今日は夕方にかけて金沢文庫で夕飯の買い物。たまたま通りかかった八幡神社で榧実がたくさん落ちていたので少し拾って帰りました。
横浜市地域有形文化財
平成元年十二月二十五日登録
現在の泥亀町一帯は、江戸時代以前までは入り江で、町名の起こりは、寛政八年(一六六八)にこの地を開発した永島祐伯の号をとって泥亀神殿と名付けられたことに由来します。
永島家は代々段右衛門を名乗り開発にあたりましたが、六世の段右衛門成郷は、さらに入江新田を開拓し、これも泥亀新田と言われました。しかし、その後、たびたびの地震、津波などで破壊をくり返しましたが、九世忠篤(亀巣)が嘉永二年(一八四九)にこれを完成しました。
永島家は忠篤まで九代二百年に及び、明治十七年九月に永島亀巣の功績をたたえて、野島の永島家邸内にこの碑は建立されました。
平成十九年三月
横浜市教育委員会
永島龜巣功徳㞢碑
永島龜巣翁功徳碑
武之金澤有泥龜新田土豪永島氏𫝂創也永島氏姓曰下部其先但馬人業醫来仕江戸幕府任法賑
稱道仙道仙子祐伯號泥龜子卜地金澤居焉金澤島嶼榮廻地多斥鹵泥龜子相平潟走川二所得新
畬鹽田並若干町六世孫成郷亦創入江新田後緫稱曰泥龜新田泥亀子既歾元禄十六年關東地大
震平潟走川堰決田廃成郷黽勉復之而天明六年大水新奮二田悉没成郷復従事起廢功稍稍成而
寛政三年海嘯兩次田竟變為海矣黽巣翁成郷孫成名忠篤稱段右衛門少有志氣年甫十七為名主
見習輔父髙忠欲復新田然寛政荒廢後五十年不䏻獲一粒初泥龜子別於三浦郡開舩越新田後亦
擧而典之於是家計窘甚翁乃採薪往鬻江府成買鰮搾其油販之以免飢渇暇則擔土築堤仡仡不止
者二十年官寠欲收廢地廢悲先志隕哀籲乞寛假至天保十四年貸本梢聚将大施功為鄰邦𫝂拒争
訟二歳得申理而田口地主又拒之力殫不䏻復訟忍與之和於是躬先丁夫畚土贊石祁寒暑雨未曾
一日廢輟將樹石柱泥深不達將安土豚潮至為奪鄰近環視皆嘲咲其徒勞翁毅然不屈又十許年終
悉復廢地新開平潟鹽田償還舩越田於是得田四十町塩田五町餘併園圃宅地等凡七十有七町永
島氏之冨遂甲於近郡矣盖自泥龜子剏業至亀巣翁九世二百年中間災變頗仍蹉跌萬状而世世相
承成其志業可謂勤矣哉司馬遷論貨殖曰誠壹之𫝂𦤺如永島氏可謂誠壹矣哉今天下説治生者莫
不曰開墾積貸募財或仰給縣官刻歳月期成功曰上以利國家下以益士民其言娓娓如可聴及下手
事變出意料外志氣沮喪一躓不救公私倶弊者比比皆然嗚乎聖人罕言利不止塞其源亦以其難如
彼焉爾田僅數十町而己而費九世二百年之力況大於是者乎可謂難矣哉廢田既復四隣行澤一皆
為良腴向之坑拒嘲笑者今則皆頼其利翁又常憫佃戸賑貧氓損金營學校及警察署修洲﨑邦龍華
寺田蒙 朝奘賜銀盃者二近致其𫝂産鹽於東亰水産會以其品良而取價廉見賞此又史遷𫝂謂冨
好行其徳者歟翁今年齡七十有七行歩不須杖早起拝鎮守廟事祖先如事生内撫兒孫外攝理一邦
公事其剛毅不撓之概今猶不異昔時性頴敏䏻任用人初事邑主自水王差配従累遷三郡大取締班
大役人給禄百石項者其子孫故奮謀勒翁事蹟於石以傳後請余文余以永島氏之事足以諷世也故
不辤而敘之系以銘曰
鎌倉建府 金澤維隣 江山托跡 世有聞人介冑名族 鉢衣古禅 詩詠
遺編散逸 八景變遷 名稱嘖嘖 泥亀之田泥中曳尾 箸上顯靈 泥龜泥龜
明治十七年庚申秋九月 編修副長官兼大學教授従五位勲六等重野安繹銭
陸軍中将兼議之官二品大勲位嘉彰親王篆額 脩史館監事従五位勛五等巌
【参考】
ニーオン Leucophyllum frutescens
クサギ Clerodendrum trichotomum
ヤマイモ Dioscorea opposita
ナミアゲハ Papilio xuthus
野島と夕照橋
永島亀巣之碑
金沢文庫すずらん通り
カヤ Torreya nucifera
榧の果実
榧の種(70粒ありました)