月別アーカイブ: 2017年12月

杉山神社を巡る-Part8 日吉から八丁畷へ

 今日は、旧橘樹郡、現在の日吉周辺の杉山神社を尋ねました。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 井田神社(合祀社):川崎市中原区井田中ノ町13-23
 久末天照大神社 (合祀社):川崎市高津区久末642
 (40)杉山神社:川崎市高津区末長2丁目28-1
 (41)久本神社:川崎市高津区久本1丁目16-13
 新城神社(合祀社):川崎市中原区新城中町4-14
 小杉神社(合祀社):川崎市中原区小杉御殿町1丁目1010
 丸子山王日枝神社(合祀社):川崎市中原区上丸子山王町1丁目1555
 (39)杉山大神:川崎市幸区小倉11丁目4-6


【井田神社(合祀社)】川崎市中原区井田中ノ町13-23
 正式名称は、天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)ですが、地元では井田神社で通っているようです。これも合祀神が多いためと思われます。

天照皇大神宮御祭神
 大日孁命(おおひるめのみこと)
 五十猛命(いたけるのみこと)
 面足命(おもだるのみこと)
 惶根命(かしこねのみこと)
 日本武命(やまとたけるのみこと)
 須佐之男命(すさのおのみこと)
年中行事
 一、初詣   元旦午前0時
 一、節分祭  二月三日
 一、秋季大祭 十月第一日曜日


【久末天照大神社 (合祀社)】川崎市高津区久末642
 通称は、久末(ひさすえ)神社ですが、正式名は久末天照大神社です。ここには、旧村にあった杉山神社2社が合祀されています。現在改修工事中で、今年度末に竣工予定とのことです。

 久末天照大神社誌
鎮座地 川崎市高津区久末伊勢原六四二番地
祭神  天照皇大神
     五十猛命  天御中主尊  稲倉魂命
     面足命   惶根命    猿田彦命
境内末社 御嶽社・稲荷社
境内面積 四百六十八坪
例大祭日 十月十日
氏子区域 久末全域
建造物 一、本殿   一棟  一、鳥居  一基
    一、拝殿   一棟  一、神号碑 一基
    一、神輿庫  一棟  一、慰霊碑 一基
    一、神社会館 一棟  一、社誌碑 一基
沿革
 この土地拓けて数百年、此処伊勢原の地を中心として久末の村が形成され、各集落の氏神たる六社の神社を祀り、殖産興業、村内安全、五穀豊穣の守護神として長く村人達の篤い崇敬を受けてきた。
 明治三年五月天照大神は村社に列格、明治四十二年十月稲荷社をはじめ杉山神社二社、面足明神社、十二天社、道祖神を村社内に合併して久末の総鎮守となる。
 昭和二十八年宗教法人法により、宗教法人天照大神設立。神社本庁に属する。
古記録
 文化九年刊行の新編武蔵風土記稿巻六十三橘郡之六、稲毛領久末村の條に
杉山社蟹谷村の境字下宮に有、二間に三間の社にて西向なり村の鎮守なり
神明宮字伊勢原の中央にあり例祭は杉山の神社と同日にてこれも村の鎮守にり云々
稲荷社字大谷の丘上にあり鈴木を氏とする者の土神云々ゆへ土俗に鈴木稲荷と呼ぶ


【(40)杉山神社】川崎市高津区末長2丁目28-1
 この地域では珍しく『杉山』の名前が残っている旧末長村の杉山神社です。今日はお祭り日だったらしく人で賑わっていました。境内社は熊野神社と稲荷神社、御神木のスダジイはたいそう立派で、町の樹50選 No.5 に指定されていました。

  杉山神社
 杉山神社は、古代より末長部落の鎮守として祭神に五十猛命を祀り、住民は崇敬していたが、昭和三十九年四月五日未明不慮の火災に遭い、惜しくも由緒ある社殿が全焼の難をうけた。
 依頼八年の間、氏子会においては、神社再建を念願し努力を續けていたがその機も熟し昭和四十六年一月氏子の總意により、地域安穏、住民和平を祈念して、杉山神社再建計画が樹てられ、爾来氏子はじめ地域住民が一致協力、再建資金参阡七百余萬圓也の奉納浄財を基として昭和四十六年六月十一日地鎮起工、昭和四十六年十二月十三日よ上棟により本殿社務所の建築及び境内の整備並びに将来の神社維持管理に費するための附属建物の建築等再建計画を発してより一年有余にして悉く完成し、昭和四十七年五月二十日嚴かに、祭神の鎮座を仰ぎ遷宮大祭を行う。
 茲に杉山神社再建の遷宮大祭を記念し碑を建立する。
  昭和四十七年五月二十日
          杉山神社氏子總代代表 岸田茂隆
          杉山神社再建委員長  関口武雄


【(41)久本神社】川崎市高津区久本1丁目16-13
 ここには、旧久本村にあった杉山神社2社、八幡社、神明社の4社が合祀されています。この地域の神社の神職は溝口神社で兼務しているらしく、溝口神社の募集広告が出ていました。主神は天照大神のようです。


【新城神社】川崎市高津区新城中町4-14
 旧新庄村の神明社に杉山神社と天神社を合祀して成立したそうです。

  新城神社 由緒
祭神 天照皇大神
 當新城神社創立の年月日は不詳であるが、最も古い棟札によれば、元禄七年九月領主中川佐平太重興候、建立とあり更に明治三十年六月新城村内にあった杉山神社及び天神社を合祀して「新城神社」と改称された。
 昭和六十三年末、都市計画道路「新横浜-宮内線」の延長に伴ひ一部が買収され御社殿は現在の位置に移された。
 平成元年十月吉日


  新城囃子曲持(しんじょうはやしきょくもち)新城神社(しんじょうしんじゃ)
 新城囃子曲持とは、囃子にあわせて米俵や酒樽などを持ち上げて曲芸を競う技芸です。その由来は、江戸時代に若者連中が力石を持ち上げて、力自慢を競ったことに始まるといわれています。
 川崎市域において、かつてこの曲持を行っていた所は、大師河原・加瀬・二子・諏訪・新城などですが、現在では新城だけにしか伝承されていません。
 新城囃子曲持は、明治時代に高津区諏訪より伝えられ、一時中断していましたが、昭和四十八年、新城に伝わる鎌倉囃子系統の囃子と一緒になって復活し、現在は毎月第一日曜日新城神社境内で演じられています。
 川崎市教育委員会は、新城囃子局持を昭和五十三年七月七日、川崎市重要習俗技芸に指定しました。
 昭和五十八年十月
      川崎市教育委員会


【小杉神社(合祀社)】川崎市中原区小杉御殿町1丁目1010
 旧小杉村の杉山神社と神明社を合祀して成立、神明社の相殿には総社権現が合祀されていたため、計3社からなるとのことです。御神木のケヤキ(まちの樹50選 No.4)は樹齢150年とのことです。


【丸子山王日枝神社(合祀社)】川崎市中原区上丸子山王町1丁目1555
 大同四年 (八〇九年)に坂本日吉大社から勧請されたといわれ、大正七年に村内の八幡社・天神社・大六天社・熊野社・神明社・諏訪社・杉山社を合祀したそうです。

   日枝神社御由緒
 社の言伝えによると第五十代桓武天皇の御嫡子貞恒親王の次男恵恒僧都は不思議な子細があって山中に入られ近江の国坂本一本松のあたりに住まわれた。この人が山本平内左衛門尉恒重である。
 弟の次郎左衛門尉恒明と共に能く社に仕え山王権現(日吉大社西本宮)の御分霊を奉じて美濃国赤坂へ来たが更に尾張の国熱田神宮に一年間合わせ祀られ、その後次第に関東に下られ武蔵の国稲毛庄河崎村守山にお宮をつくりお祀りしたが、神意にかなわず、四方八方へ光を放った。庄内の道俗一度が驚いて馳集まり直ちに丸子にお送りして、お宮をつくりお祀りしたのが現在の日枝神社である。
 時に大同四年(西暦八〇九年)六月十四日であった。御鎮座以来御供田として上丸子今井村は当社権現の社領と定められた。その後治承二年(西暦一一七八年)五月上旬、小松内大臣平重盛公は武里蔵人太夫という侍を関東につかわして山王権現の社伝を再建せられ九寸五分の御剱を奉納された。
 徳川三代将軍家光の寛永九年(西暦一六四二年)八月十七日より徳川幕府末期までは御朱印弐拾石を賜った。明治二年(西暦一八六九年)七月四日山王権現を日枝神社と改称した。 古くより傳わる特殊神事の歩射祭(おびしゃ祭)は一月七日古式に基ずき盛大に挙行されている。八月の大祭には一体の大神輿と十数体の各町内神輿及び山車の曳行で賑わう。
 現在の御神殿は元文五年(西暦一七四〇年徳川吉宗時代)の建造で幣殿及び拝殿は関東大震災で崩壊し昭和三年に再建された。
 尚、当社所蔵の古文書には北条氏の虎の印判状二通徳川氏奉公人連署奉書一通と御本殿一棟が川崎市の文化財に指定され、また平重盛公奉納の小太刀と江戸中期御造営と伝えられる大神輿も社宝として大切に保存されていた。

○○十六代後裔
   宮司 山本五郎
奉納 山本文吉
  平成九年八月吉日
      塚越


   御神木由来
 高く聳える山王さんの大杉は、丸子の誇りであり、遠く中原街道ょ行き交う近郷近在の人々に心の安らぎを与えてくれたと云う。樹齢七百年余、高さ三十米、周囲八米の巨木で、昔は三本になっていたが、明治時代に一本が、大正の頃に一本が倒れ、最後の一本も遂に昭和九年に伐採された。この大杉を御神木と崇め、碑に刻み永く後世に伝えるものである。
 平成九年九月吉日
           日枝神社宮司 山本五郎代


【(39)杉山大神】川崎市幸区小倉1丁目4-6
 旧橘樹郡小倉村の杉山大神です。杉山大神を名乗っている神社は、同じ旧橘樹郡の六角橋にもあります。

 杉山大神由緒
鎮座地 川崎市幸区小倉二七七番地
祭神  五十猛命(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)第二子 緑豊かな国造りの神
    天照大神 日本国全体の守護神
境内社 道祖神者 道路、交通の守護神
大祭 八月 元十月十八日斎行
特別行事 湯立(ゆだて)の式 大祭当日行う(けが)れを清める式
由緒遠隔
 当社の鎮座は古く、飛鳥時代、大化の改新によって国郡制度を敷いた頃より祀られており、近年まで境内地にあった神木樹齢一千年余の二株の古松が、その歴史を物語っている。当時、小倉村し皇室直轄領として栄え、杉山大神は農業生活の中枢をなして来た。
 戦国時代に至り、北條氏の家臣で、小机城主であった笠原氏の崇敬を受け、しばしばその代参を迎えた。
 江戸時代には、小倉村は旗本松下氏の領地となり、毎年米三俵の寄進を受けて神社は維持された。領主松下氏は、乗馬して参詣したと伝えられ、近年まで鳥居前に下馬札が立てられていた。
 新編武蔵風土記には「杉山社村の東北端にあり、本社に覆屋あり、前に鳥居あり、本地不動、長さ三尺許りの立像なり、村の鎮守なり、無量院持」とある。
                     宮司 岩澤具治記
祭事 一月 元旦祭 交通安全 村鎮祭
   三月 春水祭
   九月 赦日祭
   十一月 七五三祭
 昭和六十一年一月一日 奉納 岸 正久


 その他、本日撮影の写真です。
小倉(おぐら)神社】川崎市幸区小倉3丁目28-13
 辿りついた時には、すっかり日が暮れていました。杉山神社が合祀されているとのウェブ情報もあったのですが、由緒書きからも文献からもこれは間違いの様です。


  小倉神社由緒
御祭神 素戔嗚尊
    誉田別尊
例大祭 八月二十三日
小祭  七月五日
摂社 大六天社
   富士浅間社
 當社は小倉村に古くから鎮座する八雲神社八幡神社の二社を合祀し去る昭和三十一年八幡神社の故地に新社殿を創建して御祭神の神徳を仰ぎ郷土の繁栄と氏子一同の福祉を祈念するため、奉斎したものであります。
 八雲八幡両社創建の時代は明らかでありませんが、八雲神社境内出土の板碑類により鎌倉時代以来神聖視されていた土地に村民が鎮守神を奉齋したことに始まるのは明らかで、およそ八百年前に遡るものと伝えられています。
 御祭神素戔嗚尊……(以下、写真不鮮明につき、略します)


【善教寺】川崎市中原区井田1丁目20


【(井田)稲荷社】川崎市中原区井田1丁目16-50


【(蟹ヶ谷)熊野神社】川崎市高津区明津142
 通りかかった熊野神社では、お祭りの最中でした。


【八太神社】川崎市高津区蟹ヶ谷285


 八太神社
鎮座地 川崎市高津区蟹ヶ谷二八五番地
祭神  天太玉命(アメノフトダマノミコト)
元旦祭 一月一日
歳の神(どんど焼き) 一月
節分祭 二月三日
例祭日 十月
当社の創立年代は不詳であり、八太大権現社として丘の半ばにあり、幣束を神体とし、明治末隣村(子母口)神社に合併されたが昭和初頭に戻し、八太神社と改称する。


【南林山普門院蓮花寺】川崎市高津区久末1292


【福徳稲荷、子育地蔵、庚申塔】川崎市高津区久末1288


  福徳稲荷『お稲荷様』
 お稲荷さんは五穀豊穣・商売繁盛の神として、民衆の日常生活に密着にしている身近な神です。五穀と養蚕を司る穀物神・農耕神としてのウカニムタマ(宇迦之御霊・倉稲御霊)で稲荷明神として知られています。
 真言密教の開祖・空海(弘法大師)は東寺(教護国寺)を真言密教根本道場として建立を進めていた際、稲荷山から建造用の木材を提供されたことがきっかけとなり、お稲荷さんは東寺の守護神として祀られました。空海が東寺を朝廷から与えられた時、稲を担いだ翁に会いますが、その翁が稲荷神であったともいいます。
 稲荷信仰には狐が付き物です。お稲荷さんに油揚げを供えるのは、お稲荷さんに仕える狐が油揚げが好きだと考えられたからです。真言密教では、稲荷神をインド伝来の鬼神・ダキニテン(陀枳尼天)と同一であるとしています。ダキニテン(陀枳尼天)は、夜叉、または羅刹の一種で自在に神通力を使い、平安時代には、その本体を霊狐とみなされるようになり、狐の霊力にあやかろうとする信仰が広がり、稲荷自体を狐だと考えるようにもなったのです。
 現代におきましては、信仰が篤ければ人々のあらゆるお願いを成就してくださる功徳が戴ける有難い神仏として崇められておりますが、悪しき事には七代に亘たたりがあるとも云われております。
ご真言 オン ローキャ ローキャ  キャラソワカ
 平成十九年四月一日
  蓮華寺檀信徒総代長 森 學 殿 寄進
  蓮華寺 第四十二代 森重 代
                (一部HPより引用)記


【千年神社】川崎市高津区千年539


  千年(ちとせ)神社
鎮座地 川崎市高津区千年五三九
祭神  天照皇大神
    天児屋根命
    大和武尊
元旦祭 一月一日
春祭  四月十三日
夏祭  七月七日
秋例祭 十月
七五三 十一月
大祓  十二月
昭和三十年十月四日
 御嶽神社 春日神社 神明神社
 三社合社し千年神社と改称する


【子育て地蔵尊】川崎市高津区新作3丁目11


【馬頭観音】川崎市高津区末長2丁目17


【後明谷戸庚申塔】川崎市高津区末長2丁目9-45


   後明谷戸庚申塔(ごみょうやとこうしんとう)
建塔 元禄九年(西暦一、七二四年二月)庚申塔は祖霊供養・先祖のご加護によって厄難をのがれご加護によって厄難をのがれ安穏なるを祈願して青面金剛像。三猿を彫像、二体の庚申塔がお堂に安置されています。
庚申は庚(かのえ)申(さる)のことで中国の道教にならって、陰陽道の十干十二支説によるものであり、招福長寿。厄除和合・無病息災・地域住民道行く人々の安全祈願の道祖神として崇められております。
   平成二十八年ハ月吉日
      末長後明講中
      石碑奉献 ㈱丸貞
        〃  ㈱成建


【三社宮】川崎市中原区下沼部1745


    三社宮の誕生
 明治四十五年四月一日(一九一二)付けで東京府(都)と神奈川県の境が多摩川によって区切られたため、玉川のこちら側らあった下沼部は、荏原郡下沼部より分村することになりました。分村して神奈川県橘樹郡御幸村下沼部となりました。
 当時の氏神様は、浅間神社(今の大田区亀甲山々上)でしたが、分村することになったため氏神様も分社する事になりました。
 これより先、東京側下沼部に鎮座する赤城神社が明治四十二年七月一日に浅間神社に合祀されたため空社殿を譲り受けることになりました。
 社殿の引渡しは、明治四十五年七月中旬に行われたそうです。渡し舟二隻を清めて、川を下り接岸、向河原十五軒の氏子に引渡したとのことです。
 社殿に向かって右側に赤城神社の社殿であるため「磐筒男命(いわつつおのみこと)」中央には、昔から氏神様である浅間社の「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」左側には昔から村にあった稲荷堂の「宇加之霊(うかのみたま)」を合祀して「三社宮」と命名しました。 昭和十一年七月、日本電気株式会社が下沼部地区の現在地に玉川工場を設立し、村は急速に発展しました。それに伴って、道路を拡張(現在の駅前通り)することになり、それまでの下沼部一九一五番地から、現在の社殿は昭和十三年五月に移築しました。
 以上が三社宮の歴史です。
                         三社宮 氏子中
                         平成十二年一月吉日


【神明大神】川崎市中原区中丸子492


  神明大神の記
 古くこの地は武州(ぶしゅう)橘樹郡(たちばなこうり)中丸子(なかまりこ)村と呼ばれ天正年間(西暦一五七三-九一)ここに在住する農耕者は七苗(しちみょう)を宗家とする一族であり極めて小さな集落であった。この人達は五穀の豊饒(ほうじょう)と疫病よりの済度(さいど)を祈願するために出羽(でわ)(くに)羽黒権現(はぐろごんげん)勧請(かんじょう)して中丸子村の鎮守社(ちんじゅしゃ)羽黒権現宮を造立して祭祀を行ってきた。このお宮の本地佛(ほんじぶつ)薬師如来(やくしにょらい)であり、すべての病を除き特に眼病平癒の霊験(れいけん)(あらたか)で、江戸や近国の者来旨し様々の立願が(かな)いご利益の程○○○の人知るところであった。
 明暦二年(西一六五六)当時の領主徳川の幕臣本郷勝右ヱ門源重泰(ほんごうかつうえもんみなもとのしげやす)本郷勝三郎源長泰(ほんごうかつさぶろうみなもとのながやす)によって本殿及拝殿が造立○○○この建物はとち(ふき)、こけら葺、色々の彫物などを配し立派なものであった。境内には他に日光、月光、神明、稲荷、座王、文朱、弁財天、天満宮、本地宮、御幣堂(ごへいどう)の末社があった。露維持四年に羽黒大権現宮を羽黒神社に更に明治三十四年には神明大神と改称し祭神を稲田姫命(いなだひめのみこと)とした。この際総ての末社を本社に合祀した。大正十一年には神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進(ぐしん)される村社となった。現在の社殿は昭和八年に改築され本殿は明暦時のものをそのまま残し、拝殿は新築したものである。昭和二十八年宗教法人神明大神として認証を受け、今日まで祭祀を行っている。その昔より当社の年次大祭は穀物の収穫期の十月八日で、夏祭と呼ばれている水神祭は五月八日であった。尚一月七日には村中の邪気を拂い平穏を祈り、五穀の豊饒を祈願する「おびしゃ」と称する大〆縄縒(おおしめなわよ)り行事がある。
 神木の大欅は「おしゃもじ」と呼び六百有余年の年輪を重ねた鎮守の象徴である。
昭和六十年(西一九八五)四月吉辰
             氏子総代連中 選文


【稲荷社】川崎市幸区鹿島田3丁目10-18


【鹿島大神】川崎市幸区鹿島田2丁目22-44


【横浜熊野神社】横浜市鶴見区市場東中町9-21



【参考】
 慶応大学日吉キャンパス
 シャリンバイ Rhaphiolepis indica
 ヒメキンセンカ Calendula tournefortii
 コシロノセンダングサ Bidens pilosa var. minor
 ナズナ Capsella bursa-pastoris
 武蔵新城駅前
 本日、スーパームーン

【文献】
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.

【本日の主な経路】
東急東横線日吉駅-善教寺-(井田)稲荷社-井田神社(合祀社)-(蟹ヶ谷)熊野神社-八太神社-久末天照大神社 (合祀社)-南林山普門院蓮華寺-福徳稲荷、子育地蔵、庚申塔-千年神社-(新作)子育て地蔵尊-(末長)馬頭観音-(40)杉山神社-後明谷戸庚申塔-(41)久本神社-新城神社(合祀社)-小杉神社(合祀社)-丸子山王日枝神社(合祀社)-三社宮-神明大神-(鹿島田)稲荷社-鹿島大神-(39)杉山大神-小倉神社-横浜熊野神社-京急本線八丁畷駅

杉山神社を巡る-Part7 中山から新横浜へ

 最近の定番となった杉山神社巡り、今回は横浜線中山駅周辺を尋ねました。このエリアは旧武蔵國都築郡に相当し、中でも西八朔の杉山神社は延喜式神名帳に記載された式内社であった可能性が高い社の一つとされています。

【本日巡検した杉山神社】
  括弧内の数字は、戸倉(1956)の付図『杉山神社考関係地図』の番号
 (05)青砥杉山神社: 横浜市緑区青砥町1119
 (02)中山杉山神社: 横浜市緑区中山町718
 上白根稲荷社:   横浜市旭区上白根町221
 (01)寺山杉山神社: 横浜市緑区寺山町177
 (03)三保杉山神社: 横浜市緑区三保町2079
 (11)西八朔杉山神社:横浜市緑区西八朔町208
 (10)千草台杉山神社:横浜市青葉区千草台17-2
 (06)市尾杉山神社: 横浜市青葉区市ヶ尾町641
 (09)佐江戸杉山神社:横浜市都筑区佐江戸町2020
 (14)池辺杉山神社: 横浜市都筑区池辺町2718


【(05)青砥杉山神社】横浜市緑区青砥町1119
 青砥というと金沢区の青砥山鎌倉の青砥藤綱舊蹟碑などを思い浮かべますが、緑区にも藤綱が住していたと伝えられています。旧青砥村の杉山神社の境内には、稲荷社と御嶽社がありました。

   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと) 應神天皇(おうじんてんのう) 大日孁貴命(おおひるめむちのみこと) 面足尊(おもだるのみこと)
例祭日 十月五日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


   御嶽神社
この社はその昔、武蔵国青戸と稱した頃武州御嶽神社の分神として恩田川のほとり現在の都橋から約三百米上流に祀られ農業の神として住民から信仰を集めておりました。その後大正四年頃当神社境内に合祀され今日に至りました。
当時御堂のあった周辺の場所を御嶽堂と呼び青砥町字御嶽堂として最近までその名を留めておりましたが土地の区画整理等により順次消減されつゝあるのが現況であります。
現在の社は昭和五拾参年杉山神社改修の祭当所大工棟梁市川倉之亟氏が寄進されたものであります。


【(02)中山杉山神社】横浜市緑区中山町718
 中山駅から一番近くに鎮座する旧中山村の杉山神社です。拝殿前に芭蕉の句碑がありました。

   杉山神社の由来
杉山神社の名称は、約1400年前の白鳳時代西暦660年「天武天皇」の命により武蔵の國、「杉山の岡」に祀られたものと言われており武蔵風土記(市橋注:新編武蔵風土記稿のことを指していると思われる)によると「鶴見川、恩田川」周辺が先に述べた杉山の岡で「杉山神社」という名称は72社あるそうですが、恩田川(市橋注:多摩川の間違いと思われる)の北側にはほとんどありません。
「中山杉山神社」は昔、相次ぐ戦乱にて喪失し再建が繰り返された為、古文書等を殆ど焼失し、創立の年は不明ですが、再建文書によりますと約800年前の鎌倉時代には既に建立されていたものと推測されます。記録によりますと350年前の慶安2年5月に再建された文書が残っているそうです。
神社庁への届け出記録によると
① 慶応元年6月 再建 (1865)
② 明治6年12月 村社13位に列格(現在は11位です)
③ 大正8年9月 稲荷社、第6天、御嶽社を合祀
④ 昭和28年8月 宗教法人中山神社として登録
         宗教法人化の神社8万社、横浜288社
⑤ 昭和32年3月 火災により焼失
⑥ 昭和33年9月 再建(神殿13.9坪 2800万円)
⑦ 本神社の宮司は 21年7月より 緑区荏田 剣神社宮司(斉藤清治氏)
          54年7月より           (斉藤一麿氏)
          15年7月より           (斎藤勝幸氏)
本神社の奉斎神は 「五十猛命(いそたけるのみこと)」 3柱
         大六天稲荷様 ?
         御嶽様    ?
主神「五十猛命(いそたけるのみこと)」は素戔嗚尊(すさのうのみこと)のお子様で父親と朝鮮に渡り、杉檜など多くの樹種を持ち帰り、植林したり、航海の技術を伝授した功績の有る方でした。
「有効の神」として崇敬されている神様です。
「五十」は豊穣を意味するところから「農業の神」、「猛」は強い人武勇を表して居ます。
  2016 平成28年10月
 緑区中山町 田辺年末氏の文献より 相沢 淳 清書

天武天皇
 631~686 飛鳥時代 第40代の天皇
      この時代はまだ年号はありませんでした。


【上白根稲荷社】横浜市旭区上白根町219-5
 旭区(旧保土ヶ谷区、都筑郡)で唯一の杉山神社は、稲荷社に合祀されています。


【(01)寺山杉山神社】横浜市緑区寺山町177
 旧寺山村の杉山神社ではイチョウの黄葉が見頃で、コウヤマキとヒマラヤスギの緑とのコントラストが目に鮮やかでした。庚申塔には寛永二巳年(1749年)の銘が読み取れます。


【(03)三保杉山神社】横浜市緑区三保町2079
 旧三保村の杉山神社の扁額では、『』の字を使っていました。境内社は天満宮です

   社殿新築之碑
宗教法人 杉山神社
 祭神   日本武尊
 合祀祭神 天照大神
 合祀祭神 猿田彦命
境内神社 天満宮
 祭神   菅原道真
 杉山神社は創建の時期は不詳ながら、慶長九年(一六〇四)まで近隣併せ八か村の総鎮守である。その後久保村(三保村)の鎮守となる。
 明治維新以降国家管理の下、明治六年(一八七三)村社に指定され、同四十一年(一九〇八)村内ニ社を合祀、大正九年(一九二〇)神饌幣帛料共進神社に列せられる等の経緯を辿るも、昭和二十一年緊急勅命に基づき神社本庁を包括団体とする自主団体として存続する事となり、同二十八年宗教法人杉山神社として設立され現在に至る。
 明治元年(一一六四)に再建された本殿などは、大正九年の大改修を含め数字にわたり、修復されたが、近年頓に老朽化が著しく、また茅葺き屋根拝殿の維持管理が困難にこと等から、平成八年十月氏子が相諮り広く浄財を募って、新築する事とし、同九年五月建設委員会と組織の上設計管理㈱社寺建築設計事務所(東京都江東区)、施工㈱上林工務店(長野県上伊那郡)により、同十年十月三日例大祭に合わせ鳥居・玉垣・手水舎等付帯工事と共に無事完工をみ、遷座祭を挙行した。
 また、平成十一年十二月これまで合祀の天満宮を境内神社として創立し、遷座し得たことを併せ奉祝するものである。
  平成十二年十月吉日
     建設委員長 矢嶋誠司


【(11)西八朔杉山神社】横浜市緑区西八朔町208

  改築記念
延喜式内社
武藏總社六之宮 杉山神社
   大國魂神社宮司 猿渡盛文拜書
一、祭神五十猛命、配神大日霊貴命、素戔嗚尊、太田命
一、由緒
 当神社は武蔵国の総社天国魂神社の六ノ宮である。続日本紀承和五年(八三八)二月庚戌の條に武藏国都筑郡杉山神社預之武藏国の総社、大国魂神社の成立は、人皇十二代景行天皇四十一年都筑郡杉山神社は六の宮として西殿に祭られた。「武蔵総社誌」上巻に六所宮東西の御殿に鎮座す。一所大神等は東御殿に、一の宮小野大神、二の宮小河大神、三の宮氷川大神、以上三所鎮座す。西御殿に四の宮秩父大神、五の宮金佐奈ノ大神。六の宮杉山ノ大神、以上三所鎮座す。件の六所を総称して六所宮と称す。この六ノ宮に該当する神社が西八朔の杉山神社である。「風土記稿」に「慶安年中社領の御朱印を賜う。其の文左にのす。」
武藏国都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領同村之内五石六斗事任先現寄附之訖全可収納並境内山林竹木諸役当免除如来永不可有相違者也 慶安二年(一六四九)八月二十四日 御朱印。
 以上の事実によって当神社こそ式内社の由緒深きものである。
一、社格
 明治六年十二月被列郷社との辞令 神奈川県庁より御下附あり。
 大正九年九月十日神奈川県告示第三六二号を以って神饌幣帛料共進すべき旨仝県知事より指定あり。
 昭和二十八年八月一日神奈川県指令第三九九〇号を以って宗教法人杉山神社として仝県知事より認証された。
一、社殿
 境内地昭和五十七年十一月三日改築遷宮祭執行。境内地一四六三坪
昭和五拾七年拾壱月吉日     杉山神社宮司 志村文雄 撰文謹書

(市橋注:西八朔社が式内社であった、というのは可能性のひとつに過ぎない)


   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 大日孁命(おおひるめのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 大田命(おおたのみこと)
例祭日 十月一日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


【(10)千草台杉山神社】横浜市青葉区千草台17-2
 千草台の杉山神社の御神木は、樹齢400年と云われるケヤキ(横浜市名木古木指定48181)です。

新社殿25周年記念碑
  杉山神社
鎮座地 横浜市青葉区千草台十七の二
御祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)  大日孁命(おおひるめのみこと) 豊受姫命(とようけひめのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 保食神(うけもちのかみ)
御祭神五十猛命は、素戔嗚尊の御子神で天降りの時に天津樹種を持ち降り植樹農業を薦めた。
素戔嗚尊は、日の神天照皇大神の石戸隠れの後、追放になり出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)退治で有名である。
 大己貴命(おおなむちのみこと)は、大國主神の別名、國土開拓はもとより航海、農業、交通、医薬、殖産興業、百般の事物に無限の御神徳をそそがれる神である。
由緒
 旧村社 杉山神社
 武蔵風土記に下谷本鎮守杉山神社と記され、徳川初期の創立である。
 大正三年八月一日 社殿拝殿神楽殿新改築
 昭和二十七年十月二日 神奈川県指令第三九八九号を以って宗教法人杉山神社とする。            境内坪数五七五、九〇五坪
 昭和四十九年十月六日 新社殿新築落成
     平成十年九月吉日
           宮司 志村幸男


   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと) 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 大日孁命(おおひるめのみこと) 豊受姫命(とようけひめのみこと)  大己貴命(おおあなむちのみこと) 保食命(うけもちのみこと)
例祭日 十月七日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


【(06)市尾杉山神社】横浜市青葉区市ヶ尾町641
市ヶ尾杉山神社の境内社は稲荷社です。

   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと)
例祭日 十月五日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


お足もとに敷かれている御影石 敷石は(稲荷さま参道にも使用)もと横浜市 市電の軌道に使用されていたものを奉賛会会員 塚 一男さんよりご寄贈いただいたものであります。
     平成23年1月吉日
     下市が尾杉山神社奉賛会


【(09)佐江戸杉山神社】横浜市都筑区佐江戸町2020
 佐江戸の杉山神社の境内社も稲荷社です。

   杉山神社のご案内
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと)
例祭日 九月二十七日
祈願内容 初宮詣 七五三 厄除 交通安全 家内安全
     地鎮祭 工事安全 新居祓 清め祓 家祓
     その他先までご連絡下さい。
     川崎市麻生区王禅寺東五ノ四六-十五
     琴平神社宮司 志村幸男
     電話 〇四四-九八八-〇〇四五


【(14)池辺杉山神社】横浜市都筑区池辺町2718
 池辺杉山神社の御神木はケヤキ(横浜市古木名木48177)です。昭和三年に建立されたという狛犬は近隣では例を見ないユニークなものです。境内社は、鹿嶋大神宮と稲荷社です。

  池辺杉山神社 由緒
 創立年代は不詳ですが、建立は元文元年(一七三六年)十一月江戸時代、徳川幕府八代将軍徳川吉宗の時代と推定されます。五十猛命(いたけるのみこと)を御祭神として、古くから池辺の鎮守として崇敬されています。
 明治六年十二月には村社として祀られ、対しよう九年十二月には神饌幣帛料供進神社に列しました。
 昭和三年、昭和天皇御大典を記念して本殿の大改修がなされ併せて、狛犬が建立されました。
 昭和二十二年には神楽殿を、平成十五年には拝殿を新築し、覆い殿を改修しました。


石塚
   由来
 明治初年、七五郎と謂へる人あり。星谷、若林家の出身にして力量抜群たり。藝能一座に見いだされ、全國各地にてその力技を披露、大好評を得たり。その史實を後世に傳うと共に、若者の体力増強を願い愛用のさし石と故郷池辺の安泰を祈念し、地雷石を献納せしもりなりと傳へられる。
 後年、力自慢の若者集い、力比べ体力鍛練等に用いしものが前面の石なりしが、初代は焚火等により崩壊し、二代目のものなり。
 平成三年三月
  池辺町内会町小泉幸三


【その他の社、等】
住吉神社:横浜市港北区小机町110
 小机駅に向かう途中に住吉神社がありましたので立寄りました。

 小机総鎮守住吉神社
祭神 上筒男命(うわつつおのみこと)(表筒男命) 中筒男命(なかつつおのみこと) 底筒男命(そこつつおのみこと)
配神 気久利姫命(きくりひめのみこと) 金山姫命(かなやまひめのみこと) 日ノ神(ひのかみ)
   加供智命(かぐつちのみこと) 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
 小机の住吉神社は、誠に悠久なる歴史を持つ社であります。
 住吉神社は、大概海や川口に近い処を鎮座場所とされ、昔に遡ればそこは海岸であり、川口であったと言う。
 上古小机根古屋と称す百八ヶ村の主郷なりと言う水郷一帯の時代に源を発し、この地方の土民安住の処を得、摂津国(大阪)元官幣大社住吉大社より普ねく分神を勧請せられ、住民は産土神と仰いで奉斎した。
 特に文禄(一五九二~一五九五)年中より慶長(一五九五~一六一四)年間に亙り、小机領の守護神として小机城主矢野兵庫助の崇敬篤く、恒例・臨時の祭典絶ゆることなく、又、文禄中まで小机・川向・本郷三ヶ村の郷社であり、慶長年中に分村の時当社の末社稲荷社の分神を遷された。
 嘉永三年に本殿再建しその棟札を存す。明治六年十二月村社に列格、明治四十三年四月三日村内の白山社・愛宕社・神明社を合併、増神を見るに至り、小机領総鎮守として国守りの神、海路平安の神、和歌の神は元より五穀豊穣、商業繁栄、家運隆盛、旅行安全、交通安全、厄難消除等の神として御霊験あらたかで、この地方に行き享ける者として、夢寐にも忘れることのできない大恩神であります。


 小机領総鎮守住吉神社
     平成大改修造営記念
 当住吉神社は誠に悠久なる歴史を持つ社であります。上古小机根古屋の庄 百八ヶ村の首郷たりと言う水郷一帯の時代に源を発して摂津国住吉大社より普ねく御分霊を勧請し、住民は産土大神と仰いで奉斎、後世まで尊崇感謝の奉祀が続く所以です。
 明治四十三年村内に祠られし白山社愛宕社神明社を合祀、八十五年を迎へました。この意義ある歳、氏子の総意にて社殿の修復造営を行い御祭神に感謝を捧げたいとの念願が氏子崇敬者の奉賛により竣工の慶びを迎へることができました。
 依って奉賛者名の碑を建立し将来大きく開発されて行く郷土が永遠へと無事平穏を御守護給わることを祈念いたします。
    平成七年十月二十二日
         宮司 土岐彰臣
  (以下、奉賛者名略)


 住吉神社末社
金刀比羅社(金比羅大権現)
 祭神・大物主命 おおものぬしのみこと
 大物主命は、大国主命の幸魂・奇魂であり、人造り、国造り、夫婦和合の神。
稲荷社(正一位稲荷大明神)
 祭神・倉稲魂命 うがのみたまのみこと
稲荷神社(正一位稲荷大明神)
 祭神・宇迦之御魂命 うがのみたまのみこと
 イナリは「稲生(いな)り」の意味で、もともと水田耕作を行う、人々の農耕神であった。中世から近世にかけて工業・商業が盛んになると。農業神の性格に加えて、殖産興業の神としても信仰され、各地に勧請された。
 慶長年中まで小机・川向・本郷三ヶ村の中心がこの地であり、多分村の時この稲荷の神を勧請された。
(川向・本郷は、元稲荷神社と称した。)


【本日の主な経路】
横浜線中山駅(05)青砥杉山神社-(02)中山杉山神社-上白根稲荷社-中堀川プロムナード-(01)寺山杉山神社-(03)三保杉山神社-(11)西八朔杉山神社-(10)千草台杉山神社-(06)市尾杉山神社-(09)佐江戸杉山神社-(14)池辺杉山神社-住吉神社-横浜線新横浜駅

【参考】
 平六トンネル上のサクラ
 JR中山駅前
 シバザクラ Phlox subulata
 皇帝ダリア Dahlia imperialis
 フユザクラ Cerasus x parvifolia ‘Fuyu-zakura’
 ネズミモチ Ligustrum japonicum
 コナラ Quercus serrata
 イチョウ Ginkgo biloba
 コウヤマキ Sciadopitys verticillata
 ヒマラヤスギ Cedrus deodara
 台村町の庚申塔
 キンシバイ Hypericum patulum
 立藁
 千草台の銀杏並木
 ノボロギク Senecio vulgaris
 市ヶ尾庚申堂
 川名庚申堂
 (川名)山王神社
 コスミレ Viola japonica (川名山王神社)
 ドウダンツツジ Enkianthus perulatus
 スーパームーン・イブ

【文献】
 戸倉英太郎(1956)杉山神社考(復刻版,1978)、232p.
 新編武蔵風土記稿 横浜・川崎編、千秋社、1982.