桜木町駅観光案内所で旧東海道のパンフレットを戴いたので、先ずは横浜駅北口を起点にして、横浜宿神奈川から保土ケ谷宿権太坂までを辿りました。
【主な経路】
(横浜駅北口)-洲崎大神-望欣台-大網金刀比羅神社-田中家-浅間神社-洪福寺松原商店街-栄重稲荷-瀬戸ヶ谷八幡社-外川神社-栗之沢神社-
【洲﨑大神】神奈川区青木町5-29
◎洲崎大神
洲崎大神は、建久二年(一一九一)、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。
「江戸名所図会」の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。
洲﨑大神
祭神 天太玉命
天比理比賣命
相殿 素盞男命
大山咋命
例祭 六月六七八日
創立 建久二年六月二十六日
【望欣台の碑】高島台公園:神奈川区高島台3
望欣台の碑
髙島氏偉志アリ正真之才智剛毅之志向偶維新ノ盛時ニ際會
感奮開化ニ勵精シ人才ヲ輩出スルハ學校ヲ興シ教育ヲ専ニス可シト自
ラ巨萬ノ金ヲ散シ碩學ノ教師ヲ海外ヨリ聘シ始テ學館ヲ横濱ニ開ク
是吾邦ニ於テ洋學院ヲ設立スルノ先驅タリ故ニ官進歩首唱ノ賞状ヲ賜
ヘリ而貿易ヲ盛大タラシムルハ鐵道ヲ建築シ運輸ヲ便ニスル最急務ナン
ハ官ニ請ヒ神奈川ヨリ横濱間ノ海中ヘ一直線ニ銕路ヲ築造スルハ便且
益タル事ヲ揚言シ決然奮發シテ家産ヲ頎盡シ現今高島町ノ銕路及
市衛ヲ埋開スルハ氏ノ獨力ヲ以テ竣功スル處其他山ヲ崩シテ港ノ内外ヲ
埋メ瓦斯燈ヲ港中ヘ連絡シテ不夜ノ境タラシメ人民夜ヲ日ニ継テ便益
シ得セシム此時、親臨マリテ叡感ノ勅ヲ賜ヘリ氏曾テ一派ノ易学ヲ
恃發ス進退舉動悉久易占ニ據ラサルハナシ而テ功成身退ノ聖賢
訓戒ヲ反省シ近時神奈川臺上ニ一閑室ヲ設ケ之ニト居シ港内ノ
繁榮ト其事業ノ功蹟ヲ脚下ニ矚望シ獨欣然トシテ其心ヲ慰ス由ヲ
此臺ヲ號シテ望欣臺ト云爾 辱友 荒木政樹謹識
應索 桑門辨三書之
明治十年一丑十二月
横浜市地域史跡
平成二年十一月一日 登録
所在地 横浜市神奈川区高島台五番地の二
望欣台の碑は、横浜の都市形成期における恩人の一人である
碑は、現在、高島公園内にありますが、もとは近くの高島邸にあったものです。
碑高 二八五・〇センチメートル
碑幅 一五〇・〇センチメートル
碑厚 三〇・〇センチメートル
平成二十五年三月 横浜市教育委員会
【大網金刀比羅神社】神奈川区台町7-34
◎
この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯縄社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大網金刀比羅神社となつた。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。
また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目にあたり、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった。
【田中家】神奈川区台町11-1
◎神奈川の台と茶屋
ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊をみおろす景勝の地であった。弥次さん、喜多さんが活躍する「東海道中膝栗毛」にも「爰は片側に
田中家
神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久三年(1863年)創業の田中家です。田中家の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れました。
坂本龍馬ま妻「おりょう」
「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治七年。勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていました。
【神奈川台の関門跡】
◎神奈川台の関門跡
ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。
【浅間神社】西区浅間町1丁目19-10
浅間神社と富士の人穴
創建は承暦4(1080)年、富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村(しぼうむら)鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖には富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴(ひとあな)」と呼ばれる古代の横穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となつていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。
【栄重稲荷】保土ケ谷区帷子町2丁目106
【本金子屋跡】保土ケ谷区保土ケ谷町1丁目84
旅籠
旅籠の面影を残す建造物
館長 金子 勇
■本金子屋の歴史■
本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。
明治二年に建て替えられた現在の建物も、東海道沿いに建つ旅籠の面影を残しています。
過去には国道1号線が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名聞と前庭がありました。現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。
敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があります。これは戦後に造られたものですが、四国の石で造られた燈籠や、大正天皇がお忍びで旅をしたときにお茶を飲むのに休まれたといわれている石などがあります。
【瀬戸ヶ谷八幡社】保土ケ谷区瀬戸ケ谷町137
八幡社境内社 菊水観音 御由緒
新編武蔵風土記稿に
菊水観音出現跡 鳥居に向かひて右の方なり 楠木の株ありてその根の際に少しく窪きところあり この底に清水をたたへきはめて精冷なり 病者常にこの水を服と(て)平癒しあるいは眼病を患ふるものみの水にてあらふときは験有りと伝ふ
と書かれ、近年まで多く人々がこの霊験に肖っていた。現在も僅かであるがその霊水を参している。
菊水観音とは
古代中国の時代に周の穆王の侍童が南陽郡
我国では後醍醐天皇に忠節を貫いた楠木氏は菊水紋を家紋に用い、「大楠公」・「小楠公」はその死後皇室護持の神仏「菊水観音」になったと云われている。
【外川神社】保土ケ谷区瀬戸ケ谷町
横浜市名木古木 No.48075 ケヤキ
【栗之沢神社】保土ケ谷区仏向町1007-14
【
尾才女稲荷の由来
【市沢稲荷神社】旭区市沢町805
【市沢熊野神社】旭区市沢町807
市沢熊野神社
鎮座地 横浜市旭区市沢町807番地
御祭神 伊弉那岐尊 天照大神
例祭日 九月二十日 近い日曜日
御神徳 家運隆昌 延命長寿 交通安全
御由緒 創立年代は詳かでないが往時より市沢を中心とする村の鎮守として氏子の篤い崇敬を集めて来た神社である。
明治四十年村内の神明社を合祀した社殿は文政十年八月造営と伝えられて来たが老朽著しく依って平成三年十一月御大典事業として氏子の赤誠により新社殿造営なる。
付記 神は人の敬により威を増し
人は神の徳によりて運を添ふ
本神社は市沢・桐ヶ作の氏神さま
みな心を合せてお詣り致しませう
熊野神社社務所
【(今井町)子神社】保土ケ谷区今井町167
横浜市名木古木 No.49106 イチョウ
【田嶋稲荷神社】保土ケ谷区今井町12
その他本日撮影の写真です。
ハナズオウ Cercis chinensis
ノアサガオ Ipomoea indica
Bakery KIKI:保土ケ谷区岩間町1丁目6-20
金沢横丁:保土ケ谷区帷子町2丁目71
マユハケオモト Haemanthus albiflos
ケヤキ Zelkova serrata
シュウメイギク Anemone hupehensis
ヒラドツツジ Rhododendron × pulchrum
ソヨゴ Ilex pedunculosa
夕焼け食堂:保土ケ谷区新桜ケ丘1丁目27-7
庚申塔群(市沢熊野神社:旭区市沢町806)
イチョウ Ginkgo biloba
権太坂
ハナモモ Prunus Persica
アツバキミガヨラン Yucca gloriosa
横浜市地域有形民俗文化財
金沢横丁道標四基
平成元年十二月二十五日 登録
この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横丁」と呼ばれていました。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています。
四基の道標は、それぞれ次のとおりです。(右側から番号を付す)
①円海山之道「店名三年(一七八三)建立」
左面に[かなさわかまくらへ通りぬけ]と刻されています。
建立者は保土ケ谷宿大須賀吉左エ門です。円海山は「峰のお灸」で有名でした。
②かなさわ、かまくら道[天和二年(一六八二)建立]
左面に「ぐめうし道」と刻されています。
③杉田道[文化十一年(一八一四)建立]
正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花
④富岡山芋大明神の道[弘化二年(一八四五)建立]
建立者は柳島村(現茅ケ崎市)の藤間氏。芋明神は、富岡の長昌寺でほうそうの守り神として信仰を集めていました。
平成三十年三月 横浜市教育委員会
横浜市地域史跡
権太坂
平成十五年十一月四日 登録
この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。
日本橋から四番目の宿場であった保土ケ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。
『新編武蔵風土記稿』に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は自分の名前を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。
旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ケ谷宿の名所ともなりました。