やっと取れた振替休日、お天気もよかったので、紅葉が見頃との報道のあった長瀞を訪ねました。
長瀞駅のホームには、蛙神社があります。御神体は木彫りのヒキガエル(?)
長瀞駅 蛙神社 ブーメラン(無事に蛙)
ようこそ、天下の勝地 長瀞へ
「いちどとはいわずに、またきてくんな」をテーマに、ブーメラン(無事に蛙)と交通安全を願い、お客様が無事にご帰宅できますよう命名いたしました。
お社は、秩父市宮地天満天神社、お社は、秩父市近戸町 原氏より寄贈されたものです。
長瀞駅長
昼食は、岩畳通りの大黒屋で、くるみ蕎麦と切込み饂飩を戴きました。
月の石公園では、モミジ類の赤がひときわ綺麗でした。
句碑
ここに 我
句を留むべき
月の石
高浜虚子
埼玉県自然の博物館では、短い時間でしたが第三紀に生息した古代鮫
巨大ザメの復元 - 深谷市
■アゴの復元模型
深谷市菅沼で発見されたサメの歯化石をもとに、近縁のホホジロザメを参考に復元したものです。大きなアゴには獲物を食いちぎる三角形のするどい歯が並び、内側は、抜けると外側に向かってくりだす予備の歯があります。
■生体の復元模型
頭上の模型は、体長12mの巨大なサメで。この大きさは、化石の前歯から求めました。また、軟骨魚であるサメには、硬い骨やウロコはなく、エラの穴が五対あります。
日本地質学発祥の地碑
由来の記
荒川が刻んだ景勝の地長瀞は、広い岩畳や色とりどりの変成岩がみられ、早くも大正十三年には国の名勝・天然記念物に指定された。
ここに分布する変成岩は、三波川結晶片岩と呼ばれ、西日本地域にかけて帯状に分布しており、日本列島の根幹をなすものである。
明治十年東京大学に地質学科が創設され近代地質学が初めて日本に導入されると、翌年には、初代教授ナウマン博士が長瀞を調査している。以来、長瀞一帯は、我が国地質学上の重要な研究拠点となり、多くの地質学者を育てて、日本地質学発祥の地と言われるようになった。
彩の国元年である本年は、日本地質学会が発足して百周年を、さらに、長瀞町が町村合併五十周年を迎えた。折しも、由緒あるこの長瀞の地に、天皇・皇后両陛下が行幸啓された。
これらを記念して「日本地質学発祥の地」の碑をここに建立する。
平成五年十二月
埼玉県
長瀞町
ジオパーク秩父
“日本地質学発祥の地”といわれる秩父地域が平成23年9月、日本ジオパークに認定されました。ジオパークは”地球と人間のかかわり”をテーマとする自然公園です。地形・地質とそれを基盤とする動植物などの自然遺産や、それらに関わる文化遺産の保全・活用をおこないます。また、地域の振興に役立つ活動としても期待されています。
埼玉県自然の博物館
記念碑の岩石について
これは、「赤鉄石英片岩」と呼ばれ、この地域一帯の変成岩中に薄く広く分布する。
白い石英を主体とし、縦の縞模様に沿って暗紫色の赤鉄鉱をはさみ、その他微量の黒い石墨・緑色の緑泥石・光沢のある絹雲母などを含む。
碑は、岩石の自然の割れ目をうまく利用しており、前後は『節理』と呼ばれる平らな割れ目、左右は『片理』という薄く割れる面からなっている。
右側面には、かつて荒川の河床で形成された小さなポットポール群が観察できる。
埼玉県自然の博物館
宮沢賢治句碑
つくづくと
「粋なもやうの
博多帯」
荒川ぎし
の
片岩の色
宮沢賢治
「雨ニモマケズ風ニモマケズ…」で有名な宮沢賢治は明治二十九年八月二十七日岩手県花巻町(現花巻市)に生まれる。盛岡高等農林学校二年、二十歳の時、地質調査研究のため、先生、学友と共に秩父地方を訪れ大正五年(一九二六)九月三日虎石を見学、その美しさを歌の詠む。
碑の歌は、はがきに九首の歌を書き無二の親友保坂嘉内に宛てて小鹿野より送った中野一首である。
その後賢治は農学校教師に農民指導等に情熱を傾け、童話や詩など多くの作品を遺した。
長瀞町と賢治の貴重な出会いの証を賢治の故郷の岩手山に似た石に刻み永く後世に伝え、町の教育文化の向上と観光発展に資するため、町内外有志の浄財を町の協力によりこの歌碑を建立する。
平成十五年九月
宮沢賢治歌碑建立委員会
書 千島榮一
刻 (有)小林石材店
蟲慰霊之碑
【主な経路】
長瀞駅-大黒屋-岩畳-月の石もみじ公園-埼玉県立自然の博物館-上長瀞駅