今月、職場が移転することになる神奈川区を歩いてみました。神奈川区は、旧東海道沿いに寺社が点在していて名木古木が残されている地区で、浦島伝説縁の地でもあります。
名木古木 神社 坂道 アート作品
モッコク Ternstroemia gymnanthera
田中家:台の坂
センリョウ Sarcandra glabra
イチョウ Ginkgo biloba:横浜市指定名木古木 No.48049
表忠碑:権現山合戦の跡(幸ヶ谷公園)
ヘボン博士施療所跡碑
イチョウ Ginkgo biloba:横浜市指定名木古木 No.49025
ケヤキ Zelkova serrata:横浜市指定名木古木 No.49026
イチョウ Ginkgo biloba:横浜市指定名木古木 No.48050
心:岡 弘 作
宇宙からの手紙 1990 新宮() 晋()
テクノウェイブ100
テクノウェイブ100
浦島伝説供養塔
紋章(蓮法寺山門の扉)
サザンカ Camellia sasanqua
みなとみらい方面(大阪坂より)
大阪坂
(白幡仲町)八幡神社
ケヤキ Zelkova serrata:横浜市指定名木古木 No.49036
クスノキ Cinnamomum camphora:横浜市指定名木古木 No.49037
ダンドク Canna indica
権兵衛坂
セイヨウヒイラギ Ilex aquifolium
ヒマワリ Helianthus annuus
◎甚行寺
甚行寺は、真色山と号し、浄土宗高田派に属す。明暦二年(一六五六)第一世意圓上人が本山修善寺の第十四世堯秀上人を招いて、この寺を草創したと伝えられる。
開港当時、本堂は土蔵造りであったが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれている。
大正十二年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失し、さらに昭和二十年の横浜大空襲にも再度全焼した。その後、昭和四十六年に本堂・客殿を鉄筋コンクリート造で再建し、現在に至っている。
権現山合戦の跡
永正7年(1510)北條早雲が当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田
蔵人()を味方にしてここにとりでをきづかせた。上杉
朝良()ら二万の大軍がとりでを囲み合戦が十日間も行われたと言う。
その結果上田勢が敗れた古戦場である。また安政年間のお台場づくりなどの埋め立て用土に山がけづられて低くなった。
昭和54年3月 神奈川区役所
◎
宋興寺()
曹洞宗宋興寺は、上の『
神奈川駅中図会()』では、
権現山()の麓に描かれている。
開港当時、アメリカ人宣教師で医師であったヘボン博士がここら
施療所()を開いた。これを記念する石碑が境内にある。
このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽力した人である。
(熊野神社)御神木 公孫樹
樹令四百年 昭和四十八年 横浜市名木古木指定
慶応四年(一八六八年)神奈川県大火昭和二十年(一九四五年)戦災に焼失したが見事に再生し、毎年秋にはギンナンがみのり、俗に「火防のイチョウ」として広く親しまれている。
社務所
心:岡 弘 作
ニューステージ横浜の竣工を記念して、日本カーボン株式会社の発祥の地に世界唯一のカーボン彫刻を創作した。本作品の考案者は工学博士石川敏功で、人造黒鉛材にニカロン(炭化けい素繊維)の原料を含侵、台座にはレスボン(不浸透黒鉛)を使用している。
平成6年3月
東京建物株式会社
日本カーボン株式会社
㈶石川カーボン科学技術振興財団
横浜市地域有形民俗文化財
浦島太郎伝説関係資料
平成七年十一月一日登録
所有者 |
宗教法人蓮法寺() |
宗教法人慶運寺() |
所在地 |
神奈川区七島町二一番地 |
神奈川区神奈川本町一八番地二 |
登録資料 |
伝供養塔 三基 顕彰歌碑 太田唯助作 一基 |
本尊浦島観音(旧観福寿寺()) 一躯 浦島父子塔(旧観福寿寺旧在) 一基 浦島寺碑(旧観福寿寺旧在) 一基 |
横浜市神奈川区にも伝わる浦島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考えられますが、同寺は慶応四年(一八六八)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。しかし、『江戸名所図会()』『金川砂子()』などの文献には縁起に関する記述がみられます。
それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が二〇歳余りの頃、澄の江の浦から龍宮にいたり、そこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り、父母のことを訪ねたところ、三百余年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。
この浦島太郎伝説が伝わっていた観福寿寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(神奈川区神奈川本町一八番地二)と、大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた蓮法寺(本寺)に残されています。
蓮法寺の供養塔三基は、若干の欠損と近年にいたって手の入った形跡が認められますが、浦島伝説を今日に伝えるものです。
横浜市教育委員会
八幡神社御由緒
鎮座地 横浜市神奈川区白幡仲町十三ノ二五
(旧白幡仲町一三八番地)
御祭神 応神天皇(譽田別尊())
境内地 七六五坪
旧社格 村社(明治六年指定)
例祭日 八月吉日
沿革 御創建については詳でないが句碑によれば、源義家公奥州征討の途次この地に立寄られ戦勝を祈られた。その後社祠()が建立されたと伝えられる。鎌倉時代、神奈川領は鶴岡八幡宮領であり白幡村の鎮守として奉斎されたものであります。旧社殿は嘉永四年(一八五二年)八月に再建せられ、また文久二年(一八六二年)の棟札が残されています。明治以後、神佛分離により神奈川町熊野神社にて兼務す。明治六年村社に列せられ、大正十二年九月一日の大震災により大破し、昭和四年九月現社殿を再建し、神饌幣帛料供進社に指定せられました。戦後は、氏子崇敬者の協賛を得て奉賛会を結成し、社殿、神楽殿の修復、社務所の新築、境内の諸整備をなし、白幡町一円の総鎮守として元旦祭、春秋の祭事、八月の例大祭などを齊行し御神徳の昂揚に努めています。
宮司 照本力誌
氏子戸数 約四千戸
名木古木 欅(けやき) 樹齢約三五〇年(横浜市指定)
楠(くすのき)樹齢約一六〇年(横浜市指定)
附記 一、建武元年(一三三四年)松蔭寺吉図
二、安永八年(一七八〇年)岡山県興津郡
金川町七曲神社勧請本記に所載
三、文化十三年(一八一七年)
新編武藏風土記稿に所載
「八幡社村ノ中央丘上ニアリ九尺二間南向ナリ神体ハ木ノ立像ニテ長八寸バカリ作シラズ社前二石ノ鳥居ヲタツ例祭年々九月五日ナリ昔ハ神奈川町能満寺ノ持ナリシガ近キ頃ヨリ村持トナレリ」とある。
四、天保三年(一八三三年)江戸名所図会に所載
【参考】
モッコク Ternstroemia gymnanthera
田中家:台の坂
センリョウ Sarcandra glabra
イチョウ Ginkgo biloba:横浜市指定名木古木 No.48049(真色山清浄光院甚行寺)
表忠碑:権現山合戦の跡(幸ヶ谷()公園)
ヘボン博士施療所跡碑
イチョウ Ginkgo biloba:横浜市指定名木古木 No.49025(開塔山日輪院宋興寺)
ケヤキ Zelkova serrata:横浜市指定名木古木 No.49026(開塔山日輪院宋興寺)
イチョウ :横浜市指定名木古木 No.48050(熊野神社)
心:岡 弘 作
宇宙からの手紙() 1990 新宮() 晋()
テクノウェイブ100
浦島伝説供養塔
紋章(蓮法寺山門の扉)
サザンカ Camellia sasanqua
みなとみらい方面(大阪坂より)
大阪坂
(白幡仲町)八幡神社
ケヤキ Zelkova serrata:横浜市指定名木古木 No.49036(八幡神社)
クスノキ Cinnamomum camphora:横浜市指定名木古木 No.49037(八幡神社)
ダンドク Canna indica
権兵衛坂
セイヨウヒイラギ Ilex aquifolium
ヒマワリ Helianthus annuus