三浦半島での地神塔の分布は、逗子、葉山、横須賀北部辺りが境界域となっていると思われます。このエリアはこれまで何度も通りかかっているのですが、今日は念のため逗子で確認してきました。
三浦半島の道祖神と地神 (堅牢)地神塔マップ (作成中) 地神(地天)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 戸塚区(2023-01-21)
桜山道祖神:逗子市池子2丁目1-5
社屋内に祀られているようですが、施錠されているので未確認です。隣接して設置されている石塔群のうち一基は、明治42年の建立で『道祖大神』と『猿田彦命』が連名となっているので、道祖神とも庚申塔、あるいは両方を兼ねているとも取れる碑です。
地蔵山石塔群:逗子市桜山5丁目1
多くは、庚申塔と馬頭観音ですが、一番手前は堅牢地神塔で、
石塔群:亀岡八幡宮(逗子市逗子5丁目2)
境内に集められている石塔群の一番左が堅牢地神塔で、
路傍に青面金剛を祀って、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿を刻んだ庚申塔がある塚を庚申塚といいます。
昔は鳥居の外側の路傍にありましたが、昭和二十年代末期に行われた道路拡張工事でここに移されました。
中国の道教に由来する禁忌で、庚申の夜に眠ると人身中の
左から二・三番目が庚申塔で、小さい方が天保三年(一八三二)建立の笠型塔で、一面六臂の青面金剛が合掌して立ち、下部中央に前向きの「聞かざる」、両側に横向きの「言わざる」と「見ざる」が彫られています。
大きい笠型塔は寛文十一年(一六七一)の建立です。寛文年間に建てられた市内の庚申塔七基中で笠型塔はここだけ、他は舟型塔です。
一面六臂の青面金剛像が逆蓮華座に乗っており、三猿は塔の三面に各一体ずつ彫られ、正面が「聞かざる」、右側が「見ざる」で、左面が「言わざる」です。
鎌倉で青面金剛像が彫られた最古の庚申塔は、坂の下御霊社にある延宝元年(一六七三)なので、寛文十一年(一六七一)建立の逗子の方が、鎌倉より二年早く笠型塔を拵えていたのです。
左端の堅牢地神塔は大地をつかさどる地天(地の神)をお祀りして天保三年(一八三二)二月の建立です。
右端の馬頭観音塔は馬の保護神として、江戸時代に広く信仰されました。
【逗子市小坪の道祖神】(2018年撮影)
2018年に逗子八景の小坪歸帆を確認するために立ち寄った際に、たまたま双体道祖神も確認していました。
小坪で社を散策 part1 part2
小坪の道祖神はいずれも双体神像を刻している5基で、そのうち佛乗院の1基は最近のものと思われますが、他の4基は海沿いの漁師町旧4地区それぞれの鎮守社にありました。農村では結界を守るための境界域に設置されることが普通である道祖神ですが、各地区が接近して配置されているため、それぞれの地区の鎮守社に設置されているのだと思われます。
これらの地区は、1232年に和賀江港が開かれて以降、伊勢から移り住んだ漁民によって鎌倉の魚座を賑わした(石井,1993)と言われています。伊勢は、道祖神と同一視されるこのとある猿田彦命を主神として祀っている猿田彦神社の地ですから、移住の際に道祖神信仰が齎された思われます。
その他の本日撮影の写真です。まだ、オニシバリの蕾は固いようでした。
【参考】
ニホンスイセン Narcissus tazetta
ウチワタケ Microporus affinis
マルバウツギ Deutzia scabra
オニシバリ Daphne pseudomezereum
サルトリイバラ Smilax china
マサキ Euonymus japonicus
鷹取山山頂
アオキ Aucuba japonica
ヤブツバキ Camellia japonica
マダケ Phyllostachys bambusoides
馬頭観音、地蔵尊、五輪塔:池子4丁目
地蔵尊:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
疱瘡神、馬頭観音、庚申塔:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
庚申塔:池子神明社(逗子市池子2丁目10)
石塔群:青龍山東昌寺(池子2丁目8-33)
『肉の杉山』閉店
亀井地蔵尊:逗子5丁目4-33
横浜市指定名木古木 No.48137 瀬戸神社のカヤ Torreya nucifera
タチツボスミレ Viola grypoceras
令和4年8月
(有)杉山牛肉店
8月末で閉店のお知らせ!!!
永らくお引き立てを賜りありがとうございました。
日頃、当店に格別のご高配を賜り有難うございます
お陰様で75年間逗子で営業させて頂きましたが、8月一杯で閉店させていただくことになりました。突然のお知らせでご迷惑をお掛けしますこと、重々承知していますがお許しいただけますお願い申し上げます!
長い間お引き立てを頂きましてありがとうございます!
心より感謝申し上げます。
亀井地蔵尊の由来
田越川原は大昔には死骸の埋葬地でした。中世は処刑場となり、六代御前や三浦胤義の子供達も、此所で首を斬られました。吾妻鏡の嘉禄元年九月八日の条には、北條泰時三浦義村が弁僧正の弟子達を供養のため、八万四千基の石塔を建てた旨が記されています。
今、立っている此の場所は
此所に在った墓石は延命寺や妙光寺ほか近くの寺に移されました。閻魔堂がありましたが、中にあった閻魔は延命寺に移され今も祀られています。亀井地蔵尊は此所に尊く葬られています。
多くの霊を供養するために建立されました。謹んで合掌し奉ります。
昭和五十九年四月八日奉修開眼供養
文 内田武雄
謹書延命寺住職 神田宣圓
【文献】
石井清司(1993)小坪の漁労集落としての歴史、p3-9、in 逗子市文化財調査報告第15集小坪の漁労具、逗子市教育委員会.
逗子教育委員会(1978)文化財散歩-ふるさと・逗子、73p.