛火の中に包まれたが、危く奇跡的にも厄を免れたと言われ、また、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲にも難を免れている。大祭は九月五日に催されるが、正月五日の「湯の花神事」(湯立行事)は特に有名である。神主が大釜の熱闘に浸した笹葉を持って参詣人の頭上に放轍する。この熱湯を浴びた者は、その年は無病息災とされる。
 祭神は天之御中主大神あめのみなかぬしのおおかみと安徳天皇
   昭和五十四年六月     西区観光協会


【岡野神社】西区岡野2丁目4-15
 横浜イングリッシュガーデン近くの岡野神社です。説明板等はないのですが、拝殿内に由緒書きがありました。

     岡野神社 縁起【拝殿内の扁額より】
   一.祭神 大物主神
          稲荷大神
 弘化四年1847年(約百四十年前)末年正月、三河國碧郡川島村太田佐兵衛なる人、武蔵國久良岐郡横浜浦にて新田開発を計画、讃岐國象頭山金毘羅大権現へ祈願し艱難辛苦の末遂に成功したので神助に感謝し、象頭山へ登山その御神体を受けて新田総鎮守として崇敬し、日夜奉仕した。
 かくして年々三月、十月各十日を以て祭日と定めた。
 安政六年末年中当地御開発港中の御地所拝借人総代太田屋新田農夫総代等申し合わせ同年十月十日大祭を執行し、更に太田新田の太田町一丁目より同八丁目迄入舟町と改まり、以上九ヶ町の総鎮守と崇め奉った。
 慶應二年寅年十月廿日末廣町より出火、大火の為御用地となり、その替地として現在の尾上町二丁目に至る場所即ち旧緑町に移轉した。
 明治六年閏年中相生町三丁目より出火、その折当社も類焼にかゝったので伊勢山に鎮座したが、偶々大正十二年九月一日の関東大震災に遭遇し神殿を悉く焼失した為、昭和三年二月、中区新山下町三丁目五十二番地の場所に移転の止むなきに至ったのである。
 元来岡野の里は、往時入海で旧記によれば、天保の初頃より陸地少しく現れていた。時に保土ヶ谷駅字帷子の里に住していた岡野勘四郎氏が埋立てを始め、次々に新田として開拓したもので、明治三十四年四月横浜市に編入せられ現在の様な地形となったが住する者は未だ少なかったのである。然し土地発展の為追々来り住む者が増えて来た事は喜ばしい事であった。
 こうして町の將来の為、又、敬神崇祖の念を髙める為にも一神社を創立する事こそ急務なりと町民は念願していたが、大震災により止むなく遷延していた。
 昭和三年頃より町内役員は勿論、町民全体として、神社を奉安し敬神を枢軸としなければ人心の和合も期し得ずと、町民大会を開き変則乍ら假に昔より、この處に鎮座していた庭内私祠豊川稲荷社を町内の社と定め敬神の誠を捧げて来たのである。
 かく次第に敬神の念が町内全体に篤くなったので、時の宮司磯崎直有氏子総代伊佐栄助氏等協議の結果、昭和十五年十二月七日横浜市長青木周三に願出で、神奈川縣知事松村光麿の許可を得、無格社金毘羅神社移轉の件並に豊川稲荷社を併せて「岡野神社」の設立をみたのである。
 昭和二十年五月二十九日大空襲の為戦災を受け焼失したのであるが氏子崇敬者熱誠により、昭和二十七年八月、現在の御社殿が建立せられ竣工奉告祭が盛大に執行せられた。
 当神社は、右の縁起の如く昔より横浜の主神にてその鎮座した所は皆殷賑いんしんを極め営業の繁昌、家内安全。五穀豊穣、誠に霊験あらたかで、当初の崇敬者太田佐兵衛の様にその念願して叶わざるなき尊神である。
 当神社縁起は、昭和三十三年七月、横浜開港百年記念に岡野神社奉賛会が設立され、委員横山鹿次、伊佐圭輔両氏が起草作成され、文章は、文語体候文であった。
そして全文を欅製の板に宮司が浄書し御社殿の前に掲示したのであるが、久しき年月と共に風雨にうたれ、文字も消え、判読困難の為今般口語体に改め、こゝに掲げたのである。
   昭和五十二年八月 大祭の日
          岡野神社宮司 嶽山寛忠 謹書

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