川崎から横浜へ

 今日は帰りに川崎を起点に東海道を歩いてみました。


石敢當(川崎区駅前本町)
  石敢當の由来
昭和四十一年九月沖縄諸島は数次の台風に襲われ甚大な被害を受け、なかでも宮古島は蘇鉄地獄とといわれる悲惨な状況でありました。
川崎市議会は超党派で救援を決議し広く全市的救援活動を展開いたしました。この碑は救護活動に対する返礼として宮古島から特産の名石トラバーチンに石敢當いしがんとうを刻み贈られたものであります。
石敢當とは古代中国の強力無双の力士の名前でこの三字を刻んで三さ路や十字路等に建て厄除とする習慣が伝耒し沖縄南九州地方に及んでおります。
ここに川崎市と沖縄を結ぶ友好親善を文化交流の絆として石敢當を建て市民の交通安全を祈る者であります。
     昭和四十五年九月一日
          川崎市長 金刺 不二太郎


希望:粟津潔(川崎区日進町)
Kawasaki Renaissance, 1986 Awazu
 かつて母なる多摩川の恵みを受けながら農業を発展させてきた川崎は、同時にこの土地で近代の工業生産力を培った歴史をもっています。いつの時代にも新しい方向をもとめて発揮されたこの町の人々の、ひたむきなエネルギーは私たちの誇りであり、この活力を子や孫に伝えていきたいものです。
 川崎市文化協会の創立30周年を記念して建立されたこのモニュメントは、多くの人の協力を得て完成しました。
 製作にあたった粟津潔氏は、この作品に川の流れに育まれた川崎の自然と、近代的な産業、川崎の未来を表現してくれくました。
 伊藤三郎川崎市長から希望と命名されたこのモニュメントが、文字どおり川崎の明日の分化の創造に希望をもたらすことを願ってやみません。
 昭和61年11月 文化の日
  川崎市文化協会会長 米山市郎

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