嚴島神社といえば安芸の宮島ですが、横浜にも2社あります。祭神から見ても横浜市周辺に分布する杉山神社とは明らかに別系統ですが、かつて杉山弁天と呼ばれたそうです。今日は大桟橋に用事があったので、その帰りに武蔵の嚴島神社を訪ねました。
【(羽衣町)嚴島神社】横浜市中区羽衣町2-7-1
これまで何度か尋ねたこともある横濱辨天です。鳥居の扁額にも『横濱辨天』と書いてありますが、石碑の銘にもある『嚴島神社』が正式名称のようです。境内に由緒書きはないのですが、元町嚴島神社の由緒書きから類推すると安芸の嚴島神社の系統であると思われます。境内社は、銭洗弁天社と豊受稲荷神社です。
【元町嚴島神社】
これまで由緒書きを真剣に読んでいなかったのですが、改めて読んでみますと、横濱辨天の別当が起源であることがわかりますし、祭神は安芸の嚴島神社と同じ宗像三女神です。御神木のイチョウは、横浜市指定名木古木201041になっています。
元町嚴島神社縁起
当神社は、今から約七〇〇年前より元横浜洲干島に鎮座していました清水弁天、洲干島弁天を、元禄年間に合祀し、元町一丁目の増徳院仮殿に御神体を奉安していました。しかし明治維新の神佛混淆の禁止により、増徳院から分離し、嚴島神社(いつくしまじんじゃ)として元町一丁目十五番地に社殿を造営、元町の鎮守様となりました。
御祭神は、市杵島姫君(いちきしまひめのみこと)、多紀理姫命(たぎりひめのみこと)、多岐都姫命(たきつひめのみこと)の弁天三神と、当地に祀られていた木花開耶比売命(このはなさくやひめのみこと)を合祀し、嚴島神社の御祭神としてお祀りしております。社殿は関東大震災により焼失しましたが、御下賜材により仮殿を建設し、昭和初期、当地に遷座し再建されました。第二次世界大戦でまたもや灰燼に帰しましたが、昭和三十六年に氏子崇敬者の熱意により社殿を建立し今日にいたっています。
嚴島神社は、商売繁盛、合格祈願、縁結びの神様でもあり、元町の発展隆盛の守護神であります。境内には末社として金刀比羅宮と、当地の名主であった石川家で奉祀されていた皇太神宮を遷座しお祀りしております。
以下、杉田まで戻る途中で撮影したその他の写真です。
【石川町諏訪神社】横浜市中区石川町4丁目164
随分と日が短くなったもので、石川町駅を過ぎる頃には日が沈んでいきました。
諏訪神社由緒
当石川町に鎮座の諏訪神社は、文明十三年(室町時代)の創立です。
当時現在により高所に小祠があり、諏訪神社と号されて附近一帯の住民からの崇敬篤く燈明の絶えないことから石川河岸を出入りする漁船の目標となったこと『武蔵風土記久良岐郡石川村の章』に見えます。
災害により社殿消失という不幸を経ましたが、現在三千戸の氏子を有し昭和三十八年八月には新社殿の再建もなり「はまのお諏訪さま」と親しまれ氏子と共に存続発展し続けています。
御祭神 建御名方命 たけみなかたのみこと
祭礼 一月一日 元旦祭
豆まき 二月三日 節分祭
春のおまつり 二月十七日 祈年祭
夏のおまつり 八月第一土曜日 例大祭
十一月 七五三祈願祭
秋のおまつり 十一月二十三日 新嘗祭
毎月 一日と十五日 月並祭
【八幡橋八幡神社】横浜市磯子区原町10-9
氷川明神が合祀されているとのウェブ情報があります。多摩川から南にはほとんど分布のない氷川神社ですので、もしそうであれば最南端の氷川神社かも知れません。
–> 出展は『書上(1823年)』のようです。
【文献】磯子区制50周年記念事業委員会(1978)、磯子の史話、p.380.
根岸旭台のレストラン『ドルフィン』
アルバム『ミスリム』に収録された名曲『海を見ていた午後』のモデルとなったとされるレストランです。
海を見ていた午後
作詞作曲:荒井由実
あたなを思い出す この店に来るたび
坂を上って きょうもひとり来てしまった
山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える
ソーダ水の中を 貨物船がとおる
小さなアワも恋のように消えていった
あのとき目の前で思い切り泣けたら
今頃二人 ここで 海を見ていたはず
窓をほほをよせて カモメを追いかける
そんなあなたが 今も見える テーブルごしに
紙ナプキンには インクがにじむから
忘れないでって やっと書いた遠いあの日
根岸山大聖院覺王山の子育地蔵尊