瀬谷区、大和市の地神(地天)

 この度の主たる目的は、瀬谷区と大和市の地神塔を尋ねることでした。特に、全通院勢至堂にある地神塔は、天明3年(1783)造立で横浜市最古の地天像とのことでしたので、ここを最終地にして6か所を巡るコース設定し、GoogleMapでは未掲載の2ヶ所も併せて8か所を確認できました。
 勢至堂に至る階段脇に設置された石塔群では、中央に地神の角柱文字塔を置き、向かって左に神像が配置されています。地天像は摩耗が激しくて細部は定かではありませんでしたが、梅原(1985)によれば女神像だそうで、よく見かける庚申塔の青面金剛像より、柔らかな象容でした。上和田の佐波神社にも地神の像容塔(寛政三年:1791)が1基あったのですが、なんとなく似ている印象ですので、勢至堂の像から影響を受けているのかも知れません。佐波神社の像も新しいものではなさそうですから、あるいは同じ石工による作である可能性もありそうです。
 ちなみに、メディア展開ではメジャーな地神テラリア(外部サイトへリンク)は地神の原型とは異なっているようです。
(堅牢)地神塔マップ (作成中) 逗子市 緑区、旭区、保土ケ谷区(2022-12-29) 瀬谷区、大和市(2023-01-02) 神奈川区、西区、保土ケ谷区(2023-01-09) 戸塚区(2023-01-21)


地神塔(天保6未(1835)年):瀬谷区相沢3丁目16-2


地神塔:日枝社(瀬谷区本郷1丁目18-9)


地神塔:中屋敷地蔵尊(瀬谷区中屋敷1丁目33-46)


地神塔(明治15(1882)年9月吉日):大和市深見台3丁目5


地神塔三叉路:瀬谷区瀬谷6丁目10-1


地神塔(明治45(1912)年4月吉日):瀬谷区橋戸3丁目


地神塔:(上和田)佐馬神社(上和田1167-1):寛政三(1791)

 武相国境に当たるこの地域は、源良朝を祭神とするサバ神社が分布することで知られる地域で、境内に地神塔が祀られているサバ神社もあります。
 武相国境を歩く-石塔群
 武相国境を歩く-サバ神社巡り part1
 武相国境を歩く-サバ神社巡り part2


地神塔:全通院勢至堂(下瀬谷1丁目29-10):天明三(1783)


【文献】
梅原達治(1985)埼玉県児玉町内の社日塔、札幌大学教養部紀要、27、101-120、URL: https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=5199&file_id=18&file_no=1、Accessed: 2022-12-30.
高橋晋一(2004)地神塔と三神塔、徳島地域文化研究 (2), 1-11, Accessed: 2023-01-01.
【参考】地神≪テラリア≫、『ソードアート・オンライン』より

 以下、本日撮影のその他の写真です。


  瀬谷村役場跡(長天寺)
 長天寺は臨済宗建長寺派に属し、室町時代の応永元年(1394年)2月15日宝林薫大和尚禅師によって開山、開基は平本六郎兵衛であると伝えられています。
 明治22年(1989年)5月27日の市町村制の公布に基づいて、瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、瀬谷村となり、初めての村役場をこの長天寺の客殿に置きました。この客殿は、大正5年(1916年)に新しい役場が建設されるまで使用され、3村が合併された際の初代村長は守屋平輔でした。
  横穴古墳跡
 明治39年(1906年)3月、長天寺の北側に隣接したところで当地の平本彌太郎が農作業中に人骨が3体・直刀及び鍔3点・金環2点・琥珀の棗玉3個・鉄轡1個を発掘しました。出土品から飛鳥時代。白鳳時代(604年~708年)頃の相当高貴な人の墳墓と推定されていましたが、のち、東京国立博物館に収蔵されました。
  平成10年3月(平成30年3月貼替)  瀬谷区役所


  川口製絲株式會社跡
 瀬谷区(旧鎌倉郡瀬谷村)は、相模原台地上にあって桑の栽培に適した土地で、かつて養蚕業が栄えていました。明治中期から昭和初期にかけて付近に、9つの製紙工場が立ち並び、製糸業が盛んでした。中でも、明治35年(1902年)に創業した「本郷館製絲場」は、周辺の製糸工場で最も長く稼働し、大正10年に川口製絲株式會社と名前を改めた後、昭和34年(1959年)頃まで製造を続け、製糸の品質は国内のトップクラスで、製品の全てをアメリカへ輸出していました。昭和6年頃の最盛期には従業員がマナーや教養を勉強する学校もありました。このように製糸工場は、地域の人たちが働き、地域の原料を使って糸を作り、企業が繁盛し、地域の活性化にも寄与していました。
 現在も、ここ川口邸には、当時の製糸工場の正門が残されています。
※敷地・建物への立ち入りは固くお断りします。
   平成28年1月     瀬谷区役所


  瀬谷銀行跡
 瀬谷村の農家では養蚕が盛んに行われており、明治20年代後半から製糸場が続々と設立されました。
 それを背景に、明治40年(1907)6月、瀬谷村の村役を務めていた小島政五郎が中心となり、瀬谷銀行が開業しました。本店を小島政五郎の自宅に置き、その後30年にわたり地域金融事業の中心となり、地域の発展に寄与しました。
 小島家は代々政五郎を名乗り、江戸中期から瀬谷村の村役を務め、明治から昭和の初期まで村行政に功績を残しました。
   平成10年3月(令和2年3月改訂)     瀬谷区役所


(慈光山善昌寺縁起)
 慈光山善昌寺は大本山鎌倉光明寺の末寺にて、遥か室町時代天文二年開山覚蓮建社本誉単冏上人の起立にかかる。
 一旦退破をへ継いで弘治年間甲斐武田氏の支族岩崎丹後が当地に土着し開基したと伝えられる。江戸時代中葉、檀那拾八軒境内及寺有地壱町七反余歩という記録が残されている。明治七年十月火災に罹り、本堂、庫裡は烏有に帰するが幸い本尊阿弥陀如来及光明寺より下賜された雨乞本尊は焼失を免れ臨機応変に支配下の上瀬谷村薬師堂を移築して仮本堂とした。下りて昭和八年に改修の槌音を聞くが、積年の雨露風雪による荒廃し如何ともしがたく、今般の造営を迎えるに至った。
 まず檀信徒総会の席上、本堂、客殿、庫裡、山門等の建築及境内の改造を行うことが議決され資金は寺有地の処分金及檀信徒の浄財を以って当てることとした。昭和五十五年四月起工。翌五十六年十一月竣工、時を移さず落慶大法要が挙行された。挙行された。その間住職、役員、檀信徒一同こぞって一意専心寺院の復興に協力し本事業の完成をみるに至った。茲に落慶を記念しその次第を碑に勒して永世に伝える。
     昭和六十年仏歓喜日
       浄土宗慈光山善昌寺


  鎌倉古道の河津桜・ミカイドウ・カルミヤ
 鎌倉幕府が1192年に開かれて以来、鎌倉に通じる多くの道路がつくられました。この鎌倉古道も相模と武蔵、さらには関東北西部とを結ぶ主要な道路でした。瀬谷区の歴史さんぽコースになっているこの古道は、徳善寺-大門第六天-日枝社-瀬谷神明社-横浜市名木古木「ケヤキ」-中屋敷地蔵尊-瀬谷銀行跡-善昌寺-北向地蔵尊-明光寺-牢場坂-若宮八幡宮が散策コースとして多くの市民に親しまれています。
 瀬谷区のまちづくり区民の会の有志は、境川とこの由緒ある古道沿いに花木を植えて、住んでいる人にも訪れる人にも、心の休まる環境をつくることをめざして「ヨコハマ市民まち普請事業」コンテストに応募しました。その入選によって、交付された助成金を基にして、この古道沿いに、河津桜・ミカイドウ・カルミヤを植樹しました。
     平成21年3月
     竹村町内会/愛護会
     中屋敷町内会/愛護会
     本郷地区自治会/愛護会
     瀬谷区まち普請事業プロジェクト


市指定重要文化財(有第四号)
深見神社社号標)
     指定年月日 昭和四十七年二月二十五日
      形状 尖頭角柱型
      高さ 一四六cm 幅三一cm 奥行二五cm
 この社号標は、寛政三(一七九一)年に建立された石碑です。深見村の領主であった旗本坂本重治が造立したと伝えられています。正面には「相模国十三座之内深見神社」と刻まれ、深見神社が延喜式内社であることがわかります。
 延喜式内社とは、延長五(九二七)年に完成した延喜式の神名帳に列記された神社のことで、相模国にし寒川神社など全部で十三座ありました。このことから深見神社は平安時代にはすでに存在していたことがわかります。
         大和市教育委員会


   深見神社:大和市深見3367


  深見神社
 「深見」という地名は「倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)」(931~937)に相模国高座郡深見郷と記されており、市内の地名が初めて文献に登場したものです。しかし、この時の深見の範囲は現在地を含めてかにり広い範囲を総称していたもののようです。
 深見神社は鹿島社の別称がありますが、言い伝えによれば、領主であった坂本氏が茨城県鹿島神宮の祭神を勧請したためといいます。市内に所在している神社の中では唯一の「延喜式」神名帳(927)に掲載された延喜式内社となっています。延喜式内社は全国で3132社あるが、この制度の目的は天皇家の安泰と国の隆盛・五穀豊穣を祈願するというものであり、当時の国の中枢である天皇家と直接結びつくものでありました。村の鎮守という一面と地方を代表するものという一面り両者を持っていたといえます。なお、境内には大和市指定重要文化財である寛政三年に建立された「深見神社社号標」と天然記念物であるハルニレがあります。
         大和市教育委員会


   御由緒
 深見神社(旧社格郷社)
   御祭神   闇龗神(くらおかみのかみ)
         武甕槌神(たけみかづちのかみ)
         建御名方神(たけみなかたのかみ)
   例祭日   九月十五日
 我国の神社総覧とでもいう記録で最も古いのは延喜五年(九二七)に奏進された「延喜式」神名帳である。これに記載されている神社を延喜式内社と呼びならわし古社であることを意味し当神社も延喜式内社で相模国に十三座ある内の一座である。
 創建年代と御祭神は「総国風土記」によれば「相模国深見社雄略天皇二十二年三月(約一千五百年前)に祭るところ闇龗神なり」と記されている。
 神社縁起によれば「武甕槌神東国鎮撫のため常陸鹿島に在られしとき船師を率いてここに進軍され伊弉諾神(いざなぎのかみ)の御子の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。闇龗神(雨神)は美田を拓き土人を撫して郷を開かれた」とある。即ち深見の名の起こった所以である。
 後世徳川時代になると深見は旗本坂本家の知行地となり坂本家の崇敬する鹿島神宮(武甕槌神)から分霊を受けて従来から祀られていた闇龗神は境内にある御倉稲荷神社(おくらいなりじんじゃ)に合祀された。
 以来深見神社の祭神は武甕槌神(武運長久)となった。
 平成二十四年三月に現社殿再建七十年を節目として、創建時の御祭神の闇龗神を本殿に合祀した。
明治九年 火災により社殿工作物など悉く焼失
明治四十二年 末社の諏訪神社(建御名方神)合祀
昭和十七年三月 現在の社殿再建


瀬谷山寳藏寺:瀬谷区瀬谷5丁目36-14
  (宗派)高野山真言宗 (本尊)大聖不動明王
治歴2年(1066)秀恵比丘尼が不動庵を開基されたのがはじまりであり、これより後、応永3年(1396)空元法印により古義真言宗感応院の末寺として開山されたと伝聞されているが、空元法印以前の歴代に付いては不詳である。
 慶安2年(1649)徳川幕府(3代将軍家光公)より、領地1丁2反9畝、境内6反、寺領8石3斗、の御朱印を賜る。(御朱印籠等は現存す)爾来、菊の御紋章を許される。当山本堂は当初、墓地に隣接していたが三度び開催焼失した後、現在地に移り、今日の本堂は天保15年(1844)の建造である。
 境内には天満宮(菅原道真公奉安)があり、学問の神として知られ、殊に進学時期には学生の参拝か多く見られる。
 弁財天を奉安したお堂(昭和58年創建による横浜瀬谷八福神の内)が新たに建造された。弁財天は八福神の中では唯一の女神であり、知恵財福の御利益があり、芸道技術の神として崇敬されている。
 水子地蔵尊(石仏)のご守護をうけて、亡き子を思う親の願いを託された可愛いわらべ地蔵が安置されて居り、毎年3月24日(地蔵の日)にし水子地蔵供養会が修行され宗旨等にこだわることなく多数の参詣者がある。
 就業大師像(唐金)も建立されている。弘法大師(空海)は真言宗の開祖であり、仏教の(顕教)に対して、秘密に説かれた深遠な教えを(密教)又は(秘密仏教)といい、これが真言宗であり、仏の真実の言葉、即ち(真言)を口に唱え、手に印を結び、心を寂静の境地に住まわせることによって、この生き身のままで仏になり得る、と説かれた教義を(宗名)としたものである。


猿王山西福寺:瀬谷区橋戸3丁目21-2
  真言宗 豊山派西福寺
 西福寺は天文3年(1534年)の創建と伝えられ、天和元年(1681年)に放流開山したといわれる。ご本尊は不動明王。極楽浄土があるとされる西を正面として、境内の地形が扇状に広がっていることから、西福寺と名付けられた。境内には通称「千年シイ」(樹齢800年以上)の横浜市の名木古木に指定された大霊木が現存。
  横浜市指定瀬谷八福神の布袋尊
 布袋様(ほていさま)は福耳、ほてい腹、破顔大笑の福福しい姿で、愛情と知恵のたくさんはいった布袋を持つ。生活の知恵袋、愛のつまった宝袋を誰もが皆おのおのに具えている、笑っておおらかに生きよと説く。
ご利益 開運・安産
ご真言 オン マイタレイヤ ソワカ


【注】『oṃ(オン) maitreya(マイタレイヤ) svāhā(ソワカ)』は、弥勒菩薩の真言、当山の本尊は不動明王なので、何故この真言が書かれているのかは不明です。


   左馬社(さばしゃ)と梵鐘
 その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰が盛んでした。(七サバ参り)
 当左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つであり、祭神は佐馬頭(さまのかみ)源義知朝です。
 隣接の真言宗西福寺(さいふくじ)が、この佐馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことです。
 梵鐘は江戸時代の文久元年(1861年)に鋳造されましたが、太平洋戦争の際供出されたため、昭和32年(1957年)氏子の協力によって新たに現在の鐘がつくられました。
  平成10年3月  瀬谷区役所


  横浜市名木古木指定 宗川寺(そうせんじ)の夫婦銀杏(北新26番地13)
 宗川寺は、寛永2年(1625年)北山本門寺第12世日賢上人が開山し、開基は瀬谷の住人で篤い信仰の心のあった石川宗川であり、その名から宗川寺と名づけられました。
 山門脇の2本の銀杏は、横浜市名木古木の指定を受けた夫婦銀杏で、昔から多くの方が安産・育児を祈願するために参詣に訪れてています。
  中原往還と瀬谷問屋場(といやば)
 中原往還(中原街道)は、小田原北条氏が支配していた頃の道を、徳川家康が平塚(中原)に御殿を建て、そこへ通う道として整備した江戸柴口から瀬谷を経て平塚御殿に至る振動です。
 瀬谷問屋場は、江戸と平塚(中原)間5駅の中宿で、徳川家康の江戸開府により、駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を託され、江戸時代270年間にわたり、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継送の役割を果たしたところです。(これより東方80m付近がその跡だと言われています。)
   昭和54年3月(平成30年11月改訂)     瀬谷区役所


   左馬神社
一、御祭神 左馬頭義朝
一、鎮座地 大和市上和田一一六八番地
一、例祭日 九月二十四日
   由緒
宝暦十四年三月桃園天皇徳川九代将軍家重の代、名主渡辺平左衛門、小川清右衛門この地に宮を建立、左馬頭源義朝の霊を勧請し村民の精神道場となるや漸次庶民崇敬の的となり、文化三年四月三日上和田信法寺十四世住職憧与上人、氏子の賛同を得て五穀豊饒の祈願をなしたるや、其の御神徳の偉大さ武家・一般庶民に深き感銘を与う。
以来五穀豊饒はもとより家内安全の守護神として広く世に伝わり崇敬者多し。
尚境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命、三神を奉斎し国土安穏氏子崇拝者安泰(疫病・痘癒・厄除)守護を念ずる参詣者今尚多し。
    境内三社殿
  御祭神 天照皇大神(中央)
      神武天皇(向かって右側)
      須佐之男命(向かって左側)


下瀬谷文教場跡(勢至堂)と大藤
 明治22年(1889年)の市町村制の実施により瀬谷村、二ツ橋村、宮沢村が合併、一村となりました。この合併により瀬谷小学校の通学区が広くなったため、低学年児童の通学の便を考慮して、明治23年(1890年)11月に分教場をこの全通院勢至堂境内に設けました。この分教場は昭和18年(1943年)の学区改正によって廃校になるまで、50年にわたり数多くの児童が通学しました。
 また、この境内には「横浜市の名木古木」に指定されている藤の大樹があり、その花の咲く頃は誠にみごとなものです。
 全通院勢至堂は曹洞宗瀬谷山徳善寺別院として、勢至菩薩を本尊として祀っています。
 相模国深見村の中丸佐源太が、一夜霊夢に導かれ鹿島神社の旧跡から勢至菩薩の像を発掘し、全国を巡礼し喜捨を受け、徳善寺に納めました。その後、この全通院阿弥陀堂に遷座したと伝えられます。屋根の改修時に発見された棟札には江戸時代の寛政9年(1797年)に現在のお堂が建立されたと書かれていました。
 地元では、「お勢至様(おせっさま)」「勢至堂(せしどう)」とも呼ばれ親しまれています。12年に1回、午年の8月23日に開帳されます。
   平成10年3月          瀬谷区役所


【参考】
 瀬谷村役場跡(長天寺):相沢4丁目4-1
 道祖神:瀬谷区相沢3丁目9
 稲荷社:瀬谷区本郷2丁目19-1
 川口製絲株式會社跡:瀬谷区本郷1丁目9-5
 ネリネ・ウンドゥラータ(ヒメヒガンバナ) Nerine undulata
 コサギ Egretta garzetta
 中屋敷地蔵尊:瀬谷区中屋敷1丁目33-46
 瀬谷銀行跡:瀬谷区中屋敷1丁目20-14
 北向地蔵尊:瀬谷区竹村町
 慈光山善昌寺:瀬谷区竹村町1-14
 六地蔵と双体道祖神:瀬谷山徳善寺(本郷3丁目36-6)
 双体道祖神(左):瀬谷山徳善寺
 双体道祖神(中央):瀬谷山徳善寺
 双体道祖神(右):瀬谷山徳善寺
 深見神社:大和市深見3367
 深見神社神号標
 馬頭観音:瀬谷山寳藏寺
 畜霊供養塚:瀬谷山寳藏寺
 楽寿観音第五番:瀬谷山寳藏寺
 天満宮:瀬谷山寳藏寺境内
 布袋尊:猿王山西福寺(瀬谷区橋戸3丁目21-2)
 佐馬社梵鐘:瀬谷区橋戸3丁目20-1
 稲荷社:大和市上和田578
 ヒヨドリジョウゴ Solanum lyratum
 左馬神社:大和市上和田1168
 大和教会:大和市上和田1081-3
 瀬谷山徳善寺別院 全通院勢至堂:下瀬谷1丁目29-10
 地蔵堂:全通院勢至堂境内

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