文献を整理していて、普段よく通りかかる地域にも未確認の地神塔のあることに気づき、確認してきました。4か所5基、いずれも文字塔で、既に写真撮影していたものもありました。岩井町の御所台地蔵尊にも石塔群があったので、帰りがけに確認しましたが、ここには地神塔はありませんでした。
(堅牢)地神塔マップ (作成中) 地神(地天)
緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02)
【主な経路】(神奈川新町駅)-白幡仲町-白楽-六角橋-栗田谷-沢渡-南軽井沢-浅間町-天王町-西久保-岩井町-永田東-(井土ヶ谷駅)
地神塔、庚申塔、地蔵尊:大喜山正覚院別院考信堂(神奈川区白幡東町1-1)
地神塔:神奈川区六角橋2丁目24
庚申塔、堅牢地神塔:西区南軽井沢62-11
この塔は道路擴張にも拘わらず西区唯一の建立当時の現地にあり保存のため建之
昭和四十六年一月二十六日
稲葉辰藏
稲葉八五郎
藤巻宗太郎
号 宗華
施工 飛鳥建設
南軽井沢の石塔群については、武井富夫氏による藤橋(1982)の序文に詳しい解説がありましたので、以下に転記します。
はじめに 武井富夫
横浜市西区浅間下の交差点から三ツ沢方面に坂をのぼりはじめて少し行くとも右手に上る階段状の小径があり、傍らに石塔が三基並んでたっています。ここをさらにのぼると、もと軽井沢一号墳のあった丘の上に出ます。ちなみに古墳のあった場所は現在の記念碑の建てられているところではなく、もっと上の現在自動車学校となっている敷地内にありました。この古墳は南関東では珍しい前方後円墳で、昭和四十年に武蔵地方史研究会によって調査されています。さらにその南方の浅間神社の中腹には、これと関連があると思われる横穴古墳群があり、この方は昭和五十六年、浅間下横穴群調査団(佐藤安平氏)によって発掘調査れました。
さて、前記の坂の途中にあった石塔群ですが、これはもっと下にあった上り口の傍らにたっていました。一つは堅牢地神塔で、「文政七甲申年二月建之 軽井澤」、花立石に「大野善治良」と刻まれています。(本体は86cm、台石高33cm、巾62cm、奥行54cm。花立高18cm、巾18cm、奥行25cm)次は庚申塔で、青面金剛、邪鬼、三猿が刻まれ、本体には「安永八己亥二月吉日」、台石には「講中 平野左エ門、大野小兵衛、高橋五平衛、堀江久二良、大野甚右エ門、柳下太兵衛」と読まれます、(本体高89cm、巾35.5cm、台石高24cm、巾48.5cm、奥行40.5cm)他の一つは道標で上部が欠損しており、下部には「道」右方に「吉日」としか読むことができません。(総高46cm、最大巾29cm、奥行11.5cm)この場所は旧東海道から三ツ沢壇林豊顕寺に向かっている。いわゆる壇林道への分岐点の近くにあたっています。この道については豊顕寺の隠居寺である南軽井勧行寺の題目石に「是より三沢壇林江凡十餘町」と記されているので、前期の上部欠損塔に記されている「道」は「壇林道」というのが正しいのでしょう。
この三基の立っている場所には、さらに小型の宝篋印塔の空、風輪が残されていて、これらはその型から室町時代後期のものと思われますので、この土地が袖ヶ浦に面して古くからひらけていたことがわかります。
これらの石塔群は、近時の度重なる開発の波に呑まれて隠滅寸前となっていたのを、土地の人、稲葉氏等の尽力によってこの場所に保存されるに至ったものです。
この石塔からはまだいろいろのことを読みとることができます。
この地神塔にも庚申塔にも、大石という立塔者の名前が見られます。庚申塔には講を組んだ人々の名前が列挙してあります。概してこの土地の有力者でしょう。近隣の石塔を見ても同じ姓がよく見かけられます。またここだけでなく、多くの金石文の紀年を調べて見ますと、近世末期、それも享保年間以後が絶対的にといってもいいほど多くなっています。これは江戸幕府の政治体制が漸く安定し、今迄貴族、豪族にしか建てられなかった石塔が庶民にも無縁なものではなくなってきたことを示しています。こうして近世の石塔は概してその土地の人々の建立によるものが大部分ですので、時には江戸の石工などに依頼してつくったようなものもありますが、それだけにその頃その土地での人々の姿が鮮やかに見えてくるわけです。【以下、略】
注:文政7年 = 1824年、安永8年 = 1779年
石塔群:杉山社(保土ケ谷区西久保町118)
2基あるうち向かって左側の堅牢地神塔には、
以下、その他本日撮影の写真です。
六角橋 祐天地蔵尊 御由来
祐天地蔵尊は江戸時代中期に名僧祐天上人の名を冠して私達の先祖が厄病除けにお奉りし昔から厄除けと子育てに御利益があると信仰されています。
この六角橋の地は東海道神奈川宿へ向かう街道の拠点として位置し此の場所は村内や宝秀寺ほの入り口でした。御本尊の台座には南無阿弥陀佛名顕山祐天寺(祐求)後ろに文政二年卯年三月廿四日建立 右に目黒祐天寺百萬遍講中そして近隣の数十の村々の地名や六角橋の主だった人の氏名等が刻まれ往時の信仰の大きさを誇っています。平成六年四月不審火により御堂は焼失し多くの人々のご協力をもとに再建されました。
平成十九年六月吉日 翠江 謹書
横浜市地域史跡
軽井沢古墳跡
登録年月日 平成12年11月1日
所有者 株式会社 関東綜合学園
区域 横浜市西区南軽井沢62蕃の1の一部
軽井沢古墳は、帷子川北側の台地上に所存しています。昭和40年(1965)に発掘調査が行われ、全長26.5m、前方部は幅16m、高さ2.3m、後円部は径19.5m・高さ2.9mをはかる前方後円墳で、3段の墳丘を持つことが明らかになりました。
墳丘からは、2ヶ所の埋葬施設が発見されており、後円部の中央に軟砂岩の切石積みの横穴石室と前方部の主軸に直交するかたちで硬砂岩切石を用いた竪穴式石室がありました。前者からは、耳環・水晶切子玉、後者からは、鉄刀・
出土遺跡から、この古墳は7世紀前半に造られたものであると考えられ、横浜市域では最末期の前方後円墳です。さらに、それまで不明であった南関東の7世紀の前方後円墳の実態を知る上で貴重な資料を提供しました。
平成13年3月 横浜市教育委員会
【参考】
ヒメツルソバ Persicaria capitata
祐天地蔵尊:神奈川区六角橋2丁目17
軽井沢古墳跡
横浜教会:西区南軽井沢61
Yamanashi工房 ひまわり:西区浅間町4丁目349‐3 【ひまわりを尋ねる】
石塔群:御所台地蔵尊(保土ケ谷区岩井町)
北向地蔵尊:保土ケ谷区岩井町406-2
【文献】
梅原達治(1987)地神信仰の地域的変異について、札幌大学教養部紀要、30、69-87、URL: https://core.ac.uk/download/pdf/230296308.pdf、Accessed: 2022-12-30.
藤橋幹之助(1982)道標とともに-金石誌-(横浜歴史双書第二巻)、135p、横浜歴史研究普及会、横浜.