蒼穹の下魚隣耀きし地碑

 昭和43年7月25日横浜市議会の議決により決定された金沢地先埋立事業は、金沢区の富岡から乙舳に至る約660万平方メートルを対象とし、昭和46年3月15日に起工式を開催しました。事業は北の1号地から順次開始し、海の公園や八景島を含む3号地は、昭和49年に着工、昭和63(1988)年に完成、その辺りの経緯を知ることのできる碑が、柴漁港碑前交差点近くに残されています。

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【碑文】
蒼穹の下魚隣耀きし地
 横浜市長 細郷道一書

金沢地先埋立事業の推進に貢献した細郷さいごう道一みちかず市長の書。

【由来】
 傳承によれば、柴町は鎌倉時代この地の東方に長浜千軒と誇稱された村落が在って、応長元年に津波で民家の悉くが流出し、その難を逃れた漁民が良い越場として転住し、ここを小柴村と字して漁業を続けてきたとのことである。
 遠くに房総の山々を望み、緑濃い丘陵地を背に砂浜続く波静かな海に、資源豊かな漁業を持った私共柴漁業協同組合の組合員は、祖先より受継いだ文化と土地と漁場を誇りをもって守り育ててきた。
 昭和四十六年一月二十九日苦悩の末、横浜市発展のための大乗的見地から、蒼穹の下「魚隣耀きし海」が、金沢区地先埋立事業によって新しい台地に生まれかわることに合意した。
 かつてこの地先では地曳網漁や打瀬網漁、潜水器漁、海苔養殖等々が盛んに行われた。 金沢八景の一つ「乙舳の帰帆」は、夕日に映えて波間に浮かぶ柴の打瀬船の帆を詠んだものといわれ、四季折々に多くの魚や貝が獲れ、のり篊は、秋から冬の風物詩となり、春は潮干狩、夏は海水浴と、大勢の人々が遊んだ海も今は大地となって町名も柴、福浦、幸浦、並木となる。
 亦柴漁民の協同組織体として明治三十五年十一月に創立した柴漁業組合は、昭和十一年十二月法律改正により柴漁業協同組合となり、更に昭和十九年五月柴漁業会に、次いで昭和二十四年十月再び柴漁業協同組合となって、今日の柴漁業発展の基盤となった漁港をはじめ多くの諸施設を整備し、県下有数の総合單協として漁民の社会的経済的地位の向上に努めてきたが、昭和五十六年十月十五日横浜市漁業問題対策審議会の答申に副って、永年の誇りある歴史に幕を下ろし発展的に解散をした。
 今ここに多くの先人の労苦に感謝の意を捧げると共に、この大地の下に眠るかつての豊かな海と、賑わった柴漁港の往時を偲ぶよすがとし柴漁業協同組合の名を永く後世に傳えることを希ってこの碑を建てる。
昭和六十三年十月吉日
 柴漁業協同組合建之
  元参事 天田 茂 撰文

【参考】
 鈴木ら(2009)沿岸部の埋立事業にともなう周辺地域の変容-横浜・金沢地先における事例-, 地理誌叢,20:2,1-16.

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