横須賀雑考(1968年)に、『北郷八景とは仮に筆者が名付けたので正しくは何八景というのかわかりません。(p.468)』となっていたのが、一人歩きして北郷八景となっているようです。
田浦行政センターのウェブサイトでは、田浦町誌を根拠に『北郷八景』としていますが、田浦町誌に『北郷八景』という記載はありませんので、少なくともこれは間違いです。
横須賀雑考の典拠は田浦町誌(1928年)で、田浦町誌では坂中山観音寺の項で什宝のひとつとして扁額を紹介しており、『安政戊午は五年で紀元五二一八年昭和三年より正に七十年前である。旭松閣吉隆とは如何なる人であるか不明であるが現横須賀軍港の防波堤内を琵琶湖に見立て浦郷八景ともいふべき勝景を撰した鑑識はその詠歌と共に推奨するに足るものである。(p.176)』とあります。
さらに下って、浦郷町在住の生方直方が著わした『坂中山観音寺に就いて』(1991年)では、『観音寺に参詣した当時の文化人、「旭松閣吉隆」は、安政5年-1858-にこの風景絶佳を「浦郷八景」として撰した。(p.7)』と記しています。生方氏は、八景成立後の文献として、田浦町誌の他に、横須賀皇国地誌残稿(1978年)および浦郷村郷土史(1911年)を引用文献として挙げていますが、この二つの文献には八景の事は表れておらず、『浦郷八景』の称は田浦町誌から採用したと推定されます。
現在、この八景地で由来を記した説明版があるのは独園寺だけですが、独園寺では『浦郷八景』を採用しています。この八景の根源地ともいえる観音寺でも観音像御開帳の折の説明のために檀家の皆さんが作成したと思われる説明文には『浦郷八景』となっています。
かつての浦郷村内の地名を知ることのできる資料として相模国三浦郡浦郷村字地書上(明治16年、1883年発行)を紐解いてみても『北郷』という名称は見当たらず、現在追浜町1丁目にある北郷公園にその名を留める程度である『北郷』は、地元ではあまり馴染みのない名称と思われます。
横須賀雑考では、横須賀の北部の八景と言う意味で『北郷八景』を採用していると思われますが、旧田浦町あるいは旧浦郷村地域では『北郷』という呼称が一般的であったとは思えず、地元で受け入れやすい、また元々の田浦町誌で提案されている『浦郷八景』を採用することが妥当と思われます。(市橋秀樹)
【参考文献】
高橋恭一(1968)三浦半島の八景、横須賀雑考、p.466-477.
生方直方(1991)坂中山観音寺に就いて、28p.
田中作造・高橋真太監修(1928)観音寺、田浦町誌第二編(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版)、p173-177.
横須賀郷土資料復刻刊行会(1911)浦郷村郷土誌(横須賀郷土資料叢書第3輯,1978年復刻版)、36p.
横須賀市社会科研究会編(1978)横須賀皇国地誌残稿、134p.
追浜地域文化振興懇話会(1992)相模国三浦郡浦郷村字地書上、46p.