大津周辺を巡って

 大津の周辺にまだ尋ねたことのない社が残っていることに気づき、訪ねてみました。
【本日の主な経路】
 (堀ノ内駅)-大津町-三春町-富士見町-根岸町-吉井(阿波口神社)-桜が丘-(堀ノ内駅)


【砂坂地蔵尊】大津町1丁目3

   砂坂地蔵尊
 二体のうち、向って左が砂坂地蔵尊で、社前の小さな坂を砂坂というのでこの名がある。またイボトリに霊験があるのでイボトリ地蔵とも称する。右はしらすがわ地蔵尊で。昔近くの白須川の川原を家屋新築のため掘ったところ。鍬先が当たってこの地蔵尊が発掘されたという。川には清水が流れていて、大正時代まで満潮時には、潮がこの先まで遡上した。像の周囲に積まれている玉砂利は、まこと、この地蔵尊にふさわしく往時を偲ぶよすがでもある。なお後に一石二段型の六地蔵のレリーフも並置され、最近は共に子育地蔵としても信仰されている。
平成三年二月  大津地域文化振興懇話会


【浦守稲荷】大津町1丁目8-31


【原(守)(稲荷】大津町3丁目1-5
 説明版では「原稲荷」ですが、鳥居の扁額では「原守稲荷」となっていました。御神木はクロガネモチです。

原稲荷の名は、此の地を原と称していたことに由来する。二月と十月に行われるお祭りは現在では簡略化されているが、以前は「湯立て神楽」と「掻湯の神事」が厳粛に行われていた。社前の一角の四隅に笹竹を立て注連縄を張り、中央には大釜に湯をたぎらせながら、面をつけた神官が神楽を舞う。終わると笹の小枝を小さく束ねて湯に浸し、人々に振りかけて無病息災を願った。続いて沸騰した湯をかき廻して渦を作り、その形で農作物の豊凶を占ったという。今でもこのお祭りには、昔からの習わしで、粳米に小豆を炊き込んだ「赤飯(あかめし)」が、参拝者に配られている。
平成三年二月  大津地域文化振興懇話会


【稲荷大明神跡地】三春町4丁目56

 京急本線と京急久里浜線とに挟まれた地で、稲荷社の移転先は不明です。かつては神木だったであろうタブとイチョウがみごとでした。


【庚申塔】三春町5丁目20-52


【愛染稲荷社】大津町5丁目27
 以前にも「鎌倉三浦半島古木名木五十選」に選ばれたクロガネモチを訪ねてきたことのある愛染稲荷社です。

  愛染稲荷
 文化一四年(一八一七)天神坂付近に住んでいた七兵衛という人が村人を代表し、当時、日本橋稲荷本宮であった江戸加賀町・愛染寺より、「正一位稲荷大明神」を安鎮する証書を受け、稲の豊作を願って建立しました。
 祭神は倉稲魂(ウカノミタマ)で五穀豊穣、家内安全、商売繁盛などを祈願します。
 境内には樹齢四〇〇年というクロガネモチの巨木があり、神奈川県の「鎌倉三浦半島古木名木五十選」に選ばれています。
  大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ


  愛染稲荷社
 この稲荷は、大津村天神坂に住む七兵衛という者が、文化十四年(一八一七)七月江戸加賀町日本稲荷総本宮、愛染寺から許しをうけ、農作物の豊作祈願のため、この地に建立したことが古文書に残されている。
 当時、このあたりは大津村保込(ホゴメまたはホオメ)といわれ、戸数は二十にも満たず、皆田畑を耕作して生計を立てていた。
 創建以来、この祠は傘のように覆う樹齢推定四百年のクロガネモチの銘木とともに地元の人によって大切に守られ、現在も年一回昔ながらの稲荷講が行われ、往時を偲ぶよすがとなっている。
平成二年二月  大津地域文化振興懇話会


【天神坂の石塔群】大津町5丁目9-13

   交通の要衝 天神坂
 この坂を天神坂といい名の由来は大津五丁目町内会館裏に天神社があったことによります。
 江戸時代の古地図・浦賀道見取絵図に描かれ公郷・衣笠・葉山・逗子・鎌倉・大船、東海道戸塚宿へ至る重要な道でした。
 日本武尊の東征伝説にかかわる古東海道もこの道を通ったと推定され、中世・三浦氏の時代には鎌倉への道として昔から交通の要衝でした。
 天神社は関東大震災後に諏訪神社に合祀されましたが、境内にあった狛犬と手洗い鉢が残されています。二基の庚申塔は、左は延宝六年(一六七八)右は元文五年(一七四〇)の古いもので廃寺となった青蓮寺の名もあります。


【三春町の明神様(稲荷社)】三春町6丁目78−15


【冨士淺間大神】富士見町3丁目29-25


【常楽不動尊】富士見町3丁目17-26

お不動さん(常楽不動尊)-わが町を歩こう、わが町発見
   上町第2地区社協 わがまち、第82号、平成23年10月1日
 富士見町3丁目は、戦後に住居表示が変更されるまでは公郷町であった。ここは、谷戸入口に新墓地があるので、通称「新墓」で名が通っているが、明治40年ころまでは、民家も無く、雑木林の間に散在する田畑と谷間の奥一面に生い茂る茅場だけで、当時は「茅場ヶ谷戸」と呼ばれていた。
 民家が見え始めた大正2年「源龍」という名の僧が谷戸の奥に筵小屋を建てて住み着き、托鉢をしながら何か作業を続けていた。付近の人もほとんど近寄らなかったが、秋になって僧の立ち去った跡には高さ一間もある不動明王の座僧が残されていた。
 戦後この土地を宅地にしようと、取り壊すために金槌を振るった人がいたが、夜半に高熱を出して苦しみこれを諦めたとの話がある。
 この常楽不動尊は現在まで有志の方々の手で祀られ、多くの人々の信仰の対象となっている。大祭は9月28日だが、八の付く日。特に28日には参拝に訪れる人々の線香の煙が絶えない。常に花が供えられ、信仰心のあつい方々の管理によってお守りされている。
 また、この地方から嫁がれたり、移転された方々も遠くから参詣に見えるなど、心の深い依り所となっている。     (鈴木)


【庚申塔】根岸町1丁目

   庚申塔(根岸1丁目)
 庚申信仰は、平安時代に中国の道教の教えに仏教的な信仰が加わり、室町時代に庚申講が結ばれ、江戸時代に庶民信仰として隆盛期を迎えました。
 十干十二支の組合せにより六十日毎に巡る庚申の日は眠らずに過ごし、無病・息災・長寿を願う信仰です。信仰は人の体内にいる三尸の虫が庚申の夜に天に昇ってその人の罪過を天帝に告げるため不吉なことが起こるという道教の教えに由来します。
 この十五基の庚申塔は享保九年(一七二四)から昭和四七年までに建てられました。
 昭和五五年と六三年に庚申講を催したと記されており、大津での信仰の深さがうかがわれます。
   大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ


【増田家の馬頭観音】根岸町1丁目1

  馬頭観音(根岸一丁目)
 増田家の門の内側、右上に池田・根岸・大津の馬持ちの人たちが、明治九年(一八七六)に造立した馬頭観音像があります。
牛馬に関係がある職業の人たちや個人の信仰により、供養や無病息災を祈願して造立されました。頭上に憤怒相の宝馬を頂き、慈悲で強化し難い衆生を仏が怒りの姿で救い上げようとする観音像です。
 大津地区には明治末期から昭和三〇年代まで高梨・増田・菅野の三牧場がありました。
 近代では供養や墓標的な意味の他に、交通の安全や牛馬の守護神としても信仰されてきました。
   大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ


【牛宮神社】根岸町2丁目8-7

   牛宮神社
 ここは現在、牛宮・稲荷・地神の三神が祀られている。かつては牛宮様と称され、石祠は高い松の根方にあった。井田の里人は、牛の功労を謝し霊を慰めるため、毎年ここに集って祭事を行い、併せて人々の無事安泰を祈った。昭和四十五年、この付近の開発を機に、有志によって石碑型文字塔が造立された。
 稲荷様の石祠は、孫の台(北久里浜駅付近)から遷され、、昭和四十五年に新社殿造営。同五十三年には講中によって、京都伏見稲荷が勧請された。また地神様は、地神信仰の風習により、各戸持回りで祭事が行われていたのを、ここに祀り後世に伝えることとした。平成三年十一月  大津地域文化振興懇話会


【庚申塔】池田町1丁目5


【馬頭観音】池田町1丁目6

馬頭観音供養塔
 この供養塔は、明治27年に造塔されたものです。
  大津地域文化振興懇話会


【安房口神社】吉井3丁目11

吉井鎮守安房口明神
  安房口神社
祭神 天太玉命(あまふとたまのみこと) 日本の祖神の一柱であるタカミムスビ神で、天孫ニニギノ尊とともに降臨した五部神(いつともべのかみ)の一柱とされています。
創建 年代不詳 磐座(いわくら)信仰という古い型を保っていて、三浦半島では最古の社ではないかといわれています。
由緒 鎮座まします御神体の霊石は、その昔、安房国洲崎明神に竜宮から献上された大きな石が二つ置かれていて、ある時、その一つが安房大神太玉命の御霊代として東国鎮守のためにこの場所に飛んできたといわれています。
 言い伝えによると日本武尊(やまとたけるのみこと)(景行天皇の皇子・古事記では倭建命)が東征のとき、勝利祈願したと伝えられ、源頼朝、北条義時なども武運を祈って参拝したといわれています。また三浦一族が航海の神として信仰したとも伝えられています。この地は、房総への重要な交通路で、古代の東海道の要衝でした。
 吉井鎮守であるこの神様は、安産祈願の神として古くから信仰されています。出産前に参拝し御神体のまわりの小石をひとつ持ち帰り安産のお守りとし、めでたく出産すると玉石を二つにして返し感謝の気持ちをもってお礼参りをしています。
 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の妻で、のちの尼将軍といわれた北条政子もご懐妊のおり、安産祈願に参拝したといわれています。
大祭 祈年祭 春分の日 前後の吉日
   例大祭 八月第一日曜日 前後の吉日
   新嘗祭 十一月二十三日 前後の吉日
境内 午宮五頭(ごぎゅうごず)天王の碑 富士講の碑 三十三度大願成就の碑
                   吉井安房口神社
                   吉井町内会


  安房口神社
 吉井の鎮守様で御神体は大きな安房石です。その昔、山や巨石、樹木など自然崇拝があった頃の名残です。
 祭神は天太玉命(あまふとたまのみこと)で安房大神太玉命の御霊代として東国鎮守のため安房州の崎の安房口神社からこの石が飛来したという伝説があります。直径四〇cmの石の穴は安房の方角を向いているといわれています。
 古東海道の要所であったと伝えられ、日本武尊が東征の際、勝利を祈願したともいわれています。豊作や安産の神として、北条政子が懐妊の時、使者が安産祈願に参拝した記録も残っています。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ


  安房口神社
 社殿はなく、霊石を霊代とした古来の磐座の形を残した神社である。西叶神社にある安房口神社明細記によれば、石は「安房の大神天太玉命(あまのふとだまのみこと)が、東国鎮護のため御霊代として古くこの山頂に出現」とあり、さらに「その霊石の面、安房の方に対するを以て、古来安房口明神と総称す」と記されている。
 この辺は、明神山と呼ばれ、明治の末までは別に陽石が祀られ、古くから子宝安産の神としても里人に尊崇されてきた。
 この大きな霊石が、何れの地から、とせんな方法で運ばれてきたのか… 今はマテバシイの木漏れ日の中に鎮座している。
平成三年二月  大津地域文化振興懇話会


【稲荷大明神】桜が丘1丁目6


【庚申塔群】根岸2丁目9-1

   庚申塔について(根岸二丁目)
 この地、井田の里の庚申塔由来記には、昔から悪疫・災害の因が悪霊の仕業と信じられていた時代、その悪霊をとり除く目的で青面金剛を祀り鎮護しようとした、とある。
 青面金剛は、庚申塔の主尊であり、厳めしい憤怒相の浮彫の像や、青面金剛の文字として刻まれたものがある。日月瑞雲や三猿が刻まれているものもあり、これらはともに五穀豊穣・悪疫退散のご利益があるとして信仰されてきた。
 里人は現世安穏・来世安楽・子孫長栄を祈念して塔を建てた。天和元年(1861)から大正□年までのものが十九基現存する。
 平成二年二月 大津地域文化振興懇話会


 以下は、本日撮影のその他の写真です。


【参考】
 クロガネモチ Ilex rotunda
 タブ Machilus thunbergii
 イチョウ Ginkgo biloba
 ジンチョウゲ Daphne odora
 オリーブ Olea europaea
 ハナカタバミ Oxalis bowiei
 横須賀キリスト教会:根岸町4丁目39-7
 コウテイダリア Dahlia imperialis

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