南下浦八景を巡る

 シニアネット横須賀のKさんに南下浦(みなみしたうら)に新しい八景が誕生したとの情報を戴き、早速現地を訪ねてみました。新八景は、形式としては瀟湘型に依らない自由な形式で、『琴音の磯』の言い伝えを除けば宗教色を全く感じさせないことも特徴と言えるかも知れません。

【お松ヶ池の河津桜】
 神奈川県ではよく知られている三浦海岸の河津桜ですが、今は当然ながら葉桜です。現在の池の名前は『こまつがいけ』ですが、八景では『おまつがいけ』と読ませるようです。今年の開花状況は『三浦海岸桜まつり2017』をご参照ください。


【下浦の浜の風物詩】
 三浦海岸は、海水浴客と釣り人で賑わっていました。

【琴音の磯】
 琴の音が聞こえてきた磯から出現したという観音像は、菊名山法昌寺に祀られているそうです。

【金田漁港の朝市】
 到着すると丁度朝市終了の時間だったようです。湾には、ダイサギが沢山集まっていました。

【剱埼の灯台】
 白亜の灯台は道すがらの畑からもよく目立ちます。今日は、大浦海水浴場からハイキングコースを経由して海側から訪ねてみました。

【江奈湾の干潟】
 本日の潮廻は中潮、江奈湾に着いた頃は満潮でしたので、干潟は殆ど目にすることができませんでした。岩礁に水鳥が集まっていました。

【盗人狩の岩礁】
 この辺りの地層は砂礫岩と泥岩の互層で傾斜が70度程度と切り立っています。泥岩部分が先に海蝕されたため、特異な景観を呈しています。ここの崖に追い詰められた泥棒は、どうにも観念せざるを得なかったことでしょう。

【岩堂山からの眺望】
 国土地理院の作成する地形図の改訂で神奈川県最低峰の座は失ったようですが、三浦市の最高峰岩堂山(82.1m)からの眺望は、見飽きない面白さがあります。

平成版「南下浦八景」
 お松ヶ池の河津桜
 下浦の浜の風物詩
 琴音の磯
 金田漁港の朝市
 剱埼の灯台
 江奈湾の干潟
 盗人狩の岩礁
 岩堂山からの眺望
三浦半島の八景巡り

【本日の主な経路】マップ
三浦海岸駅-小松ヶ池-小松ヶ池公園-正覚山成等院十劫寺-下浦の浜-白山神社-菊名山法昌寺-牛込山永楽寺-菊名氏の墓-菊名漁業生産組合-下浦小学校-琴音の磯-金田山清傳禅寺-八坂神社-金田漁港-三浦市東部浄化センター-大浦海水浴場-剱崎灯台-矢の根井戸-江奈湾-毘沙門隧道-盗人狩-宮川フィッシャリーナ-八雲神社/神明社-岩堂山-引橋-三崎口駅

 以下、本日撮影の写真です。

【植物など】


 ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. longituba
 トウガン Benincasa hispida
 イヌビワ Ficus erecta
 スベリヒユ Portulaca oleracea
 オオアレチノギク Erigeron sumatrensis
 メマツヨイグサ Oenothera biennis
 ハマヒルガオ Calystegia soldanella
 アカザ Chenopodium album var. centrorubrum
 トウモロコシ Zea mays
 クコ Lycium chinense
 サルスベリ Lagerstroemia indica
 サフランモドキ Zephyranthes carinata
 シンテッポウユリ Lilium x formolongi
 ルコウソウ Ipomoea quamoclit
 ヒャクニチソウ Zinnia violacea
 タイマツバナ Monarda didyma
 ダンドク Canna indica
 ツルナ Tetragonia tetragonioides
 フナムシ Ligia exotica
 オカヒジキ Salsola komarovii
 ツユクサ Commelina communis
 ミゾソバ Polygonum thunbergii
 トウオオバコ Plantago japonica
 キンエノコロ Setaria glauca
 ガガイモ Metaplexis japonica
 スイカ Citrullus lanatus
 ウサギアオイ Malva parviflora
 クロウリハムシ Aulacophora nigripennis
 テリミノイヌホウズキ Solanum americanum
 モミジバヒルガオ Ipomoea cairica
 クサギ Clerodendrum trichotomum
 アオバハゴロモ Geisha distinctissima
 ハマボウフウ Glehnia littoralis
 ハマエノコロ Setaria viridis var. pachystachys
 イワダレソウ Phyla nodiflora
 ソナレムグラ Hedyotis biflora var. parvifolia
 タイトゴメ Sedum oryzifolium
 ミヤコグサ Lotus japonicus
 フクシマシャジン Adenophora divaricata
 ビロードモウズイカ Verbascum thapsus
 キアシシギ Tringa brevipes
 ヒライソガニ Gaetice depressus
 アカテガニ Chiromantes haematocheir
 テンツキ Fimbristylis dichotoma
 ハマゴウ Vitex rotundifolia
 ノブドウ Ampelopsis glandulosa
 ツルフジバカマ Vicia amoena
 シマナンヨウスギ Araucaria heterophylla
 アトランティックジャイアント Cucurbita maxima ‘Atlantic Giant’

【石塔など】


 石塔群(馬頭観音、福徳圓満夫婦延命地蔵尊)
 厳島弁財天(小松ヶ池)
 庚申塔群(笹塚不動)
 馬頭観音(菊名山法昌寺)
 庚申塔群(牛込山永楽寺)
 疣取地蔵尊(牛込山永楽寺)
 庚申塔(南下浦町菊名208-7)
 菊名左衛門重氏碑
 庚申塔(南下浦町菊名208-9)
 石塔群(南下浦町金田120-8)
 稲荷神社(南下浦町金田273)
 笠守稲荷(南下浦町金田992)
 三浦義村墓碑
 八坂神社(南下浦町金田2014)
 石塔群(八坂神社)
 石塔群(南下浦町金田)
 石塔群(南下浦町金田2436)
 庚申塔(南下浦町松輪755)
 石塔群(南下浦町松輪573)
 石塔群(南下浦町松輪573)
 矢の根井戸
 庚申塔(南下浦町松輪)
 庚申塔(南下浦町松輪)
 龍宮神社
 石塔群(岩堂山東峰)
 八坂神社/神明社(岩堂山東峰)

【碑文・案内文】
 記念碑(三浦海岸駅前)
 記念碑(小松ヶ池畔)
 笹塚不動尊
 菊名白山神社
 菊名左衛門重氏の碑
 かっぱの証文(金田山清傳寺)
 三浦義村公の墓(南下浦町金田)
 三浦金田緑地
 剱崎の由来
 矢の根井戸
 剱崎灯台
 江奈湾の干潟
 盗人狩と海岸
 岩堂山
 引橋


記念碑(三浦海岸駅前)
 この碑の位置からすぐ近くの西方一帯は水深(みずぶか)地区といい、広々とした水田が続いており人家もまばらで、森陰にわずかの農家が見えるほどでした。水田の中を陣屋川の細い流れがまっすぐに走り、その奥の山あいに、水深の堰、または「すいこの池」と呼ばれる用水池がありました。これは上宮田堂ヶ谷戸水利組合が水深地区の耕地整理事業の一つとして、昭和六年に着工し、同十年に完成したもので、你来四十有余年にわたり満々たる水をたたえ、その名のごとく水深の地を潤し、豊かに稲を実らせ、人々の田作りに大きな役目を果して来ました。そしてまた、山陰にひっそりと静まるそのたたずまいは人々に愛され親しまれて来たものであります。
 池の面に網をすざす頃、にぎやかな田植えの声があちこちに彈み、やがて青田をわたる涼風の夏を過ぎて穂すすきが池のほとりに揺れ、赤トンボが飛び交う頃稲田は金色に染まり、そこここに稲架が立ち掛けられ、人も牛も馬も収穫にいそがしい秋を迎えます。
 このような生活を幾春秋続けてきたこの地区も、宅地開発が急速に進み、人々に愛され親しまれたこの池もその役目を終ることとになりました。そので、組合では昭和四十九年にこれを埋立処分しましたが、永い年月この池や水田とともに農耕に携わった組合の人々にとってはこれらのことが忘れ難く、その思いと古きこの地のさまをここに刻み、昔を偲ぶよすがとするものであります。
昭和五十五年一月吉日
  上宮田部落
  堂ヶ谷水利組合健之


記念碑(小松ヶ池畔)
 小松ヶ池は古来より、当組合專用にかかる農業用感慨池にして、組合員島共同にして堤塘、水門、水路等水利施設の設置、維持管理、改修に当り、かつ配水の統制、管理を行い現在に至ったものである。
 然るに近時小松ヶ池周辺地域における開発の進展に併い、当組合及び組合員等の同池に対する用水利用権並びに敷地所有権が危殆に瀕せしめられる事態が発生するに及んだ。
 よって、当組合及び組合員等五拾五名は、横浜地方裁判所に対し、三浦市との間における水利権、並びに所有権確認の訴訟を提起し、参年有餘に亙り、審理を遂げてきたところ昭和五拾四年拾弐月弐拾四要旨左記の如き和解が成立するに至った。
  記
一、当組合及び右組合員等は、小松ヶ池につき、農業用感慨水利権を有すべきこと。
一、小松ヶ池敷地所有権につき、三浦市がなした保全行為を除き譲渡その他の処分若しくは現状を変更する行為については、当組合及び三浦市において協議し、合意のうえこれを行うべきこと。
一、一般市民は前記水利権に支障を生ぜしめない限度において、自由に小松ヶ池を利用し得べきこと。
 右和解成立を記念するとともに、関係当事者において、道條項を確実に遵守することにより、当組合及び組合員等の各権利が永久に保全さるべきことを期して、ここに本記念碑を建立する。
昭和五十五年四月吉日
   小松ヶ池水利組合健之


笹塚不動尊
 十劫寺は、浄土宗正覚山成等院と号し、土地の豪族である二代松原新左衛門を開基とし、芝西応寺の住職厳誉が退隠後、このお寺を開きました。本尊は阿弥陀如来です。
 客仏の笹塚不動明王は、昔、上宮田水深(みずぶか)の西方(現在の上宮田小学校敷地内)の小高い丘に不動堂があり、明治末まで、その本尊として祀られていました。この地を「笹塚」と称していました。
 この不動尊は、天文十五年(1546年)、泉円の作であることが像に書かれた銘文から分かります。
 永禄十年(1567年)九月に里見氏が海を渡って統治に来襲した祭、これを北条氏が三崎水軍を率いて菊名沖に迎え撃ちました。
 その時、突然の荒天に襲われ、北条の軍船は進退極まってしまいました。この時、土地の豪族初代松原新左衛門が海岸に火を焚いて目標としたので、北条軍は無事海岸に着くことができました。そして、風雨の治まった翌日に、ふたたび北条軍は沖の里見軍を攻め、大勝しました。
 氏康は、新左衛門の功をたたえ感状をさずけました。これを喜んだ新左衛門は、日頃信仰する笹塚不動尊で神楽を奏して、この感状を披露したと伝えられます。
 明治元年(1968年)の神仏分離令により、それまで祀られていた笹塚の不動堂から十劫寺へ移され、以降大切に守られました。
              三浦市


相州三浦 菊名鎮座 白山神社(はくさんじんじゃ)
 御祭神 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
     伊邪那美尊(いざなみのみこと)
 合祀神 天照皇大神(あまてらすおおかみ)(伊邪那岐尊・伊邪那美尊の御子神)
     水歯別尊(みずはわけのみこと)
     国常立尊(くにとこたちのみこと)
 御鎮座 鎌倉時代
 御由緒 鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた三浦一族の武将、菊名左衛門重氏により加賀国(石川県)一宮白山比咩(しらやまひめ)神社を勧請したと伝わっています。
 当初は菊名の山林中(現在殿より見える小高い丘附近)に鎮座していましたが、鎌倉幕府の滅亡と同時に三浦一族また菊名左衛門重氏も滅びて、以来久しく社頭も荒廃に任せていました。江戸時代の貞享元年(1684年)に村民相謀り現在の地に社殿を造営し、菊名の氏神様として祀られました。
社殿は幾度も改築され、明治四十一年(1908年)に本殿の敷地を掘り下げ、幣殿を新造しました。なお、石段並びに石垣も同年に新造されました。
現在の社殿は昭和四十五年(1970年)の建造であります。
 御神徳 白山神社の御祭神、伊邪那岐尊・伊邪那美尊の二柱の大神は神代の昔に始めて夫婦となられ、日本の国土や天照皇大神をはじめとする八百万の神々をお産みになられた神さまであります。そのご神徳は多岐にわたり、「家内安全」「夫婦円満」「子授け」「子宝」「安産」「五穀豊穣」「海上安全」など実に広大無辺なものであります。
 また近年では、日本で初めて夫婦になられた神さまを祀っていることから、「縁結び」に御利益があるといわれ。男女の良縁をはじめ、家族、友人、戸事などさまざまな良縁を願う人たちのご参拝も多くなっています。


菊名左衛門重氏の碑
 菊名左衛門重氏は、明治二十七年(1894)に出版された村井弦斎著小説「桜の御所」に登場する人物です。
 重氏は、戦国時代に三浦同寸義同の武将としてここ菊名を所領した武勇のすぐれた人でうり、同時によく領内の政治を行い領民からその徳を慕われていました。
 そのころ、伊豆に興った北条氏との戦いは次第に激しくなり、永正のある年(16世紀初め)義同の幼児虎王丸が敵の手にとらわれたので、重氏はその奪還をはかってわずかな手勢とともに敵中に入り、大いに奮戦しましたが力尽きことごとく討死にして果てました。
 後年、重氏の武勇とその遺徳をたたえて村民が、この碑からほど近い菊名の海岸近くに社を建ててこれを祀り「浜の宮」とよんでいましたが、大正十一年(1922)改めてこの地に移されたものです。
              三浦市


かっぱの証文(金田山清傳寺)
 当寺は臨済宗建長寺派で、金田山清伝寺と呼び、買い残は建武年間(1334~5)桃源宗悟禅師の建立とされております。御本尊は聖観世音菩薩であります。
 寺の脇を流れている川を「すずの川」といい、むかしは、ここまで潮がさして、川淵で鱸が釣れたので、「すずき川」といいましたが、いつのまにかこれが「すずの川」と呼ばれるようになりました。
 その昔、この附近は濃い森に包まれ淋しいところで、すずの川には「かっぱ」が棲んでいて夜となく昼となく、里人ょ騙す悪戯をするので困っていたということです
 或る日農夫が馬を曳いて川に入り、傍の杭に手綱を繋いで馬を荒井はじめると、解けていしまうので、これは「かっぱ」の悪戯と気づき、杭を固く縛って「かっぱ」を捕らえてしまったのです。そして普段から恨んでいた里人達が、寄ってたかって「かっぱ」を虐めていると、騒ぎをききつけてやって来た和尚が見兼ねて止めに入り、「かっぱ」を助けて、人を騙すような悪さをしないよう、よく訓したということです。 前非を悔いた「かっぱ」は詫証文を書いたということが、寺にまつわる話として残っております。
 平成六年一月       三浦市


三浦義村公の墓(南下浦町金田)
 三浦義村公は三浦一族六代の当主で大介義明の孫にあたり、七百年の昔北条氏とともに鎌倉幕府を二分して活躍した武将として知られています。
 平安の末期から戦国動乱の世まで四百五十年にわたり関東に勢威をふるった三浦一族の中でも義村公はもっとも隆盛をきわめた人であったといわれています。
 義村公自らの数ヶ国の守護を兼ね一門の中には、各地に進出し名を成したものも数多かったといいます。
 また義村公は領内の開拓をいつくしみ領民に慕われその治世には見るべきものがありました。生前、義村公は祖父伝来の地であるここ岩浦の里の要害をたのんで福寿寺を開基、善提寺となし、没後菩提寺に近いこの台地に祀られました。
              三浦市


三浦金田緑地
所在地 三浦市南下浦金田鋒2325番地
面積 2,475 m2
寄贈者 学校法人 神奈川大学
 神奈川県では、優れた自然環境及び歴史的環境を後世に引き継ぐため「かながわのナショナルトラスト運動」を進めています。
 この三浦金田緑地は学校法人神奈川大学のご芳志を賜り、かながわのナショナル・トラスト緑地として保全するものです。
 自然を大切にし、みんなの手でふるさと神奈川に豊かなみどりを残しましょう。
 神奈川県環境農政部緑政課    045-210-4310
 (財)かながわトラストみどり財団 045-412-2525


剱埼(つるぎざき)の由来
 剱埼の名のおこりは、徳川時代の萬治年間(1658~1660)であるといわれている。徳川幕府の管材を積んだ五百石船が、この沖で暴風のため難破し、木材もろとも船は海底に沈んだ。そこで海南神社の神主が海に剣を投じて龍神の怒りを鎮めてもらおうと祈ると、すぐに波風が静まり、沈んだ官の木材がことごとく浮かび出たので、それをくり船で磯に運んだという。これにより、この地を剱崎というようになったと伝えられている。
 また、断崖の上に立つ灯台は、明治4年に点灯、震災で破損後大正15年に再建され、千葉県野島崎灯台とともに東京湾の重要な灯台です。


矢の根井戸
 源為義の第八子、源為朝は幼少より意気豪逸で十三歳のとき、父為義より九州へ放逐されたほどですが、その九州でも武威を大いに発揮、土地の豪族を征服して、みずから鎮西八郎為朝と称して勢力を奮いました。
 しかし、その為朝も「保元の乱」では、藤原頼長の判断力欠如から作戦の策が用いられず、これがもとで敗退、ついに平清盛の武将平家貞の捕らえるところとなりました。ただし、その武勇を惜しむ声により、死一等を減じられて伊豆大島に流罪となりました。
 きのうの威とはうって変わったきょうの悲運、為朝は流人の島かせ、「わが弓箭昔に変わらずや」と、鎌倉に向かって矢を放ち、せめてものうさ晴らしをしたと伝えられていますが、その矢が誤ってここに落ち、その矢の立ったこの地点から泉がこんこんとわきでて、井戸となったので「矢の根井戸」と呼ばれるようになったと伝えられています。
              三浦市


剱埼(つるぎざき)灯台~東京湾の入り口にある灯台~
 この灯台は、1866年(慶応2年)の江戸条約に基づき、明治政府が1871年(明治4年)に設置したもので、三浦半島の島南端に位置し、対岸の房総半島にある洲埼灯台と対で東京湾の入り口を表しています。
 晴れた日は灯台から、房総半島の館山から伊豆大島、新島さらに伊豆半島までを展望できます。
 剱埼の名前は、萬治(1660年)の頃、徳川幕府の管財を積んだ船が岬の沖で難破した時、岬の突端から海南神社の神主が剣を海に投じ、竜神の怒りを鎮めたことから生じたといわれています。
 灯台は船舶が安全に航行するための大切な施設です。
 この施設の異常を発見した場合や何かお気づきの点がございましたら、下記の管理事務所までお知らせください。

位置 北緯 35度08分29秒
東経139度40分38秒
光り方 30秒毎に白光を2閃光と緑光1閃光
(複合群白緑互光)
光の強さ 48万カンデラ
光の届く距離 17.5海里(約32キロメートル)
高さ 地上から灯台頂部 17メートル)
水面から灯火 約41メートル
管理事務所 第三管区海上保安本部
横須賀航路標識事務所
電話 0468-41-2864

江奈湾(えなわん)干潟(ひがた)
 「干潟」とはもともと遠浅の浜のことでひき潮のときに、海底が広くあらわれるところをいいます。この干潟では、四季を通じていろいろな生物を見ることができます。
 中でもカニ類が多く、アシ原にしアカテガニやアシハラガニ、泥場にコメツキガニ、みおすじの砂泥や転石の下にケフサイソガニなどが生活しています。またどろの中には、テッポウエビ、スナモグリ、オキシジミガイ、アサリなどもいます。水鳥も多くキアシシギ、ハマシギ、コチドリ、コサギなどを見ることができます。湾の中央には、細長い緑色の紙ひものような植物(アマモ群落)が水面をおおい、この中にボラ、ウミタナゴ、サビハゼなどの幼魚が生活しています。冬はユリカモメ、ウミネコ、セグロカモメが飛びかて沖の岩礁ではウミウも休息しています。
              環境省・神奈川県


盗人狩(ぬすとがり)と海岸
 「盗人狩」とは、昔、盗賊が追われて、この山の端まで来て下を見ると、恐ろしい断崖(高さ30メートル)と怒涛のさか巻きに、ぞくぞくと身振いして足がすくんで動けなくなり、たやすく捕まったという。それで「ぬすとがり」の名が残っている。
 ここの海岸は、岩礁の断崖が多く、足元の黒い岩には外海の大波が打ちよせ、白いしぶきをあげています。この波のうねりは大蛇の胴のように、うねうねと寄せては砕かれその都度崖に荒々しい音をたてています。今日では、潮の香りが満ちあふれるハイキングコースとして岩礁から岩礁へも橋がかけられ、凪いだ日は釣人の姿も見られます。
※落石や足元に十分注意して歩きましょう。
              環境省・神奈川県
              自然環境保全センター自然保護公園部自然公園課
              (046)248-2546


岩堂山
 三浦市内には山岳といえるほどの山はなく、いずれも丘陵程度ですが、この岩堂山は三浦半島南端では最も高い山で海抜八九.九メートルです。晴れた日、頂上からは房総半島、伊豆連峰、そして伊豆大島が眺められ、夏は三浦スイカ、冬は三浦大根の緑と空の青さを満喫できる市内で最も展望を楽しめる丘陵です。
 大昔、毘沙門の白浜海岸に正月三日の朝方、鶏の鳴き声とともに東方から竜燈があらわれ、一体の仏像が流れつきました。村人はこの仏像をお祀りしておりましたが、その後行基菩薩がこの地をお通りになったとき、その像をご覧になり、尊い毘沙門天像であるとお教えになりました。そして菩薩はこの山にこもりさらに一体の毘沙門天像をお刻みになり、ともに祀るようにお告げになり去られたといいます。なおそのとき、像を刻んだときに出た木片が寄り集まって塚になり、その木っぱ塚が山中にあったとも伝えられております。
              三浦市


引橋
 横須賀市の衣笠城を中心にして栄えた三浦一族は、三浦義澄の孫泰村が執権北条時頼と仲たがいとなり、いわゆる宝治合戦がおこり、一族は滅びましたが、義澄の弟佐原十郎義連の系統が残り、その孫、盛時から八代目の時高が永享十年(1438年)新井城を油壷に構築し、本拠を三浦に移しました。
 この時高は世継ぎの問題から養子の義同と争い、明応三年(1438年)新井城で自殺するに至ったとの説があり、三浦の城主となった義同は当時小田原を根拠とした北条早雲の勢力と対決、平塚市伊勢原市の両市にのたがる岡崎城、逗子市小坪の住吉城と各支城で敗退、最後のたのみを新井城に託して守りを固めました。ここ引橋はそのときの大手、つまり外敵防御の第一線であったといわれ、谷間に橋を掛け渡し、敵が攻め寄ったとき、その橋を引いて防いだところから引橋の地名がおきたと伝えられています。
              三浦市


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です