東西の浦賀を散策

 本日、浦賀を中心に歩いてみました。
浄林寺のムクロジ】馬堀町4-14-1
 七重山宝寿院浄林寺には『かまくらと三浦半島の古木・名木50選』に選ばれているムクロジがあります。サルスベリも夏の日差しの中、満開でした。


【西徳寺のイヌマキとビャクシン】鴨居2丁目20-4
 東光山無量寿院西徳寺には、『かまくらと三浦半島の古木・名木50選』に選ばれているイヌマキとビャクシンがあります。ビャクシンはさほどの大木ではありませんが、枝ぶりが見事なので撰されたものと思われます。


  西徳寺
 鎌倉の光明寺の末寺として、永禄三年(一五六〇)法誉順性(ほうよじゅんしょう)上人により開かれました。
 境内には、三浦一族の武将、和田義盛が出陣に際し、戦勝を祈願したと伝えられる「和田地蔵」が祀られています。
 また、樹齢四〇〇年以上の大きなイヌマキとビャクシンの木があり、三浦半島の名木・古木五十選紹介されています。
 裏山には、義盛の剃刀塚ゆ幕末期に江戸湾のの防備のために、この地に来た会津藩士の墓十一基があり、中には白虎隊士の身内の墓もあります。
   浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ


【白山神社跡】浦賀1丁目9-10
 浦賀駅からほど近いお社だったようです。草に覆われてわかりにくい入口近くにダンドクが咲いていました、
–> 『古老が語るふるさとの歴史南部編』にある『合わせ神社』が、この社なのかも知れません。要調査です。(2020.1.4)


【稲荷神社】鴨居1丁目31
 この地区に多数分布する稲荷社のひとつです。境内にはミニサイズの稲荷社や庚申塔群がありました。


【鴨居八幡神社】鴨居3丁目5-5
 頼朝勧請と伝えられる八幡社です。由緒書きから天満社、須賀社が合祀されているようです。境内に稲荷社、御神木のイチョウは結構見事です。


  八幡神社由緒
 祭神は誉田別尊(第十五代應神天皇)治承四年(一、一八〇)源頼朝鎌倉に入り幕府の礎石を築くに当り三浦氏は軍功のあった当三浦郡を領し一族門葉最も栄えた時である。
 其項三浦大介義明の第四子多々良四郎義春が鴨居の領主として他の三浦党と共に三浦一円に勢威を張っていた。
 当社は義春が源家の命を受け養和元年(一、一八一)鶴岡八幡宮を勧請したと伝えられる。
 新編相模國風土記には、
 「八幡社村の鎮守なり祭礼は八月十五日縁起には養和元年六月頼朝卿当縣遊覧の折勧請ありし由記せり」とある。
 明治六年村社に列せられ四十二年十月二十二日神饌幣帛料供進社に指定せらる。
祭事
 歳旦祭     一月一日
 齋燈      一月十五日
 祈年祭(初神楽) 一月十五日
 天満社例祭   五月二十五日
 大祓式     六月三十日
 須賀神社例祭  七月最終土日
 八幡神社例祭  九月十五日
 新嘗祭(終神楽) 十一月二十五日
 大祓式     十二月三十一日


  鴨居(地名の由来)
 応安(一三七三)の室町幕府の記録に「相模国 鴨江」とあります。地名の由来については、(1)アイヌ語のカムイ(神)からという説、(2)鴨の群集すると所、家居、村落とする説、(3)カモを神とする説、(4)浦のある水辺とする説など、諸説があります。
 上の台中学校の敷地からは弥生時代中期から古墳時代初期にかけての大規模な住居跡がある上の台遺跡が発見されました。
 江戸時代には、「鴨居のタイ」は逸品として知られ、江戸城の料理に用いられたといわれています。
 幕末期に江戸湾海防の任にあたった会津藩士の墓は、腰越(こしごえ)西徳寺(さいとくじ)能満寺(のうまんじ)などにあります。
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【佛嵜山観音寺跡】鴨居3丁目15-2
 三浦三十三観音霊場第十四番札所だった観音寺の跡地に再建された寂光堂です。すぐ裏に駆逐艦村雨の記念碑もありました。


  観音寺跡
 明治十三年(一八八〇)観音崎に陸軍砲台がつくられることになり、翌年、観音崎灯台の下にあった観音寺や海蝕洞穴に祀られていた鵜羽山権現はこの亀崎に移されました。
 本尊は奈良時代の僧行基の作と伝えられる十一面観音で、船守観音とも呼ばれていました。村人や完全な航海を祈る人達の海上守護仏として信仰が厚く、観音崎の地名の由来といわれています。
 この寺は、三浦三十三観音第十四番札所でしたが、昭和六十一年(一九八六)の火災で本尊を含めて焼失しました。
 現在、吉井の真福寺で札所の代行をしています。
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【越越稲荷大明神】鴨居3丁目23
 入口が民家の奥になっていてわかりにくかったのですが、近所の方に教えていただき、辿りつくことが出来ました。


【稲荷社】鴨居2丁目23
 こちらも稲荷社。覆殿の戸を開けると中もきれいに掃除されていました。赤いサルスベリの花の色が印象的でした。


【明神神社】鴨居3丁目19
 社名はGoogleMapによるもので、多くの神々を祭ったとも取れますが、奇妙な名称です。誤記の多いGoogleMapですので、後日文献調査をしたいと思います。


【不明の社】鴨居3丁目12
 観音寺の入口付近でみつけたお社です。祭神等は不明です。すぐ隣に庚申塔が二基ありました。


【稲荷大明神】鴨居2丁目24
 こちらも稲荷神を祀っているお社です。扁額によれば、原本の扁額は能満寺蔵とのことです。


【東叶神社】東浦賀2丁目21-25
 浦賀の八幡宮、東叶神社です。社叢林は県指定の天然記念物になっています。


     昭和五十二年市制施行七十周年記念
      横須賀市風物百選
       東叶神社
 祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
 この神社は、養和元年(一一八一)八月十五日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。また、このほか新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などには、この神社に関する記事が載っています。
 神社の裏山を明神山と呼び、標高は約五十メートルです。
 後北条家の頃、しばしば房総半島の里見水軍が、三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。
 明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。特にウバメガシの自生は、県内でもこの明神山だけで、ここが分布の北限とされています。この学術的に貴重な明神山一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林」となっています。


【叶神社奥院】東浦賀2丁目21-1
 明神山の山頂近くの東叶神社の奥の院です。境内社に神明社と東照宮、この一帯は浦賀城址でもあるそうです。


  浦賀城址
 戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。
 水軍の根城として山頂には空堀など城の遺構が残り、下田山・城山とも呼ばれていました。
 昔から眺望の素晴らしい所で対岸に房総半島、正面に浦賀八勝の一つ燈明堂がみられます。
 この明神山は自然の社叢林で県の天然記念物に指定されています。
 嘉永六年(一八五三)ペリーの黒船四隻が浦賀沖に来航した時、眼下の左辺りに停泊しました。
 下の絵は安藤広重の武相名所の旅日記の56景の一枚です。
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【三浦稲荷社】東浦賀2丁目11-2
 東林寺の境内に鎮座する稲荷社です。


  深本、雷電、三浦稲荷社
 南無阿弥陀佛と刻まれた六字念仏塔は祐天寺六世祐全(ゆうぜん)上人による名号(みょうごう)石塔で、江戸屋半五郎によって建立されました。名号の掘りも深く、半五郎の信仰の深さがうかがわれます。半五郎は浦賀で遊郭を営み繁盛していましたが、後にすべての財産を処分して遊女たちに分け与えて開放してやりました。自らは京都青龍寺で得度し、生き仏といわれた徳本上人の弟子深本(しんぽん)(深心(しんしん))となり仏門に帰依しました。
「浦賀事績考」によれば東林寺境内の稲荷前では文化六年(一八〇九)、当時の花形力士の雷電(らいでん)為右衛門(ためえもん)の相撲興業が行われたと記されています。
 三浦稲荷社の稲荷神は倉稲魂(うかのみたま)で五穀豊穣、開運出世、商売繁盛の神です。
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【浦賀山立像院東林寺】東浦賀2丁目10
 観音像など石像の沢山ある浄土宗寺院です。


【東耀稲荷(須賀神社)】東浦賀2丁目6
 案内板によれば、須賀神社が合祀されている稲荷社です。


東耀稲荷(とうよういなり)
 創建は天明二年(一七八二年)で、倉保命(うけもちのかみ)をお祀りしています。東耀稲荷の名の由来は、隣接する東耀山顕正寺の山号からとったもので、古くは顕正寺の境内にあったといわれています。さほど大きくありませんが、欄間や格天井(ごうてんじよう)などには見事な彫刻が施されています。
 屋根には恵比寿と大黒天の飾り瓦がのり、干鰯で栄えた東浦賀の繁栄ぶりを今に偲ばせてくれます。
 また、この稲荷には、火伏の神としても崇拝されています。
 合祀されている須賀神社は新町(しんちょう)の鎮守で、創建年代はわかりませんが、昔、悪い疫病(コロリ)が大流行したとき、新町にも何人かの死者がでたため、里人が、当社(祭神、素戔嗚尊)を勧請し、病気をしずめたと伝えられています。


【八雲神社】東浦賀1丁目17
 向背の龍は漆喰でつくられているそうです。


  八雲神社
 祭神は須佐男命(すさのおのみこと)です。この社の建物は江戸時代ののもので、もとは大谷(おおがや)満宝(まんぽう)院八雲堂という修験の寺でした。明治の廃仏毀釈で神社に変わりましたが建物はそのままで、寺の形式であるお堂建築になっており、鳥居もありません。現在も寺の宝珠が屋根に乗っています。
 お堂の内部には修験の護摩壇があります。向拝(ひさし)には漆喰で作られた龍が取り付けられ、長さ一間半の大きな木刀は大山信仰の初山競いの武勇伝が伝えられています。
 東浦賀一丁目の鎮守様として毎年六月に祭礼が行われ、須佐男命が乗った山車と猩々坊(厄除け人形)が出ます。
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【津守稲荷神社】東浦賀1丁目14


【船守稲荷神社】東浦賀1丁目11


【西叶神社】西浦賀1丁目1-13
 西叶神社は改修工事中でした。


【花水稲荷跡地】西浦賀2丁目4
 東福寺の裏手にあるとグーグルマップに示されていたお社です。何度か行きつ戻りつしてやっと見つけたのですが、既に遷座していました。


【花水稲荷】西浦賀2丁目3−20
 今年六月に遷座したばかりのお社、旧地のご近所のご婦人に教えて戴きました。日月院のお向かいで、真新しい鏡が納められていました。元講中の方に戴いた情報によれば。御神体は桐の箱に納められているとのことです。


【日月院】西浦賀2丁目6-21
 説明文によれば、月日神(国常立之神)とは関係がない様です。


   日月院(旧不動院)のこと
 大正十三年五月坂口法道師が諸願成就殊には眼疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院を建て開祖となりました。
 護摩修行水行托鉢と日夜修行に専念して居りましたが昭和十一年四月に惜しくも三十四才の若さで亡くなってしまいました。
 その後何代が人が変り昭和四十三年大黒天の不思議な導きにより法浄院が引き継ぎました。昭和六十年に古くなったお堂を新築した折に不動院を通称「日月院」と改めました。月日院の正式名は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。
大祭 正月 五月 九月 二十八日
      大護摩修行 午後二時
毎月二十八日 護摩修行 午後二時
 御安置佛
本尊 日月不動明王 大黒天 阿彌陀如来 地蔵菩薩
   弘法大師 宝海龍王 伏見稲荷 観世音菩薩
     法浄院二世住職 田中誠道
本山 法浄院 東京都大田区大森南
別院 日徳庵 静岡県伊東市一碧湖畔
別院 御嶽観音堂 長野県木曽御嶽山 三合目


【不明のお社】西浦賀2丁目9-7


【吉岡稲荷大明神】西浦賀2丁目13


【田中稲荷跡地】西浦賀1丁目
 お社の中は空っぽで遷座先は不明です。


【浦島稲荷跡地】西浦賀2丁目
 ここも遷座先は不明です。


【寶船稲荷社】西浦賀1丁目9-1
 愛宕山公園の入り口近くのお社で、これまでに何度か通りかかったこともありました。


【上町稲荷】西浦賀4丁目1
 鳥居の扁額に表示があったので、ここの神社名は確かです。境内には道祖神碑がありました。


【榊神社大禄天】西浦賀5丁目14
 浦賀奉行所を見下ろす位置に鎮座している神社で、境内社として関田五社稲荷大明神があります。


  大六天榊神社
 川間(西浦賀町五丁目)の鎮守様で、主祭神は面足彦命(おもたりひこのみこと)(猿田彦神)です。
 この神社の正式名称は榊神社大禄天神(だいろくてんじん)といい、当初は川間奥にある通称お伊勢山の中腹にありました。明治の初めに現在地に移されました。
 大禄天は第六天(多化自在天多化自在天(たけじざいてん))に語呂が通じ、修験者の信奉した仏神といわれています。
 道の分かれる所を守り邪霊の侵入を阻止する神としてお祀りしています。
 お社の漆喰彫刻は浦賀の神社仏閣に見られる特徴です。
 祭日は五月中旬の土・日曜日です。
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【為朝神社】西浦賀4丁目3-7
 虎踊が保存されていることで知られる為朝神社です。


為朝神社
 祭神 源為朝公
 御神威 疱瘡除け
 航海安全
 例祭 六月第二土曜日 宵宮祭(奉納舞 虎踊り)
        日曜日 神輿渡御


県指定重要無形文化財 虎踊
国選択無形民俗文化財 横須賀の虎踊
     所在地 横須賀市西浦賀四丁目(浜町)
     指定年月日 昭和五十一年(一九七六年)十月十九日
     選択年月日 平成十六年(二〇〇四年)二月六日
 虎踊は、享保五年(一七二〇年)、奉行所が伊豆下田から浦賀に移った時に伝えられたといわれています。
 近松門左衛門の国姓爺合戦における和藤内の虎刈りの場面を取り入れた芸能で、ここ為朝神社に特設舞台をつくって演じられます。
 和藤内の登場に始まり、太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞(舞台上を自由に振舞い数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、みえを切ります。
 虎は親子二体で、親虎には青年、小虎には少年が二人ずつ入り、和藤内には男児、唐子は女児、太唐人は成人男子が演じます。
〇「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択された「横須賀の虎踊」は、浦賀と野比の虎踊が対象です。
 平成二十年(二〇〇八年)三月十五日
          横須賀市教育委員会


【仲稲荷】西浦賀4丁目5
 境内社も稲荷社の様です。


【花稲荷神社】西浦賀4丁目5
 境内社の由緒は不明です。


【大禄天社】西浦賀5丁目
 山道を登った先のお社で、入口が分からず、通りかかった御婦人に教えて戴いたのですが、着いてみると来たことがあることに気づきました。でも、それが何時だったか、記録も記憶もありません。
 名称からして祭神は神世七代第六代と思われ、榊神社の説明文にある旧地がここなのでしょう。


【荒巻稲荷】浦賀6丁目1
 ここは、何度も来たことがあるのですが、最後に立寄ってみました。鎮座地は浦賀八景の「柳涯夜雨」の地であり、かつての花街です。


 その他、本日撮影の写真です。


【参考】
 ダンドク Canna indica
 ムクロジ Sapindus mukorossi
 サルスベリ Lagerstroemia indica
 イヌマキ Podocarpus macrophyllus
 ビャクシン Juniperus chinensis
 サンゴジュ Viburnum odoratissimum
 サルスベリ Lagerstroemia indica
 ソテツ Cycas revoluta
 ノウゼンカズラ Campsis grandiflora
 ヒマワリ Helianthus annuus
 イチョウ Ginkgo biloba
【主な経路】
(浦賀駅)-白山神社跡-浄林寺-馬堀自然教育園-稲荷神社(鴨居1丁目)-西徳寺-鴨居八幡神社-佛嵜山観音寺跡-越越稲荷大明神-稲荷社(鴨居2丁目)-明神神社-稲荷大明神-東叶神社-叶神社奥院-三浦稲荷社-東林寺-耀稲荷(須賀神社)-八雲神社-津守稲荷神社-舟守稲荷神社-西叶神社-花水稲荷跡地-花水稲荷-日月院-吉岡稲荷大明神-田中稲荷跡地-浦島稲荷跡地-寶船稲荷社-上町稲荷-榊神社大禄天-為朝神社-仲稲荷-花稲荷神社-神天禄大社-荒巻稲荷-(浦賀駅)

東西の浦賀を散策” に1件のフィードバックがあります

  1. 花水稲荷 旧講中の者

    花水稲荷をご掲載していただきましてありがとうございます。
    昭和初期からこのお稲荷さんは現在の位置の裏山にありましたが高齢化や継承者がいなくなり5月に花水講を
    解散しました、それによりお稲荷さんの行き場がなくなり現在の日月院様が見てくれることになりました。
    ここまで来るにはお稲荷さんも行き場を失い大変なご苦労をされました。
    最終的には日月院様が見てくれることになり私も安心しました。

    ところでご神体について貴サイトでは鏡とご掲載されておりますが鏡ではありませんのでお知らせしておきます、10cm四方の桐の箱に納められているご神体でこの箱を開けることはできません。
    まずはお知らせまで。

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