杉山神社を巡る-Part5 登戸からあざみ野へ

 今日は、川崎周辺の杉山神社に縁のあるお社を中心に廻ってみました。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 五反田神社:川崎市多摩区三田1-2-10
 (金程)杉山社:(42)川崎市多摩区西生田3-3-2
 細山神明社:川崎市麻生区細山2-6
 (平尾)杉山社:(48)稲城市平尾1189
 椙山神社:(47)町田市三輪町1618
 鐵神社:(8)横浜市青葉区鉄町1553


【五反田神社】川崎市多摩区三田1-2-10
 大作杉山神社の合祀先である五反田神社です。杉山神社考(1956)には、五反田の社として記載されています。

   氏子募集のお願い
拝啓
 皆様方におかれましては、時下ますますご健勝にこととお慶び申し上げます。日頃より地元の氏神である五反田神社に対して崇敬の念を賜り、誠にありがとうございます。
 口伝によりますと、当神社は鎌倉時代の創建とされ、旧時は山王社と称し、明治になり八雲神社と改称されました。
主神 素戔嗚尊(八雲神社御祭神)
従神 日本武尊(大作杉山神社より遷宮)
 昭和三十四年十月。大作杉山神社より日本武尊を遷宮し、主神である素戔嗚尊と合祀して、ここに目出度く宗教法人五反田神社の創立となりました。
 先人たちの努力により、現在、四五〇余名の氏子(鎮守の神に守られる地本の人)を有しておりますが、地本地域のさらなる発展を願って氏子の増員を計りたく、左記のとおりご案内申し上げます。
 今後共、先人達の思いを忘れることなく、後々の世に受け渡して行く所存でございますので、何卒皆様のご理解を賜りますようお願い申し上げます。
                          敬具
  氏子募集要領
■年会費   一、〇〇〇円
 ご希望の方
  のぼり旗 三、七〇〇円(氏名を記入し、行事の時に立てます)
■申込み方法 神社の行事の時に神社社務所にて受付けます
    五反田神社 総代    関口昌男
          総代    中山富男
          奉賛会会長 磯野 清


新編武蔵風土記稿-巻之六十橘樹郡巻之三 稲毛領五段田村杉山社-より
 村ノ西山丘ノ上ニアリ。村ノ鎮守ニテ觀音寺ノ持ナリ。勸請ノ年代ヲ傳ヘス。本地不動ノ木像ヲ神體トス。立身ニシテ二尺五寸餘。本社ハ一間四方ニテ宮作ナリ。覆屋三間四方東ニ向フ。ソレヨリ十歩ハカリヲヘタテゝ鳥居ヲタツ。ソレヨリ北ノ方一町ハカリニシテ西ニヲレテ石階七十餘級アリ。祭禮ハ年々九月二十日。當社勸請ノ年代ヲ詳ニセス。古棟札ニ慶長十八年卯月一日領主本田佐渡守再造ノヨシヲシルシタレハソレヨリサキニ勸請セシコトシルヘシ。其後慶安二年ノ棟札ニハ領主市岡太左衛門本田四郎兵衛トアリ。又寛文九年ノ棟札ニ市岡五左衛門本田善之助トアリ。天和四年ノニハ市岡五左衛門一人ヲシルセリ。


【(金程)杉山社】(42)川崎市多摩区西生田3-3-2
 武蔵国金程村の杉山社です。由緒書きには多少疑問があるようですので、要確認です。

     杉山神社 由緒
沿革 鶴見川沿いとその周辺のみに多く分布する杉山神社は遠く天太玉命(アメノフトダマノミコト)を祖とする古代の名族忌部(インベ)氏の阿波の一族が房総に移住して安房神社を祀り。さらに白鳳三年(六七四年)都筑の丘に創始した杉山神社が祖とされる。其の後都筑郡唯一の式内社とされ、その霊験をもって当時の主に都筑郡と橘樹郡に多数勧請された。
 当杉山社はそのうちの一社とされ、創建の時期は不明であるが、江戸時代に編纂された新編武蔵風土記稿によれば、「当社勧請の年代を詳らかにせず。古棟札に慶長十八年(一六一三年)卯月一日領主本田佐渡守再造のよしをしるしたれば、これより先に勧請せしことしるべし」とあるので、江戸時代より以前に勧請されたことがわかる。
 郷土の伝承では、八幡太郎義家(一〇三九~一一〇六)が奥州征伐のため、この土地を通過する際、神託より当社を建てたという。その後、鎌倉時代枡形山城主稲毛三郎重成(?~一二〇五)が篤く崇敬したとのことである。
鎮座地 川崎市多摩区西生田三丁目三番二号
御祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
例祭日 元旦祭 一月一日・祈年祭 一月二十日
    例大祭 九月二十日前後の祝祭日
社殿  久本殿は昭和四十二年二月九日早暁失火により灰燼に帰したが、同四十三年に再建された。(建物面積五十二平方メートル)
境内  四三〇〇平方メートル
境内社 鹿島社 宝暦十二年
奉斎地区 多摩区西生田及び南生田の一部
                 宗教法人 杉山社


新編武蔵風土記稿-巻之五十九橘樹郡巻之二 稲毛領金程村杉山社-より
 東ノ方ニヨリテアリ。村ノ鎮守ナリ。棟札ニ寛政六年造立ノヨシヲ記ス。コレ鎮座の年ナルニヤ。本社ハ丘ノ上ニアリ。三尺四方ノ宮造ニシテ覆屋アリ。二間ニ二間半。本地不動ハ木造ニシテ長一尺ハカリノ立像ナリ。相殿トス社前ニ木ノ鳥居ヲタツ。例祭ハ年々九月二十一日。平村ノ神職小泉信濃司レリ。平常ニハ村持ナリ。


【細山神明社】川崎市麻生区細山2-6

  細山神明社
鎮座 川崎市麻生区細山二丁目六番一号
祭神 主神 天照大神
   相殿 倉稲魂命
      児屋根命
      五十猛命
      猿田彦命
合併神社 稲荷社(北谷)  杉山社(南田)
     秋葉社(大久保) 春日社(向原)
     杉山社(金程)
例祭日 元旦祭 一月一日、  お庭草 七月十五日
    風祭  九月一日、  夜宮 九月二十三日
    例大祭 九月二十四日、七五三 十一月十五日
  細山神明社の縁起(逆大門の由来)
 わが郷土の鎮守様、神明社のひらかれたのは、言伝によれば源頼朝が鎌倉幕府(一、一九二年)をひらいたころといわれている。
 はじめ、社を東の方に向けて建てたところが、一夜にして社殿が西向になって居り村人が驚いて東向に直すと、又、一夜にして西向になっている。こんな事が三度もあって村人が不思議に思っていたある夜、名主の夢枕に神様がおたちになり『この神明社は細山村の東の端にある。東を向いて社を建ててしまっては大事なわが細山村に背を向けてしまいお前たちを守ることが出来ない。これを西向にして村全体がみえるようにすればいつも氏子を守っていられる。又、西の方はるか伊勢の皇大神宮の方を向いている事ができる。このため大門が逆になるのは一向にかまわぬ。』とお告があった。名主は夢からさめると、早速、村人を集め。お告のように西向のまま神明社を鎮守として祭ったという。一般の神社は坂を登って社殿を拝するのが常であるが当社は坂を降って参拝するので、人呼んで逆大門というのである。
 かつて、境内には参拝すると乳が出るという瘤のついた大榊があった。又拝殿には多数の絵馬があり、とくに眼病平癒の向いめ絵馬、下の病や腫物のため願をかけた蛤の絵馬などが霊験のありがたさを物語っている。


新編武蔵風土記稿-巻之五十九橘樹郡巻之二 稲毛領細山村杉山社-より
字坂東ノ内丘ノ上ニアリ。コレモ村ノ鎮守ナリ。相傳フ堀河院ノ御宇永長元年ノ勧請ナリト。本社は宮作ナリ。覆屋四間ニ三間半。東向ナリ。本地不動ハ木ノ立像ニテ長一尺五寸社中ニ安ス。コレモ村持。


【(平尾)杉山社】(48)稲城市平尾1189

杉山神社の歴史
 当神社は、鶴見川水系に多く存在する「杉山神社」のうちの一社で、創建の詳細年代は不詳ですが、延徳年間(1489~92年)に社殿を再建したとされ、「武州児玉郡金屋村住人中村五郎衛門家吉敬白 延徳二年(1490年)五月五日」の銘がある神鏡が、保存されています。
 現在の御神体は、日本武尊(やまとたけるのみこと)弟橘姫(おとたちばなひめ)の木像が安置されており、本殿の建築は棟札の記述により延宝四年(1676年)造営と考えられ、江戸時代前期の貴重な建築物です。
 安政二年(1855年)社殿を造営し、大正八年(1919年)に各宇に鎮座せる八坂神社、日吉神社(山王神社とも言う)の二社を合祀し、昭和五十八年(1983年)に御社殿修復、大鳥居の建立・手水舎新築等を行い現在に至っています。


【椙山神社】(47)町田市三輪町1618

   椙山神社
神社名 椙山(すぎやま)神社
鎮座地 町田市三輪町十九号一六一八番地(旧武州三輪村)
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 大物主命(おおものぬしのみこと) 意富斗能地神(おおとのじのかみ)
 当社は「古事記」「日本書紀」にも記されている有名な大和の國の三輪の里(現奈良県桜井市三輪町)に鎮座する大神(三輪)神社の御神体である秀麗な三輪山にこの附近の山容がよく似ているところから、元慶元年(八七七年)当地に勧請されたとの傳承がある。
 御神体は不動明王が鋳出されている御鏡であって裏面に下三輪総鎮守、寛文四年(一六六四)大吉と刻まれている。
 特に社号の「椙山」はめずらしく、武相地区に七十二の「杉山社」があるが、当社の椙(國字)は唯一のものである。
 総氏子中により奉納された文政二年九月吉祥日(一八一九)の銘がある。鰐口と、嘉永四年(一八五一)建立の江戸時代で遺存しているものとしては、近隣にあまり例のない石造大鳥居の奉額に「椙山大明神」と記されている等、まことに古い貴重な歴史を物語っている。
 昭和二十四年頃までには広い境内に樹令五、六百年を経た杉や桧の巨木がうっ蒼として椙山の社・鎮守の森そのもののたたずまいであった。
 昭和四十七年荘厳華麗で精緻を極めた神殿の覆屋を改装して幣殿と拝殿を改築、参道を改修し、境内を整備した。
 明治末年下三輪大戸にあった大戸大明神が合祀された。
祭事
  八月二十八日 風水害、天災等の厄除祈願
  九月二十八日 例大祭
氏子数 百二十戸(旧末は約六十戸) その他崇敬者が多い
             昭和五十六年十一月吉日 氏子中


【鐵神社】(8)横浜市青葉区鉄町1553
杉山明神、青木神社、天満宮を合祀した鐵村の総鎮守鐵神社です。例によって、辿りつく頃には日がとっぷりと暮れていましたので、またいつか訪ねたいと思います。

   鐵神社の由緒
ご祭神ご神徳
伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
 国家安泰 延命長寿 五穀豊穣 家内安全 土木建築 商売繁盛 厄除 病気平癒 受験 結婚 子授け
五十猛命(いそたけるのみこと)
 植林 木材 木具 住宅の木材製品の守護神
菅原大神(すがわらのおおかみ)(道真)
 文学 和歌 学問 書道 塾 免罪消除
例祭日 十月吉日
人事芸能 上籤獅子舞
社殿 本殿(三坪) 幣殿(六坪) 拝殿(十八坪) 社務所(二十八坪)
由緒・沿革
新編武蔵風土記稿に拠ると天文年間(一五三五~一五五五)勧請し創建されたと伝えられる。
以前は青木明神、杉山明神と称していたが、明治初年に上・中・下鐵村の三ヶ村が合併して鐵村となり神社名も「鐵神社」に改称した。
旧本殿が二殿あったが、昭和四年(一九二九)改築した時本殿を一つにまとめた。
この年、神饌幣帛供進社に指定され、以来鐵上中下の総鎮守として篤く崇敬されている。
昭和三十八年(一九六三)神社境内地東北農地に私立桐蔭学園建設に伴い参道を拡張する。現在の社殿は昭和四十二年(一九六七)改築建立されたものである。その後昭和四十五年(一九七〇)四月に学業の神天満宮を本殿に合祀した。
なお、鳥居は昭和四十九年(一九七四)に建立されたものである。
            金子菊次郎
            村田八右衛門
            坂田愛治
            志村文雄
    平成十九年七月吉日
            鐵神社総代


●その地の神社、等

【北野天神社】川崎市多摩区枡形6丁目16

【根岸稲荷神社】川崎市多摩区枡形4丁目12

【須賀神社】川崎市多摩区栗谷3丁目18

【細山の石塔群】川崎市麻生区千代ケ丘5丁目1


二親供養
為二親菩提
奉巡礼一百番供養
三界万霊等
  享保九年(一、七二四)甲辰天
          三月吉祥日
 右はこの近くの山田家の二親供養塔である。一百番とは西国三十三、坂東三十三、秩父三十四観音札所のことという。
道祖神(どうそじん)
 向って左に「道祖神」と刻まれた石がある。この石は、この辻に建てられた道祖神-賽神(さいのかみ)(セエノカミ)の中におかれた石で以前は、この石を火中に投じたが傷んで新調されたという。
 正月早々、子供たちが中心になり作る。
さいのかみ(この辺りではセエノカミ)は、ドンド・サイトウ・佐義長(さぎちょう)などとよばれ、一月十四日の朝、もやされる。さいかみ(賽神)は村の入口に建ち、村を(ふさ)ぎ病気や災厄除けをしてくれるという。
 細山郷土資料館の村模型には十箇所近いさいのかみの分布が示されている。
                 細山郷土資料館

【平尾入定塚と十三塚】稲城市平尾2丁目84


入定塚 Nyujozuka Tumulus
 直径20mの円墳状の塚で、昭和34年に発掘調査が行われている。塚の中心部には、2m四方の遺構があり、四隅に径25cm程の丸石が置かれていた。発見された板碑から「天文5年(1536年)丙申八月十五日長信法印入定上人」という刻印が確認され、室町時代の末期に、長信という僧侶が鎌倉から平尾に来て、生きながら塚の中に入って、経文をとなえながら入定したということが明らかになった。出土した遺物は、9基の板碑と開元通宝などの45枚の古銭、鉄釘などである。


十三塚 Jusanzuka Tumulus
 十三塚は全国から発見されているが、東京都では、この塚が唯一のものである。平尾遺跡の調査時に、塚の一部を発掘したが、遺物は発見されず、何の目的で、いつ頃築かれたかが明らかでないが、一般には中世における民間信仰の遺跡と考えられている。馬場保雄氏が所有する貞享3年(1686年)の「裁許絵図」という古文書によると、当時この付近は馬の飼料をとる秣場という共有地であったが、平尾村と片平、古沢町(現川崎市)との間で、村の境界についての争いがおこり、互いに譲ろうとしないために、幕府の裁定が下ったのである。それは入場塚の十三塚の上を境界とするもので、境界を定めるために十三塚が利用されたのである。


【(三輪)熊野神社】町田市三輪町1925
 三輪の熊野神社、扁額には「熊?神社」とあります。神木のアカガシは、巨樹・巨木データベースによれば、主幹の周囲が530cmで、東京都では一番太いアカガシです。


  熊野神社
鎮座地 町田市三輪町一九二五番地
御祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)
由緒 元慶元年(八七七)大和の国城上郡三輪の里(現奈良県桜井市三輪)よりの勧請との伝承がある。明和四年(一七六七)十一月別当高蔵寺法印亮怡により社殿造営され鎮守の神として氏子の崇敬の的となり、嘉永七年(一八五〇)八月石像の三尊仏を造立して再建を図る。その後昭和四年大きく増改築が施され現社殿は昭和四十八年九月氏子の創意により造営される。昭和五十八ねん九月社殿造営十周年記念事業として社号碑並びに幟枠ポールを建立致し続いて境内地の整備を行い格式を整えるに至った。尚本殿は平成二年二月町田市の有形文化財に指定され、この建築は江戸中期のものと聞き及ぶ。御神木のアカガシは樹齢300年を経て市の銘木として指定を受くる。更に平成五年九月主殿造榮二十周年にあたり御神木アカガシの生育を願って御影石にてかこい保護対策を完備した。
社殿 神幣(明和四年銘)石三尊像(嘉永七年銘)
境内面積 二、四一〇平方米
社殿・本殿・神明造・拝殿入母屋造
祝祭事
 一、元旦祭    一月一日
 一、例大祭    九月二十一日
 一、七・五・三祝 十一月十五日
         昭和五十九年九月吉日 氏子中

【沢谷戸自然公園】町田市三輪緑山4-1-18
 熊野神社の近くの沢谷戸自然公園には石のモニュメント(風の足音、風の舞台、風のとおり道)がありました。

【西谷戸稲荷社】東京都町田市三輪町1618
 椙山神社の境内社の稲荷社です。左手すぐに、由緒不明の二座もあります。

【寺家熊野神社】横浜市青葉区鴨志田町
 寺家ふるさと村の近くで道を探していてたまたまみつけた熊野社です。


熊野神社建設記念碑
祭神 伊弉諾命(いざなぎのみこと)
   伊弉冉命(いざなみのみこと)
   大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと)
鎮座地 横浜市青葉区寺家町八百八拾番地
氏子数 五十九戸
由来記
熊野神社の創建は記録には不明であるが、武蔵風土記には九尺二間の社(熊野社)が寺家村熊野谷なあると記録されている。当地では昔から御熊野様と言われ、口伝により何時の時代からか火災によりここに移転されたと伝えられている。この度罹災した社は、慶應三年に当地大工野路文之丞により建立されたと棟札より判明する。その後大正十四年に当地大工萩原七之助により拝殿、浜縁を増築し、社殿が完成、昭和四十五年に屋根を茅葺より銅板葺きに改築する。今回の再建には旧社殿の復元をする趣旨で建設をする。
建設記
平成十三年四月十三日突然の不審火により全焼する。氏子集い同年五月に熊野神社建設委員会を結成し、同年八月に静岡県富士宮市の協和産業株式会社を施工業者とし、寄付金を氏子より協賛を得て同年十月に発注する。平成十四年二月地鎮祭、同年十月十三日に入魂式、十四日に遷宮祭を施行し、再建が完了する。
    平成十六年四月吉日
      熊野神社宮司 池田貞近

 その他、本日撮影の写真です。

【主な経路】
南武線登戸駅-北野天神社-根岸稲荷神社-五反田神社-須賀神社-(西生田)杉山社-細山神明社-(平尾)杉山社-平尾入定塚-(三輪)熊野社-沢谷戸自然公園-西谷戸稲荷社-椙山神社-寺家ふるさと村-寺家熊野神社-鐵神社-ブルーラインあざみ野駅

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

【参考】
 トキワサンザシ Pyracantha coccinea
 ケヤキ Zelkova serrata
 ヤクシソウ Youngia denticulata
 スイセン Narcissus spp.
 アカガシ Quercus acuta
 ジョウビタキ Phoenicurus auroreus
 ウィンターコスモス Bidens laevis
 あざみ野カーデンズのイルミネーション

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