美香」カテゴリーアーカイブ

川口神社のおかめ市

 埼玉県南部では12月が酉の市の季節です。今日15日は川口神社の酉の市『おかめ市』の日でした。


  川口神社
 川口神社は、社伝によると平安時代の天慶年間(938-947年)、武蔵国足立郡司武芝によって武蔵一の宮大宮氷川神社わり分祀勧請したものと伝えられています。当社はもと、氷川大明神と称し、昔から領主や民の崇敬をあつめてきました。江戸時代には、産土神として西宝山大慈院延命寺を別当寺とし、また、名主宇田川家によって社殿の再建や修造がなされました。
 明治42年2月26日、鋳物師の神として字塚越に祀られていた金山神社を合祀して、「川口神社」となりました。11月19日は金山神社ま祭礼で「裸踊り」や「寒踊り」と称して、鋳物職人たちが器量の上達を願い、裸や素足で参拝しました。

三の酉(2017.11.30)

 本日酉の日につき、大宮からの帰りに目黒の大鳥神社に立寄りました。


【大鳥神社】下目黒3-1-2
  大鳥神社御由緒
御祭神 主祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 景行天皇の皇子で。熊襲討伐、東国の蝦夷を平定。
    相殿神(あいどののかみ) 国常立尊(くにのとこたちのみこと) 日本の国開きの神様
        弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと) 日本武尊の妃
御由緒 例祭 九月九日に近い日曜日
 景行天皇の御代(七一~一三〇)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、東国の蝦夷を平定しました。この東夷征討の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治まらんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっています。
 東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て(こう)ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野(のぼの)に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原(ことひきのはら)、河内の舊市邑(ふるいちむら)に留まり、その後、天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年(八〇六)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳の紋を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
  酉の市(八つ頭と熊手の由来)
 当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討に遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから、古来より、「八つ頭」は人の頭に立つよう出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。

紅葉の長瀞で

 やっと取れた振替休日、お天気もよかったので、紅葉が見頃との報道のあった長瀞を訪ねました。


長瀞駅のホームには、蛙神社があります。御神体は木彫りのヒキガエル(?)


長瀞駅 蛙神社 ブーメラン(無事に蛙)
ようこそ、天下の勝地 長瀞へ
「いちどとはいわずに、またきてくんな」をテーマに、ブーメラン(無事に蛙)と交通安全を願い、お客様が無事にご帰宅できますよう命名いたしました。
お社は、秩父市宮地天満天神社、お社は、秩父市近戸町 原氏より寄贈されたものです。
                  長瀞駅長


昼食は、岩畳通りの大黒屋で、くるみ蕎麦と切込み饂飩を戴きました。


 月の石公園では、モミジ類の赤がひときわ綺麗でした。


句碑
 ここに 我
 句を留むべき
   月の石
    高浜虚子


 埼玉県自然の博物館では、短い時間でしたが第三紀に生息した古代鮫カルカロドン メガロドン(Carcharodon megalodon)の復元標本、デスモスチルス(Desmostylus spp.)と同時代に生息したとされる束柱目哺乳類パレオパラドキシア(Paleoparadoxia tabatai)の骨格標本などを目にすることができました。


巨大ザメの復元 - 深谷市菅沼(すがぬま)産 カルカロドン メガロドン(Carcharodon megalodon) -
■アゴの復元模型
 深谷市菅沼で発見されたサメの歯化石をもとに、近縁のホホジロザメを参考に復元したものです。大きなアゴには獲物を食いちぎる三角形のするどい歯が並び、内側は、抜けると外側に向かってくりだす予備の歯があります。
■生体の復元模型
 頭上の模型は、体長12mの巨大なサメで。この大きさは、化石の前歯から求めました。また、軟骨魚であるサメには、硬い骨やウロコはなく、エラの穴が五対あります。


日本地質学発祥の地碑


   由来の記
 荒川が刻んだ景勝の地長瀞は、広い岩畳や色とりどりの変成岩がみられ、早くも大正十三年には国の名勝・天然記念物に指定された。
 ここに分布する変成岩は、三波川結晶片岩と呼ばれ、西日本地域にかけて帯状に分布しており、日本列島の根幹をなすものである。
 明治十年東京大学に地質学科が創設され近代地質学が初めて日本に導入されると、翌年には、初代教授ナウマン博士が長瀞を調査している。以来、長瀞一帯は、我が国地質学上の重要な研究拠点となり、多くの地質学者を育てて、日本地質学発祥の地と言われるようになった。
 彩の国元年である本年は、日本地質学会が発足して百周年を、さらに、長瀞町が町村合併五十周年を迎えた。折しも、由緒あるこの長瀞の地に、天皇・皇后両陛下が行幸啓された。
 これらを記念して「日本地質学発祥の地」の碑をここに建立する。
 平成五年十二月
          埼玉県
          長瀞町


ジオパーク秩父
“日本地質学発祥の地”といわれる秩父地域が平成23年9月、日本ジオパークに認定されました。ジオパークは”地球と人間のかかわり”をテーマとする自然公園です。地形・地質とそれを基盤とする動植物などの自然遺産や、それらに関わる文化遺産の保全・活用をおこないます。また、地域の振興に役立つ活動としても期待されています。
                        埼玉県自然の博物館


記念碑の岩石について
 これは、「赤鉄石英片岩」と呼ばれ、この地域一帯の変成岩中に薄く広く分布する。
 白い石英を主体とし、縦の縞模様に沿って暗紫色の赤鉄鉱をはさみ、その他微量の黒い石墨・緑色の緑泥石・光沢のある絹雲母などを含む。
 碑は、岩石の自然の割れ目をうまく利用しており、前後は『節理』と呼ばれる平らな割れ目、左右は『片理』という薄く割れる面からなっている。
 右側面には、かつて荒川の河床で形成された小さなポットポール群が観察できる。
                        埼玉県自然の博物館


宮沢賢治句碑


 つくづくと
「粋なもやうの
 博多帯」
荒川ぎし

 片岩の色
  宮沢賢治
「雨ニモマケズ風ニモマケズ…」で有名な宮沢賢治は明治二十九年八月二十七日岩手県花巻町(現花巻市)に生まれる。盛岡高等農林学校二年、二十歳の時、地質調査研究のため、先生、学友と共に秩父地方を訪れ大正五年(一九二六)九月三日虎石を見学、その美しさを歌の詠む。
 碑の歌は、はがきに九首の歌を書き無二の親友保坂嘉内に宛てて小鹿野より送った中野一首である。
 その後賢治は農学校教師に農民指導等に情熱を傾け、童話や詩など多くの作品を遺した。
 長瀞町と賢治の貴重な出会いの証を賢治の故郷の岩手山に似た石に刻み永く後世に伝え、町の教育文化の向上と観光発展に資するため、町内外有志の浄財を町の協力によりこの歌碑を建立する。
  平成十五年九月
   宮沢賢治歌碑建立委員会
       書 千島榮一
       刻 (有)小林石材店



蟲慰霊之碑

【主な経路】
 長瀞駅-大黒屋-岩畳-月の石もみじ公園-埼玉県立自然の博物館-上長瀞駅

健康ウォーキング2017

 明け方の荒天から一転して、好天に恵まれた今日は、金沢区の健康ウォーキングの日でした。
 富岡八幡公園記念碑前を起点に、所々でショッピングや昼食で足を停めながら、海の公園のゴール地点まで、3時間ほどかけて辿りつきました。最後に立ち寄った小柴漁協の秋のさかなフェスティバルでは、昨年同様シャコが沢山入った小柴汁を美味しく戴きました。
健康ウォーキング2016 健康ウォーキング2015


【主な経路】
 京急富岡駅-富岡八幡公園-シーサイド・ショッピングセンター-富岡船溜まり-長浜公園-横浜金沢ハイテクセンター-文明堂横浜工場-八景島マリンゲート-海の公園-小柴漁協-(追浜)

【参考】
 カワウ Phalacrocorax carbo
 サザンカ Camellia sasanqua
 イチョウ Ginkgo biloba
 クルマエビ Marsupenaeus japonicus
 コモンフグ Takifugu poecilonotus
 カゴカキダイ Microcanthus strigatus
 マゴチ Platycephalus indicus
 マアジ Trachurus japonicus
 イシダイ Oplegnathus fasciatus
 シャコ Oratosquilla oratoria
 クロダイ Acanthopagrus schlegelii


富岡八幡公園
  由来
 この地には奈良時代の昔から先人の營みがあった。私達富岡漁業共同組合員は波除け八幡の守護のもとに、父祖が心をあわせて拓いた幸多い海と富める土地、そして勇壮華麗な由緒ある祇園船の行事など數々の文化を連綿と受け継ぎ守り育てゝきた。
 昭和四十六年一月二十九日大英断をもって本邦随一の薫り高い海苔を育てた私達の海が金澤地先埋立事業のため新しい大地に生まれかわることに合意した。
 こゝは遠く房總の山辺を望み緑豊かな松竝木と富岡漁港があり清らかな水が湧き海に注ぐところであった。かつてこの地先の海を竝木の漁場と呼んでいた。
 今こゝにゆかりの町名として竝木、幸浦がある。さらに往年を偲ぶよすがとして、また後代子孫の彌榮を祈念してこの碑を建てる。
 昭和五十三年四月吉日
   富岡漁業協同組合健之
      元横浜市埋立事業局長 草川正書

晩秋の三渓園

 良い天気に恵まれた今日(2017.11.5)は、本牧三之谷にある三渓園を訪ねました。


ジュウガツザクラ Cerasus x subhirtella cv. Autumnalis
キリシマツツジ Rhododendron obtusum
トネアザミ Cirsium nipponicum
ツワブキ Farfugium japonicum
ムラサキシキブ Callicarpa japonica
イロハモミジ Acer palmatum
旧矢箆原家住宅(国指定重要文化財)
囲炉裏の自在鉤
旧東慶寺仏殿(重要文化財)
寒霞橋と横笛庵
臥竜梅(がりょうばい)
旧燈明寺三重塔(重要文化財)
旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)
臨春閣
聴秋閣
キンクロハジロ Aythya fuligula
ヒイラギモクセイ Osmanthus × fortunei
ノコンギク Aster microcephalus var. ovatus
カルガモ Anas zonorhyncha
コイ Cyprinus carpio
亀の子石神社(本牧三之谷37-6)
ヒイロタケ Pycnoporus coccineus
稲荷社(本牧三之谷17-23)
本牧館(横浜市中区本牧間門19-28)

港南-磯子-金沢の社を巡る

 今日(2017.10.1)は京急百貨店の21周年イベントがあるというので、上大岡をふたりで尋ねました。昼食の後は独りで旧武蔵野國のお社を辿って家路につきました。

【大岡山眞光寺】港南区上大岡東3丁目1
 新編武蔵風土記稿によれば、境内社があった筈なのですが、痕跡は確認できませんでした。


【鹿嶋神社】港南区上大岡西3丁目12-38
 上大岡の総鎮守、鹿嶋太神宮です。勅令第220号(明治39年8月10日)を受けて、明治41年(1908年)に、無格だった岐之宮、来名戸神、賽神の三社を合祀したそうです。当時から末社だった辨天社は、今も健在です。


【青木神社】港南区大久保2丁目1
 境内に鵺が住んでいたという伝説がある神社です。

青木神社
 大久保、最戸両町の鎮守である青木神社は、多々久之郷六箇村(久保、最戸、別所、中里、弘明寺、井土ヶ谷)の総社であったと言われているが、その神の移しまつった年月は不明である。天明6年(1786年)の大洪水により、大岡川の流れが変り社殿が上大岡側に取り残され、そのなごりが今でも大久保2丁目は青木神社の社地だけが川を越して残されたと言われています。祭神は木の神久々能智命(くくのちのみこと)で、明治6年(1873年)に村社に列せられて、青木明神社を青木神社と改め、その後明治41年(1903年)に同村の伊勢宮、火産神社、稲荷社、稲荷社、子ノ神社、十二所社、稲荷社の七社を合祀して現在に至っている。


【天照大神宮】港南区港南5-12-8
 港南区役所から桜道を登ったところにある神社です。港南の歴史(1979)によれば、笹下郷の総鎮守であった当社は、明治6年に村社となり、その後明治41年に、安房洲神社、八坂神社、若宮八幡社、榛名神社、稲荷神社、杉山神社、御霊神社の七社合祀したそうです。新編武蔵風土記稿には、この地域の杉山神社のことは記載されていない様ですので、今後、要調査です。境内社の由緒は不明です

杉山神社に関するメモ(暫定版)


【若宮御霊神社】磯子区洋光台1丁目13
 旧若宮八幡宮と旧御霊権現社が合祀された神社です。


若宮八幡宮 御霊権現社 由来
 当社は天文年間(一五三〇年)頃時の杉田の庄嶺主間宮信元により開基されたことは杉田間宮家当社棟札写新編武蔵風土記稿及び明治四一年当社棟札により明らかである。当社は後北条の時笹下城及び間宮氏の守り神として祀られ、若宮八幡宮はこの地笹下城若宮曲輪に御霊権現社は旧笹下町四一四六番地に位置し共に城の大手を守っていた。笹下城は杉田の湊を本據とした間宮水軍の根拠であった。若宮八幡宮は鎌倉鶴ケ丘八幡宮より遷宮されたがその本宮である石清水八幡宮の様式に倣って八幡宮と間宮氏の祖先を祀る近江沙々貴神社を一体としてお祀りした。
 後北条時代は杉田の庄の総社として扱われていたと言い伝えられる。江戸期に入って共に小字笹下立野(洋光台一丁目笹下三丁目の一部)の村民持のお宮となった。その事も新編武蔵風土記稿及び前記棟札により明らかである明治四十一年訓令により現在の港南区港南の天照大神宮(神明宮)に合祀たれた。
 近年洋光台一丁目笹下三丁目の一部等の有志の心からなる支援協力により平成元年十一月二六日に元のこの地に目出たく遷宮された。宗教法人の法的手続き上神社名は単一にする必要により篠木神社としたが本来の社名様式に変りはない。開基の間宮氏に因んで言へば間宮一族は明治維新まで笹下の地を中心に杉田の庄と深い関係にあった。後に後北条家滅亡の際は領主間宮豊前守康俊はこの地の將兵を中心に箱根山中城先手の岱崎曲輪を守り勇戦して秀吉方先手の大将一柳伊豆守を討取ったが衆寡敵せず全滅した由北条記等にも伝えられている。
 幕末にはその後裔杉田玄白 間宮林蔵 間宮士信等新時代の曙を告げた人々も出ている。


【金山神社】磯子区洋光台3ー35ー10
 主祭神は金山比古神(かなやまひこのかみ)金山比女神(かなやまひめのかみ)、金属技巧を司る神々です。磯子の史話の記述から類推しますと二社ある境内社は牛頭天王と秋葉権現を祀っている様です。


【田中神社】磯子区田中2ー6ー25
 一度は上笹下神社に合祀された御嶽神社と神明社を昭和二十二年に分霊して成立した神社だそうです。東側の眺望がとても良いお社です。

田中神社 由来
 田中神社は江戸時代よりお御嶽神社として開創され田中の鎮守であった。明治三十九年内務省通牒にて上笹下地区の無格社統合合併により神明社として共に六ヶ村の神社と合祀され。明治四十五年栗木に上笹下神社として遷座した。
 第二次大戦後、それぞれの地区に氏神様を祀ることとなり、昭和二十二年四月二十日現在地に仮の御神殿を建て町名をとり田中神社とした。昭和三十五年御神殿を造営し。国常立尊(くにとこたちのみこと)他二柱を御祭神とし昭和二十八年九月十日登記を済ませ宗教法人となった。
 例祭は毎年秋に執り行っていたが。造営した御神殿は昭和四十六年十二月七日火災により焼失した。
 その後、町内有志を始め関係者の努力により御神殿は再建されたが年月も経過し、また町の発展に伴い総鎮守として御神殿改善の気運が盛り上がり。平成十三年九月御神殿の増築と補修、御神域の整備を完成させ現在に至った。
    平成十三年 九月吉日
                        田中神社奉賛会


【栗木神社】磯子区栗木2丁目13-21
 国常立尊を主神として祀る栗木地区の鎮守社です。境内社は伏見稲荷大明神、ずらりと並んだ赤い幟がきれいでした。


宗教法人栗木神社歴
 この神社の主神は、国常立尊(くにとこたちのみこと)と申し、天地開闢の最初に現れた神であります。ここに祀ったのは徳川時代で村の鎮守として村民の崇敬をあつめ、明治初年に御社号日枝神社と号し。明治初年村社に列せられた。
 昭和四十九年九月新編武蔵風土記より
 また、明治四十五年五月十五日六ヶ村(矢部野・田中・栗木・上中里・峰・氷取沢)の各神社を合祀し上笹下神社として合同祭事を行っていた。
 日の御、太平洋戦争の終戦にともにない昭和二十二年四月宗教法人となり再度各社を六ヶ村に分散する。
 現在の栗木神社は、御嶽社・駒形社・三体の合祀からなる。
   平成十年八月吉日


【上中里神社】磯子区上中里町441
 不動明王を祭神とする上中里の鎮守社です。本尊は行基作と伝えられ、再発見時に鍬で肩に傷がついたことから鍬肩不動明王と呼ばれているそうです。境内社は七社を数えます。


   上中里神社
 聖武天皇の御代(今から、一二四〇年ぐらい昔)に、行基菩薩が天皇の命を受け、諸国遍歴の折、たまたまこの地に滞在して、天下泰平所願満足の祈願をし不動明王の立像を彫刻して、ここ上中里の小高い丘に祀り、笹下六ヶ村の鎮守としました。
 それから遥か後、寛永年中に野火にあって堂宇ことごとく焼失しました。その後夜になると田の中から光を発する処があり、村人が其の場所から不動尊の像を掘り出しました。さっそく不動山の頂に堂宇を再建してこの像を祀り、再び村の氏神様としました。矜伽羅(コンガラ)制多迦(セイタカ)の二童子も失っていましたが、境内の古樹の洞穴から出現したといわれています。
 その後、国の方針で明治四十五年五月、日下村大字栗木の村社に合祀されて、上笹下神社として祀られましたが、昭和二十二年四月氏子一同の熱望により、この地に社殿を奉建して還幸式を行い、そして昭和四十一年九月社殿を建てかえ、昭和五十四年九月、社殿増築、鳥居復元、境内整備等を行って、現在に至っています。
                   以上
  昭和五十四年十二月
         上中里神社宮司 杉原敏之


   七社の宮 由来
 古くは各家々の守り神として村の各所に点在していました。
 明治のその昔には、社殿の北側のところに祀られていましたが、明治四十五年五月神社合祀により、左記場所に遷座され毎年七月十五日を祭日とし、村人が神々の下に七組に分かれ、当番制でお祭りをしていました。
 昭和二十二年四月、上中里神社奉建により鳥居南側の所に祀られましたが、昭和五十四年九月、鳥居復元、社殿増築、境内整備完成を機会に、再びここに祀られました。
   七社の宮旧社地
一、稲荷社    上中里町不動下五七四
二、明神社    上中里町上ノ前七六八番地
三、駒形神社   上中里町上ノ前782番地
四、天神社    上中里町向坂三七七番地
五、山王社    上中里町向坂四四三番地
六、八王子権元社 杉田町二〇六二番地
七、山大明神社  上中里町不動下五七九番地
                   以上
  平成十六年十二月
         上中里神社宮司 杉原紳元
     健之    仝  役員 須田利一
           仝  役員 田辺久雄


【氷取沢神社】磯子区氷取沢町221
 前身は、氷取澤村の鎮守であった荒神社で、明治45年栗木神社に合祀された後、元の場所である現在地に分霊の際に現在名となったそうです。境内社は、稲荷社と神明社です。


【手子神社】金沢区釜利谷南1丁目1-8
 瀬戸神社から分霊された大山祇命(おおやまつみのみこと)を祀る神社です。境内社は、金沢八景のひとつとして取られる『小泉(こずみ)の夜雨』の景勝地として知られる竹生島弁財天、ここの弁天様は宇賀神タイプです。


【本日の主な経路】
上大岡駅-大岡山眞光寺-鹿嶋神社-青木神社-桜道庚申塔-天照大神-打越-若宮御霊神社-金山神社-田中神社-栗木神社-上中里神社-上笹下地域ケアプラザ-氷取沢神社-金沢動物園-手小神社-白山道トンネル-(六浦)諏訪神社-追浜
【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 磯子の史話、磯子区制50周年記念事業委員会、1978.
 港南の歴史、港南の歴史発刊実行委員会、1974.



【参考】
 ヒヨドリジョウゴ Solanum lyratum
 桜道庚申塔
 オキナワスズメウリ Diplocyclos palmatus
 ルコウソウ Ipomoea quamoclit
 マンリョウ Ardisia crenata
 タケニグサ Macleaya cordata
 ホトトギス Tricyrtis hirta
 タマスダレ Zephyranthes candida
 ショウキズイセン Lycoris africana
 ハナズオウ Cercis chinensis
 ハナミズキ Cornus florida
 サルビアガラニチカ Salvia guaranitica
 ケイトウ Celosia argentea
 メランポジウム Melampodium divaricatum
 コモンセージ Salvia officinalis
 シソ Perilla frutescens var. crispa
 フレンチマリーゴールド Tagetes patula
 双体道祖神(寶勝寺)
 ボダイジュ Tilia miqueliana
 フウセンカズラ Cardiospermum halicacabum
 金沢動物園
 コムラサキ Callicarpa dichotoma
 マツリカ Jasminum sambac

KIRIN生麦工場を見学

 夏休み最終日の本日(9/22)、予約しておいたキリンのビール工場を家内と尋ねました。一番搾りの製造工程を見せていただいた後、試飲もできるというイベントで、一番搾り麦汁と二番絞り麦汁の違いを自分の舌で確かめることができました。普段目にすることの少ない一番搾りプレミアムは、確かに一味違いました。


 敷地内には、工場だけでなく、研究所、レストラン、ビオトープなどもありました。隣接して生麦事件の碑もありました。

【参考】
 工場前
 大麦(Hordeum vulgare)とホップ(Humulus lupulus)
 麦汁処理槽
 一番麦汁(左)と二番麦汁(右)
 (新)一番搾り
 一番搾りプレミアム
 敷地内の庭園
 アメリカデイゴ Erythrina crista-galli
 ハナセンナ Cassia corymbosa
 ルコウソウ Ipomoea quamoclit
 クレオメ Cleome hassleriana
 シュウメイギク Anemone hupehensis
 生麦事件の碑
 原神明社(生麦神明社)
 稲荷社
 横浜スーパーファクトリー
 おきなわ物産センター
 麦の家2号店

舊跡
 文久二年(1862年)壬戌八月二十一日英國人力査遜
殞命于此處乃鶴見人黒川莊三所有之地也
莊三乞余誌其事因為之歌々曰
君流血兮比海壖我邦変進亦其源藩起兮
王室振耳目新兮唱民權擾々生死疇知聞萬
國有史君名傳我今作歌勒貞珉君其笑于
九原
明治十六年十二月  敬宇中村正直撰


【原神明社/稲荷社】
『蛇も蚊も』の神事で知られる生麦神明社です。武蔵風土記稿には、『神明社字原ニアリ海道ノ北ノ方二十四間程引込テアリ鎮座ノ年代詳ナラズ』『末社稻荷社社ニ向テ右ニアリ小祠ナリ』と記載があります。

横浜市指定無形文化財
 蛇も蚊も
  平成四年十一月一日 指定
 行事の日 六月第一日曜日
 保存団体 生麦蛇も蚊も保存会
 蛇も蚊もは、約三〇〇年前に悪疫が流行した時に、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の六月六日になり、近年は六月の第一日曜日に行われるようになっています。
 萱で作った長大な蛇体を若者・子どもがかついで「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声で唱えながら町内をかついで回ります。もとは原と本宮で一体づつ作り、本宮のものが雄蛇だといって、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は、両社別々の行事となっています。
 平成五年三月
             横浜市教育委員会

初めて猿島へ

 本日、やっと取れた夏休み初日。家内と東京湾唯一の自然島である猿島へ渡ってみました。第二海堡に上がっていた黒煙は、防災訓練なのだそうです。


【参考】
 記念艦『三笠』
 クラフトビール『SARUSHIMA 無人島
 横須賀中央公園
 兵舎跡
 煉瓦造りのトンネル
 トンネルからトンネルへ
 砲台跡
 ヒヨドリジョウゴ Solanum lyratum
 日蓮洞窟
 日蓮洞窟より
 米軍横須賀基地
 第二海堡
 発電所跡
 カラスアゲハ Papilio bianor dehaanii
 猿島航路就航船『シーフレンドZero』
 桟橋
 三笠公園

台風一過の大宮で

 北海道に再上陸中の台風18号(タリム)、当初の予測より西側を通過していった関東での被害は大したことなく済みました。家内と二人で尋ねた大宮公園では、ヒガンバナが見頃を迎えていました。


【参考】
 こりすのトトちゃん(大宮駅東口)
 シーサー(実家で)
 ヒガンバナ Lycoris radiata
 クロアゲハ Papilio protenor
 アカシデ Carpinus laxiflora


アカシデ カバノキ科
 アカシデは樹高10~15mになる落葉高木で、北海道南部から九州、朝鮮半島に分布しています。低地から丘陵地の雑木林に生育し、樹皮は灰白色で滑らかですが、幹は肥大成長が均等に行われないため凹凸ができ、老木になると太い脈状の出入りが多くなります。名前の由来は、花穂の垂れ下がる様子が注連縄(しめなわ)に垂れ下がる紙(しで)に似て、新芽が赤いことによります。床柱、家具などに利用される他、盆栽界ではイヌシデとともにソロの名で親しまれています。
 このアカシデの木の樹齢は定かではありませんが、優に百年は超えていると推定され、大宮公園開園以来の歴史を見守り続けてきた木のひとつです。
  平成二十年九月
       埼玉県大宮公園事務所